第二章22 『崩壊の序曲』
「——心持ち、かい?」
「ああ。『トランス』は人と動物を融合させるものだから、ひょっとしたらって、葵が」
「ふむ…………」
あれから朝食と『トランス』の稽古、勉強の復習に付き合った。
昨日の一件があったとはいえ、半月続けてきたことだ。そう簡単にやめるわけにはいかない。
それに、フェルソナの話ではどうやらしばらく使っていないと鈍るとの事なので、あまり期間は空けないようにしたい、というのが奏太の意思でもある。
ともあれ、フェルソナの部屋に来て、制御について聞こうというわけだが——、
「それにしても奏太君。君も意地悪な人だね。『トランス』をするというのなら、僕を呼んで欲しかったな! 例の治癒速度の速さや、君の能力の全容、元々は『怒り』で発現していたこととの関連性に加え、僕はそもそも君が『トランス』をする姿を見ていないし、異質な君の能力の一つ一つをじっくり観察したかったというのに!」
「ごめん、冗談でも何でもなく、素で忘れてた」
「……そうか。確かに君は今を生きる若者。青春を駆け抜ける若き生命体だ。ここに来てからまだ一ヶ月も経っていないというのに、戦闘員の子達とはすっかり馴染んでいる君は、本当に楽しいのだろう。毎日、毎時間、毎回の誰かとの遭遇が新鮮で、それでいてどこか懐かしさすら覚えるような感覚。僕にも、そんな時期があったよ。高校のことは覚えてはいないけれど、ね」
「いつも思うけど話が長い」
「すまないね、癖なんだ」
ぺこりと頭を下げるその仕草に対して、反省していないのか声色は全く変わっていない。
とはいえ実際のところ彼にストレスを感じるかと言われれば、特にそんなこともない。大事な話の時はちゃんと質問に答えてくれるし、日常会話はほとんどふざけているので多少聞き逃していても問題はない。
もっとも、奏太の性格上無視は出来ないので、基本的には最後まで聞いて、結局冗談かよとなるのだが。
「それで、さっきの質問はどうなんだ? 心持ちのこと」
「——奏太君。一つ、いいかい?」
「いいけど、どうした?」
相変わらず素顔を隠している鳥仮面から響く彼の声には、それまでと違い、わずかな変化があった。
どこか遠慮がちというか、申し訳なさそうに彼は言葉を発したのである。中々に珍しいその声色に思わず首を傾げて、
「今から僕が話すのは仮定の話だ。先日の僕達を取り巻く環境についての考察とは違い、判断材料が本当に少ない。その上での回答になるけれど、それでもいいかな?」
「このアジトで『獣人』や『トランス』に一番詳しいのはあんたなんだから、いいんだよ。それに、大人の意見でもあるし」
奏太の言葉にフェルソナは軽く顎を引き、
「ありがとう。それでは——結論から言うと、『トランス』は自身の心持ちに密接に関係しているだろう」
あっさりと肯定してみせる。
あくまで可能性の話とは分かっているが、胸の内に希望の花が咲くのを感じた。
だから、
「その根拠について、教えて欲しい」
浮つき、逸る気持ちを一度抑えて、研究者である彼に遠慮なく理由を問う。
奏太が改善のきっかけを見つけられるというのならその根拠を、そして彼は聞かれたら答えるだろうが、何よりも彼は話したいという欲が強い。
故にそれは、両者にとって欲を満たすためとも言えるのだから。
「ああ、構わないとも。じゃあまず君は、『トランス』についてどう考えているだろうか?」
「どうって……生まれつき体の中に眠る力、的なものじゃないのか」
「そう、その通りだ。厳密には異なるもので、それについて君と言葉を交わしたいところではあるけれど、今は話が逸れてしまうから置いておくとしよう。——それじゃあ奏太君、君は進化論について知っているね?」
「えっと……元々は海から生物が生まれて、それをベースに徐々に派生していったた結果現在に至る、っていうやつだよな」
中学、高校と学んできたことなので、難なく答える。
理科系の科目は際立って得意というわけではないが、それでも並の学生よりかは出来る方だ。
とはいえ、進化論の内容は極々簡単なものなのだが。
彼は奏太の回答に何度か頷くと、
「うんうん、その通りだ。進化論に沿って生物を見ていくと、進化を重ねるごとに人間という存在は本来の動物的本能とは別に、理性を獲得した。それは脳の制御装置であり、判断能力の素となるものだ」
