第二章33 『交わらぬ思い』
「————」
両者の間で、言葉を交えぬにらみ合いが続いていた。
一人は英雄と、あるいは魔女と呼ばれる麗人——藤咲華。
彼女は相も変わらずその表情に笑みを浮かべており、それがもう一人の女性にとっては不服らしかった。
プルメリアお嬢様、と言われていたが、それが彼女の名前なのだろうか。
「ワタクシはあなたに用があるわけではありません。早急に彼とこの場を離れたいのですが」
華に対して厳しく言い放つその女性は、確かにお嬢様と言って何ら遜色のない見た目だった。
きめ細やかな肌を最大限に生かしたシアンのドレスに身を包み、艶やかで綺麗な鶯色の髪を束ねている。
それから、何か宝石の類だろうか。両耳には赤や緑の石がついたピアスが下がっており、主張しすぎない程度に彼女を装飾していた。
その姿を下から上まで何度見返しても飽きることはないと、そう言っても過言ではないくらいの造形美。
「…………?」
だが、感動すると同時に、何か不思議な違和感が奏太の中にはあった。
それが何かは分からない、が、奏太はこの女性について何か引っ掛かりを覚える。
先程向けられた笑顔もそうだ。
向けられる理由が思い当たらないし、そもそも見ず知らずの者に迎えに来てもらう、などと言うのはおかしな話だ。
ひょっとすると、どこかで知り合っていたのだろうか。
「——奏太君もお嬢様も、本当に私を急かすのね」
思考に割り込んでくるように差し込まれる、華の声。
彼女はまるで落ち込んでいるかのように振る舞い、軽く息を吐く。
そして、プルメリアという女性と向かい合っていた彼女はこちらに向き直り、言う。
「奏太君、最後に一ついいかしら?」
「……何だよ」
再び、笑み。
一体どこまでが本物なのか、そもそも作った笑みなのかどうかすら、その表情からは読み取れない。
だが、少なくともここまでの彼女の笑みは、余裕による絶対的な優位性からなるものなのだろう。
そして多分、今現在も、これからも。
「貴方には今幸せにしたい人がいる。過去に大事な人を亡くしたというのに」
「それが何だよ」
「貴方はその人達を幸せにして、自分も幸せになれると思っているのかしら」
「……なれるよ。俺がそうしたいんだから」
それは彼女のためであり、皆のためであり、そして自分のためでもある。
幸せを望んだ彼女との約束も、彼女の想いも、決して忘れてはならない大切なものだから。
再び立ち上がることができたのは、彼女が——蓮がいたおかげなのだから。
「————幸せね」
心の中にスッと入り込まれたような、嫌な感覚。
満たされたような気分になっていたところを、彼女の声が不純物となって入り込んで来た。
「どちらか片方しか救えない。そんな事態に陥ったとき、貴方はどうするつもりなの?」
「そんなもん、両方とも助ける。そうすればそいつらも幸せに生きられるし、俺だって——」
「————ふ」
それは、小さく漏れた声。
息を吹きかけるようだったものは数を重ね、次第に笑い声へと変貌していく。
これまで、一度も彼女が見せなかった大胆な笑い。
「何がおかしい」
「ふふ、何もかもよ。貴方は本当に幼稚ね。拙く、脆く、不安定。そして何よりも————傲慢、だわ」
彼女は続ける。
「世界には選択肢が無数にある。けれど、どれが正解だなんて貴方には分かりもしない。…………カミサマにだって、ね」
「……いつか救えない時が来るって、そう言いたいのか」
「ええ。いずれその時は訪れ、貴方は何かを切り捨てることになるわ。救いたいと思う何もかもを救える程、世界は甘くない」
「——っ、それでも俺は!」
声を荒げる奏太に対し、華の言動は一貫していた。
奏太の言葉を嘲笑うかのように否定し、上から目線で物を言う。
彼女の言葉は、感情抜きにして聞けば、正論だと認めざるを得ない部分もあるし、言い返せない部分もあった。
だからこそ、彼女は言う。
藤咲華は、視線を鋭くし自分の正義を主張する。
「曲げないのね。何かを犠牲にしなければ自分の目的など叶わないっていうのに。私がハクアの死に対して何の感情も抱かないのもそう。優先順位をつけ、自分にとって必要なものを最適化しなければ、何もかもが不器用な人間という存在は事を成し得ないのだから。救いたい全てを平等に救い、幸せにするだなんて、貴方はカミサマにでもなったつもり?」
「————」
奏太は、答えない。
扉の前に立ったプルメリアも、ただこちらをじっと見守るのみ。
それを知ってか知らずか、華は言う。
「貴方には何の力もないわ。どれだけ願おうと、どれだけ望みを持とうと、どれだけ吠えようとも、その現実は貴方に付きまとうのよ」
「————それで?」
奏太は、答える。
「お前言ったよな。世界には選択肢が無数にある、って」
目の前の華が、笑みを忘れて僅かに目を見開いた。
これまで優位な立場に立っていなかった奏太からすれば、それはいい気味だと思えるもので。
「確かに華。お前が言った通り、いつかは何かを犠牲にしなきゃいけない時が来るのかもしれない。それは選択の積み重ねによるものだから、避けられないのかもしれない。——けど」
だけど奏太は、自分に愛を向けてくれた人を知っている。
