第二章間奏 『日常への帰還』
扉を開けてすぐの場所で、先程と変わらぬ立ち姿の芽空はいた。
ほんの数十分、あるいは数時間の間彼女はこうして待っていてくれたのだろうか。
「————お待たせ」
言葉を発すると自分の声が湿っぽく鼻声になっていることに気がついた。
扉の中では誰に見られることもなく泣き続けていたが故に気がつかなかったが、恐らく今の自分はひどく泣いた後のぐしゃぐしゃな顔になっているのだろう。
現に芽空は、
「……もう、いいの?」
声を震わせて、不安げな表情でこちらを見上げてくる。
心配、してくれているのだろう。
梨佳達の知らない奏太の過去も、蓮との約束のことも、全てを知っているのは彼女だけなのだから。
知った上でこうして気にかけてくれる。それが、どれだけありがたい事か。
「——うん、大丈夫だ。ちゃんと笑えるから」
「……そっか。また来たいと思ったら、いつでも言ってね」
彼女の中にも飲み込めない事があったのか、すんなり納得というわけにはいかないようだった。
だが、奏太が笑っているのを見てひとまずは大丈夫だと判断したのだろう。
彼女もわずかに口元を緩めて、その全身に張っていた緊張を解く。
「それじゃ、行くー?」
「だな。——あ、でもその前に一つだけいいか?」
奏太は首を傾げる芽空に指を一本立てて見せ、言う。
「アジトに行く前に、寄りたいところがあるんだ」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「…………で?」
「三日ぶりに顔合わせた一言目がそれかよ」
「いえ、この反応が当然でしょう。なにせ————」
所々に手当の跡が見られる葵は、後ろで元気にはしゃいでいる少女達の方へ振り返る。
少女達——ユキナとユズカと芽空の三人は置かれたいくつかの袋を囲うようにして眺めており、それを離れた場所から見守る梨佳と希美。
そのうち芽空を除いた全員が葵同様に三日ぶりの再会である。
奏太にとってはほんの半日程度の感覚なのだが、彼らにとっては本当に長い三日間だったらしく、帰って来た途端奏太を心配していたという旨の発言の嵐。
葵が遅れて来なかったら主に嬉しさの意味で、胸が苦しくて爆発するるところだった。
「——で、あれは何なんですか? 見たところどこかの店で購入したもののようですが」
「ああ、もうみんなにはヒント与えたけどあれは……」
「ソウタおにーさんっ! もう中見てもいい?」
「お、お姉ちゃん! まだダメだよっ」
ユズカは目をキラキラとさせて袋を持ち上げたり揺らしたりしており、その姿はさながら宝箱を見つけた小さな子どものようだ。
彼女達姉妹の場合、それはあながち間違いともいえない部分があるのだが、それはさておき。
ユズカ同様にユキナも興奮しているのだろう。口では止めつつも、体の方は開けたくてたまらないのか、制止する力がかなり弱い。
そして何故かそこに混ざる芽空。
彼女は中身を知っているはずだというのに、一体何をしているのか。
気にしてはいけないような気がするが、とにかく、だ。
葵が来たことに加えて少女達の我慢も限界に近づいている事だし、そろそろ良いだろう。
フェルソナはいつも通りいないが、それも気にしてはいけないような気がする。
「——よし、開けていいぞ」
「やったぁっ! ユキナユキナ、早く開けよ!」
「う、うん!」
姉妹が袋をゴソゴソと探り、ビニールの包装や絹の擦れる音と共に現れたのは——、
「…………服だ」
「…………服だね、お姉ちゃん」
袋の中から現れた服の存在に喜んでいるのか、それともがっかりしたのか判断のつきにくい反応があったかと思えば、
「服だよ、ユキナ!」
「服だね、お姉ちゃんっ!」
わっと歓喜の声が上がる。
取り出した服を自分の前にかざしてみたり、それを持ってくるくると回ってみたり。
予想よりも反応が良かったために、奏太も少女達につられて頰を緩める。
「なるほど、服でしたか」
「そうだよー、みゃお君の分もあるから」
「えっ、ボクの分もあるんですか」
「俺が選んだやつだけどな」
「それは素直にありがたいところですが、途中どこかに寄って買ってきたんですか?」
「いや、寄ったのは合ってるけど。これは————」
この服達との出会いを語るには、かれこれ半月程前まで遡ることになる。
全てが終わって、全てが始まったあの日まで。
蓮とのデートの日のことだ。
二人はある程度プラン通りにデートをしていたのだが、そのうちの一つにアウトレットへ行く、というものがあった。
