第二章25 『——私を忘れないで』
温かく、柔らかな感触がした。
後頭部に触れているそれは、ひどく懐かしい。
一体、いつだっただろうか。その温もりに、触れたのは。
そうだ、あの時だ。
ちょうどひと月前の秘密基地で、彼女がくれたもの。
本当は彼女だって泣きたかったはずなのに、自分の言葉を聞いて受け止めてくれた。
ひどく、心地の良い感覚だった。
今更願ったって戻りやしない。
なのに、今こうして自分が感じているのは何なのだろう。
——ああ、そうか。
彼女が、迎えにきてくれたのだ。
もう頑張らなくていいよと、もう悩まなくていいんだよと、彼女がそう言いにきたのだ。
……良かった。これでようやく救われる。何もかもがなくなって、彼女とずっと一緒に居られる。何もかもを投げ出して、彼女のことだけを考えられる。何もかもを忘れても、彼女のことだけは忘れないでいられる。
ならば目を覚まそう。
彼女が待つ、白の世界に。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「——よっ、目覚めたか?」
重たい瞼を開けると、紺色が頭上にあった。
奏太の心境にそぐわぬ、あまりに楽観的な声だ。
思ってもいなかった者の姿に驚くと同時、何かがこみ上げてきそうになって目を逸らそうとするも、魔性を秘めた彼女の瞳が、奏太を捉えて離さない。
「いやー、本当奏太ってすごいんだな。さっきまで死にかけだったのにもう全快だし」
八重歯を見せてケラケラと笑うその表情は、ひどく眩しい。
暗闇の中だというのに、それがはっきりと分かって。
室内にいるのだろうか、彼女の声ががらんとした空間に深く響き、反響する。
「しっかし、なんだかんだあーしは奏太の『トランス』見てないんだよなー。毎回奏太は気絶してるし、今回は解けてたし」
眠っていた時に感じた温もりは、蓮のものではなかったのだろう。
実際にここに、現実にあるのは梨佳の膝で。
だがたとえ夢であったとしても、あれがずっと続いていれば良かったのにと思ってしまう。
「って言っても、あーしだけじゃなくて希美もだけどな。そういう意味じゃ——」
「……なんで」
奏太の口から、言葉が漏れる。
ようやく目が慣れて、周囲の状況も、頭上の彼女の顔も、自分が今どういう状態なのかも、分かってきた。
どこかの建物の中に自分達はおり、戦闘は既に終わったのだと言うこと。
「…………なんで、梨佳がいるんだよ」
衣服のそこら中が擦れ、あるいは破れているというのに、不思議と体に痛みはない。
だが、奏太は顔をしかめる。
「何でって、そりゃ」
「——助けなんて、いらなかったんだよ」
冷たい音。
暗闇の中で、今にも壊れてしまいそうな音が声となって室内に響いた。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
奏太は負けた。負けたのだ。
本能に身を委ねた。
自分の中の境界線が取り払われて、完全に一体化していたようなそんな感覚さえあった。
敵意、殺意、悲しみ、憎しみ、苦しみ。それら全てを『怒り』に変えて、黒い感情のままハクアにぶつかった、はずだったのだ。
一切の迷いも遠慮も、捨てて。
「俺一人で、やれるって」
そう思っていた。
ハクアを曲がりなりにも一度は倒してしまったこと。葵やフェルソナの話を聞いて、自分が『獣人』の中でも特別だって気づいてしまったこと。ユズカの『トランス』を見て、自分にもあのくらいの力はつけられるのだと、思ってしまったこと。
そう言い聞かせなければ、立てなかった、心。
——なんて、弱いのだろう。
「あいつを殺すって、そう決めてたのに……っ」
奏太は顔を苦痛に歪め、拳を地面に叩きつける。
鈍い痛みが走った。
最初は部分的に、そしてそれがじわじわと周囲に広がっていく。
これは紛れも無い現実なのだと、証明されてしまう。
「そんなの、一人で出来るわけねーだろ」
「————っ」
言葉に詰まる奏太に対し、梨佳は続けて言う。
「お前はなんか勘違いしてるっぽいけどさ、相手はあのハクアだぞ? あーしのダチだって、何人もあいつにやられてる。……蓮だって」
「……だから敵わないって言うのかよ」
「そうだ。あーしだって、奏太みたいにあいつをとっちめてやりたい——いや、殺したいって気持ちは分かる。けど、あーしはもちろん、奏太にだってそれだけの力はないし」
「じゃあ、どうしろって言うんだよ!」
吠える奏太に対して、梨佳は諭すように言葉を紡ぐ。
いつかどこかで感じたような慈愛と優しさ。それが含まれていて、心地良く、息苦しい。
