第二章28 『天を衝く獣』
厚い雲に覆われた空の下、生まれたての子どものように叫ぶ男がいた。
そしてそれを遠く離れた場所から確認する少年が、二人。
「滅茶苦茶な作戦考えますね……」
中性的な顔をした少年——葵は、男性にしては妙に高く詰まりのない声で、隣の少年の案に言葉を返す。
「不満か?」
葵の言葉にくすりと笑う少年、奏太。
二人は先の公園周辺から距離のある倉庫の中にいた。
三階建てになっているこの建物はショッピングモールと隣接しており、山積みとなった商品の数々で溢れかえっている。
客数の減っている現在のことを考えれば、何だか申し訳ない様な気持ちが湧いてくるものの、隠れるにはもってこいの場所だと言えよう。
「いえ、奏太さんにしては良い考えだと思いますよ」
全身に負った傷の痛みに耐えるようにして膝を抱え、壁にぐったりともたれかかって、心からの賞賛だと口にするかの様に笑みを浮かべる葵。
奏太はそれに目をパチクリとさせて、
「葵……何かあったか?」
「いえ、特には何も。奏太さんこそ、何かあったんですか?」
「後で詳しく話すけど、まあ色々と。何でまた」
「前よりも幸せそうに笑っている、と思いまして」
「それ葵もだけどな」
二人は数秒互いの顔を見つめ、それがどこかおかしくて噴き出す。
奏太には人を馬鹿にしていない葵の笑みが、葵には吹っ切れた様な奏太の笑みが、違和感のあるものとして映ったのだ。
互いに、今までは同じようで別の表情を見ていたから。
「——もう、大丈夫そうですね」
「ああ。心配、かけてたか?」
「さて、どうでしょう。あのクソ野郎を倒してから教えてあげますよ」
「お前ハクアに対してどんだけ恨み持ってんだよ。いや俺もあいつにはたくさんあるけどさ」
どうやら、変わったのは笑顔だけではないらしい。
表情に堅苦しさというか、以前まであった仮面の様なものが消え去っている様に感じられた。
しかしそれはきっと、気のせいなんかではなくて。
「——っと」
「どうしました?」
「ああ、芽空から連絡が……」
ほんの数分前、奏太は梨佳と共に葵を助けた後、作戦の開始を告げて彼女と別れた。
現在は梨佳と芽空と希美の三人には別働隊として動いてもらっているが、どうやら作戦は順調に進んでいるらしく、
『もうすぐ建物の中に入るよー』
報告が入った。
ターゲットであるハクアを予定通り誘い込めたらしい。
「奏太さん、楽しんでませんか?」
「……正直なところ、ちょっとだけな」
短い文章を打って返信を終えると、重たい腰を持ち上げる。
その場で軽くジャンプをしてみても、異常は見当たらない。
いける、そう気合いを入れようとして——、
「ちょっと待ってください。ボクも今————ッ!」
「葵っ!」
奏太に続いて立ち上がろうとした葵が、その身に負った傷の痛みに妨げられ、膝をつく。
苦痛に歪んだその表情は、普段の彼からはとても想像の出来ないものだ。
慌てて彼を支えるが、葵は助けなどいらないと言うかのように、奏太の手を振り払う。
「葵…………」
「ボクも行きます。仮に奏太さんが失敗したら、みんな……ッ」
そう言い、歯を食いしばる葵に奏太は思わず笑ってしまう。
何がおかしいんだと問いたげな葵を制止し、お腹が落ち着いたところで一度ため息を吐き、言う。
「俺ってそんなに信用ない様に見えるか? いや、見えるな……。でもとにかく!」
困惑する葵のクリーム色の髪に手を置いて、続ける。
「——大丈夫だ。そりゃ、葵の力だってあったら嬉しいけど、今は休んでてくれ。ありがとう、葵」
「あ…………」
「……ハクアを倒してさ、色々落ち着いたら読み聞かせ、頼むよ。楽しみにしてるからさ」
捨てられた子犬の様な表情を浮かべる葵の髪をくしゃっと撫でて、にっと笑いを浮かべて見せると、奏太は踵を返して部屋を出た。
「————」
廊下には静寂がどこまでも続いている。
窓から見える空は依然として雲ばかりだが、少しずつそれは薄れつつあって。
あのやたら騒がしい男も、既に建物の中に入っているのだろうか。
分岐をどう進んだか、そろそろ報告が来るはずだが——、
『奥側の階段を上ってるよー』
噂をすれば、である。
今の所順調に事を運べているが、最後まで作戦通りに進むとは限らない。
ふと手を見やれば、緊張ゆえか、わずかに指先が震えていて。
『そーた、頑張ろうね』
続けて、もう一件。
まるで彼女に心中を見透かされている様な気分になって、思わず笑みを漏らす。
『ありがとう』
ただ一言だけ書き記し、返信を送る。
そして、無限に続くようにさえ思う前方の暗闇を見据え、
「——これで全部終わりにしよう、ハクア。今までと決着をつけて、これからへ進む為に。みんなと——蓮と、共に」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「さっさと出てこいクズどもがッ!!」
たった半径五十メートルにも満たない距離。
二階の階段の物陰で息を潜める奏太へと、徐々に近づいてくるハクアの声。
どうやら律儀にも各部屋を全て綿密に調べた上で探索を続けてくれているらしい。
予想通りといえば予想通りだが、ここまでくるといっそ間抜けである。
