第二章14 『故意の喪失』
「やあ、奏太君。この広いアジトの中も少しは慣れただろうか」
フェルソナに案内されて部屋の中に入ると、いかにもな風景が目の前に広がった。
何が書き記されているのか分からない文書の山に、積まれた本。 普段から使用していると思われる、壁に設置された黒板。
声色が弾み、恐らくは仮面の下で満面の笑みを浮かべているであろうフェルソナは、そんな部屋を見せつけるようにその場でくるりと回って見せる。
「時々麻痺しそうになるけど、俺は目覚めてからまだ二日だぞ。そんな簡単に慣れないよ」
「安心するといい。僕もここに来て相当な年月が経過しているが、未だに自分の部屋の外は迷うことが多く、芽空君達に助けられてばかりだよ。いや、何も方向音痴というわけではないんだ。ただこのアジトが広いことと、僕に覚える気がないだけであって」
「いや覚えろよ。ここで何年生活してるのか知らないけど」
「世界は広く、迷うことばかりだ。どこにだって壁は存在するし、その度に僕達は立ち止まる。そこで回り道をしても良いが、それは逃げるのと何ら変わりはしない。次に同じ壁に出会った時、もう逃げないと吠えることは大変難しい。だからこそ、立ち向かわなければならない。一人では無理なら、誰かの手を借りて。……だろう? 奏太君」
「…………そうだな。うん」
「まあそんな他愛もない話は置いておくとして、腰掛けるといい。立ち話が好みならば君に合わせるが、僕個人としては座って話したいところだ」
「いや、多分立ち話したいって言う奴は相当の変わり者だぞ。少なくとも俺はそうじゃない」
冗談を交えた会話を交わすのは程々にして、勧められるがままに、予め用意していたのであろう回転式の椅子に腰掛ける。
壁際に大きなソファが置かれているが、あれは後で三人が来た時にでも勧めればいいだろう。
フェルソナは奏太が座ったことを確認し、一度大きく頷くと、作業机前の椅子にかけてあった白衣を掴んで身に纏う。
その姿を見ていて、
「……フェルソナは素顔晒さないのか?」
ふいに疑問が湧いた。
というのも単純な話、鳥仮面の男が白衣を着ているというシュールな光景が、どうにも気になって仕方がないのだ。
思わず、吹き出しそうになるのを堪える程には。
歴史の教科書か何かでこのような姿を見たような気がするが、あれは何だったか。
「奏太君は僕の素顔が見たいのかい? 気持ちは嬉しいのだが、断らせてもらうよ。ああ、でも自分の容姿が気に食わないとか、世間に顔を晒せない重要人物であるとか、それらのような理由ではないんだ」
「……つまり?」
「所謂照れ屋さんなのさ」
もし、この状況に効果音をつけるとするならば、ぽかーんだろうか。それ程までに素っ頓狂な返答が来て、思わず耳を疑った。
それは実に彼らしくもない、思春期の女の子のような発言だったからだ。
「ほんとに?」
「ああ、本当だとも。普段の僕からは想像がつかないかもしれないね。疑うのも無理はない。しかし受け止めてもらいたい。僕が頑なに皆の前で仮面を外さないのは、仮面の下の素顔で人と話すことに強く照れを感じるからなんだ。元々は女性相手のみだったんだが、いつの間にか男性も加わってしまっていたらしい」
「ごめん。聞いちゃいけないこと、だったかな」
「いや、そんなことはないとも。女性を苦手とすることにきっかけはあったが、男性に関しては、僕の意思と無関係に、時間の経過によって勝手に発生したものに過ぎない。世間一般ではコミュニケーション障害と呼ばれるものがあるが、そのような類のものなのだと思って軽く考えてくれればいい」
「……そっか、分かった。あ、フェルソナ。もう一つだけ聞いていいか?」
フェルソナが単なる面白鳥仮面でないと分かり、奏太の内にはおかしなことに、動揺と同時に不思議な安心感が湧いていた。
彼にも自分と同じように弱いところがあるのだと判明したからなのだろうか。何とも自分本位な心根だ。
