第二章16 『その理由』
一体、芽空はどうしたというのだろう。
「————さん」
彼女は怯えていた。
理由は分からない。梨佳や希美の『トランス』状態を目の当たりにして一喜一憂し、感動する奏太を見たせいなのか。
だとしたら、どうして?
理由を考えようとしても、結局同じ疑問に当たってしまう。
彼女の何がそうさせるのか。
元々彼女は、『トランス』を見せることに了承していたはずだ。
フェルソナに聞かれ、声には出さずとも頷いていた。それはこの目でしっかりと見ていたし、その時点での芽空には怯えなどなかった。
「——太さん」
それがふいに変わったのは二人が『トランス』を見せた後。
何の因果関係があるというのだろう。
そもそも奏太にとって芽空は妹のような存在だった。
蓮に向けるものとは決して違う感情を彼女に対して持ち、それは今も変わっていない。
それ故に、近しい距離でありたいと、手の届く範囲であってほしいと、そう思っていた。実際に、ついさっきまで彼女の事をたった二日だけでよく分かっていると、そう思っていた。思っていた、はずなのに。
急に彼女のことが分からなくなった。
一体、どうすればいいのだろうか。分からない。
こんな時彼女なら——、蓮なら、どうするだろうか。
「————奏太さん!」
淀みのない高い声が耳に届いて、現実に引き戻される。
慌てて声の方向を見やれば、そこにいたのは葵だ。
彼の隣にはユズカとユキナがおり、そのどちらもが奏太を見て首を傾げていた。
「……あ、ごめんごめん。ちょっと考え事してた」
「ソウタおにーさん、お腹でもぎゅるるって壊した?」
「いや大丈夫だ。って、それで壊してたら俺が作ったご飯が原因みたいだな」
「お、お腹を壊すなんてとんでもないです。ソウタお兄さんの作るご飯は本当に美味しかったですし、壊れるわけありませんよ!」
冗談交じりに言った言葉を全力でフォローにかかるユキナ。彼女は顔を真っ赤にして首を振っていた。
芽空もこのくらい分かりやすかったら、良かったのだろうか。
意味のない仮定だと分かっているのについ考えてしまう。
あのままの芽空が良いと感じていたはずなのに仮定を生み出してしまうのは、やはり先程の彼女の怯えを見たからなのだろう。
「…………奏太さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫だって。さ、始めるぞ。文字の勉強」
仕切り直しの意味を込めて、何度か手を叩いてみせる。
それでもなお葵の怪訝な表情は続く。だが、彼に話したところでどうにかなるような問題でもないのだ。
きっと、奏太が芽空と直接話すことでしか、どうにもならない類のもの。
それに、葵には別案件で話したいことがあるのだ。これ以上彼に負担をかけるわけにはいかない。
そうして、自分を奮い立たせるように、頰を何度か軽く叩いた。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「ソウタおにーさん、何これ?」
ユズカが指差すのは、机にいくつか置かれた、小さな冊子に簡単な文字と絵が描かれたもの。
所謂絵本だ。日本古来から伝わる昔話や童話を子どもでも読みやすいようにしたものであり、本来は幼児が読むためのものである。
「これは絵本っていうんだ。二人は聞いたことないか?」
「あ、私聞いたことあります。確か、文字と絵でお話が書いてあるって……」
「そうそう。しばらくはこれを読めるように練習しようかな、と」
「しかし、どうして奏太さんがこんなものを? 確か一人暮らしをしているんですよね。もしかして、わざわざ買ってきたんですか?」
ちらりと葵が視線を向けた先、そこにはダンボールが開かれていた。
中には残りの絵本やクレヨンが入っている。
遡ること数時間前、芽空とともに物置部屋で再び眠ろうとしていたところを発掘してきたのである。
そもそも、使う機会に困って奏太の部屋の押入れに収納されていたものであり、まさかこんなところで役立つとは思わなかった。