そして、並大抵の人間であれば心を奪われるような、優しげな微笑みを浮かべて彼女は言った。
「そんなもん、決まってんだろ。みんなで力を合わせて——」
「——みんな?」
瞬間、傷つき、擦り切れた奏太の心に波が生じた。
向けられる慈愛も何もかもを振り切って、決して小さくない巨大なそれは荒波を立てる。
「みんなって、何だ。ラインヴァントの連中のことか。……ダメなんだよ。あいつらを巻き込んだら、ダメなんだよ」
梨佳に至極当然なことを言われ、しかし奏太は揺るがない。
それが蓮を失った今の今まで奏太を支えてきたものであり、なくなってしまえば気が狂うほどの苦しみが待っているだけなのだから。
花のネックレスに触れ、言葉を漏らす。
「ユズカもユキナも、葵も梨佳も、フェルソナも希美も、芽空も。他のみんなも全部が全部、ダメなんだよ。危険な目に合わせちゃ、いけないんだよ!」
「……どういう意味だ?」
頭上から低い声が降ってくる。
しかし今の奏太には、その顔色を覗くことすら満足にできない。
ただただ溢れ出る感情をぶつけるだけだ。
ヤケになったように、一方的に。
「分からないのかよ」
「ああ、奏太が言わなきゃ分からない」
当然だ。理解など、出来るはずもない。奏太の考えの上澄みしか彼女は知らない。
それでもきっと、蓮なら分かってくれていた。分かってくれたはずなのに。
「——俺は蓮が死んでから、辛かった。苦しかった。本当に、生きていける気がしなかった」
依存。
何年も自分という存在の在り処に苦しめられて過ごしてきた。
勉強が出来ても、運動が出来ても、友達がたくさん出来ても、誰とでも上手くやれても、世界に溶け込んでいるように見せかけていても、奏太は一人だった。
『獣人』の恐怖を知らないこともあった。皆が当たり前のように知っていることを、当たり前のように知っている自分のことを、奏太は知らなかったし、認められなかった。
そしてそれは、恐怖を知っても何も変わりはしない。
過去の自分と今の自分は違うものなのだと、頭が決めつけてしまっている。他人が何年もかけて積み上げてきた自己という存在を、奏太は曖昧なままにしてきたのだから。
けれど、蓮は言った。
——奏太君が、今の自分を自分なんだって、そう言って笑えるようになるまで、私は奏太君の隣にいるね。
彼女の言葉で、心の深い暗い水底まで光が宿るのを感じた。
救われた。嬉しかった。
孤独じゃなくなって、前を向けた。彼女と一緒なら、自分は笑える。強くなりたいと、そう思えた。
いつからきっと、彼女と並び立てるくらい、強くなりたいと。
けれどそんな日常は、すぐに終わりを告げた。
ハクアに全てを壊され、奏太の世界を片っ端から崩壊させられた。
結果、弱い自分の中に生まれたのは、ひどく醜い依存。そんなことは分かっている。しかし、彼女に依存しなければ生きてはいけなかった。
「でもそんな時、ラインヴァントのみんなに助けられた。楽しい時間だった。こんな俺に、優しくしてくれて、日常をくれて。俺は思ったんだよ、こいつらには幸せでいてほしいって」
それは、蓮との約束と一致した部分でもある。
——みんなを幸せにする。
誰しもを愛し、愛された彼女が奏太に望み、信じ、託した一方的な約束だ。
奏太にはそんな力なんてない。彼女は無理難題を押し付けていた。
本当に困難で、おかしな約束だと思う。
だけどそれでも、
「蓮が必死で守ろうとした奴らだから。俺が守らなきゃ……いけないんだよ。いけなかったんだよ!」
「————」
梨佳は全てを吐露する奏太に対して、何も言わない。
目をそらすこと無くただじっと奏太を見つめ、唇を結んでその言葉に耳を傾ける。
「そのために強くなってハクアを倒してやろうって、そう思った。あいつには恨みだってあったから。けど、出来なかった。俺の全部をかけたのに、勝てなかったんだよ……っ」
現時点では奏太に出せる最大限の力だった。
二段階ある『トランス』のうち、『憑依』は通用せず、『纏い』は自分の意志で制御出来ない。
だから、内から聞こえてくる黒い囁きに身を任せた。
それは『怒り』。人としての心も、『獣人』としての心も、全てを本能に混ぜた結果生まれた姿。
自分であって自分じゃない、そんな感覚がした。動いている間はずっと頭が痛かったし、視界も赤く染まっていた。
けれど体だけはちゃんと動いて。
一時はいけるとさえ、思った。
だがそれも結局、自惚れでしかなかった。
——ああ、今にして思えば。
全てが全てだと言えよう。
無力な自分が蓮の側にいたいと思ったのも。異質な『トランス』だからユズカのように強くなれると思ったのも。希美を幸せにするのも。奏太が誰かの幸せを望むこと自体、何もかも——強欲で、傲慢だった。