「あれ、そもそも今まで考えたことなかったけど、『トランサー』は一体どういう扱いになるんだ?」
「おっと、僕の前では『獣人』という呼称でも大丈夫だよ。……それにしても、良いところに気がつくね、奏太君は。ちょうど『獣人』についても触れようとしていたところだよ」
「そうか、なんかごめん」
「いや構わないさ。僕は素顔を晒すのは恥ずかしいけれど、話すのが好きだからね。どうしても話が長くなってしまう。そうやって君が色んなことに気がつき、話を進めてくれれば、君が知りたいこともすぐに教えられる」
先ほど話が長いといったことを気にしているのだろうか。その声色にはやや悲壮めいたものが感じられて、軽く笑みを浮かべる。
というかそもそも彼は冗長的な話し方を直す気はないのだろうか。教えてもらっている立場である以上、さすがに文句は言えないが。
「さて、話を戻そうか。先ほど進化論の話をしたけれど、実際のところ『獣人』を現在の人類——つまり新人の進化と捉えるには不明瞭な部分がいくつもあるんだ」
フェルソナは一度区切り、三本指を立てて言う。
「その代表的なものは大きく分けて三つ。個人によって能力の種類が違うこと。現代の動物の力が人の身に宿り、それを『トランス』によって引き出せること。そして——」
彼の言う不明瞭な部分とは、いわばあるべき進化の歴史を、人の理を外れた者たちが異端であるという証明そのものだ。
何の因果からそんな異端種が生まれたのか。そもそも、これが進化ではないというのならどう説明をつければいいのだろうか。
——分からない。謎は深まるばかりだ。
そして、眉を寄せる奏太に追い打ちをかけるように、フェルソナは言った。
「——現在『獣人』は、年齢が十八歳以下の者しかいない、ということだ」
「…………え?」
十八歳はちょうど奏太の二つ上の学年にあたり、高校へ進学したものであれば三年生だ。
確かに今まで奏太が出会った『獣人』は同年代か年下かのどちらかだったが、それにしてはおかしなところがある。
それは、
「——ちょっと待て。それなら、あの動画の『獣人』はどうなる? 確か、見た目は俺達とそこまで変わらなかったはずだ。もしあのまま生きてるっていうんなら——」
「僕もそれを疑問視していたんだよ。『獣人』の少年少女と会うたびに情報を伝っていこうとしたけれど、得られた情報はあの『獣人』の行方が未だ知れず、彼の出現以降数年の空白を置いて君達が現れた、ということだけさ」
「……じゃあ動画の『獣人』が現れたのはいつだ? 確か、HMAが今も追ってるって聞くけど」
フェルソナの言葉に、思わず緊張が募る。ぼんやりとしていた情報が自分の中で整理されて、そこに発生する違和感の数々。
それを拭い切れずに、質問ばかりを繰り返してしまう。
声色までもが変わってしまった奏太に対し、フェルソナは至って冷静で、平常時と何ら変わった様子はない。
確かに奏太は知らない事ばかりだが、彼にとっては幾千、幾億もの蓄積された情報を摘まみ取り、分かりやすく砕いて話すだけに過ぎないが、それでもどこか不気味な何かを感じる程に、彼はいつも通り過ぎた。
「動画の投稿自体は今からちょうど八年前さ。ただし、あくまでこれは投稿された時期の話だ」
「つまり……出現時期とはズレがある、と?」
「あくまで可能性の話だけれどね。そもそも、HMAが今も彼を追っている、というのが世間の認識でも、本当は既に捕らえ、滅ぼしている可能性だってあるんだ」
「って、そんなわけないだろ。そんなことして何のメリットがあるんだよ」
彼の発言に思わず笑みをこぼすが、フェルソナの態度は一貫として変わらない。
それに気がついたのは、言って直後のことだ。
「——奏太君、君はこの組織ラインヴァント以外の『獣人』の組織を知っているかい?」
妙に低く出されたその声には、それまでに感じられなかった威圧感のようなものを感じる。
眉間のあたりに鈍い痛みが広がって行く。急に喉が乾き始め、潤いを求めるためにすっかり冷めたコーヒーを勢いよく口に含むと、それを見たフェルソナは何かを察したのだろうか、言葉を続ける。
「あったのさ。過去にはいくつもの組織が。HMAの手によって情報は隠蔽され、世間には一切公表されていないけれど、ね」