その人が、自分にくれたものを知っている。
彼女が、自分に教えてくれたことを知っている。
蓮が、教えてくれた。
だから、
「みんなを救って、幸せに出来る選択肢だってある。どれだけ難しい願いでも、どれだけ高い望みでも、どれだけ格好悪い吠えでも! ——俺は、みんなを幸せに出来るんだって信じる。誰かを頼って、力を借りて。そうやって選択していくんだ」
「……どうしてそう言えるのかしら」
そんなの、簡単な理由だ。
だって、
「蓮が信じてくれた。約束をした。自信の根拠はそれだけで十分だ」
強くなろうと思ったあの日から、何も変わらない。変わってなんて、いない。
何故なら、奏太の心の中心にいるのは、いつだって彼女なのだから。
そうしてにっと笑みを浮かべる奏太に対し、返ってきた言葉は先程までとは打って変わって勢いの弱まったもの。
「ふぅん…………」
「不満か?」
「半々、かしらね。貴方の反応は予想以上に面白いものだったけれど……やはり、合理性に欠けるわね」
言った華は懐を探ると、奏太にとって見慣れた腕時計を取り出す。
「——私は犠牲を認め、貴方はそれを認めない。価値観の相違ね。これ以上続けたとしても平行線が続くだけ」
それをこちらに手渡し、代わりに奏太の持っていたフィルムケースを取り上げると、
「楽しい時間だったわ。出て行くなら、そこに上着がかかっているから羽織って行きなさい。それじゃあまたね、奏太君」
「またって……ちょっと待てっ!」
「——待つわけがないでしょう。全て貴方の思い通りにいくほど世界と私は甘くないし、あなたにも迎えが来ているのだから」
終始睨んでいた芽空と奏太に不敵な笑みを見せ、部屋を出て行った。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「————」
「え、と…………」
華が部屋を去り、プルメリアと二人きりで残された奏太。
奇妙な感覚は消えずにつきまとっているし、はっきり言って話しかけづらいことこの上ないのだが——、
「……来て」
「————え」
突如長い指に腕を掴まれ、引っ張られるようにして席を立つ。
あまりにも唐突だったので踏みとどまることもなく、そのまま引っ張られるのだが、
「ちょ、待った。その前に俺——」
あんたのことを知らないのだと、そう言うはずだった。
「…………?」
しかしその言葉を発してはいけないのだと、思考の奥底が奏太に呼びかけていた。
理由は当然、分からない、
彼女のことについても、奇妙な感覚についても、依然として分からないことばかりだ。
普段通りならば誰かの知り合いであるとか、思い当たる節がないかと考えるところなのだが、立て続けに印象深い相手と話していたことと、現在に状況に対しての動揺によってそれは叶わない。
故にひとまず落ち着くために声をかけてみるが、
「だ、大丈夫だって! 一人で歩けるから」
「————」
しかし彼女からの返事はない。
扉を抜け、廊下を進んでもそれは同じだ。
引っ張られながらもどうしたものかとため息を吐く奏太は、大人しく次々に移り変わっていく景色に目をやる。
白と黒だけで構成されているらしいこの建物は、灰色の部屋から出たことでようやくその全容が分かった。
どうやら奏太がいた部屋はかなり高い階層にあったらしく、窓から見える外の景色はやけに太陽に近い。
テレビ等で見聞きしただけで、実際に来たことはなかったが、何十とある階層は伊達じゃない、というべきか。
以前乗った観覧車や秘密基地よりも高く見え、驚きの声を上げそうになるが、
「————?」
エレベーターの前で立ち止まったところで、見渡す限りこのフロアに誰もいないことに気がつく。
華やソウゴがいないのはさして問題として取り上げることではないが、一般人員すらもいないとなれば、それは明らかな異常なのだが——。
ひょっとすると、一定以上の地位があるもののみが入れる、といった類のフロアなのだろうか。
とは言っても再び訪れることなど絶対にないので、気にするだけ無駄な気もするのだが——、
「……乗ろう」
——前方から届く心地の良い声ではっとなる。
見やれば、エレベーターの扉が開いており、またしても手を引かれる。
その姿はさながら親に手を引かれる子どものようなので、出来れば遠慮したいのだが、離してくれる気配はない。
エレベーターという狭い空間の中に入ると、扉が閉じて密室となる。
当然、そうなるとそれまでまともに言葉を交わしていなかったがために、気まずい空気が流れるわけで。
「————」
不幸なことに地上までの道のりは長い。実際の時間で考えればほんの数分足らずなのかもしれないが、体感時間は恐ろしいくらいに長い。
だから奏太は、彼女に対して抱いた感覚の正体を確かめようとして、改めて彼女の後ろ姿を眺める。
華奢な体つきだ。ドレス映えするのは彼女の体に女性らしい起伏があるからに違いない。
奏太は普通の家庭だったので断言は出来ないが、仮に上流階級の集まりがあったとて、誰しもが目を向けざるを得ない、そんな魅力を全身にまとっている。
それは蓮や華、梨佳達の持つ魅力とも違う、別世界の住人であるかのようなそんな雰囲気があるからだろうか。