内から次々と湧いて出る不慣れで不恰好な憤怒を取り戻したせいだろうか。
——いいや違う。
全ては、自分を認めないまま怠惰に日々を過ごしてきた自分のせいだ。
「だから、もう死んでも良かったんよ。どのみちあいつを倒したら死ぬつもりだったんだから。……約束も全部、放り投げて」
「——死ぬことはないだろ。死んだら全部おしまいだってのに」
深く突き刺すような言葉が、奏太の心を刺した。
いつになく真剣な声だ。
しかしそれが頭上から放たれたものであり、誰が言ったものなのかははっきりと分かる。
だが、
「————っ!!」
それは今の奏太にとって、ただただ不快なものでしかない。
故に奏太は、吠える。
「そうでなきゃ耐えられないんだよ! 俺にとって蓮は全てだったんだ。好きだったんだよ、蓮が!! ……あいつがいない世界なんて考えられない、生きていけない。それはお前らと一緒に居ても、変わらない」
「…………芽空と一緒に居て、楽しくなかったのか?」
「……楽しかったよ。あの子にはたくさん助けてもらったし、一度は立ち直れたのもあの子のおかげだ。本当に、一番感謝してる。……葵もそうだ。フェルソナ、ユズカ、ユキナ、希美、梨佳。みんなに助けてもらった。嬉しかったよ。——でも、蓮の死には、耐えられない」
悲嘆の限りをさらけ出した瞬間。
何かが、頬を伝った。
温かな、液体。
これの名前を、奏太は知っている。
記憶を失ってから既に五年。その中で、二度だけ流したもの。
どちらともが、彼女と一緒にいる時に流れたものだ。
秘密基地で彼女に全てを打ち明けた時。彼女を失った時。
奏太の心の奥底に触れたのは、いつだって蓮だった。
——本当に、大好きだった。
「あのさ、奏太」
名前を呼ばれ、視線を頭上へと向ける。
先程まで奏太を見ていた梨佳は、今はこちらを見ていない。
彼女はどこか遠くへ呼びかけるように、遠い目をしていた。
しかしその瞳に迷いはない。
柔軟に真っ直ぐと進んでいこうとするような決意を秘めている。そんな気が、した。
それは多分、彼女が何を言うか、分かっていたからなのだろう。
「——あーしは、奏太に生きていて欲しいって、そう思う」
まただ。また、気を遣われている。
アジトで目覚めてからずっと、優しさをぶつけてくる。芽空も、梨佳も、フェルソナも。
「……なんでそうやって、優しくするんだよ。助けてくれるんだよ。俺が蓮の彼氏だったからか? だったらやめろ。俺はそんなの望んでないし、助けたって無駄なんだよ。自分だって曖昧な俺を助けたって、何の得もない。何の価値もないんだから。お前が優しいことは知ってる。だから、それを他の奴に——」
「————何勘違いしてんだ?」
他の奴に向けてやれ。そう言うはずだった。
だが、その言葉は梨佳によって妨げられる。
「あーしは優しくないし、そもそもあいつの彼氏だからって助けたりなんてしねーよ。勝手にあーしを決めつけんな」
女性にしてはやや粗っぽいその口調が、激しさを増す。
それが怒りゆえのものかどうかは分からない。
だが、
「なら、どうして」
「あーしが奏太を助けたのは理由がある」
拒絶、とは違った。
みっともない本音をさらけ出して、再び勘違いを露見させて、見限られたものだと思っていたのに。
梨佳は二本指を立て、言う。
「まず一つ目。あーしは前に約束してたんだ。あいつ——蓮と」
約束。
奏太にとっての始まりはその言葉だった。
梨佳と蓮にとっても、それが最初だったのだろうか。
「……なんて、約束を」
「——奏太が困ってて、蓮が助けられない状況なら、あーしが助ける。一度だけな。それがあーしと蓮がした約束」
「一度だけ……?」
「そ、一度だけ。奏太が目覚めた初日だ」
「でも、ちょっと待てよ。初日だけっていうなら、それ以降は……」
確かに彼女の言葉を信じるのなら、初日は何度も気を遣われ、助けられた。これは事実として見て間違いはないだろう。
だがそれにしては妙なことがある。
初日以降。二日目から今日に至るまで、彼女は約束もなしに接してきたということになるのだから。
納得のいかない奏太に対し、梨佳は言った。
「それ以降は、あーしがそうしたいと思ったからだよ」
「なんで」
「決まってんだろ? あーしが気に入ったからだ。お前だってこうやって傷ついて、苦しんでんのに、みんなを助けてくれた。それが気に入った」
ひどく、単純な理由だ。
蓮と交わした約束が効力を失ってもなお、変わらず奏太を助けてくれたというのだ。
