第二章9 『朝日の下で』
「しかし、ラインヴァント……だったか。あのアジトって一体どこまで繋がってるんだ?」
「世界の果てまでだよー」
「世界一周旅行が軽々できるな。地下だけど」
「まあ実際の所はー、雑居ビルの周りとその周辺いくつかだよー」
「いくつか……ってことは、娯楽エリアにも繋がってたりするのか」
「そうだよー。そーた達を迎えに行けたのはそれが理由ー」
奏太達を追いかけるように登って来た朝日を背に、二人は学生区を歩いていた。
やや湿り気のある暑さが体にだるみをもたらし、思わずため息が漏れる。
「でも、学生区にはないんだな」
隣には気だるげに歩を進める芽空がいる。
ネグリジェのままはさすがにまずいと思ったのか、彼女は薄手の上着を羽織っており、それだけで格段に印象が変わって見えることに奏太は驚きを隠せない。
もっとも、元の素材が良い、というのが一番なのだろうが。
彼女が家まで同伴する、と聞いた時には遠慮したが、今になってみれば、緊張を紛らわすために話し相手がいるのはとても助かっていた。
とはいえ、通勤等の関係により乗客の多い電車で、ひどく苦しそうだったのを今でも鮮明に覚えているため、何とも申し訳ない気持ちが奏太の中にはあるのだが。
「裏事情があってねー。知ったら消される的なー?」
「俺そのうち死ぬのかな」
「私を置いていかないでねー」
芽空の間延びした声が人通りの少ない通りに響く。
学生区とはいえ、現在時刻は五時半。当然だが、こんな時間に外を出歩いているものなど、そうそういない。
「なあ、ふと思ったんだけど……芽空っていつ寝てんの?」
隣の芽空の顔を見やると、彼女の目つきに眠気というものはあまり見受けられない。感情の起伏が少ない芽空だが、目元はパッチリと開いているのだ。
人形のような瞳をこちらに向けて二度、三度、瞬きをする。
「結構寝てるよー?」
首を傾げて奏太を見つめる芽空。
しかし奏太の記憶する限り、昨晩は夜遅くまで話していたというのに、早朝四時前に奏太が目を覚ました頃には、既に起床して読書をしていた。
「ひょっとして昼間によく寝て、夜は短時間だけ眠ってる、とか」
「んー、まあそんな感じだよー」
ちなみに奏太がソファで寝ると言っても断固として拒否されたため、渋々ながらベッドで寝たのだが、今朝方には隣でクッションに埋もれて本を読んでいたあたり、よく分からない。
「って、ちょっと待った」
「どうしたのー?」
「よくよく考えてみたら、芽空も高校通ってないのか?」
昨夜の話し合いで学校に通う者、そうでない者がそれぞれはっきりした、と思っていたのだが、唯一芽空だけが明らかとなっていなかった。
しかしながら、先の回答や昨日の様子を合わせて考えてみると、通っていない可能性が高いことが分かる。
もっとも、分かったからと言って何かあるわけでもないのだが。
「うん、もう大学卒業しちゃったからー」
「…………は?」
芽空の返答に思わず耳を疑う。
しかし足を止めずにどういうことかと問いただすと、
「飛び級してたらいつの間にか卒業してたー」
さらりとそう言ってのけた。
飛び級、というと成績が優秀な者が年齢関係なく次の学年に進む、といったものだったか。
つまり芽空はそれ程までに学業優秀だということになるが、
「本当に?」
「そーたに誓うよー」
「それどのぐらい信頼性あるんだよ」
「うーん、神様くらい?」
「俺は芽空にとって神だったのか」
真偽が分からない、が、どうにも嘘をついているようには見えない。
信じられないような話だが、何となく彼女なら何事も平然とやってのけるような気がして、奏太は否定をしきれなかった。
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しばらくして奏太のマンションに着くと、まだ登校まで時間があるため、芽空を部屋に入れることにした。