ネックレスの一件ばかりが奏太の記憶の中には残っているのだが、それよりも数十分前。
服を、買ったのである。
似合う似合わないというやり取りがあったのはこの際省くとして、二人ともが様々な店で様々な服を見て購入。
その後で観覧車へ行くという話をしていたため、一度ロッカーに預けていたのだが、結局動物園やハクアとの遭遇によって取りに行くことは叶わなかった。
それからというもの、気にする程の精神的余裕がなかったことと、『トランス』の稽古とお買い物以外では外を出歩いていなかったため、今の今まで放置しっ放しだったのだが、全てが片付いた今になって奏太はようやく取りに行った、というわけだ。
「なるほど、そんな経緯が」
「そういうことだ。——どうだ? 一応結構な数買ってたから、人数分くらいはありそうだけど」
喜ぶ姉妹に距離をとって離れていた皆が寄って行く。
梨佳や希美も女性であるが故に多少興味が惹かれるのだろうか、姉妹の持っている服に目を向けると、
「なー、奏太。これってあいつの——蓮のチョイスだよな?」
「……そうだけど、よく分かったな」
「まーな。あいつとはよく出かけてたし。大体どういうの買うかは分かっちまうなー」
そういうもの、なのだろうか。
一度限りのデートとはいえ、蓮が特段目立った服装ではなく、清楚なものだったということは、奏太もはっきりと覚えている。
ならばひょっとするとジャンルが清楚系であるとか、生地が似通っているとか、そのような類のものだから分かるのかもしれない。
「まあ一応二人で選びあったやつも中にはあるけどな」
奏太は思わずぽろっと言葉を漏らし、直後にしまったという顔になる。
奏太の中では既に飲み込めるようになった事実とはいえ、奏太と蓮の関係性は、芽空曰く辛口な葵にすら気を使われるほど重要な案件とされているらしく、かなり気まずい空気が流れる。
が、それをフォローするように芽空が一言。
「——あ、そういえば梨佳は読モやってるんだよねー」
「……へー、って唐突過ぎるだろ」
「そこそこ名前は知られてるみたいですよ。うちの学校でも何度か名前を聞きますし」
「お、みゃお嫉妬かー? 仕方ないな、ほれほれ。お姉さんに甘えてこい」
妖しい光をその翠眼に宿し、手招きする梨佳。が、
「いえ、間に合ってます」
「んだとーっ!?」
いじられキャラとして彼女らの中で定着していたはずの葵が上手くかわす。
しかしそれにムキになって葵をこねくり始める梨佳もどこか楽しそうで、皆々から笑みが溢れた。
それが奏太が戻ってきたことによって平常に——いや、以前よりも良い方向へと変化したものだということに、奏太は気がつかない。
ただ何となく、各々の表情が柔らかくなって、前まであった見えない壁のようなものが消えたと感じるのみ。
そしてそれはきっと、この場にいないフェルソナや、奏太自身も。
「————い」
そう思っていたからだろうか。
満たされた気持ちになっていたから、何かの呟きとともによぎった感覚で体の奥底が冷え、緩んだ頰が引き締まったのは。
「————っ」
奏太はその声の主を知っている。
知っているが、温度差の違いによってこれだけの衝撃が全身を巡り、思わず冷や汗が流れ、問いかける。
「……希美、何か言ったか?」
蓮よりも色素の濃い海のような青髪。
言動のほとんどに感情がこもっていないその少女——希美が、何かを呟いた。
緊張する必要はないはず……なのだが、つい奏太は尋ねてしまった。
対して問いかけられた希美はこちらをじっと見つめ返すと、ゆっくりと口を開いて、言った。
「————可愛い」
「…………は?」
「可愛い」
彼女の言った言葉に思わず固まり、思考が停止しかけるが、返ってくる答えは変わらない。
つまり、
「……久々過ぎて俺が慌ててただけかよ」
どうやら彼女は何か良からぬことを企んでいるわけでもなく、少女達が振り回している服を見て可愛いとそう思ったらしい。
よくよく考えてみれば、希美も感情の少なさ故に分かりづらいことと、ちょっと考えがおかしいだけで何か裏があるような少女でもないのだと、奏太は知っているのだから。
「って、ひょっとしておかしいのは蓮が関わった時だけなのか……?」
「何を言っているのかは分かりませんが奏太さん、それで僕の服っていうのは」
いつの間にか梨佳の弄りから解放された葵が髪の毛を整えつつ、奏太に囁いてくる。
その姿は何だか彼らしくないもので、
「いやお前も楽しみなのかよ」