今までややぞんざいに扱っていたことを申し訳なく感じた部分は少なからずあった。あったはずなのに、安堵が上回っている自分にひどく嫌気がさす。
「僕が答えられることであれば答えるが、どうしたんだい?」
「本題からずれてるのは申し訳ない。けど、一つだけ。——五年前に記憶を失ってる、って言ってたよな。あれについて詳しく聞きたいんだ」
このアジトに来た初日のことだ。
葵にこてんぱんにされ、目覚めた後に彼の口から聞いたそれは、まさしく運命のいたずらとも言えるほどの偶然の一致。
奏太と同じ五年前に、記憶を失っているという事実だ。
あの時は聞こうとしたところで梨佳か来てしまったため、話を中断せざるを得なかった。
だが、今なら。
「————これは偶然だね。ちょうど僕もその五年前に関わる話をしようとしていたんだ。君の質問への回答を含め、順を追って話していくとしようか。——奏太君、一応確認をしておくけど、君は五年前に記憶を失ったことと『怒り』に関連性があると睨んでいた、そうだね?」
「そうだ。今になって考えてみたら、不自然過ぎたんだよ。物事の許容量は他の人よりかは多いと思ってるけど、それでも日常生活の中で一度も『怒り』を感じないなんて、明らかな欠如なんだ」
他の誰にでもあるはずの感情だ。
日常生活ではよっぽどのことがない限り怪しまれることもない、当然の感情。
「そしてそれは、記憶を失った直後——十歳の時から一度たりとも医療機関に引っかかっていない」
ほんの十数年前であれば、これは何ら違和感のない発言であったかもしれない。
歴史の教科書によれば、過去の日本は今と比べると医療技術が相当に劣っている。ましてや、病院にでも行かない限りは、怪しまれることなど絶対になかったはずだ。
「引っかかっていない……か。デバイスの開発成功以降、医療技術が格段に発展したこの日本においては、医療の目を掻い潜り、精神病を含めた病や怪我を隠し通すことは難しいだろう。僕達のように、世間から隠れて生きている存在を除けば、ね。となると、僕の推測はどうやら正しかったらしい」
いつにも増して真剣な声を出すフェルソナだが、ふいにその仮面の内で笑みが浮かべられるのが分かった。
言葉尻がやや楽しげなものに変わったからだ。
一体何を推測していたのかは分からないが、少なくとも彼にとってはあまりにも興が乗ることなのだろう。
息を呑んで彼の言葉を待って、焦らされるような沈黙が数秒続いたのち、フェルソナは言った。
「————どうやら僕と君は、故意的に記憶を失わされたようだ」
「…………は?」
「驚くのも無理はないだろう。しかし聞いて欲しい。まず判断材料としては——」
「待て待て、ちょっと待った!」
推測の理由を説明しようとするフェルソナを手で制止し、問いかける。
「故意的にって、どういうことだ? そんなことして、一体何の得があるっていうんだ。誰がやったのか、目星はついているのか?」
「いや、分からないとも。何か重大なことを知ってしまったからなのか、それとも単なる実験の為の犠牲なのか。いずれにせよ、僕達が同じ境遇である、ということは間違いではないと言っていいだろう」
考えてもみなかったことだ。
医療技術が発展したとはいえ、記憶を取り戻させることは難しい現代では、当然奏太の記憶も戻ることはなかった。
そこには何の疑いもなかったし、疑ったところで虚しくなるだけだとさえ思っていたのだ。
しかし、ここにきてそれが一気に反転した。
「話を戻そうか。判断材料はいくつかあるけど、一つ目は記憶を失った時期と、その範囲だ」
フェルソナは人差し指をピンと立て、言う。
「範囲?」
「ああ。これは僕の話になるんだが、失った時期に関しては五年前、君と同じだ。しかし、失われた範囲は君とは違い、高校生の時から五年前までの間なんだ。つまり、その部分だけが僕の記憶から抜け落ちている、というわけさ」
「それだと、同じ境遇じゃなくて単なる偶然って線も出てくるんじゃないか?」
「そうだね。そこで二つ目だ。君が『怒り』を取り戻したように、僕はかつて『欲望』を取り戻した。そして取り戻す前には、事あるごとに頭の中で鈴の音が鳴り響いていた。……覚えはないかい?」
