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黒と白の世界と  作者: 夕陽ゆき
第二章 『忘却』
32/201

第二章11 『予期せぬ再会』



「————はッ」


 訳が分からない。


「なんで……ッ」


 嘘だと言って欲しい。


「蓮…………ッ!」


 誰しもを愛し、愛された彼女が、畏怖される存在となってしまったことを。

 奏太にも、それと同じ恐怖の目が向けられたことを。


「——嫌だ」


 否定したい。信じたくない。

 そう願っても、目の前の現実は決して姿形を変えることはない。

 世界から彼女が失われていく。忘れられていく、彼女が。人としての、蓮が。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



「こ、こは…………」


 前に、一度見たことのある景色だ。

 遠くには学生区の建物がちらほらと見える。そのどれもがキャンバスに描かれた絵のようで、ひどく距離感を感じられて。


「俺は……」


 いつの間にか、来てしまっていたらしい。

 半月程前に、彼女に連れられ、笑って泣いて、その果てに想いが結ばれた場所。

 辺りを見渡せば、幾つかの椅子があり、ソファーにテーブル、自販機があって。


「……蓮」


 足元がおぼつかず、何度も膝をつきながら、何とかソファーの上に横になる。

 頭の下にあったのは、確かな反発と生気のない温もり。

 いつしかここで横になった時は、もっと温かな生を感じられたはずだというのに。


 ふっと空を見上げれば、水色の膜越しに、どんよりとした雲が見え、今にも雨が降り出しそうだった。


 あの日の空は、もっと明るかったはずだ。

 晴れた空の下、陽を浴びた花のような笑顔を見せて、彼女は笑っていた。

 ふらっと手を伸ばしても、雲は掴めず、払うことすら叶わない。

 あの日の空も、あの時間も、帰ってこない。


 ——彼女は決して、帰ってこないのだ。


「約束、しただろ」


 かつて約束を交わした場所で、奏太は一人嘆く。

 誰にも届かないことを知っていても。言ったところで、どうにもならないことを知っていても。


 ——秘密基地と、そう命名した時はひどく楽しかったように思う。

 隣に蓮がいた。何年も自分が分からなくて悩んでいた自分を、彼女は認めてくれた。

 奏太が自分を自分だと認められるようになるまで、ずっと隣にいると、そう約束した。


 本当なら、今も続いているはずだった約束。

 それを彼女は謝った。約束を守れなくてごめんね、と。

 ひどく、身勝手だ。どうして一人だけ置いていくのか。こんなにも、こんなにも愛おしいというのに。


「幸せになんて、なれるかよ……」


 身に余る約束だ。

 みんなを幸せにして、奏太も幸せになる。そんなことなんて、出来るはずがない。

 蓮に触れて、蓮が隣にいて、ようやく掴めた幸せは、彼女を失って消え去ってしまったのだ。


「立てないんだよ」


 最初は小さな火だった。


 空っぽだった心に火が灯って、彼女の為に頑張ろうと、そう思えた。

 そうすれば、少しずつ自分が変わっていくような気がして、ひどく心地が良かった。


 それは蓮と出会う前とは違う、確かな熱だったはずだ。

 部活動に熱心になったり、明るく振舞っていた時の仮初めの物とは違う。

 今にして思えば、あれはただ皆の日常の中に自分はいると、思い込ませようとしていただけなのだから。

 『獣人』の恐怖は分からないけれど、きっといつかは自分を認められることにも繋がると、そう思っていた。

 そんな自分を騙さずに、ありのままの自分を認めて行こうと思えたのは、全て彼女のおかげだ。


 感謝していた。希望を抱いていた。蓮がいれば、ちゃんと立つことが出来た。

 それに、どうして雑音が生じてしまったのだろう。


「ハクア……」


 蓮が死んで、『怒り』を得た。『怒り』が憎しみを生んで、喪失感と悲嘆がごちゃ混ぜになって。

 理不尽を嘆いて、『怒り』をハクアに叩きつけた。決して彼女は戻って来やしないというのに。奇跡など、起きるはずもないのに。


 それが分かっていたからだろうか。

 最初は純粋だった想いが、いつしか依存に変わってしまったのは。


「一人じゃダメなんだよ」


 幸せになるには、蓮が必要だ。

 蓮がいなくては、ダメなのだ。

 蓮がいなければ、前を向くことなんて出来ない。出来ないのだ。


 もし、あの場で自分も死んでいれば、こんな感情を抱くことはなかったのだろうか。

 醜く縋り、戻りはしない過去に想いを馳せることなど、なかったのだろうか。

 