「——っと、集中集中……」
今は余計なことに思考を割いている暇はない、と自分に言い聞かせて、本来の目的を見据える。
はっきり言ってしまえば、これが成功するか否かでこの作戦が成功するかどうかが決まるのだから。
「——広げて、纏う…………」
首元のネックレスに触れ、唱える。
それはかつて蓮が編み出した『纏い』の発現方法であり、立場上弟子となる葵へと引き継がれたもの。
前回調子に乗ってこれを行った際には、少しの変化があっただけで制御には至らなかった。
そして先のハクアとの戦闘では、理性を失って本能に身を任せて。
これらがことごとく失敗していた原因について、今までに聞いた全ての話を踏まえた上で、奏太はある一つの仮説を立てていた。
——それは、『纏い』を行ったいずれの時も、奏太の精神がひどく不安定だったから失敗した、ということだ。
元々は蓮を失ったことがきっかけで『怒り』と共に蘇った『トランス』の力。
次に目覚めてからは終始蓮のことで苦しみ、嘆き悲しんでいた。
それに対し芽空達との日常という癒しはあった。だが、それは一種のトラウマを抱えた奏太の精神にはどうしても届かなくて。
そして、それほどのトラウマだったからなのだろう。
表面的なものでしかない『憑依』が出来ても、根本の部分で混ざり合う『纏い』が出来なかったのは。
蓮への依存。ハクアへの怒り。ラインヴァントの居心地の良さ。それらがごちゃ混ぜになっていたからこそ、制御が出来なかったのだと思う。
何故なら、『怒り』に全てを任せた時、体は驚くぐらい自然と動いたのだから。
それの方向性を変えて、理性によって制御してやれば、きっと上手くいく。
前に感じたものとは違う。自惚れでは、ない。
清々しいくらいに晴れ渡った心が、そう言っているのだから。
そしてそれは、彼女のおかげで。
だから、
「…………出来た」
——今までは信じられなかった自分が信じられる。
人としての自分も、『獣人』としての訳の分からない力を持った自分も。
「くそっ、どこへ行った!」
化け物の声がする。
全身灰色の、骸骨のような男。
HMA幹部『トレス・ロストロ』の一人にして、蓮を殺し、ユキナに恐怖を叩きつけ、奏太と葵を蹴散らした化け物。
足音と声からして、彼は既に廊下に出ているだろう。
先程開いた扉の音から、この階層に彼が開けていない扉はもうないと推測出来る。
コツコツと、静かな廊下に彼の足音が響く。あと数歩で奏太を視認出来る位置に彼は辿り着くだろう。
——九、八、七。
ならばこそ、奏太は立ち上がり、静かに息を吐く。
——六、五、四。
そして、
「————らァァァァァァアッッ!!」
廊下に飛び出し、勢いそのままにハクアへと突進していく。
「なっ……ッ!?」
まさか至近距離から飛び出してくるとは思っていなかったのだろう。
反応しきれなかったハクアが勢いのついた角の一撃を受け、衝撃に飛ばされる。
「————」
しかし、都合良くダメージを受けてくれる程彼も甘くはない。
先の戦闘でも見せた、空中で重力を叩きつけられたかのような動きで地面に着地、咆哮。
「ちょこまかとうざいんだよ、クソがああああああッ!!」
それに対し、奏太は真っ直ぐに彼を見つめ返すのみで、言葉を返さない。
そんな奏太の姿を二度、三度ハクアは見直し、僅かに目を細める。
「お前は一体……」
彼が驚くのも当然の事と言えよう。
奏太の以前の『纏い』が灰色の毛皮にねじれた角、血のように赤黒い髪だったことは、ハクアを含めてラインヴァントの皆も知っていることだ。
——だが。
不可思議な光景が目の前にあった。
「…………ッ! このクズが、僕から逃げられると思うな!」
ハクアから不審な視線を向けられ、身を隠すように体の向きを反転し、階段を駆け下りていく彼の姿は。
「——そうだ、そのまま来い」
不敵な笑みを浮かべる奏太は、その姿を変えていた。
憎しみを体現していたかのような血の赤髪は、全てを溶かすような透き通った赤に。
何もかもが中途半端で不恰好の灰色で、赤や茶色の入り混じった全身を覆う毛皮は、全てを包み込むような白い毛皮に。
そして、奏太の心のようにひどくねじれてしまっていた角は、天を貫くように真っ直ぐに伸びた雄々しいものに。
もしこの場に葵か、あるいは芽空がいた場合、奏太の今の姿をこう称しただろう。
——ユニコーン。
伝説上の生き物であり、額に一本の大きな角を生やした白く獰猛な馬。
奏太は思う。
これこそが、自分の『獣人』としての本来の姿なのだと。
誰かに納得してもらえるような、何か明確な理由があるわけではない。
ただ、発現出来たその瞬間にそんな気がしたと、いうだけで。
「————ッ!!!」
一階まで駆け下り、着地した奏太は上から迫って来る怒声に思わず冷や汗を流す。
何もかもが変わったわけではないのだ。あの魔手の威力をこの体が痛みをもって知っている以上、恐れがないわけがない。
だけど。
「ここで決着をつけるって決めたんだ。——終わりにしよう、ハクアッ!」
全てを飲み込んで、全てを信じる。
この戦いに——この因縁に、終止符を打つために。




