第二章17 『不恰好で、確かな一歩』
何度目だろうか。
深く息を吐いて、鼓動の調子を整えるのは。
目の前にあるのは、重い扉。けれどそれは奏太が手を伸ばし、取っ手を掴んで引いてやるだけでいとも簡単に開いてしまうもの。
それを妨げているのは、臆病な心だ。
扉の先には芽空がいる。
先程の怯えを彼女は今も抱き続けているのだろうか。
仮にそうだとしたら、奏太には何が出来るのだろうか。
理由を聞き出すこと? いいや、きっと違うはずだ。
何も直接答えを求めることだけが全てなんかじゃない。蓮はどれだけ自分が苦しくても、怖くても、奏太のことを信じた。
ならば奏太に出来るのは、きっと。
「…………よし」
再び息を吐く。今度は短く、浅く。
そして意を決し、扉を開いて——、
「————あれ」
開いた先、芽空はベッドの上で眠っていた。
その瞼から垂れたのであろう涙の跡を、残しながら。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
よくよく考えると、このベッドは元々芽空の物である。
何故か成り行きで奏太が使用することになったのだが、どうして彼女は自分のベッドを譲ったのか。
今朝、奏太が起きた頃には同じベッドで本を読んでいたあたり、愛着がないわけでも、何かベッドに思うことがあるわけでもないと思うのだが。
実は男が女の子のために自分のベッドを差し出す展開に、彼女は憧れていたのだろうか。
いつも読んでいる本が実は少女漫画で、それの影響で……いや、ないな。
となると、理由として考えられるのは、あの時の微笑みだろうか。
昨日の夕方、葵にこてんぱんにされ、次に目覚めた後のこと。鳥仮面に驚き、続いて梨佳と芽空が来た。
その際、意識がなかったとはいえ、芽空のベッドを借りていたことを知り、彼女に確認を取ったのだ。
そして芽空は、
『大丈夫だよ』
そう言い、微笑んだ。いつもの間延びした声や、起伏に乏しい表情が消えて、そこには人形でなくなった可憐な少女がいた。
慈愛に満ちたあの声は、一体何だったのだろう。
いつもの調子を忘れ、メルヘンの国に心が飛んでいた人形が現実に回帰し、意志を持って動き出したように。あるいは、臨死の世界をさまよっていた少女が生を取り戻したように。
彼女が確かな感情をその表情に見せた瞬間はこの二日間で二度あった。
残りの一つは、奏太の部屋で。
感情が高ぶったからなのか、自分の調子を崩してまでどうにかしたい何かがあったからなのか。
多分きっと、後者なのだろう。
——いや、後者であればいいなと、そう思う。
そしてそれが彼女の優しさ故のものであったのだと。
苦しむ奏太を助けたいと、彼女がそう考えていたのなら。
ひどく、都合の良い解釈だ。未だかつて、それを体現して見せた女性は蓮しかいないというのに。
ただの妄想であり、いつかは砕け散るような幻想かもしれない。世界は決して奏太の都合の良いようには出来ていないし、蓮のいない今、そんな希望を抱くのはいけないことかもしれない。
けれど、それでも芽空が奏太の心を癒してくれたのは事実なのだ。
ラインヴァントの面々や、ケバブ屋の店主がくれたものとは比べ物にならないくらい大きな、甘やかな感情。
それを優しさと言わずして、何と言おうか。
向けられた優しさに何が出来るか、何を返せるか。その方法をもう、奏太は知っている。
「…………ん、ぅ」
ベッドに腰掛け、眠る芽空を見守っていると、それまで静かだった彼女が寝返りを打ち、声を漏らした。
そのせいだろうか、体がもぞっと動いて、徐々に彼女の体が覚醒を始める。
「……そ、た?」
閉ざされていた瞼が開いて、碧眼が姿を現す。
芽空は寝ぼけ眼をくしくしと擦ると、そのまま体をゆっくりと起こした。
「おお、おはよう。無理に起きなくても、寝てて良いんだぞ」