「ある、あるよ。『獣人』って言葉に触れる時、俺は何度もその音を聞いた」
思い返せば、何度もそれはあった。集会や件の動画を見ている時。蓮を失い、『怒り』を取り戻す時。
一体、記憶と何の関連性があるのかは分からない。しかし少なくとも、曖昧だったフェルソナとの共通点が、一気に具体的なものとなった。
そして、それと同時に浮かび上がってくる疑問と困惑。
「ふむ? 僕は奏太君のように言葉で鳴り響きはしなかったが、それはまた別の機会に考えるとしよう」
「それで、今のが二つ目ってことはまだあるんだよな」
「ああ。あるとも、最後の三つ目が。……君は『怒り』と同時に『獣人』としての力を取り戻した。これを明らかな違和感を捉える、というのは間違っているだろうか?」
「——まさか」
「そう、そのまさかだ。僕は君が記憶と『怒り』、それから『獣人』の力を封じ込められていた、と見ている。君の『怒り』の欠如と『獣人』の力は今まで一度も公的機関に危険視されなかった、という事からもね。——いや、厳密には記憶は別かもしれないな。なにせ、君の『獣人』の力は全て『怒り』をトリガーとして発動している。……そうだろう?」
その質問には、一切の不安の色が見えない。
事実、状況整理をしてみれば至極当然の結論であり、奏太自身それに納得していた。
一体どんな仕組みかは分からないが、蓮を失ったあの時に奏太は確かな『怒り』を得て、それによって『獣人』へと姿を変えたのだ。
だがフェルソナの出した結論によって、今度は先程の疑問が再び湧いて出てくる。
「確かにそうだ。でも、改めて言うけど、一体誰が何のために? どう考えても、誰かが得するとは思えないんだ」
故意的にやった、ということであるのなら、一体何の目的があったというのか。
五年前というと、既にその頃には『獣人』の恐怖が世界に蔓延している頃だ。
目的も分からない『ダレカ』がわざわざ『獣人』の奏太を見逃すのだろうか? 封じ込められた、というからには奏太の正体もまるっと分かっていたはずである。
ならば、HMAにでも突き出せば謝礼金が弾み、並の人間であればひどく喜んだはずだというのに、どうして。
奏太の言葉を深く考え込むように、フェルソナは顎下に手を置いて沈黙する。
「……ごめん、さっき分からないって言ってたよな」
「なに、構わないとも。君はまだ悩み多き年頃だ。そんな君に新たな疑問を突き出してしまうことには、申し訳なさを感じているよ」
「いいや、むしろ俺はお礼を言いたいくらいだよ。モヤモヤしてた考えがまとまってきたし、それに自分と同じ境遇のやつがいるんだって思うと、少し気が楽になった」
とはいえ、確かに以前より疑問が増えてしまったのは確かなのだが。
それでもある程度情報を得て、整理したことで前よりかは進展したと言えよう。
「そうかいそうかい。それなら僕も考え、話した甲斐があるというものだ。もっとも、僕自身は疑問を解決し、新たな知識を得ることにしか興味がないと言っても過言ではないのだけど、ね」
「それはそれでかなりの変態だな、あんた。——さて、と。これで話も終わりか。いやでも、あいつらを呼んだってことはここまでが半分……だよな?」
「うん、その通りだ。すまないが奏太君、彼女達を呼んできてはくれないだろうか? 君が戻ってくるまでの間にお茶でも入れておくから」
「…………分かったよ。つまりフェルソナじゃ道に迷って、あいつら呼びに行けるか分からないから頼んだよってことだろ? いいよ、呼びに行ってくる」
それを肯定し、ひらひらと手を振って見せるフェルソナをじとっと見つめつつ、椅子から立ち上がり扉に向かおうとして、
「あ、奏太君はコーヒーか紅茶、どちらがいいかな?」
「コーヒーで」
その質問にふっと足を止められたが、今度こそ歩き出す。
話し込んでいたから、彼女達をだいぶ待たせてしまっているだろう。
そう考え、歩く足を早めて外に出た。