第二章13 『平穏と夕食、それから』
「で、これは一体どういうことなんだ?」
「こういうことだよー」
広い室内に間延びした声が響き渡った。
今朝と変わらず部屋には大量のクッションがあり、そこに身を沈める芽空は自身の鶯色の髪に身を包まれながらも、ガラス玉のようなその碧眼でこちらをじっと見つめてくる。
それは一仕事終えた後の顔にはとても見えず、至って穏やかに怠けていた。
「あれだけあったのに服だけとか、マジックか何かなのか」
「手品見るー?」
「それはまた別の機会にするとして、机とかベッドあったよな。あれってどこいったんだ?」
部屋の端から端まで見渡しても、大きなタンスが一つ追加されたのみで、それ以外の内装には一切の変化もない。
タンスの中は奏太の衣服が入っているのみであり、引っ越す前はあったはずのその他の家具、日用品等の荷物は全て姿形を残さず消え去っていたのだ。
「物置部屋にあるよー」
「そんな部屋あるのかよ。初耳だよ」
物置部屋なるものがあるのなら、そもそも芽空と同室で生活をする必要はないのでは、と考えかけやめる。
服を除いた奏太の所持品がまとめて収納されたことに加え、物置、と呼ばれるからには元々相当に物が大量にあったであろうことが予想されるからだ。
そんなところで生活することを考えたらストレスがマッハである。
「まあ、この部屋の見た目考えると、俺の家具はあんまり合わないか……」
トイカラーで構成されるこの部屋には、茶色だの黒だの、暗い色ばかりの奏太の家具は合わないだろう。
実用性、利便性を考えればこの広い空間に置くべきなのかもしれないが、内装に少しばかりのこだわりを持つ奏太としてはこれで良いのだ。
もちろん、自分のものが置けないことに不満がないわけではないが、それは微々たるものに過ぎない。テレビは食堂に行けばあるし、音楽CDは全てデバイスの中に入っている。
そう考えると、日用品とは別に道具を必要とする趣味を持ち合わせていなかったことは、幸いとも言うべきか。
「あ、そうだ。芽空は引っ越しに立ち会ってたんだよな。押入れの奥の方に段ボールが入ってたんだけど、知らないか?」
「それも物置部屋にあるよー。後で持ってこようかー?」
「いや、自分で取りに行くよ。見えないとこでも色々助けてもらってるし……それに」
「それにー?」
「この二日間だけだけど、芽空は自分の為に時間を使うこと、少なかっただろ」
「————」
奏太の発言に対し、珍しく彼女は喉に何かが詰まったように言葉が出ないようだった。
芽空はクッションを海の中から一つつまんで取ると、それを抱えて顔を沈めつつちらりとこちらに目を向ける。
体のほとんどがクッションに、あるいは髪の毛で埋もれたことで、彼女を彼女だと認識できる部分が極端に少なくなる。
そのうち、普段よりも見開かれた碧眼だけが彼女の心中を察する唯一の材料だ。図星なのか、あるいは的外れで素っ頓狂な言葉を口にされて、驚いているのか。
いずれにしても、奏太のかけたい言葉は一つ。
「お返し……っていうには、まだまだ時間がかかるけどさ。自分の好きなように、時間を使ってくれ」
「…………奏太は今からどこいくのー?」
「夕飯作るから食堂だけど、なんでまた?」
「じゃあ私も行くー」
「別に気遣って無理に付き合わなくても————」
「私の好きなように、なんでしょー?」
「いや、まあ……うん。そうなんだけど」
有無を言わせぬその言葉の強さに、思わずたじろぐ。
奏太なりの気遣いのはずが、いつの間にやら芽空のペースにはまっていた。
一体彼女の何がそうさせるのか。確かに奏太からすれば、彼女と話しているのはどこか気が楽になるような気がして、心地が良い。自然と笑みがこぼれて、ついついふざけていたくなるくらいに。
そしてそれは、蓮に今も抱いている想いとは違う。何かもっと別の関係でありたいと、そう思えるようなものだ。
しかし結局のところ、それは奏太だけが考えていることだ。芽空の本心は別にあると思っているし、彼女が恋愛感情を持って接してきているとは、とてもではないが思えなかった。
「早く行かないと、遅くなっちゃうよー?」
「あ、ああ。そうだよ、な。……じゃあ行くか、芽空」
「出発進行ー」
いくら考えても、分かりそうにはなかった。
葵や梨佳ならともかく、奏太と芽空は、まだ出会って日も浅いのだから。向けられている感情の正体にも、気づくことは難しい。
けれど一つだけ、分かることがあった。この行動は彼女にとって楽しいもの、だということ。
何故なら、奏太の前を行く芽空の表情には、わずかに笑みが浮かんでいたから。
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「しかし、本当に料理慣れてるんだな……」