「んー……? だいじょぶだー……よ」
寝起きに弱いのだろうか。いつにも増して瞳に光がなく、ゆらゆらと体を揺らしている。
返事もぼんやりとしており、とても話が出来る状態ではない、そう思って彼女を寝かしつけようとして——、
「————そーた?」
やけにはっきりとした芽空の声が、奏太の耳に届いたかと思えば、ようやく目の前の状況が飲み込めたのだろうか、彼女は何度か瞬きをして、ベッドの端に身を寄せた。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「え、えーと……」
「…………」
沈黙。
ベッドの上で向かい合った奏太と芽空の間には、重くどんよりとした空気が流れていた。
理由は至って簡単で、話しかけようにも、壁にもたれた彼女がクッションに顔を埋めたまま顔を見せないからだ。
「……浅漬けまだ残ってるけど食べるか?」
浅漬け、という言葉にぴくりと彼女の体が動く。
もちろんここにはない。食堂まで取りに戻らなければならないが、話を進めようにもこのままじゃどうしようもないなら、ひとまず餌で釣るしかあるまい。
そう考えると、犬か猫の『トランス』が似合いそうな少女である。
いや、何も獣耳が好きであるとか、そんな趣味を奏太が持ち合わせているわけではない。
ただ、日がな一日ごろごろして怠けていたり、浅漬けという餌に食いつきそうになる様を見ていて思っただけである。
「そっか、いらないか。じゃあ浅漬けはユズカにでも……っていうのは冗談で、俺は伝えたいことがあったから、言いに来たんだよ」
ふざけるのも程々にして、ひとまず本題に入る。
少なくとも、さっきの反応で奏太の話を聞いてくれる気があることは分かったから。
芽空は一体どうして顔を見せてくれないのか。その理由はきっと、単純に気まずい、というやつだろう。
あんな別れ方をしてしまった以上、頭がぼうっとしていた寝起きはともかく、誰でも変な感じが湧いて来て、普段通り話すことが難しいのだから。
加えて、奏太の存在を認識した瞬間、彼女が逃げ出したり、あるいは拒否を示さなかったのも理由の内だ。
もっとも、今のこの状態を拒否と言われてしまえば返す言葉もないのだが。
「芽空がさ、なんであの時……その、怯えてたのか、俺は分からないんだ」
「…………うん」
たった二文字の短い相槌が一つ、返ってくる。
「本心では気になるし、珍しく芽空があんな顔をしたことに、驚いてる。俺にどうにか出来ることならどうにかしたいって、そう思ってるんだ」
けれど、無理に聞き出そうとは思えない。
彼女がそれを望んでいるとは限らないのだから。望まぬ事を強いたところで、後で両者ともに辛くなるだけなのだから。
もし、奏太が器用で、どんな相手や状況にでも上手く立ち回れるような人間だったら、聞き出し、すぐにそれを解決へと向かわせるだろう。
しかし奏太は、不器用なのだ。
以前蓮に、誰からも嫌われていない、と言われたことがある。
信じる信じないを抜きにして、仮に事実であったとしても、あれは誰からも愛されていた蓮とは全くの別物だ。世界も自分自身も分からなかった奏太が、苦し紛れに被った仮面。
自分でも知らず知らずのうちに、嫌われないように、世界から除け者にされないように振舞っていたのだ。
本当の奏太は、蓮がいなくては一人で立つことすらできない、弱虫なのだから。
それ故に、奏太の取る選択肢は一つ。
「でもきっと、芽空は言いたくないか、言えないのどっちかなんだよな。——なら、俺は言う。俺は芽空が言えるようになるまで待つよ。迷惑かもしれないけど、俺は芽空の事が知りたいから」
「————」
再び沈黙が訪れた。
クッションに顔を埋める芽空に、これと言った変化はない。
伝えるべきことは伝えた。