それはありがとうと、感謝を言うべきなのかもしれない。芽空と同じ優しさだったのだと、喜ぶべきなのかもしれない。
けれど、素直に受け取るには足りないものがあった。
何故なら彼女は勘違いをしているのだから。
「それは俺のおかげなんかじゃない。蓮がいたからだ」
「……どういうことだ?」
「俺は蓮と約束したんだよ。みんなを幸せにするって。——そんなの、俺なんかじゃ絶対に無理なことなのに」
だからこそ奏太は、彼女に縋った。
蓮ならこう考える。蓮ならこうする。
そうやって積み上げたのが、無責任な約束の山だ。
それを全て崩して自分一人だけ死のうなんて、あまりにも自分勝手だと自分でもそう思うけれど。
けれど、そうでもしなきゃハクアを倒すまで耐えられるなんて、思えなかったから。
「だけど、それでも助けられたんなら……それは、蓮のおかげだ。俺は何も出来ないから」
ようやく止まった涙を拭い、梨佳を見つめる。
彼女はどうやら驚いているようだった。
当然だろう。今の今まで、自分を突き動かしていたものがまやかしのものであると分かって、ショックを受けないわけがないのだから。
非難がいつ飛んできてもおかしくない。
そう判断し、瞳を伏せようとして——、
「————っ!!?」
突如、額に衝撃が走った。
意識外から飛んできた痛みに、奏太は一瞬驚き、呆然とする。
そんな奏太を起こすかのように、後頭部に当たっていた梨佳の太ももが一瞬持ち上げられ、その反動で頭が跳ねる。それが二度、三度。
「……何するんだよ」
「ばーか」
どうやら、先の鈍い痛みは梨佳によるものだったらしい。
有り体に言えば、デコピンを食らったのである。
訳が、分からない。
そんな奏太の心境を察したのか、梨佳はにっと笑いを浮かべて言う。
「もう一回言うぞ。奏太はバカだ。お前、本気でそう思ってんのか?」
「思ってるよ。だって、蓮がいなかったら一人で立つことなんて、出来ないんだから」
「だから死ぬってか」
「そうだよ」
「じゃあ言ってやる。それは間違いだぞ、奏太。お前がどんだけ蓮のことが好きでも、お前はお前だ」
奏太はそれをすぐさま否定——するはずだった。
しかし、出かけた言葉は喉で詰まり、出てこない。
「何があったかあーしは知らないけどさ、最近芽空が明るくなったのも、ユズとユキが勉強始めて色々変わってきてるのも。フェルが楽しそうなのも、みゃお——葵が、少しずつ心を開いてきてんのもさ、全部奏太がやったことだ。そんで、希美が外に出てきたことも。知らなかっただろ? あいつ、奏太が話すまで誰の言葉も聞かなかったんだ。……あーしの、言葉も」
最後の言葉は、彼女にしては珍しい憂げのあるものだった。
彼女の言葉が真実なら、奏太は希美にとっても、梨佳にとっても、大きなことをしたと言えよう。
けれど。けれどそれでも、奏太の心は晴れはしない。
首元のネックレスに、縋るように触れる。
「——信じ、られねえよ」
止まっていたはずの涙は、再びその姿を現した。
それがどうしてなのかは、分からない。
理由も分からないのに流れ出るなんて、本当におかしなものだ。
こんな自分だから、何も出来ないんだ。無力なんだ。
中途半端に歳だけとって。
中身は何も成長しちゃいない。蓮に出会ったあの時から。
いいや、むしろ弱くなった。
だって、彼女がいなければ信じられない。彼女の言葉がなければ、自分なんて信じられないのだから。
たとえ世界に溶け込むための演技でも、昔の方がずっと強かった。確かに苦しい日々だったけど、それでも一人でやっていけていたのだから。
「……蓮は、自分を忘れて俺に幸せになれって言ったよ。でも、そんなの無理だ。一人じゃ自分なんて信じられないし、人としての蓮が忘れられたこの世界で生きて行ける、そんな自信もない。だって、そんな世界で幸せになったら、俺もいつかは蓮を忘れる。…………そんなの、嫌だよ」
涙は次々と溢れ出てきて、嗚咽が混じる。満足に呼吸することすら、ままならない。
ぐちゃぐちゃになった顔で、頭上の梨佳の顔も見ることは出来ない。
沈黙する彼女が何を思って奏太を見ているか、分からない。
だからこそ、
「————花言葉」
彼女の声が、心の奥深くに届いたのだろうか。
「花、言葉……?」
「そのネックレス」
涙でぼやけた視界の中、梨佳が奏太の首元を指すのが分かった。
そこにあるのは、蓮からもらったネックレス。
互いに送り合った、ネックレスだ。
「あいつ、よく花の話しててさ。いくつか覚えてんだよ。——その花は勿忘草って言って、花言葉は真実の愛と、もう一つ」
——私からの宿題。次会う時までには調べておくこと!
