第二章34 『忘却の誓い』
「————ふぅ」
広い車内だ。
窓は光が遮断されており、外の景色を見ようにも、窓に映るのは反射して見える自分と芽空のみ。
ため息が聞こえてそのまま視線を反転。芽空の方を見ると、彼女は座席にぐったりともたれかかっていた。
「…………疲れたー」
「おお、芽空だ……」
「それどういう意味ー?」
「いやほら、さっきまで別人みたいだったからさ」
彼女の服装はHMA本部にいた時と何ら変化はない。
変わったのは目つきと雰囲気。
今でこそのんびりとしているが、先程は一つ一つの言動に力がこもっていて、ちょっとした仕草さえもが絵になるような気品のあるものだった。
もちろん話す言葉一つとってみても、一人称や言葉の選択なども大きく違っていたのだが。
「……そーたはさっきの私の方が好み?」
さっきの私——つまりは、プルメリアお嬢様と呼ばれていた芽空のことだ。
普段から接している奏太からすれば、いつも魅力を隠したままの彼女はどこか勿体無い気がしていたのだが、
「いや、やっぱこっちの芽空の方が好きだな」
勿体無いと感じるからと言って、プルメリアとしての芽空が一番とは限らないのだから。
「……そっかー」
僅かな沈黙の後、彼女は顔を横に逸らしてそう言った。
浮かぶ表情は、見えない。
ただ、何となくその背中が寂しそうな気がしたのはきっと間違いではないのだろう。
だから奏太は言う。
「————なあ、芽空。一つだけいいか?」
「——うん?」
あの日気がついたこと。
彼女は自分と似た者同士だったってこと。
それを奏太は知っている。
そして、彼女が今、どういう状態であるのかも。
「芽空が俺を知ってるように、俺も古里芽空って女の子を知ってる」
「……うん」
いつものんびりとしていて、特徴的な話し方をするちょっと変わった女の子。
「そりゃまだ出会って一ヶ月も経ってないけど、たくさん話して、たくさん助けられて」
綺麗なのに、整えずに伸ばされたままの髪に、人の目を気にしない薄着。
いつもクッションに埋もれて、ベッドに潜り込んでて。
そんな彼女だけど、決して関わるのが嫌だったわけじゃなく、むしろその逆だ。
「そんな芽空だから、俺は今の芽空の方が好きだって言った。——でもさ」
奏太がほんの最近まで長く苦しんでいた闇。
心を蝕み、黒く染めていたそれを今彼女は抱えているのだ。
結局は自分で乗り越えるしかないものであり、奏太が関わるべきではないのかもしれない。
——否、奏太が関わりたいとそう思うのだ。
ならば、どうするべきかなどというのは考える時ではない。
図々しくても、お節介でも、善意の押し付けであっても構わない。
これは芽空と同じ場所にいた奏太が——奏太だから、言わなければならないことなのだから。
「————俺が知らないプルメリアとしての芽空だって、芽空の大切な一部だ」
「————」
「そもそもさ、分ける必要なんてないんだよ。俺は昔のプルメリアを知らないけど、今の芽空を知ってる。芽空が昔のことを話せないのも、知ってる」
記憶がない故に自分に自信が持てなかった奏太。
無意識のうちに、奏太は過去と今の自分を別のものとして考えていた。
今でも確かに、その感覚は残っている。
けれど、良いのだ。
記憶は未だ戻る気配はない。
ならば、彼女が肯定してくれた自分でいる。たった、それだけで。
——ただし、それは奏太の場合だ。
「前にも言ったけどさ、俺は芽空のことが知りたい。だから、いつか聞かせてくれ。芽空がこれまで生きてきた世界を」
それが何色の世界なのかは、まだ想像も出来ない。
でも多分きっと、まだまだ始まったばかりの奏太の世界に比べれば色鮮やかでカラフルな世界が広がっているのだろう。
もちろん、そこには明るい色だけじゃなくて暗い色だってあるはずだけど、それでも。
「——奏太が聞いても、気分が良いお話じゃないんだよ?」
唇を結ぶ彼女の表情には、不安の色が宿っている。
話せない程のものだ。彼女にとっては当然、それだけ重く、思い出すだけで辛い記憶のはずで。
だけどそれでも、
「良いよ。それでも俺は、絶対に芽空を否定しないから」
「…………どうして?」
「芽空だから。過去の色んなことがあって、色んな積み重ねがあって今の芽空になったんだから。嫌う理由なんて、ないだろ」
色んな積み重ねがあった。
蓮に救われ、世界は動き始めた。
けれどすぐに彼女を失い、依存し、『怒り』と悲嘆に支配されて。
迷走して、間違えて、その先で見つけたのは、蓮を失ったこの世界で生きていくには都合の良い考え。
たとえそうだとしても、
「今ここに、誰かが認めてくれる自分がいる。ならそれで良いだろ。……違うか?」
あの日々は嘘なんかじゃない。
どれもが欠けてはならない、大切なもなのだから。
「————違わない、かも」
「曖昧だな」
思わず苦笑を漏らす。
が、確かに彼女の気持ちも分からなくはない。
そう簡単に認められるほど、凝り固まった黒はなかなか取り除けやしないのだから。