「いや、自分でも未だに理由は分からないんだけど、これは下宿始める前に親父にもらったもんなんだ」
今考えても、一体どういう考えで奏太に渡したのか。大きな謎である。
「父……ですか」
ぽつりと葵は呟く。
苦い顔をして言ったその頭には、彼の父親——ケバブ屋の店主が浮かんでいるのだろう。
結局聞くことは出来なかったが、何らかの理由で彼ら親子は別居状態にある。
店主と別れた直後葵に聞いた話によれば、店主に蓮のことを伝えたのは葵であり、葵に奏太の居場所を連絡したのは店主であるのだという。
その際店主は、奏太が悔恨に打ちひしがれていたことを言ってはいなかったようだが、それでも葵は察していた節があった。恐らくは元々、学校へ行けばああなるのだと分かっていたのだろう。
それについて思うところがないわけではないが、一旦置いておくとする。
彼らの会話の調子を考えても、明らかに親子の仲が悪いというわけではない。だからと言って、思春期特有の親離れなどで別居するとも思えなかった。
何が彼らをそうせしめたのかは分からない。分からないが、少なくとも会える距離にいるのであれば同居すべきではないかと、奏太は思う。
自分にとって大事な人がいつ失われるかなど、本当に直前にならなければ分からないこともあるのだから。
「————」
ふいに、何か単純な見落としをしているような、そんな感覚が訪れた。
しかし単純なはずのそれはもやがかかったように一向に姿を現そうとしない。
そのため、短く息を吐いて、ひとまずそのモヤモヤを振り払う。
先程葵にも大きな声を出させてしまったくらいには、この勉強会に集中出来ていないのだ。
自分から提案しておいてこれでは、今度こそ怒られてしまうだろうから。
「——よし、じゃあ本格的に勉強始めるぞー」
物珍しそうに絵本の中身を覗く姉妹二人に声をかけ、気分を入れ替える。
いくつも分からないことはあるけれど、まずは目の前のことからだ、と。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「頭の中がぐるるするー……」
「文字ってぐるぐるしてるの多いんですね……」
絵本を見ていた時の元気は何処へやら。姉妹は揃ってため息を吐く。
小学校の教育を覚えているのが葵だけであるため、とりあえずひらがなを一通りやってみようという流れになったわけだが、どうやら中学生手前の歳の少女達でも、理解は難しいらしい。
奏太達が英語という母国外の言語を覚えるようなものとは違い、書くだけなので簡単かと思っていたのだが、よくよく考えてみればそんなことはなかった。
この国では一部の例外を除いたほとんどの子どもが学校に通っているため、文字を言葉に出したり、書くことも当然容易である。
だが、『獣人』が現れる前の日本国外では、貧困のために学校へは通えなかったが、ユズカ達のように、言葉を発することは出来ても、書くことは出来ないという者が、少なからずいたのだとか。
その者達は改まって文字を勉強しようとすると、なかなか思うようにいかず、苦労をしていた……という話を、中学生の頃特別講義で聞いたことがある。
ユズカ達はまさに今その状態なのだろう。頭ではその言葉を知っているはずなのに、書こうとしてもその姿を書き表わすことは出来ない。
それはひどく、むず痒い感覚なのだと思う。
もっとも、世界各国の避難民達が日本に来て以降、言語が英語と日本語のみに絞られているだけ、奏太達を含めてまだマシな世代ではあるのだが。
それでもこの調子では、英語どころか日本語でさえしばらく時間をかけなければならないだろう。
そう判断して、
「二人ともお疲れ。一応明日も同じ時間にやるけど、昼間に復習できそうか?」
「……奏太さん。残念ですが、間違いなくユズカの頭がパンクします。ユキナならともかく」
「みゃおみゃおの言う通りだよ、ソウタおにーさん……。アタシの頭はもう限界だよ」
「ダメだよお姉ちゃん。ソウタお兄さん達が教えてくれてるんだから、ちゃんとやらないと」