蓮は、そう言って微笑んでいた。
ほんの、小さな約束だった。
けれどそれは、もう叶うことなんてなくて。
調べる意味も、伝える相手もいない。だから無意識の内に避けていたというのに。
「——私を忘れないで」
瞬間、何かが弾ける音がした。
「……なんで、蓮はそんなこと」
声が、震えるのを感じた。
「そんなの簡単な答えだろ。何より、奏太が一番よく知ってることだ」
彼女の言葉に、震える全身を抑えて言葉を紡ぎ出す。
「好き、だから」
「そういうこった。蓮は最後まで奏太の事を信じてたんだよ」
——あの時蓮は、奏太を信じていたのだ。
彼女は分かっていた。
奏太にとって蓮がどれだけ大切で、彼女がいなければ一人で立てない事を、知っていた。
なのに、奏太の為を想って言ったのだ。
嘘をつかず、嘘を嫌った彼女が、最後に本心を隠してついた優しい嘘。
忘れられてしまうなんて、それは彼女自身の幸せじゃない。
けれど奏太が苦しむより、忘れられる方がずっと良いと、そう決断して。
そしてもし花言葉を知った時、本当に彼女が望んでいたのは忘れてもらう事じゃないと、奏太に分かってもらうために。
蓮は、奏太を信じていたのだ。
「…………っ!」
「————奏太が幸せになれないって言うんなら、あいつが望んだ幸せを叶えてやれよ。そうすりゃ、幸せになれるから。蓮はいつも言ってた。——私達が世界に恐れられてても、いい人はたくさんいる。だから私は人も『獣人』も、みんな幸せにする……ってな」
「でも、それで満たされたら俺は蓮を……っ!!」
「忘れねーよ。お前は蓮の為にみんなを幸せにする。蓮から教えてもらった事、全部を抱えてさ。幸せになったらなったで、蓮にこう言えばいいんだよ」
優しい声色だ。
蓮とは違うと分かっている。言葉は乱暴だし、デコピンだってされた。
けれど、ちゃんと蓮の姿を梨佳は見ていた。人としての蓮も、『獣人』としての蓮も。
忘れられてなんて、いなかった。
梨佳はいつかの彼女のように、その表情に慈愛を秘めて、微笑んだ。
「——ありがとう、ってな」
彼女の言葉に、すぐ返せる言葉は出てこなかった。
だからこそ一度に留まらず、何度も深呼吸を繰り返す。
ここが現実なのだと自分に言い聞かせるように、酸素を深く取り込む。
涙をぬぐって、鼻をすすると、世界が見えた。
微笑む梨佳の顔は、何か嬉しいことでもあったのか、先程よりも頰が緩んでいて。
長く倒していた体を持ち上げて、彼女に背を向け立ち上がる。
それから頰を何度かペチペチと叩き、笑みを浮かべて、振り返った。
「————梨佳」
「……んだよ」
「————ありがとう。難しい事ばかりだけどさ、やってみるよ。……蓮に、ありがとうを言う為に。蓮が信じてくれた、俺を信じて」
一時は白と繋がった、奏太の黒の世界。
愛に触れて、孤独ではなくなって、徐々に変わりつつあった色。
白が失われて再び純粋な黒となった世界は、ひどく苦しく、悲しかった。『怒り』だけが満ち満ちていて、辛かった。
けれど黒は思い出した。かつて白と繋がっていたことを。
世界は変わる。黒から白へ。
蓮が望んだように、奏太の世界は色を変えた。