「そりゃそうでしょう」
意外な一面だ——というよりは、先程も皆々に対して奏太が感じたように、一連の事件を通して彼にも何かしら思うところがあり、そして変化があったのだろう。
今にしてようやく彼と対等になれたような、そんな感覚さえした。
「これでみゃお君もドクロ卒業だねー」
「んなっ……!」
「え? 葵はそういうの好きな時期?」
「……違います」
「…………なんかごめん」
「謝らないください。最近直してるんです」
男ならば誰もが通る道であるそれを聞いてしまい、なんだかお互いに恥ずかしくて目をそらす。
服装に気を使い始めて最初の方はそればかりなのだから、仕方ないと割り切ろうとしても難しいものは存在するのだから。
「…………って梨佳、どうした?」
視線を葵にぶつけないように気をつけつつずらしていくと、その先には梨佳がいた。
「————」
その表情はどこか神妙で、普段の彼女らしくないというか、どこか重々しい雰囲気をまとっているようにさえ感じる。
奏太の声にも気がついてはいないようで、再度呼びかける。
「——梨佳?」
「————ん、おお。どうした奏太?」
「どうしたんだ?」
「いや、あーし思ったんだけど…………」
言葉に、影が差している。
一難去ってまた一難、そんな事態に陥るのは苦しいところだが、目を背けていてはどうしようもないと判断、息を呑んで彼女の言葉を待って——、
「……この服さ、ユズとユキには大き過ぎて着れなくね?」
気まずそうな表情で、梨佳はそう言った。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
奏太の帰還と服を巡る集まりが解散すると、奏太と芽空は部屋へ帰ろうと広い廊下を歩いていた。
「でも蓮が二人の分も買ってたなんて驚きだねー」
「だなー。思い返してみれば確かにあの時小さいサイズのも買ってたな……」
あの一日を思い返してみれば、ぼんやりとそのような記憶が脳の奥底から蘇ってくる。
元々娯楽エリアに行くと話した時点で彼女の中で決めていたことなのだろう。
……本当に、大した彼女だとそう思う。
「しまい込んでおくよりかは、こうやって大事に想ってくれる人にあげた方が、蓮も喜ぶ……よな」
「……そうだといいね」
「ああ。確証なんてないけど、きっと」
芽空を含めたラインヴァントの主要メンバー達。蓮が彼女達を大事にしていたように、彼女達も蓮を大事にしていた。
ならばこそお礼というわけではないが、使って欲しいとそう思うのだから。
もっとも、未だ顔を合わせることの少ない非戦闘員の者達と蓮が関わっていたかどうかが分からないので、もし関わっていたら時既に遅し、なのだが。
「——なあ、芽空?」
奏太は一度考えを思考の端にやり、隣で歩く芽空を見る。
「どうしたの、そーた」
返事をした芽空に、服装を除けば藤咲華達の前で見せた凛とした姿の面影はない。
言葉はこれまで通りに間延びした、のんびりとした声。のそりと歩く気だるげな彼女。
「迎えに来てくれて、ありがとな」
「……どういたしましてー」
「これで二回目だな、迎え。いい加減何かお礼しないとな」
「いいよ、別にー」
「いやダメだ。さすがにそれは俺の気が——あ、そうだ。浅漬け作るよ、たくさん」
「え、浅漬け!?」
突如ぐいっと迫られ、驚きで仰け反りそうになるが何とか堪える。
これ程取り乱すなんて、彼女の中でどれだけ大きい存在なのだろうか。
「————ははっ」
思わず笑いが漏れ、きょとんとした彼女を再び歩かせると、
「ちゃんと戻って来たんだ、作るよ。浅漬けだけじゃなくて、他のことにも目向けて」
「そーた……」
それは、これから奏でていく日常のほんの一部分の話。
奏太がいつかは切り離し、諦めるはずだった未来の話。
「————さて」
廊下をしばらく歩いて、着いた先。
それはここに来てから初めて奏太が目覚め、今や帰る場所となった部屋の扉の前。
同室の女の子も、今隣にいて。
口元を緩めた奏太はドアノブを掴む手にグッと力を入れ、扉を開けると——、
「ただいま」
カラフルな部屋が広がって、ひどく懐かしい感覚がした。
まるで今までは同じ場所にいるのに、別のことを見ていたようなそんな感覚。
それに芽空は気がついていたのだろうか、立ち尽くす奏太の横をくぐり抜け、言った。
「おかえりなさい、そーた」
かくして、奏太は日常へと帰って来た。
今までとは違う答えを得て、囚われていた過去を乗り越え、今を生きるために。
もう1話だけ間奏ありますー