色々あって数日空けていたものの、奏太の部屋に入っても特に目立った変化はない。
いや、むしろ変化があったらそれはそれで大問題なのだが。
「入っても良かったのー?」
「送ってもらったし、朝ご飯でも作るよ。まだ家出るまでは時間あるしさ」
「それじゃもらうねー。あ、その前にーこれ」
一体どこから取り出したのか、芽空はテーブルの上に腕時計とネックレスを置く。
それに何気なく視線を向けると、奏太は表情を一変させる。
途端喉に何かが詰まったように声が出なくなり、指先に震えが生じた。
「そ、そのネックレスは……」
声を震わす奏太が指差した先、そこには芽空の置いたネックレスがある。それは、蓮がいつも付けていたネックレスで。
ハクアと戦闘になる前、奏太に手渡したものだ。そしてその後、蓮は。
それは目覚めた際には無かった為、騒ぎの中で紛失したものかと思っていた、のだが——
「————そーた、これは無理?」
緊張によって徐々に狭まっていく視界の中、芽空の声がした。
彼女の声はいつもの間延びした声とは違い、やけに真剣みを帯びている。狭い視界で彼女の表情を見やると、それは奏太を案じているのがよく分かった。
しかし奏太は、芽空に対して上手く言葉を返せない。蓮に関する記憶が次々に蘇り、奏太の頭の中を侵食しているからだ。結果、幾多もの言葉が出かけ、止まる。
それを見かねてか否か、芽空は言う。
「これは、そーたが蓮から手渡されたんだよね。……私の推測だけど、多分蓮は気づいてたから渡したんだと思うよ。そーたが、獣人だってことに」
いっそ別人かのようなその言動にはっとなり、奏太は目を何度もパチクリとする。昨日も一瞬だけ、こんなことがあって。
芽空の言う通り、蓮が気づいていたとしたら、どうして奏太に渡すことになるのだろうか。問いかけようして、すぐにそれを引っ込める。
理由は至って簡単だからだ。蓮は別に、ネックレスを外すだけで獣化が出来たのだ。にも関わらず、わざわざ奏太に渡した。
それは多分、彼女がこういう事態になるのではないかと考えていたからなのだろう。
自分の物を手渡すことで、フェルソナが準備する手間を省いたのだ。
多分きっと、彼女のことだから、それだけではないのだろうけど。裏には、もっとたくさんの、奏太を含めた誰かのためを思った感情が入り混じっているのだろうけど。
奏太の考えるそれは、都合の良すぎる解釈だ。芽空の考えるものとは、違うかもしれない。しかし、もし本当に奏太の解釈が正しいのだとすれば————。
奏太は暗く沈んだ顔を上げ、芽空を見つめる。
「ごめん芽空。それと、ありがとう」
誰かの為を想った蓮が、奏太に託した。そしてあの日、奏太は受け取ったのだ。
今更迷っても、あの日は戻ってきやしない。だから。
「大丈夫?」
眉を細めた芽空がこちらを見上げて来る。その瞳にはやはり、奏太を心配しているのであろう感情が灯っていて。
「大丈夫だ。……もらうよ、それ」
強張っていた表情を緩めてふっと笑う。
置かれたネックレスを手に取り、首に回してつけると、同じく首に巻かれた花のものと当たって、軽く金属音が鳴った。
そして、奏太を見た芽空は、口元を緩めて微笑んでいて。
「その、うん。ご飯作るから、ソファに寝転がってて大丈夫だ」
「じゃあ待ってるねー」
奏太が立ち直ったかと思えば、芽空はいつもの口調へと戻る。それに、妙な安堵感を覚える自分が居た。
嬉しいやら感傷に浸りたいやらで、何とも言えない気分になって、小さく息を吐く。
たった一日話しただけの相手に、芽空も、自分も、振り回したり振り回されすぎではないか、と。
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「じゃあ俺は行ってくるけど、本当に帰ってくるまでここに居るつもりか?」
朝食と学校の支度を終え、まさに家を出ようかというところだった。
突然に、芽空は言い出したのだ。