また、視線を上にずらし、顔周りを見るとなおのこと稀な容姿を持つ人物なのだと分かる。
華やかだが、決して成金だと思わせないピアスに、かなり長い髪を結ったポニーテール。
その髪色は鶯色でまるで——、
「————そうか」
ここにきて、ようやく違和感の正体が分かった。
考えてみれば、確かに面影はないが、パーツの一つ一つは同じだったのだ。
相太の知っているものとは別の呼称や、ガラッと印象が変わって見えるその見た目の理由は気になる。
が、この状況で彼女が話してこないということは、少なくとも今が話せるような状態ではないということ。
ならばせめて、
「……プルメリア。あんたは芽——っ?」
言葉を告げようとして、振り返ったプルメリア——芽空に、口元を押さえられる。
「…………そーた。今はダメ」
芽空はそう言い、華と対面した時同様の厳しい目を奏太に向けるのだった。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
それから言葉を交わすことなく、エレベーターは無事に一階へと到達し、奏太達は降りた。
先程の言葉の意味は分からないが、もうすぐでこの本部を出てその意味が知れる。
そんな時、だった。
「————待て」
一階ともなれば一般人員達もちらほらとその姿が見られ、当然目立つ見た目をした芽空にも視線が向けられる。
隣にいる奏太も、上着を羽織っているとはいえそんな芽空の側にいるため、注目を集めていた。
だからこそ、早急にこの場を離れたいところだったのだが、再びその男は現れた。
「…………ソウゴさん」
並大抵の人物ではないと一発で分かるほどの鍛えあげられた肉体に、彫りの深い顔。
ほんの数十分前に別れた人物だ。
再び会うの難しいものだと考えていたのだが、まさかこんなにすぐに再会するとは思いもしなかった。
決して多くの言葉を交わしたわけではない、が、奏太にとっては大きな存在となった彼は、大きなその手をずいっと前に出し、
「…………ソウタ、手を出せ」
「手……? あ………………」
奏太の手の中に、ネックレスを一つ、落とした。
「…………忘れ物だ」
「——っ。ありがとう、ございます……!」
それは、彼女が奏太に預け、一度は奏太を助けてくれたもの。
ハクアとの戦闘で紛失したと思っていたのだが、どうやら彼が持っていてくれたらしい。
『獣人』としての力を抑えるネックレス。
それは蓮が人として生き、彼女が愛した全てを幸せにするために必要だったもの。
互いの為を想って贈り合った花のネックレスとは、別種の存在だ。
「————ソウゴさん。俺、さっき伝え忘れてたことがあって」
「…………なんだ」
それが戻ってきた今だからこそ奏太は、先ほど伝えられなかったことを改めて、言う。
「俺は……俺は、俺のやり方で世界に向き合ってみるよ。自分が守りたいって思える全てを、大好きな子が愛した全てを、幸せにするために」
きっとそれは、難しい話だ。
今側にいる者達を守ることだけで手が足りていないというのに。
だが、華のような犠牲を厭わないやり方は絶対にしない。
だから奏太は、ちゃんと色んなものに向き合う。
そうすることで誰かと共に進めると、そう思うから。
「…………そうか。道は違えど、強い志を持つ貴様に我は敬意を抱く。故に進め。故に考えろ。故に努力しろ。いずれ衝突する時が来たとしても、それまでは我も共に励もう」
「………………はいっ!」
二人は柔らかな笑みを浮かべ、それぞれの道を行く。
まだまだ険しく、遠い背中だ。
追いつこうとしても何年、いや何十年もかかるだろう。
だが、それでもいい。
確かに一人の男として憧れであっても、彼そのものになりたいわけではない。
「——ごめん、待たせたな。……行こう」
再びネックレスを首にかけ、二つとなったそれらに順に触れ、前を向く。
——奏太は奏太の道を、自分が望むままに進むのだから。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「——あら、どこへ行ってたの?」
「…………気にする必要はない。ところであの件は本当に行うのだな」
それは大きな一室。
華が椅子に腰掛け、向き合っているのは書類の数々だ。
何れもが『ノア計画』において重要となるものばかりで。
「隠すのね。……まあいいわ」
彼女は一息吐き、神妙な表情を浮かべたかと思えば、
「——ええ。『ノア計画』同様に、あれは私にとって大事なことですもの。当然、進める以外の手は存在しない」
「…………そうか」
「とはいえ、貴方にも負担をかけるわね。それに関しては申し訳ないと思っているわ」
彼女の表情に、奏太達に見せていた笑みは一切ない。
それは相手が相手だからか、あるいは話の内容か。
いずれにしても、当人達のみが知る事情がそこにはある。
「…………気にすることではない」
二人の間に、多くの言葉は必要ない。
全てを知っており、おおよそ何を考えているのかも予想がついているのだから。
しかしそれでも、
「材料は揃いつつある。だから無事にそれを遂行し終えるまで——頼むわね」
華は言う。
その美貌に、艶美で強欲な笑みを浮かべて。