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黒と白の世界と  作者: 夕陽ゆき
第二章 『忘却』
31/201

第二章10 『彼女について知っていること』


「ありがとうございましたー」


 会計を済ませて外に出ると、購入したものをリュックにしまい込む。

 その中には、いつもはあるはずの弁当箱がなく、ただ教科書と筆記用具、整髪料程度のものしか入っていない。


「まさか忘れるなんてな……」


 ため息混じりに奏太は呟く。


 憂いの理由は遡ること十分程前、学校へ向かっている真っ最中。


 そういえば、今日は弁当を作っていない、と奏太は気がついた。


 それから、さすがに家まで戻るのは時間的に厳しくなってしまうので、少し引き返した所にあるコンビニに立ち寄った、というわけだ。


 家に着いてから芽空との一幕を挟んだせいか、はたまた不可抗力とはいえ昨日休んでしまったからか。

 どちらにしても気が緩んでいたのは確かだ。


「ま、たまにはこういうのもいいか」


 それに、考えてみると、二人分の朝食を作ったことで卵は使い切ってしまったのだ。

 弁当に卵焼きは欠かせない奏太からすれば、むしろモヤモヤとした感情を内に抱えずに学校へ向かえるというものである。


「さて、と……」


 リュックを抱え直すと、再び学校を目指して歩き出す。


 視界の右上あたりに表示された現在の時刻は七時五十五分。このままゆっくり歩いても朝礼の五分前には間に合うだろう。


「…………?」


 ふいに、妙な感覚が体を走った。

 誰かにじっと見られているような、薄気味悪い寒気だ。それも単体ではなく、複数。

 だが、周りに奏太が警戒するべき相手などいない。

 せいぜい、犬の散歩をしているおばさんや、奏太と同じブレザーに身を包んだ生徒達がいるのみなのだから。


 気のせいだ、そう結論づけようとして奏太は気がつく。

 昨晩葵は言っていた。ハクアを含めた数限られた人員は『探索』と呼ばれる特殊な索敵方法を持っている、と。

 それが仮に奏太に使われているとしたら。


「————」


 いや、使用されている場合、近くにはハムの一般人員が複数居てもいいはずだ。

 さすがに学生に紛れている、ということはないだろうが、目線だけで周りを見渡してもそれらしき人物は見当たらない。


 とはいえ警戒するに越したことはないのだが。

 昨日明らかになったばかりの、自分が獣人だという事実。これは秋吉を含めて誰にも話す訳にはいかないし、下手をすれば外を歩くことすら難しくなるのだから。


 小さく息を吐き、体にまとわりつくような視線から逃れようと、歩をわずかに早める。

 あくまで周りに不自然に思われない程度に、だが。

 奏太が獣人であろうとなかろうと、突然早歩きになったり、走り出すようなものがいたら誰でも怪しむし、ハムに監視されている可能性が捨てきれないのなら、なおさらだ。


「…………なんか、気持ち悪いな」


 そして、周りに聞こえないような小さな声で、そう呟いた。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 部活動を終えた生徒や登校してきた生徒で狭苦しくなった廊下には、不気味な視線があった。


 それは先ほど来る時にも感じたものだ。しかも今度は、いくつか、などと数えられる程のものではない。

 数十か、数百か。周りにいる生徒の皆に観察されているような気がして、気が滅入りそうになる。


 もはやここまで来ると精神病の類を疑いそうになるのだが、その一方で何か別の考えが頭の中に思い浮かんでいた。その正体は分からないが、きっとその考えを肯定してはいけないのだと、直感で分かっていた。


「気にし過ぎ、かな」


 生徒の間を通って六組の教室を目指す。クラスの数字が小さければ小さい程昇降口に近くなっているのだが、今日程それを呪いそうになった日はない。

 

 首元のネックレスに触れ、歩きながらも深い呼吸を繰り返す。それを何度もすることで、焦る内面を落ち着かせ、心の準備をする。


「…………よし」


 十数秒程歩いて、六組の教室の前まで来た。


 冷房がついているのだろう、締め切られたドアを開けることにはやや抵抗を感じる。

 とは言っても、す何も、冷気が抜けることを恐れているわけではない。

 それだけのこと、奏太が来る前までに幾数もの生徒がしていることであるし、すぐに閉めてしまえば何かを言われることもない。

 じゃあ何か、と問われれば答えは二つ。


 一つ目は、教室が箱のようなものであること。

 教室へ入ってしまえば、先程から受けている視線が幾分かマシになるだろう。

 だが、席についてしまえば最後、逃げることは出来なくなるのだ。

 せいぜい、眠ることでごまかし、目を背けられるくらいである。

 