小さい子どもに勉強を教えることなどしてこなかった男二人にとって、優等生の如く真面目なユキナの発言は思わずじーんと来てしまうものがある。
とはいえ加減が分からず、初日からひらがなを一通りやるなどという無茶をした奏太と葵にも、責任はあるのだが。
「うぅ……分かったよー」
その声には明らかな不満の音色があるが、妹の手前あーだこーだと騒ぎ立てられないのだろう。ユズカは渋々頷いて、復習の約束をする。
「……あっ、そうだ。頑張ったら俺か葵が好きな物を作る。これでどうだ?」
「はい、やりますやります! アタシ頑張ります!」
「ユズカ、態度変わりすぎです」
何かやる気にさせるものはないかと考え、思いついたことを言った直後、満面の笑みと耳がキーンとなるような元気な声がユズカから飛んでくる。
これが飴と鞭というやつだろうか。食べ物、恐るべし。いや、この場合食べ物に関心の強いユズカの方が恐ろしいというべきか。
「あ、あの…………」
「ん? どうした、ユキナ」
全力で食への興味を示すユズカに対して、おずおずと手を上げるユキナは姉と同じ空色の瞳を揺らし、言う。
「え、っと……その、私だけ我儘なことを言うんですけど。た、食べ物じゃなくて、お願い事一つ、聞いてもらってもいいですかっ!」
今にも沸騰して消えて無くなってしまうのではないかというほどに、顔から首元まで真っ赤に染めたユキナはぺこっと頭を下げた。
奏太から見て、彼女はやや遠慮がちな少女だと思っていたのだが、元々は恥ずかしがりながらも、自分の意見はちゃんと言える子なのかもしれない。
ただ、たまたまの偶然とは言え、彼女を緊張させてしまう程の恩を作ってしまっただけで。
奏太自身、自分がやったことにそれほどの価値を感じてはいないのだが、夢見がちな年頃の少女にとってはよほど大きなことだったのだろう。
いつかは現実に気づき、距離を置かれてしまうような気がするのだが。
ユキナの尊敬と感謝を素直に受け止めることはできないが、それでも願いを聞き届けるくらいのことはしてあげたいと、そう思う。
故に、
「俺で出来ることなら、何でも。さすがに限度はあるけど……」
「わぁっ、ありがとうございます!」
ユキナがもはやどうにでもなれの精神に見えるのは奏太だけだろうか。
補足を求めようにも、兄代わりの葵は興奮するユズカをなだめるのに精一杯で、こちらに構っている余裕はなさそうだった。
「ま、とりあえず今日はこれで終わり……かな」
ユズカもユキナも、覚えることは大変だとは思うが、明日も明後日も、こうやって笑ってくれるのだろう。
そしてきっと、不器用な奏太と、姉妹想いの兄代わりの葵は、それを見て微笑みを浮かべるのだ。
口元をふっと緩めて、ユズカを、そしてユキナを見て——、
「…………?」
ある一点、彼女の手首で目が止まった。
ユキナは手首に特別珍しいものをつけているわけではない。可愛らしく小さな手だ。
しかし、何かが引っかかった。
それは記憶のどこかに眠っている映像。奏太は彼女の手首に関わる何かを覚えている。
いつのことだったか。彼女は確か、手首と何かを何度も交互に見て目尻に涙を浮かべていたような、そんな気がする。
何かの始まりと終わり、その瞬間だったはずだ。
そもそも、少女を初めて見たのは——、
「……あ」
————そうだ、思い出した。
動物園だ。動物園の前でユキナを見たのだ。
手首とハクアへ交互に視線を移し、怯えていた。『獣人』だと怪しまれ、もう逃げられはしないのだと分かった瞬間の表情。
それを見て、蓮は飛び出していったのだ。
自分の正体をさらけ出すことを躊躇わず、ユキナの為に彼女は飛び出していった。
果たして、また同じような場面に遭遇した時、奏太は蓮のように動いてユキナを助けられるだろうか。
「————」
恐らく、昨日目覚めたばかりの奏太ならば分からない、と答えただろう。
しかし、今は違う。
奏太はユキナの事を知っている。彼女だけではない。ユズカに葵、フェルソナに梨佳。そして、希美と芽空。彼女たちを、奏太は知っている。