とはいえ、ここまで言っておいて、期限が来てしまえばお別れなど、ひどく残酷な事をするものだと自分でも思う。
しかし今奏太が知りたいと思うのは、紛れも無い事実なのだ。未来でどうするか決めていようとも、それは変わらない。
蓮ならば、好意を隠そうとしないはずだから。
「————そーた?」
沈黙を破る、声がした。
芽空はクッションを自身の膝の上に置き、その顔を見せる。
いつもの、人形のように整った容姿だ。長い睫毛にガラス玉のような碧眼。
観察でもされているかのようにじっと見つめられるその瞳には、いつもと違う点が一つ、あった。
「……芽空」
彼女は幾筋、涙を流していた。
いつからこうして彼女が泣いていたのか、奏太には分からない。
けれどきっと、クッションに瞼を押し付けて必死に堪えていたのだろう。
「あのね、そーた」
「————うん」
「私を知りたいって言ってくれてありがとう」
芽空に、いつもののんびりとした様子は見られない。
決して悲観しているわけではないその口調と表情が、ひどく印象的で。
「それからね、ごめんなさい。そーたが知りたがってるなら教えたいんだけどね、私まだ勇気が出ないんだ」
いつもの平坦で間延びした口調とは異なり、感情のこもった声だ。
先の奏太の発言が彼女にこれだけの影響を与えた、ということなのだろう。
「だから……待ってて、そーた。いつかね、必ずそーたに話すから」
何度でも言おう。芽空のその涙は、決して嘆き悲しむようなものではない。
ある感情で満ち足りたその表情は、決して悲しみなどではない。
その感情の名は、喜び。
彼女は喜び、微笑んでいた。
「…………分かった。約束、だ」
その微笑みを正面から受け止めて、小指を差し出す。
一方で涙を拭う芽空は、奏太のそれを不思議なものを見るような目でぽかんと見つめ、
「そーた、何これ?」
「あれ、知らなかったか。指切りって、言うんだ。ほら、手貸りるぞ」
「あっ」
芽空の手を取り、互いの小指を絡める。
そして、
「じゃあ復唱、指切りげーんまん嘘ついたら針千本飲ーます、指切った! はいっ」
「え、えーっと、ゆ、ゆーびきりげーんまん? 嘘ついたら針千本のーます、指切ったっ」
珍しく動揺した芽空は、たどたどしくそれを復唱した。
今日は彼女の知らない顔ばかり見ている気がするが、それ程までに奏太は彼女に歩み寄れていなかった、と言う事なのだろう。
だとしたら、これは一歩目。
分かっているつもりだった数時間前とは、もう違う。
芽空を知っていくための、確かな歩みなのだから。
「あ、今のは約束を破ったら針を千本飲ますって誓いの言葉だ。あれ、げんまんってなんだったかな……」
「誓い……」
芽空がぽつり、と小さく呟いた次の瞬間、奏太は息が詰まるような衝撃を受けた。
ほんの、一瞬の出来事。
切った指をじっと見つめる彼女は、どこにでもいる普通の少女のように表情豊かに笑った。そう、見えたから。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「ねえ、そーた?」
「どうした?」
あれから、互いの心中が落ち着くと、奏太はお風呂に入った。
初日は大浴場を使わなかったため、二日目こそは、と思っていたのだが、さすがにとっくに日付が変わってしまっているこの時間帯から大浴場を使うわけにもいかず、渋々部屋のものを使用することに。
とはいえ、少なくとも奏太のマンションの浴室よりは断然広く、シャンプーやリンス等も芽空の話を聞く限りではかなりの高級品で、本来文句を言う程の事でもないのだが。
「今日は一日、お疲れ様ー」
明かりを消して真っ暗になった部屋に、間延びした声が響いた。
声の主はすぐ側、隣にいる。
彼女は今日だけ、と言ってベッドに潜り込んできたのは良いのだが、平然を装ってもやはり緊張してしまう。