 残ったもう一つは、蓮のこと。信じようと、そう決めていても緊張はしてしまうものだ。不安は押し寄せて来る一方で、立ち止まっていると、いつまでもこの扉を開けられないような気さえしてくる。


「ダメだ、開けよう」


 抵抗を生み出す不安を頭から追い払い、意を決すると、手をかけたドアを横にスライドして————、


「————」


 ドアの外から漏れていた程の声が徐々に収まっていき、そこに沈黙が訪れた。

 理由は明白だ。ドアを開けた奏太に気がついたものが言葉を失い、それが次々に拡散していったのだ。

 誰一人漏らすことなく、誰もが奏太を見つめている。明らかな、異常。


「…………は」


 およそ目の前の光景が現実とは思えず、声が漏れた。

 視線を一身に受け、緊張が高まっていく。冷房によって教室内は冷え切っているというのに、体が熱く、汗が滲むのを感じる。

 その視線が、ただ奏太を見つめているだけだったならば、多少はマシだったのかもしれない。

 何故なら、


「なんで」


 奏太を見つめる瞳は、誰しもが共通して恐怖の色に染まっていたからだ。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 目の前の状況が理解できなかった。


 奏太が不安がっていた、どれとも違う状況。

 覚悟していたはずだった。蓮に、恐怖を向けられることを。それでもきっと皆は、蓮が愛し愛された者達ならば、蓮はそんな奴じゃないと、否定してくれると信じていた。希望を、持っていたはずなのだ。


 しかし結果はどうだろうか。不可解な事に、蓮の事を確かめる以前に、奏太に恐怖の目を向けられているのだ。

 そんな事はそもそもあり得ないはずなのだ。奏太が獣人であることを知る者など、この場にいるはずがないのだから。

 蓮の最後を看取った時も、ハクアと一戦を交えた時も、既に群衆は避難が完了した後だったのだと葵は言っていた。

 ならば、当然奏太の姿を見ているものも、いないはずで。


 奏太の疑問に答えるように、このクラスで蓮を除いて最も信頼の置ける人物、秋吉が前に出た。


「……奏太」


 そうだ、彼ならば。そんな希望が湧きかけ、すぐにふっと消えてしまう。

 何故なら、秋吉の表情には周りの者達同様、確かな恐怖があったから。奏太に対して、一度もそんな顔を見せたことがない彼が、だ。


「なあ秋吉、これは————」


「奏太。聞きたいことがあるんだ」


 奏太の問いかけに被せるように秋吉は言った。普段の彼ならば、誰かの言葉を途中で遮ることなどしなかっただろう。

 恐怖はそこまで人を変えてしまうのか、と顔をしかめかけた奏太は気がつく。それは、周りの者とは違い、彼の瞳には縋るような光が宿っていることを。


「どうしたんだ」


 逸る気持ちを抑え、落ち着いた声で対応する。首元のネックレスに触れることで、跳ねるように動いていた心臓の鼓動が、徐々に遅く、ゆっくりとした動きに戻っていく。


「……あの日、美水と一緒に遊んでたんだってな」


「! ああ、そうだけど」


 彼なりの気遣いなのだろうか。そもそも、デートの計画を立てたのは秋吉なのだから、彼が知らないはずはない。

 にも関わらず、あくまで誰かに聞いた風に——いや、実際に誰かがいたのだろう。その誰かに聞くまでは知らなかったと装っているのだ。

 しかし、それで気を緩める程奏太は能天気でも、馬鹿でもない。


「その、美水がどうなったか……いやそうじゃない」


 彼は言いかけ、手前でそれを止める。

 昨日今日と来ていない蓮の事を気遣ったのか、それとも。

 どちらであるのかは次の発言ではっきりするであろうが、少なくとも、秋吉を含めたこの場にいる者達が聞きたがっていることは、別にあるはずで。


 そしてそれは、蓮の名前が出た以上当然の帰結であり、同時に、奏太の希望を根本から砕いてしまうものでもある。


「お前、あの人が『獣人』だったかどうか、知ってるか? その、美水が『獣人』だって噂が流れてるんだ」


「————は?」


 思わず奏太は耳を疑った。


 しかし、なにも彼の言ったことが信じられないような内容だったからではない。

 何度も蓮がそうして恐れられる想像をしたし、その度に否定し、大丈夫なのだと信じようとした。

 だからこそ奏太は、秋吉の言葉を、世界の蓮に対する言葉を、信じたくはないのだ。

 人としての蓮が失われて、忘れられて。そんなこと、決して信じたくはないのだ。

 