「そうかなー? そーたもみゃお君も丁寧で速いと思うけどー。きっと二人はいいお嫁さんになれるねー」
目の前では鍋がグツグツと音を立てていた。
中では根菜や動物の肉に、各種調味料が味をつけようと奮戦している。つまり肉じゃがである。
昨日が洋風づくしな品々であったため、今日は和風で返そうかと思っていたのだが、実際に八人分の夕食を作ろうとすると結構大変なものである。
芽空の手伝いがなければ今頃はどうなっていたことか。
手伝いを終えた彼女は現在、洗い物を終え、キッチン前の椅子に座ってクッションと戯れている。
「葵はともかく俺は花嫁になる気はない。というか誰がもらうんだよ」
「じゃあそーたが私でー、みゃお君がユズカかなー?」
「その場合花嫁の苦労と負担が尋常じゃないな。……ってあれ、葵はユキナや梨佳じゃないのか?」
「みゃお君はあれでユズカのこと結構気にしてるからねー」
「多分手のかかる妹的な感じだろ、あれは。まあでも……いつかは二人もそういう関係になるのか?」
少なくとも現在はそう見えない、が。
そもそもどちらかといえばユキナや梨佳だと思っていた奏太的には、芽空の思い描く夫婦像にはいまいち共感しかねるところだ。
「となると、希美は梨佳で、フェルソナは……相手なしだな」
「フェルソナだからねー。ユキナはー、そーたの所へ嫁がせるのがいいかなー」
さらっと凄まじい事を言ってのける芽空。
それはつまり、男でありながら花嫁でもある奏太が、一回りも小さな花嫁を迎え、かつ女性である芽空に花嫁としてもらわれているということで、
「かなりややこしいことになってるな」
「あ、そういえばー、さっきのダンボールなんだったのー?」
話題が変わり、芽空が指差すのは、ここに来る前に物置部屋と呼ばれる部屋から持って来たものだ。
奏太の部屋の押入れで長い間使われず眠っていたものであり、今日必要になるものでもある。
 
「ああ、これは————」
ダンボールのそばに駆け寄り、ガムテープを剥がすと、中から現れたのは——、
「なるほどねー。だから必要なんだー」
「そうそう。昨日必要になるなぁと思ってたんだ」
奏太は笑みを浮かべ、再びダンボールの封を閉じる。
必要になるのは夕食後のことだから、せめてそれまでは眠らせておこう。もし万が一汚れたら面倒でもあるからだ。
「しかし、役に立つ時が来るなんてな……」
眼下の肉じゃがの火の通りを確認しつつ、ここにはいない人物に感謝するように、小さく呟いた。
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白い肌を朱に染めたユキナは、こちらを見上げて言った。
「そ、ソウタお兄さん! すごく美味しいです!」
「おお、ありがとう」
元々葵が作った献立表を元に材料を買ってきていたため、多少の制限はあったが、反応は上々でほっと息をついて安堵する。
これまでに食べさせた相手が数える程しかいなかったのも不安だったのだが、葵が辛口評価を下してこないあたり、ある程度の及第点を超えており、皆に提供できる程の信頼は得たと言えよう。
ちなみにメニューはシンプルに焼き魚、肉じゃが、野菜の浅漬けに、味噌汁、ご飯と卵焼きである。
フェルソナはその全てをゆっくりと味わい、何度か頷いたかと思えば、こちらを見て言った。
「奏太君はこれまでにも料理を作っていたけど、振る舞う機会は少なかったと見える。それ故に不安も抱いていたかもしれないが、安心するといい。君達の二倍は生きてきた僕でも満足のいく料理の数々だ。これからも芽空君や葵君達と共に励み、料理を頑張ってくれ」
「いや、フェルソナも作れよ」
「フェルソナさんは、スパゲティしか、作れない」
「結局のところ、奏太さんとボクが回すのが一番安定しているんですよ。改善の余地がある人は、直してもらうのが一番良いのですが」
葵がジロリと睨んだ先、梨佳は知らぬ顔をして食べ進めている。
インスタントしか作れない、と言うことは、マイナスから始まる者に比べれば簡単だと、そう言いたいのだろう。
フェルソナ同様、彼女もまた覚える気がなさそうな人物ではあるのだが。
「しかし——」
ちらりと、ユキナを挟んでユズカを見つめる。
ユキナの前に感想を述べて以来、一心不乱に食を進める彼女は、昨夜同様にかなりの量をその胃袋に入れていた。
昨日の食事に比べれば味は薄めであり、必要とする白ご飯の量は少ないはずなのだが、単純にお腹が空いているのだろう。味の濃い薄いは一切関係なく、ご飯がモリモリと食べられている。
「それにしても、ユズカはよく食べるな」
「んー? どうしたの、ソウタおにーさん」