「じゃあさ、いつか話せる時になったらもう一度同じ質問をするよ。芽空が全てに向き合えるようになった、その時に」
「…………うん」
沈黙が訪れた。
向かい合っていた二人は座席に身を預け、この空気に浸る。
奏太は知っている。
これは、居心地の悪い沈黙などではないことを。
「————ね、そーた?」
「どうした、芽空」
「……ありがとう」
「…………どういたしまして」
多分、今横を見れば彼女は笑顔を浮かべているのだろう。
見なくても、それくらいの予想はつく。
だからこそ奏太も同じように笑みを浮かべて、瞳を閉じた。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
コツコツと階段を降りる音が二つ響いていた。
「なんだこのでかい建物」
「私の家の別荘、みたいなところだよー。今は私が管理してるけどー」
地下に向かっているため、地上より上に比べれば灯りが少なく、足元に注意をしなければならない。
だが前を歩く芽空は慣れ切ってしまっているのか、その歩みに何の恐れも抱いていないように見えた。
「って、よくよく考えたら地下も地上も所有地多すぎないか……?」
「全然だよー」
間違いなく全然どころの騒ぎではない。
というかこれほどまでに土地を所有している上に、別荘が簡単に出てくるあたり並大抵の家柄ではないのだから。
屋敷内に踏み入った時には何人かの従者と思われる者に挨拶を受けたし、メイドや執事といった者達もその中には居た。
来る途中で乗っていたあの車も、その内一人の執事の運転によるものだ。
これが全然だというのなら、一般家庭はどうなるというのか。
「……それにしても三日も寝てたのか」
「立て続けに『トランス』を使ったんでしょー? それなら仕方ないよー」
「そうかな」
「そうだよー」
かなり長時間の間使っていたのは認めるが、あまりにも反動が大きすぎるのではないだろうか。
さすがに毎度毎度こうでは生活に支障が出るレベルなのだが——、
「——っとと。階段も終わり、ってことは…………」
地下に繋がる階段を降り切って芽空が止まったのは、大きな扉の前。
彼女に合わせて奏太も止まったが、一体ここに何があるというのだろう。
「……そーた。私はここで待ってるから」
「え、待ってるって」
「この先は、そーたが一人で確かめてきて」
地下を照らす小さな灯りの数々が、芽空を照らしている。
その灯りの下で見える彼女の表情は、薄っすらと浮かんだ笑顔。
急に見知らぬ屋敷へ連れてこられ、その上でこんなことを言われて困惑する奏太の背中を押すような、そんな笑い方。
彼女が見せたいと望むものが、奏太には分からない。
だがきっと、それは何か大切なことなのだと思う。
「何が何だかっていうのが、今の心境だけど……分かった。行ってくるよ」
「うん。行ってらっしゃい、そーた。……ふふっ」
そう言って、今度は涼やかな声で笑った芽空の顔は幸せそうだ。
ならばこそ奏太も、扉に向き直って取っ手を掴み——、
「————」
扉が開いた先に広がっていたのは、静寂。
木漏れ日のような光が部屋を包んでおり、まるでどこかの森へ迷い込んだような、そんな感覚になる。
そのまま振り返らずに室内へと入り、扉を閉めると、前方に何かが見えた。
「…………なんだあれ」
透明で大きなケースのようなものだ。土台の上に置かれているようで、周りには色とりどりの花々がそれを守るように咲いていた。
一歩、二歩。
「————」
歩みを進めていくごとに、目が、耳が、手が、足が、脳が、全身が、何かを語りかけてくるのが分かった。
妙に頭が冴えわたって、自分の足音一つでさえ明確に耳に伝わってくる。
「————」
奏太は気がついていた。
今まで気にしているようで気にしていなかったその行方を。
事実ばかりが先行し、頭から抜け落ちていたその事を。
そうだ、考えてみればおかしな話なのだ。
あの時奏太だけが連れて帰られるなんて、本来の目的の半分を捨てていたようなものなのだから。
ユキナの安全を確保することと、もう半分。
梨佳達は目の前の状況を知っていたからこそ、何も言わなかったのかもしれない。
——今だからこそ、奏太は向き合えるのだから。
「————蓮」
ガラスのケースの中で、眠るように安らかな顔をしていたのは美水蓮。
あの日、死んだ彼女だった。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「蓮……」
こうして彼女の顔を見るのは、あの時以来だ。
ガラス越しに見える彼女は、目を覚ましてもおかしくないくらいに穏やかな表情をしており、あれだけ酷かった傷も、一つとして残っていない。
死んでもなお、身体を修繕したデバイスとこのケースのおかげ、なのだろう。
衣服も清潔なものへと変えられており、あの時とは比べ物にならないくらい、日常の彼女に近い。
いや、あの時だって苦痛に顔を歪め、苦しんでいたというのに、最後は微笑んで。
「……本当に、こんな子が彼女だったんだよな」