眠たいから寝ていいか、と。
「ダメかなー?」
「いや、別にいいけどさ。あ、でも外に出たくなったら困るか」
奏太はズボンのポケットから鍵を取り出すと、ソファに寝転がった芽空に手渡す。
「これ渡しておくから、何かあったらメールで。昨日教えたから大丈夫……だよな?」
「だいじょーぶだよー。もしもの時は高校に行くしー」
「それはそれで問題になるからまた別の機会に頼む」
「んー、授業参観の時とかー?」
「じゃあそれで頼むよ、お母さん」
軽口を交え、朝食前の問答などなかったかのように気軽に話す。
もっとも、いつも重苦しく考えているのは奏太だけなのだろう。芽空は基本的に、変わらずのんびりと奏太と話すのだから。
そう考えると、奏太の周り——ラインヴァントの面々は、やたら大人びている人が多いように思う。ちゃんと割り切っているというか。
その中には、蓮も含まれていて。
「——さて、行ってくる。お留守番、よろしくな」
「うん。いってらっしゃい、そーた」
手を挙げてぶらんぶらんと振って芽空は見送る。頑なにソファから立ち上がろうとはしないあたり、芽空らしいと言えよう。
対して奏太は、笑みを浮かべて軽く手を挙げると、リビングを出て行った。
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玄関で靴を履きつつ、奏太は思う。
本当に自分は、まだまだなのだと。
かつて蓮の隣に立つにふさわしい男になろうと、そう誓ったのはほんの一ヶ月以内の出来事だ。
蓮との約束通り、誰かを幸せにするなんて、難しい。遠い遠い先の話だ。蓮の死すらまだ見つめられず、ブレスレットを目にしただけであのザマだ。
芽空に——いや、彼女だけじゃない。葵、梨佳、そして蓮。四人に何とか支えられて、今の自分はここにいる。それはひどく心地が良くて。
しかし学校へ向かえば、そこにいるのは自分だけだ。もし梨佳の懸念通りのことが起きていて、蓮に恐怖の目が向けられているとしたら、奏太はそれでも前を見ていられるだろうか。
蓮がいなくても、笑っていられるだろうか。
「…………でも」
たまらなく怖い。立っていられるかも、分からない。
だけど、それでも。
それでも今は、見栄を張って見せよう。奏太は蓮を、知っているのだから。
自分を信じてくれた蓮は、確かにいたのだ。彼女が世界にとっても彼女であると、そう信じたいのだ。
奏太は、人としての蓮も、獣人としての蓮も、どちらも知っているのだから。
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奏太が家を出てからものの数分。
寝転がっていた芽空はのそりと体を起こし、自身の手首に巻いた腕時計に触れた。
デバイスが起動し、眼前に画面が現れると、アイコンに何度か触れて電話をかける。
電話の相手は、既に準備が出来ている頃だろうか。
何度かコール音が鳴り、五度目が鳴り終わったあたりで相手が出た。
「——もしもし、お兄様でしょうか? ——はい、私です。準備が出来次第、始めてもらいたいのですが」
芽空の口から飛び出たのは、奏太達と話していたどれとも違う、かしこまった口調。それにはいつもの気だるげな様子は、一切なく。
「——ええ。ありがとうございます、お兄様。それではお待ちしております」
通話を終了し、深く息を吐く。
途端、眠気が頭に少しずつ侵食してくる。早起きは慣れっこなのだが、ひょっとすると色々とあって疲れていたのかもしれない。
「そーた、大丈夫かなー……」
ぼんやりと呟く。
彼の事について思考を巡らせるのも良いが、今は眠気がひどい。
ならば一眠りして待とう。全ては、それからだ。
「がんばれ、そーた」
ここにはいない少年に向けて応援の念を送る。きっと彼は、また傷つくのだろうから。
芽空は体を横に倒して、ここにはないクッションを抱えるように、自身の膝を抱え、目を閉じた。