「俺も食べる方なんだけど、ユズカはそれ以上だから驚いてるんだよ」
フェルソナや葵は見るからに細身であるため、食事量が少ないのはおおよそ察しがつく。実際、昨日の食事でもおかわり等はしていなかった。
たまに体が細くても食べる量が多い、などと言う人がいるが、もちろん二人がそれに該当することはない。該当するとすれば、この面々の中ではユズカぐらいだろうか。
「食べるのが好きなのか?」
「うーんとね、食べるのが好きなのと、お腹がぺここなの! それと——」
一瞬、胸を刺されるような痛みが走るが、すぐにそれは意識外に消える。
朗らかとしていたユズカの雰囲気が一転して、ひどく冷たいものへと変化したからだ。
「——生きるのに、必要だから」
思わず息を飲んだ。彼女の瞳や言葉には一切の遠慮と温かみもなく、それがユズカの発言とは思えなかった。
しかしその正体を確かめようと思っても時すでに遅く、ユズカはふっとその雰囲気を崩し、にこやかな笑顔をこちらに向ける。
「そんなことより、ソウタおにーさん、おかわり!」
その向けられた表情からは、直前の曇りも冷たさも、全てが消え去っており、子どもらしい無邪気な明るさがあるのみだった。
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「この後?」
「そう、この後だ。食事も終えたことだし、君はこれから葵君と共にユズカ君とユキナ君に文字の勉強を教える予定でいると思うんだ。しかしその前に、少しだけ時間を作ってはくれないだろうか? 君自身のことを含めて、話しておきたいことがあってね」
「ボク達は構いませんよ。大事な話である、と言うことは察しがつきますしね」
「まあそういうことなら、行くよ」
自身のこと、と言われてもいまいちピンとこないのだが、一体何の話があるというのだろうか。
今後の方針を初日で砕かれた身としては、代わりになるものが見つかればと考えているのだが、どうやらその手の話ではなさそうだ。
「ああ、それから芽空君と希美君にも暇があれば、時間を置いて来てもらいたいんだ」
フェルソナの誘いに対して、二人はこくりと頷いて了承するが、これまであまり会話に参加していなかった梨佳が口を挟んだ。
「……あーしはいいのか?」
「梨佳君も来てくれるのかい? 嬉しい限りだよ。とは言え、君も分かっているのではないかな。説明をするのであれば一人で十分に事足りる。賑やかしや見物として、という意味合いで言っているのであれば、むしろ来てもらいたいくらいであるけど、どうだろうか? いや、訂正しよう。補足としては君という人間が大いに役立つかもしれない。是非とも来て欲しい」
「来て欲しいのか欲しくないのかどっちなんだっつーの。まあいーや、後で希美達と同じタイミングでついて行くよ」
一瞬不穏な空気が流れたような気がするのは、奏太の思い違いだろうか。
この二人に限ってそんなことはなさそうであるのだが、どこか真剣みを帯びた声に読み取れない感情があったのは確かだ。
「なら今から芽空と食器洗って向かうから、部屋で待っててくれ」
そう言うと、フェルソナを始めとするメンバーがそれぞれ離席し始める。
ユズカとユキナにはやや待たせることになってしまうが、後でお詫びに何か持って行くとしよう。
幸いにも運び出された荷物の中にあった菓子類は、漏れなく物置部屋に置かれていたため、いずれは無くなるとしても数日は配っても問題ないはずだ。
「ねえ、そーた?」
二人だけが残った食堂で、ぽつりと芽空の声が響いた。
その声からは、感情がほとんど見えない。
「どうした?」
「あのお野菜あったでしょー?」
「野菜……? ああ、浅漬けのことか。浅漬けが何だ?」
「あれねー、とっても美味しかったよー。今度作りかた教えて欲しいなーって」
一体何を言われるのかと思えば、先程の食事で出した野菜の浅漬けのことだった。
記憶のある数年の中で、何度かしか作ったことはないのだが、どうやらそれが芽空には受けたらしい。
何も、特別な味を込めたりはしていないというのに。
「いいよ。結構簡単だから、すぐに覚えられるぞ……って、今まで食べたことなかったのか?」
「うん、ないよー。お漬物自体あんまり食べたことないんだー」
「うーん……よし! なら、時間はたっぷりあるし、俺も漬物改めて覚えてみるかな。味見は頼んだぞ、芽空」
「いいよー、任せてー」
穏やかに返されるその言葉は、わずかに上ずっており、興奮しているのが分かった。余程、浅漬けが彼女の中で大きな存在となったのだろう。
消え入るような声で、彼女は呟く。
「——約束ね」
こうして、夜は更けて行く。
空も見えず時間の感覚が薄れて行く中、穏やかな時を過ごすことがとても心地良く感じられた。
 




