第一章2 『大災害』
——『大災害』。
それが起きたのは今から十何年も前の話だ。奏太が生まれるより、少し前。
最初は日常のふとした違和感から。
路地裏で蹲る人影を発見し、善意で声をかけた市民が襲われたことから、それは始まったのだという。
一市民が襲われれば、次は別の市民が、複数が、多数が。
姿形の詳細は記録として残されてはいなかったが、共通点が皆同じく人に近い姿であること、近づけば襲われること、数はそれなりにいるものの群れをなしているわけではないこと、これらだけは消されることなく人々の間で語られていた。
大抵のものが野次馬根性で正体を突き止めようとして、結果何も出来ず分からず痛めつけられ、恐怖を刻み込まれる。皮を破られ、肉を抉られ、臓器のほとんどを食い荒らされて、人という罪なき体を犯され、日に日に増えていく怪我は殺傷に、被害は犠牲へと姿を変えて。
ゆっくりと、しかし確かな事実を持って日常を犯していくその存在は、人とかけ離れた気性と被害が転じてこう呼ばれるようになった。
————『獣人』、と。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
『獣人』が観測され始めてから数ヶ月。
三割が『獣人』の手によって陥ち、兵器も武力も気力も、ありとあらゆる全てが根こそぎ削がれた世界は終焉に向かっていた。
生き残った人々が震えて声を上げたとて、望めるものはもう無い。
今日無事であっても、明日は友人や家族、隣人が失われるかもしれない。当たり前のように抱いていた夢も日常も、何もかもが消えて無くなって。
唯一被害のなかった小さな島国、日本へ渡ってもそれは変わらない。もう終わりだ。
————誰もがそう思った、はずだった。
「私の名は、藤咲華」
誰もが恐れる対象となった『獣人』に対し、名乗りを上げる女性がいた。
薄赤の長髪に紅眼、一目見ればたちまち息を呑んで羨んでしまうような美貌を持った麗人。
優れた容姿を除けば何の変哲も無い彼女は、何の躊躇いもなく『獣人』の元へ向かい——その全てを、滅ぼした。何の武器も持たず、たった一人で。
人々は彼女の為した結果に対し、驚嘆。続けて来たのは彼女の特別視だ。
それも『獣人』に代わる恐怖の視線ではなく、彼女を英雄と崇めたてるもの。疑問よりも感謝。過程よりも結果。
人々がそう選択したことにより、彼女はその日『英雄』となったのである。
——が、彼女は武力のみで国に居座ることを好まず、ある組織を立ち上げた。
異端者監視組織——Heretic monitoring agency、略してHMA。
それは避難民を含めた日本という大陸の再構築に大いに役立ち、当時の日本の首都東京、その構造をまるっきり変えた。
——従来の町や区分を全てなくし、HMAや政府のある中枢区、学生の集う学生区、飲食料品などの資源を生産する資源区の三つに分ける。
それがHMA総長に就任した彼女が最初に提示した案であり、今現在の東京だ。
……などというのは、小学、中学と歴史の授業を受けていれば何度も耳にすることで。
「美水さん——の親は、前の東京見たことある?」
「うん、何回かあるみたい。家にも写真残ってるみたいだし。三日月君は?」
「確かなかったはず。あんまり旅行とか行ってなかったみたいでさ」
「あ。じゃあ今度持ってこようか? 多分ママに頼めば貸してくれると思うし」
奏太の想い人、美水蓮。隣の席の彼女にそれとなく話題を振ってみたところ、思わぬ提案が出て心臓がどきりと跳ねる。
「あ……それじゃあ、うん。お願いします」
「お願いされました、ふふ」
まだ出会って一ヶ月も経っていないというのに、奏太のために何かをしてくれる、その上笑顔をこぼしてくれるなどもはや神様に愛されているとしか思えない。
東京ありがとう、神様ありがとう——心の中でそう感謝を唱えたところで、
「デバイスを開発したのもHMAなんだっけ」
奏太は胸に手を当てて、呟く。
目の前に広がるアイコン、ブラウザといった仮想現実。
それは奏太の体内に入れられたデバイスによって可視化されたものだ。
HMAが開発し、今や大陸中の人々がこれを体内に入れているわけだが、
「体の中で動いてる、って言われても実感は沸かないよね」
「……だな。いっそのこと目に見えて分かるくらいの動きでもしてくれればいいのに。光ったりとか」
「私は発光してる人がいたらさすがに驚いちゃうかも……」
驚くどころではすまない、という蓮に対するツッコミはさておくとして、体内にあるデバイスはこうしている瞬間も絶賛稼働中なのだ。
——仮想現実だけではない、本来の役割を果たすために。
だが、
「医療機能が主で他はおまけ、って言われても効果があるのかないのか分からないよな」
デバイスの作られた目的である医療機能。
それはワクチンデータをネット経由でインストールし、仮装ファイルとして体内で展開することで成り立っているようだが、こちらもはっきりいって実感など皆無に等しい。
「でも、そのおかげで私達はいつも元気でいられる。それって……嬉しいことだよね」
「————」
と、思っていたはずだったのだが。
反応を返した蓮に、奏太は思わず目を見開く。
しっとりと、どこか湿り気のある声で言った彼女がどこか寂しそうで。
喜びを表す言葉のはずなのに、彼女は唇を結んで。
「美水さ————」
「——あ、そういえば明日スポーツテストだね。三日月君」
それがどうしてなのか分からず、問いかけようとして蓮に発言を被せられる。
奏太の侵入を拒む、というよりは雰囲気を入れ替えようと明るく発せられた言葉だ。
「ああ、うん。そうか、そうだな」
「三日月君忘れてたの……?」
それに合わせて奏太も明るい調子で返そうとして、何とも不審なものになってしまう。
蓮が小首を傾げているが、さすがに前日で忘れているわけがないので首を振って否定。すると、
「じゃあ三日月君。結果、教え合わない?」
「教え……合う?」
教え合う。
彼女が発したその言葉の意味を考えてみる。
それは教えるという行為を互いに交わすことであり、つまりは約束であり、
「せっかく隣の席なんだから、そういう話もしたいなって。……ダメ、かな?」
「よし、しよう」
一瞬不安げな表情を浮かべた蓮を見て、迷わず決断。
話をする機会が増えるというのなら、ばっちこいである。
それに、
「それじゃあ、約束。また明日頑張ろうね、三日月君」
「……そうだな、頑張ろう」
眼前の蓮が浮かべた、咲き誇る花々のように可憐な笑顔。
それがまた見られるというのなら、断る理由など絶対にないのだから。
そう考え、奏太もまた彼女につられて笑みを浮かべた。
————滅んだはずの『獣人』。
それが、今この世界に潜んでいることを頭から追いやって。