今にして思えば、奏太には勿体無いくらい心身ともに綺麗な女の子だった。
けれど彼女と出会わなかった時のことなんて、考えられない。
それくらいに、奏太の中で彼女の存在は大きくなっていた。
「蓮が彼女で良かったって、そう思うよ」
その感情はかつて、依存へと姿を変えて奏太の中で育っていた。
彼女と出会ったことで弱くなったのだと、そう思える程に。
「蓮に救われて、教えられて——」
だけど、違った。
弱くなったわけじゃない。
知ったのだ。
自分はただ、一人ぼっちの黒の世界に留まっていただけなのだということを。
蓮に出会い、世界に居場所を求めた。
蓮を失ったことで、世界から自分が切り離されるのが怖くなった。
もう自分を支えてくれる彼女はいない。それだけのことをしてくれた彼女も、世界から忘れ、恐れられている。
それがあまりにも残酷で無慈悲で、どうしようもないくらいに追い詰められて、挙げ句の果てには死のうとさえ考えた。
梨佳や芽空がいなければ、今ここに奏太はいない。
こうして彼女と出会ったことで、出会いが巡り巡って、奏太は今ここにいる。
それがなければ彼女の想いに気づくことすら、出来なかったんだから。
だから、
「——また、救われた」
学校でだってそうだ。
怒りのままに吠える奏太を、彼女がいつもつけていたネックレスが助けてくれた。
多分きっと、これがなければクラスメイト達を——秋吉を、襲っていたのだろう。
蓮が愛した日常を、世界を。
壊してしまうところだったのだ。
「……救われてばっかりだな、俺」
隣に並び立とうと奮起した時だってあった。
もちろん今だってその感情は忘れてなんていないけれど、どうやら叶うのは遠い先のようだ。
そして、ガラスの中にその身を置いた蓮はこんなにも近いのに、今は遠い。
手を伸ばしたって届くことのない世界に、蓮は行ってしまった。
「死んだ後の世界なんて想像出来ないけど、多分蓮なら——笑ってる、よな」
咲き誇る花々のように可憐な笑顔を見せた彼女は、きっとどこでも笑っている。
ひょっとしたら、奏太の事だって見えているのかもしれない。
「だったら、ちゃんと言わなきゃな」
彼女とは、いくつもの約束がある。
結局それは叶わずじまいのものばかりだが、一つは今この瞬間のためにある。
そう、約束したから。
「————俺が贈ったネックレスはシロツメクサ。花言葉は約束」
今もあの時のまま彼女の首にはそのネックレスがかかっている。
我ながら狙ったとしか思えないくらいの偶然なのだが、奏太と蓮の関係性には、ぴったりのものだ。
だが、それに対して彼女は、最初から花言葉を分かっていて奏太に贈っていた。
あれからずっと、奏太がつけ続けている花のネックレス。
薄青の花びらに、黄色の柱頭のその花は——、
「——勿忘草。その花言葉は、私を忘れないで」
愛おしく、求めるように首元のネックレスに触れる。
既に戻ることのないものを、必死に手繰り寄せるように。
「…………俺は、忘れないよ。蓮のことを」
奏太を守るために嘘をつく。
そんな女の子を、忘れない。
「世界がどれだけ蓮のことを忘れても」
あれだけ愛し、愛された人としての蓮は、『獣人』という言葉で全てが反転し、今や世界にとって恐怖の対象でしかない。
それがたまらなく嫌で嫌でたまらなくて、苦しんだ。
忘却。その事実が奏太の心を蝕んだ。
「世界がどれだけ『獣人』の事を恐怖の目で見ているとしても」
『獣人』も人と何ら変わらないというのに、過去の事実と記憶から、一方的に決めつけて。
当たり前のように泣いて笑って、信じてくれる。約束してくれる。
誰かの為を想い、世界を幸せにしたいと願う。
そんな事も知らないまま、世界は動き続けている。
だから——だからこそ、
「俺がその事実を忘却させるくらい、みんなを幸せにする。人も『獣人』も、クラスやラインヴァントの連中も、俺も。蓮が望んだ全てを————世界を、俺が幸せにする」
それは、あの日彼女に言えなかった言葉。
どうしようもないくらいに弱くて、出来ないと嘆いたあの日への、返答。
「それが叶って、ようやく俺も幸せになれる。だから絶対に忘れなんてしない」
一方的な誓いであり、そして————、
「——約束だ。俺は蓮の望んだ全てを叶えに行くよ。蓮のいないこの世界で、生きるよ」
返事は、ない。
ただ反響した自分の声が返ってくるだけだ。
けれど、奏太は知っている。
こういう時彼女が了承し、どうするのかを。
「————」
奏太はにっと笑って、蓮を見る。
彼女ならきっと、笑いながら約束だと、そう答えるから。
「…………だから、さ」
笑顔を浮かべると同時に、何かが浮かんでくるのが分かった。
本当に、彼女には感情を動かされてばかりだ。
「今だけは泣いて……いいよな」
もう戻ってくることのない、彼女との日常。
あり得たかもしれない、変わることのない彼女との日常。
今だけはそれを求めて、奏太は涙を流す。
幾筋もの涙が頰を伝って落ちても。
ただただ、感情のままに。