恋愛感情を抱いていなくても、隣に年頃の少女がいれば当然である。
とはいえ、互いに何かするわけでもなく、ただただ天井を見つめて話すだけなのだが。
「芽空も今日、朝からありがとな。……色々と、助かった」
首元のネックレスに触れる。蓮からもらったものと、蓮から手渡されたもの。
これらがなければきっと、奏太は今ここにいなかっただろうから。
「どういたしまして、だよー」
芽空が付き添い、部屋で渡してくれなければきっと、受け取れなかっただろう。
——ちゃんと浅漬けでも作って、お礼しなきゃいけないな。
そう思い、唇をふっと緩めると、
「ねえ、そーた?」
さっきと同じ言葉が飛んでくる。
ちらりと横を見やれば、芽空はこちらをじっと見つめていた。
暗闇の中でも、その顔ははっきりと見えるが、感情の起伏は残念ながらあまり見られない。
「どうした? 芽空」
体の向きを変えて、彼女に向き直る。
必然的に見つめ合う形になるが、ベッドの大きさに助けられたと言うべきか、それほど接近する事もない。
「待たせてる私に言う資格はないと思うんだけど、ね。……奏太のこと、話して?」
真剣な表情で、彼女は言った。
知りたい、と言った奏太の言葉がそのまま返ってきた形になる。
だから、
「……分かった。いつかちゃんと教えてもらうんだから、そもそも俺が話すのも当たり前だしな」
にっと浮かべた笑みは、彼女に届いているだろうか。
自然と、話すことに抵抗感はなかった。
考えてみれば、そもそも隠しているわけではないのだから当然といえば当然なのだが。
「————」
奏太は話す。記憶を失っていることを。家族のこと、学校のこと、秋吉のことを。そして——蓮のことを。
時折芽空は相槌を打ち、奏太の話に耳を傾ける。
全てを話した時、彼女は何を思うのだろうか。
何も、慰めや、励ましが欲しいというわけではない。確かに実際言われたら、多少なりとも心が揺れるかもしれない。揺れない、などと言えるほど、奏太は強くはないから。
ただ、知って欲しいと思ったのだ。彼女には、芽空には。
そうして全てを話し終え、いつの間にか奏太は眠りについていた。
深く深く、何かに包まれるように。
暗闇が広がっていたはずの眠りの世界で、一筋光る何かが、通り過ぎた。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
隣で眠る奏太は、安らかな寝息を立てていた。
そういえば、昨日も、一昨日も、彼は苦しそうに眠っていたような気がする。
「……そーたも、大変だったんだね」
彼の人生の一部始終を聞いた。人生の六割が空白というのはひどく辛い感覚だと思う。
それに、蓮を失くしてしまったことも。
多分きっと、自分が思っている以上に、隣で眠る彼は蓮のことで苦しんでいる。必死に、隠しているだけで。
本当に、彼は自分の好きな人を大事にしているのだと強く伝わってくる。ラインヴァントのみんなも、芽空も、蓮も、皆に対してそうなんだろう。
そう考えるだけで、胸がきゅうっと苦しくなる。
何か自分には出来ないのかな、と。
受け身でいるだけでは、いつか取り返しのつかないことになるような、そんな危うささえ彼にはあるから。
「私に、出来ること……」
自分の手は小さく、ちっぽけだと思う。彼に対して気を遣っているつもりだけど、ひょっとしたら彼は迷惑だと思っているかもしれない。
でも、もし彼の苦悩を取り除く事に繋がるのなら、絶対にやめない。迷惑なんて、考えない。
その上で、出来ることを探そう。
蓮のことが好きで、蓮からも好かれていた彼を。みんなを大事にしてくれる彼を、笑顔にするために。
「——おやすみ、そーた」
明日は何を話そう。
明日はどんなものを見せてくれるのだろう。
笑みを浮かべて、芽空は瞳を閉じた。