 そう考える奏太の心中に、秋吉は気がつくことはない。

 いや、この場にいる誰もが秋吉と同じだ。ただ怯えるばかりで、何も見ようとしていないのだから。

 奏太が今この瞬間、握った手を震わせて、奥歯を強く噛み締めていることを。


「ただの噂、だよな。人じゃないなんて、そんなの、嘘、だよな。……なあ、否定しろよ。だって、そうじゃねえと、美水と仲が良かったお前まで疑わなきゃいけなくなる。だから————」


 そう、彼らは知らない。

 奏太の本心も、蓮の事も。


「————に」


 どす黒く蠢く何かが奏太の全身を支配していくのが分かった。

 

 知らないくせに、何もかもを知らないくせに、勝手に決めつけ、あるいはそうしようとする世界が、ひどく憎たらしくて、『怒り』がこみ上げてきて、


「てめェにッ! 何が分かるッてンだ、あァ!?」


 奏太は叫ぶ。この世の理不尽に抗うために。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 教室全体に声が響いた。

 奏太に返される言葉は一つたりともない。教室がしんと静まり返る。しかしそれがかえって鬱陶しいとさえ思えてきて。


「——蓮は助けてくれたンだよ、オレを。自分が死ぬことなンて考えないで、オレも、ユキナも、アイツに救われた!」


「————」


「そのアイツが、蓮が人じゃないだァ!? ざけンな、てめェの方が……てめェらの方がッ!よッぽど人じゃねェよ!」


 激昂を露わにした奏太に、言葉による返事はなかった。

 代わりに戸惑いと驚きの表情が視界に映る。

 それから、相も変わらず向けられる恐怖の視線。

 しかしそれでも、奏太は続ける。


「何も知らねェくせに、勝手に決めつけンな。何が分かるだ、馬鹿なこと言ってンじゃねェよ!」


 ほんの一ヶ月以内のことだ。秋吉は奏太のことを本性が隠せない人物だと言った。

 だが彼は、奏太をそれだけの人物だと、そう決めつけたのだ。

 分かりきったような口を、聞いて。

 そうして、内からとめどなく溢れるものを次々に言葉へと姿を変えていく。

 秋吉に、クラスメイトに、世界に。重ねに重ね、積もり積もって限界を迎えた理不尽の山が、そしてそれに対する『怒り』が頂点に達する。


「お前は何も分かッてなかッた! オレの事も、蓮の事も! てめェは臆病者だ。知ろうともしず、ただのうのうと世界の流れについていくだけ。本質を見抜いているような気になッてただろ? でもてめェは、底の底はこれっぽっちも見ていなかった」


 不思議な感覚がした。

 視界が真っ赤に染まり、感情を抑えていないというのに、頭のどこかでは冷静な部分が少しだけ残っていて。


 理由は簡単だ。

 首元のネックレス。これが高まる熱を冷まし、超えてはならない境界線のギリギリのところで奏太を押しとどめているのだ。


 しかし、それはあくまでギリギリ——つまりは、獣化するのを抑えているだけに過ぎない。

 ゆえに奏太は、


「誰かの為に世界を敵に回せるヤツをオレは知ッてる! そんなヤツを、蓮を勝手に決めつけるようなヤツらがオレは……大嫌いだ」


「奏太、俺は————」


「——てめェの意見なンざ、もう聞きたくねェよ。結局てめェも与えられた役割をこなすだけの人形だ。てめェも世界も、俺は大嫌いになったよ」


 吐き捨てるように言い、引き返せない道へと、奏太は足を向けた。

 そのままドアを乱暴に開け、外で聞き耳を立てていたらしい生徒の波をかき分け、昇降口へ向かう。


 ようやく誰もいないところまで出て、奥歯を強く噛みしめる。その表情には苦痛と怒り、それから、


「…………蓮」


 悲嘆の念が、ふつふつと湧いて出てきていた。

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