「あった、ってことはまさか……」
「ああ。奏太君の察している通り、滅ぼされた。君の知っているハクアを含めた、『トレス・ロストロ』と呼ばれる幹部達と——」
「藤咲華によって、か」
HMAの幹部『トレス・ロストロ』と藤咲華。
その名前を出した鳥仮面の下の素顔は、恐らくいつもとは異なる複雑な表情が広がっているのだろう。
それ程までに彼の声は苦々しく、少なからぬ因縁があることが分かる。
ここに来る前の彼は、別の組織に属していたのだろうか。あるいは、別の何かがあるのか。
いずれにしても、背筋が寒くなるようなその雰囲気にはとてもではないが踏みこめる気はしない。
と、思っていたのだが。
「そういうわけさ。世間ではHMAは英雄の属する組織として知られているけれど、完全に信用していいかと言われれば、そんなことはないってこと」
突如からっとしたいつも通りの声色が戻ってきて、緊張が解けると同時、がくりと肩が落ちるような感覚に陥る。
「さて、大分話は逸れてしまったけど、改めて話を整理しよう」
「……ああ、頼む」
「まず『獣人』には総じて『トランス』の能力があり、その能力の強弱に関係なく個人によって何の動物かは変わる。これについては理解しているね」
「ああ。狐にウサギに蠍、ライオンにイルカに蝶……あたりか」
加えて、芽空のあの透明化。あれは一晩経って考えてみれば、カメレオンの同化、だったのかもしれない。実際にその姿を見たことはないが、どうやら景色に溶け込んで擬態するのだとか。
それならば納得がいくのだが、昨日の様子を見たが故に真偽を確かめたいとは思ってはいなかった。
とはいえ仮に確かめていたとしても、口外しない、というのは一切変わらないのだが。
「それと、これは葵君に聞いているだろうか? 『トランス』の制御が不慣れな者の感情——特に負のそれが高ぶると、発現してしまうことがあると。実はこれが確定ではないにしても、大きな判断材料になっていたりするんだが」
「ああ、そういえばそんなこと言ってたな……」
決して無駄な話はなかったとはいえ、最初からこれだけ言っていれば話が妙な方向へ向かうこともなかったのではないだろうか。
そんな奏太の心境にも気づかず、フェルソナは続ける。
「そしてそれらは『トランス』という、人間と動物を同化させるような形で君達の体の中で共存を図っている。それ故に『トランス』は本能が一致する瞬間——つまり、心持ち次第で変わる可能性がある、というわけさ」
「本能……か。今までに二回『怒り』で『トランス』発動してるけど、確かにどっちも理性的、ではなかったな」
「それに奏太君は欠如していたこともあるからね。君は人よりも感情の振れ幅が大きいのだろう」
「いやあんたもだろ」
奏太は短く息を吐いて、話の終わりを自身の体に実感させる。
フェルソナも長く話していて喉が渇いているのは想像に容易い。が、意地でも仮面を外したくないのか、何度かチラチラとマグカップの中身を覗くだけで、決して飲もうとはしなかった。
彼にも何かしらのこだわりがあるのだろう。奏太の前で、コーヒーが飲みたいということだけを口にすればいいのに。
年長者なんだか、よく分からない人なんだか。
奏太はすっかり緊張の解けた口元を緩めて、
「……じゃ、俺はそろそろ行くよ。ありがとう、フェルソナ」
「なに、感謝される程ではないとも。それに、僕の意見が確定事項だというわけでもないのだしね。しかしながら、君の悩みの改善に少しでも役に立てたなら何よりだ。そうそう、今度『纏い』……と言うんだったかな。『纏い』を発動させる時は、是非とも僕を呼んでもらえるとありがたい。なに、強制ではないから、君の気が向いたらで構わないよ」
「思いっきり呼んで欲しそうな声してるけどな」
笑いを漏らして、椅子から腰を上げ、彼に言う。
「それじゃまた明日にでも試してみるから、その時にな」
言った直後、目の前の鳥仮面から喜びの声が上がったのは、言うまでもない。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「あれ、ユズカとユキナはともかくとして、梨佳までいるなんて珍しいな」
フェルソナとの質疑応答から数時間。奏太と芽空は食堂へやってきていた。