「約束、守れねえよ……ッ」


 蓮の死にはまだ向き合えないけれど、葵や希美達を幸せにするって、そう決めた時はすうっと気が楽になるのを感じた。

 芽空や梨佳、フェルソナ達の気遣いが本当に温かくて、いつかは蓮の死に向きあって、誰かを幸せにしていく内に自分も幸せになれるんだって、そう思い込もうとした。


 ——でも、ダメなんだ。

 忘れられない、忘れたくない。離れたくない。

 人としての蓮が失われて、恐怖を抱かれる『獣人』としての彼女だけが残った世界なんて、絶対に嫌だから。

 そんな世界で自分が幸せになってしまったら、きっと彼女は世界から失われるから。


 ——私を忘れて……幸せに、なってね。


 彼女は死に際にそう言った。

 了承などしていない、一方的な約束だ。それまでとは遠くかけ離れた、ひどく困難で儚く、残酷な約束。

 きっと蓮は、こうなることを分かっていたのだろう。だからこそ彼女は、奏太の為に言ったのだろう。

 一人では立てないのだと、死を嘆いてしまうのだと、分かっていて。

 もっと交わしたい言葉があったはずなのに、人の事を想って。

 そんな彼女を、奏太は——、


「忘れられるわけ、ねえだろ…………ッ!」


 その声は、誰にも届かない。ただただ、空虚な内から湧いて出た虚しい言葉だけが、宙を舞った。


*** *** *** *** *** *** *** *** ***



「…………蓮」


 一体、どのくらい空を見つめていただろうか。

 灰色のもやの塊にさして変化はない。変わらず、青色の割り込む余地すら与えず、見える限りの全てを覆っていた。


「————おい」


 そんな灰色の世界にぼんやりとした何かが差し込まれた。


 淡く黄色い光だ。

 太陽の光にしてはあまりに頼りなく、弱々しい。

 なのに今は、それすらもひどく眩しく感じられて、思わず片目を閉じた。


「————聞こえてんのか」


 一体どこから声が響いているのだろう。


 とても間近から声がする。天からの使い、というやつなのだろうか。

 もしそうなら、願ったり叶ったりだ。一度は虚勢をはって見せた心も、もう擦り切れてしまったのだ。

 蓮の死にはまともに向き合えず、世界から蓮を否定され、今度は自分まで。

 そんな世界を歩くのも、知っていくのも、もう疲れた。


 約束なんて、最初から守れなかったのだ。理由は簡単だ。弱いから。弱かったから蓮を守れず、何も変えられず、一人で立てない。

 だからもう、天の声に身を委ねて、死んでしまってもいいじゃないか。そうすることで、救われるはずだから。全てが消えれば、もう悩む事も苦しむ事もなくなる。なくなるのだ。


「——おい!」


 一本筋でしかなかった思考に、ノイズが走った。

 ありもしない幻に身を委ねようとして、現実に引き戻される。

 一体どういう事かと、重たい頭を動かして原因を探ろうとすると、すぐにその正体が分かった。

 胸倉だ。胸倉を掴まれ、半身が宙に浮いている。

 そして、奏太を掴んでいる人物は——、


「————ようやく目覚めたか。カヅ坊」


「おっ、ちゃん……か? なん、で」


 そこにいたのは、ケバブ屋の店主だ。

 淡黄色の髪をかき上げ、鋭い目つきでこちらを睨んでくる。


「なんでも何もあるか。とりあえず座り直せ」


 掴まれていた胸倉が急に離され、鈍く背中を打つ。

 下がソファーだった事もあって、多少緩和はされたものの、戻ってきたばかりの意識では、それが強く痛んで感じられた。


 店主はそんな奏太をちらりと見やったかと思えば、近くにあった椅子を引き寄せ、座る。


「食え」


「…………は」


「いや、は、じゃねえよ。ほら、そこの袋の中」


 理解が追いつかぬ頭に、店主が指を指して指示を出してくる。

 指された先には机があり、その上にはいつの間にかビニール袋が置かれていた。

 およそ袋の中身を確かめようと思える心境ではない。が、中身を探らない限り、店主は話を進めなさそうな様子なので、渋々袋の中を漁る。

 すると、


「これは……」


「お前が前に格好つけて食べたやつだよ。腹減ってんだろ、食え」


 袋の中にあったのは、ケバブだ。以前、蓮とケバブ屋に立ち寄った際、彼女の大好物であると言う特製ソースをかけた代物。


「いや、今はそんな気分じゃ……」


「いいから食え。どうせ昼間何も食ってねえだろ」


 昼間、と言われて腕時計を見ると、時刻は十六時を回ったところだった。つまり、もう何時間もここで変化のない灰色の雲を見続けていた、ということなのだろう。


 ちらりと横の人物に視線を向けると、店主は先程と変わらず有無を言わさぬ態度のままだ。

 その態度やここにいる理由、ケバブを食べさせようとする理由。いくつものことが分からず、頭の中にたくさんの疑問が湧いて出る。

 だが、それら全ての疑問は、食べなければきっと、店主は答えないであろうことは見て取れた。


「……分かったよ。いただきます」


「おう。全部食べろよ」


 包みを開くと、肉の香りがすぐに鼻腔をくすぐり、忘れていた空腹感が一気に目を覚ました。

 たとえ食事をしたくない心境であっても、本能的な部分では求めてしまう。

 どうしてこう、人間は不便に出来ているのだろうか。


「————んぐ」


 一口かぶりつくと、精神的なものなのだろう。身体中に鈍い痛みがして、続けてひどく懐かしい感覚がした。

 前に食べたのは、ほんの半月程前だというのに、それすらも遠い過去と思っているのだろうか。

 