たった二日ばかりの付き合いだ。しかし奏太は蓮のように、皆と約束をした。蓮が守りたいと思った者達と。
奏太にはもったいないくらい、個性豊かで、優しい面々。彼らと交流を深められる期間も、そう長くはないはずだ。何故なら、もう奏太は決めてしまったから。
そうする事でしか、自分の心が持たないと、そう思っているから。
一部の者との約束は、破ることになってしまう。
だが、それでも。
それでも、一人ではきっと立てなかったであろう奏太を、立たせてくれた面々だ。結果的にはそれで間違った方向に進んでしまったかもしれない。
けれど、もう一度一つのことを為すくらいの気力を、彼女達はくれた。
だから、彼女らの為に、彼女らを守る為に誓おう。
————ハクアを倒して、この世界を去る。
そうして、彼女の元へ。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「稽古……ですか」
「ああ。フェルソナに聞いたんだ。葵は蓮から教えてもらって『トランス』の制御が出来るようになった、って」
姉妹を部屋に残して、男二人は廊下に出ていた。
時刻を確認してみれば、もう二時間もしないうちに日付も変わってしまう所まで針が進んでいたことに驚く。
それ程長く勉強会を開いていた、ということだろう。
「——ボクは構いませんが、奏太さん。一つだけ問います。その理由は何ですか?」
来るであろうとは思っていたが、実際にその質問をされると言葉に詰まる。
回答を用意していなかったわけではないし、考えもまとまっている。
欺瞞を口にするのは奏太の性分に合わない。
故に、
「……ハクアに仇討ちをしたい、って最初はそう思ってたんだ」
「最初は?」
「そうすることで救われると思ってたし、実際救われるかもしれない。——でも、今はそれだけじゃないんだ」
ハクアを倒して、希美が望む幸せな世界を作る。それはほんの小さな一歩だ。そこで命を終わらせるつもりの奏太は、ひどく自分勝手だと思う。
だけど、
「HMAの幹部がどれだけいるのかは分からない。けど、少なくともユキナは、ハクアに死ぬほど怖い思いをさせられた。俺はこの目で、それを見た」
「…………それで?」
「ユキナはまだ安心し切れない。いや、ラインヴァントのみんなだってそうだ。いつまたあいつに襲われるかなんて、分かりやしない。だからこそ、俺は戦えるだけの力が欲しい」
仮に『トランス』をまともに扱えるようになったところで、ハクアの命を奪うには至らないかもしれない。
しかしそれでも、やらなければならないのだと、そう思う。
「だから、頼む。俺に『トランス』を教えてくれ」
沈黙があった。
頭を下げて頼み込んでいることで、頭上の葵の表情は見れない。彼が今、何を考えているのか、その欠片すら掴むことは出来ない。
奏太に出来るのは、ただただ待つことだけだ。
「————顔、上げてください」
どれくらい経っただろうか。数秒、数分、数十分かもしれない。
沈黙が破られ、葵は言った。
「仕方ありませんね。ボクに負けたあなたが使い物になるとは思えませんが、わざわざこのボクが直々に、教えてあげましょう」
「手厳しいな」
ため息交じりに言う彼に、苦笑する。
思えば、出会った時から彼はひどく上から目線で、本音をぶつけ、一度は彼と戦闘を交えもした。
しかし、そんな彼だからなのだろうか。
どうしても憎めず、対等な立場でありたいとさえ思う。
「昨日のトレーニングルームを覚えていますか? 明日の朝、あそこで稽古を始めます。……って、何です?」
握り拳を作り、それを持ち上げて彼に手の甲を向ける。
じっと見られて、ようやく葵は奏太の意図に気がついたのだろうか。
深く、とても長いため息を吐いた。
彼は心底嫌がっているのか、照れているのか、それとも呆れているのか。
——少なくとも、一つ目ではないのだろう。
何故なら、
「よろしく頼むよ、葵」
「せいぜい頑張ってください、奏太さん」
葵も同じように手を差し出したからだ。
そうして、互いの甲をぶつけ、笑みを交えた。