先日葵の作ったアクアパッツァという料理を奏太は知らなかったため、今日こうして葵の所へ教えてもらいに来た、というわけである。
普段から葵を手伝っているユキナや、気まぐれながらもその腕は確かなユズカがここにいるのも何ら不思議なことではない。
芽空はよく奏太と行動を共にしているし、違和感のない光景だ。
だが、今日に関しては梨佳がこの場にいた。
普段は友人と遊んでいて夕食前に帰ってくるか、あるいはユズカを連れ回して夕食前に帰ってくるか、はたまた希美と一緒にいて夕食前に帰ってくるか。
おおよそこの三つだ。いずれにしても夕食よりも前にアジトにいることはなかなかなかったのだが。
「まーな。今日希美とオケるつもりだったんだけど、部活で抜けられないっぽくてさ。って言ってももうすぐ帰ってくるだろうけど」
振り返れば梨佳は机の上で突っ伏し、ぐったりとしている。
ただしそれでも髪には気を使っているのだろう。巻き込まないように髪を指でどけつつ、退屈さに唸る。
「少林寺拳法、だっけか。なかなかマイナーな部活もあったもんだ」
「サバットやカポエイラに比べれば名は知れてる方ですけどね。……あ、ここで先ほどの具材と白ワインを」
言葉を返しつつ、葵はアクアパッツァの作り方を説明する。
会話と調理と説明、同時に頭を使っている割には動きに一切迷いがなく、慣れ故に考えるよりも先に体が動いている、そんな感じだった。
しかし、彼の作る料理は洋風の物が多いと奏太は思う。
お洒落、と言ってしまえば一言で終わるのだが、彼の家系に日本に移住して来た国外の人がいるのかも知れない。
それは今時不思議なことではないが、習慣や伝統、料理などはやはり受け継がれるもので、ある種の個性とも言えよう。
「お姉ちゃん味見しすぎじゃない?」
「だいじょーぶ! あ、メソラお姉さんも飲む?」
「飲むー」
「え」
隣では姉妹と芽空が鍋の前でわちゃわちゃとしていた。
姉妹と戯れる芽空の表情は以前と変わらぬ起伏の少ないものだが、時折柔らかな表情になる。それには少なからず昨夜のことが関係しているのだろうが、彼女は気がついているのだろうか。
「それから数分蒸し、最後に塩胡椒で味を整え、パセリをかけて完成です。どうです、簡単でしょう?」
「確かにそうだな。イタリアンってあんまり作らないから勉強してみるか……」
「それなら三人の部屋に本あるぞー」
「それを知ってる癖に、料理を覚えようとしないのはどうかと思うんですが」
顔をしかめて深く息を吐く葵に、悪びれもなくけらけらと笑う梨佳。
ここに希美、そして蓮が加われば、一体どれだけの幸福感を得られただろう。
蓮については、決して叶うことはない。届くことなどありはしない、儚い願いに過ぎない。
「————っ!」
そんな感情が、ふいに込み上げて来た、瞬間だった。
「どうしました?」
無機質な機械音と共に、視界に新たな情報が出現する。
眼前を見やれば、そこにあるのは着信中と書かれたアイコンと、操作ボタンだ。
デバイスは今も起動されたままで、もちろん通話に出ることは可能なのだが、
「——ごめん、ちょっと電話出てくる」
ただ一つ、不可解な点が一つだけあった。
電話をかけて来た相手、というのが希美だということだ。
確かにメールアドレスを交換して以降、何度かメールを交わし、電話番号も交換していたのだが。
「…………」
わずかに目を細めた葵の視線から隠れるように、部屋を出て行く。
一体何があって着信を受けているのかは分からない。だが、その何かを葵達に知られるのは、きっと彼女にとって望ましいことではないだろうから。
食堂から少し離れた廊下の曲がり角で、壁に背中を預ける。
そしてイヤホンを耳につけ、通話ボタンを押し——、
「もしもし、奏太だけど……どうした?」
『——奏太さん、よく、聞いて』
電話越しに聞く彼女の声は、いつもと変わらない無感情だ。
しかし、気のせいだろうか。冷え切ったその感情が、わずかに何か熱いもので燃えているような、そんな変化があったように感じたのは。
恐らくは、次に彼女から発せられた言葉が原因で、そう思ったのだろう。
何故なら——、
『今、ハクアが、ラインヴァントの、アジトへ、向かってる』
奏太にとって、憎むべき因縁の男。その名前が、彼女の口から発せられたから。