 最初は美味しいはずのソースが、だんだん舌に刺激を与えていって、途中からたまらなく辛くなってくる。そんな感覚を喜ぶことなど、本来はないはずなのに。

 しかし、口の中が徐々に痺れていっても、食べ進める手は抑えられない。

 理由は分からない。まるで何かに取り憑かれたかのように、狂気を身に纏っているように、本能を促進させていく。


「——食べながら聞け。……俺はよ、カヅ坊が何に悩んでんのかは知ってんだ」


 店主から放たれた言葉に驚きの声が出そうになるが、ジロリと睨まれてそれを抑える。


「美水ちゃんの事は知ってる。お前とあの子が付き合ってた事も知ってる。それから、お前達がただの男女の関係だけじゃねえって事もな」


「————」


「違ってもいい、これは俺の想像だ。カヅ坊は黙って食べてろ。……付き合って二週間かそこらの女の子に、そこまで真剣になれる何かがあったんだろうな」


「————」


「なら今は、二人で食べたものでも食べて、涙も鼻水も全部出して、悲しみに明け暮れろ。んで、もうこれ以上は何も出ねえなってなったら、また俺んとこへ来い。今度は、葵達も連れてな。……約束だ」


 言い切ると、店主は頭を掻いて不器用に笑って見せた。

 彼が話している間休む事なく食べ続け、口の中に惨劇が広がっている事もあって、その表情に思わず苦笑いを浮かべてしまう。


 約束、その言葉を店主はどのくらい知っているのだろう。

 奏太と蓮の約束を彼は知らない。ひょっとすると、蓮が店主の前でも事あるごとに約束と言っていたのかもしれないが、重要なのはそこではない。

 思いつきで言ったのかもしれないし、分かっていて言ったのかもしれない。

 だが、どちらであっても、


「…………ほんと辛いな、これ」


「たりめーだろ。このソースで食えるのはお前と美水ちゃんくらいだっての」


「おっちゃん」


「んだよ」


「……ありがとう、ございます」


 深く沈んでいた心は、少しだけ気が楽になったことは確かなのだ。

 それは他の誰でもない、彼が言ったからなのだろう。

 蓮とのさりげない日常の中で出会った彼が、あの日々を否定しなかったから。


 あまりに単純な心だ。たった数回、言葉を交わしただけだというのに、死のうとさえ考えていたというのに、少しの希望を持ち始めた。

 そして、もう一つ。


「だからお前、敬語使うなっての」


 思い出したことがあった。

 約束。葵やユズカ達と交わしたそれを、奏太はまだ守れていない。

 死ぬのなら、まずはそれの責任をとってからだ。


 根本の部分では、何も解決してはいないけれど、きっと彼女は約束を破られることを悲しむだろうから。

 だから、せめてそれだけは守ろう。自分は幸せになどなれないし、誰かを幸せに出来る力なんてない。

 でも、蓮のように生きれば、きっと叶えられるはずだ。そうやって、彼女の代わりにみんなを幸せにする。そして、全ての責を果たしたその時には、彼女の元へ。


 ——そう考えることで前を向こうとすることの愚かしさに、奏太は気がつくことはない。

 ただただ、それが正しいのだと思い込むことでしか、自分の身を守れそうになかったからだ。

 たとえ一時耐え切れたとしても、いつかは壊れて砕け散ってしまうというのに。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 残った一口を口に放り込み、包みを袋に入れて縛る。

 既に辛いを通り越して痛いの域に入っているが、それでも何度も口を動かして味を確かめ、飲み込んだ。


「……ごちそうさまでした」


「おう。美味かったか」


「美味かった。でも辛いし痛い」


 ケバブを全部平らげて、ふと思ったことがあった。

 側から見れば異常な程に手が止まらなかったのは、きっと蓮と過ごした時間が本当に懐かしくて、それを確かめていたかったのだ。

 縋るように、願うように、戻りはしない過去を引き寄せようとして。

 そんな自分は、本当に弱い人間だ。


「そうかそうか。——そんじゃまあ、俺は帰るわ。店あるしな」


「あ、ちょっと待った」


 そんな奏太の内面をよそ目に、店主がケバブのゴミをさらう流れでこの場を離れようとしていたので、慌てて引き止める。


「んだよ?」


「聞き忘れてたんだけど、なんでおっちゃんが蓮のことを?」


「あん? そりゃあお前、俺は——」


 店主が言葉を続けようとして、ドアの開く音がそれを遮った。

 視線を音の方に向けると、開いたドアの向こうから現れたのは、


「奏太さん、ここにいたんですね。少々探しまし……え」


 クリーム色の髪をなじる葵だ。

 学生服を着ているあたり、学校帰りなのだろう。

 ため息交じりの声を出したかと思えば、その表情が急に固まって、露骨に嫌な顔をした。

 どうしたのかと尋ねようとして、その理由はすぐに判明する。


「おう、葵。久々だな、ちゃんと食ってるか?」


「え?」


「ええ。ちゃんと食べてますよ。————お父さん」


 葵は顔をしかめて、そう言った。

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