第二章6 『静寂の水面下』
「————」
室内には暗闇が広がっていた。
窓のない地下であるというこのアジトにおいて、明かりのついていない場所は相当に珍しい。
それはここに来るまで色鮮やかな景色や、個性豊かな面々、それらに触れていたからこそ感じるものなのかもしれない。
呼吸が止まるような感覚。
先程まで緩み切っていた頭が、次第に緊張していくのを感じる。
手に汗が滲んで、自然と鼓動が速くなり、呼応して呼吸も荒いものへと変わっていく。
獣化の影響もあってか、以前よりも夜目が利くようになった奏太は、目を凝らして部屋の内を見渡し——何かが動くのが見えた。
「…………誰?」
小柄な少女だ。顔までははっきりと見えないが、かろうじて見えるのは、海のような深い青色をした髪の毛と、中学指定であろうセーラー服。
その髪は、水の流れを体現したような薄青の蓮のそれを彷彿とさせ、それに思わず唇を噛みしめつつも、名乗る。
「え、っと。俺は三日月奏太」
またしても暗闇に動きがあった。
少女はベッドに寝転がっていたのであろうその体を起こすと、こちらに視線を向け——、
「——っ!?」
瞬間、奏太を襲ったのは異常な冷気。
体が凍りついたかのような錯覚に陥り、何度か自身の体に触れるが、そこには何の変化もない。
何度も目を瞬かせ、ようやくその正体に気がつく。
視線だ。極限まで冷え切った視線。
それが、目の前の少女——美水蓮の妹から発せられている。
蛇に睨まれた蛙のように体が動かず、目が離せない。そんな奏太の心中を悟ったのか否か、少女はゆっくりと口を開いて、
「私の、名前は、美水希美」
自身の名前を、口にした。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「奏太さん」
消え入るようなその声に呼ばれ、固まっていた奏太が活動を再開する。
「どうした?」
何を言われるのかも分からないこの状況で、奏太は慎重に言葉を紡ぎとっていく。
まるで、一言一句が死に至らしめるかのような恐怖を抱いて。
「奏太さんは、姉さんの、彼氏って、聞いてた、けど」
一句の短い口調が奏太の耳に届く。
胸を締め付けるような感覚が響いて、奏太を苦しめた。
奏太はその言葉の意味も、過去形である意味も、理解している。
だからこそ、
「……確かに、そうだったよ」
肯定するだけが精一杯で、続く言葉が出てきやしない。交わすべき言葉も、聞くべき言葉も、聞かれるべき言葉もあるはずなのに。
怨み言を口にされるだろうか。しかしそれは当然のことだ。彼氏なのに、蓮の側にいたのに、彼女を守れなかった。
記憶も獣人の力も、どちらとも言い訳にしかならないのだ。
彼女を死なせてしまった。その事実だけが、この場にも、世界にもはっきりとしたものとして残っている。
それには抗えないのだ。だから、責められても、傷つけられても、文句を言うことは奏太には出来ない。
そう考えていた、はずだったのに。
「姉さんを、殺したのは、ハクア?」
希美から飛んできたのは、罵声でも狂気に染まった声でもない。
彼女は恐らく、事実確認をしているのだろう。直接的な死因となったのは誰なのか、はっきりさせておくために。
「そう、だけど……っ」
この少女は異常だと、奏太はそう思った。
本来なら、希美にはもっと言うことがあるはずなのだ。奏太が責められても、何らおかしくはないのだから。
以前、蓮は妹と仲が良いと言っていた。ならば、当然お互いに情もあったはずで。
「どうして……、なんで俺を責めないんだよ」
絞り出したその声は、自分自身でさえも思うほどに、あまりに痛々しく、ひどい。
もしかすると、この少女までもが奏太に気を遣っているのだろうか。
だとしたら、最低だ。実の妹である希美は、本当ならもっと悲しむべきはずなのに。泣いて泣いて泣き喚いて、その上で怒りを、恨みを奏太に抱いても不思議ではないのに。
「ごめん、俺が守れなかったせいだ。俺が迷ったから、あいつを……」
死なせてしまった。奏太の行動の全てが、蓮を死なせたことに繋がっているのだと、奏太はそう告げようとする。
そんなことはないのだと、否定したい願望を、心の奥底に押し込んで。
自分が悪いのだと、責められた方が楽なのだと、そう言っているように。
「姉さんが、死んだのは、世界の、せい」
「————は?」
言葉の意図が分からず、徐々に慣れてきた暗闇の中、希美の顔を見やる。
綺麗な顔立ちだ。パッチリとした燃えるような朱眼。見れば見るほどに、蓮に似ていて。
しかしその瞳には、嘘偽りの色は浮かんでいない。いっそ清々しいまでに純粋なその瞳にあるのは、頑なな意思そのものだ。
本気で世界が悪いと、そう思っているのだろうか。
「……私と、姉さんは、昔、約束、したの」
奏太の心の内を読んだかのように、希美はポツリポツリと呟く。
「姉さんが、好きなもの、全部幸せにして、幸せに、なろうって」
「幸せ…………」
それは、奏太と蓮の間でも交わされた約束。
「世界を、幸せに、しようって。その世界が、裏切るなら、それは、世界が悪い」
奏太は眉間にしわを寄せる。
ひどく滅茶苦茶で自分勝手な理論だ。それを何の疑いもなく言ってのける彼女は間違いなくおかしい。
これが初対面であるにも関わらず、はっきりとそう感じた。
そして同時に、恐怖を覚える。
逆恨みとも言えるそれを当たり前と考えているあたり、未だ感情一つ見えてこない彼女ならば、本気で事に移るとさえ思えたから。
これならば、感情の起伏がなかなか見られない芽空の方がずっと可愛げがある。
簡単な話、芽空には、一切の危機感も恐怖も感じなかったからだ。
見た目は人形のような芽空でも、内面の温かみはもちろん、話していて心地の良いものがあった。
しかし、目の前の希美はどうだろう。蓮のこともあり、話していて苦しいとさえ思うが、何よりも冷え切ったその目つきが、言葉が、内面が、人間味を感じさせない。
ならば、奏太は彼女から距離を置いて、避けて、見ないようにして通るのだろうか。
——否、奏太は目を背けない。
奏太にも、約束があるのだ。蓮との、約束が。
「世界が悪い、ってのはいまいち分からないけど」
————みんなを、幸せにして。奏太君にはそれができるから。
蓮はそう言った。はっきり言って、一体何を根拠に、と今でさえ思う。奏太はまだ、自分自身のことを信じられてなど、いないというのに。
けれど、蓮ならそういう時何と言うかが、奏太には既に分かっていた。
「それが希美の幸せに繋がるんなら、俺は手伝うよ」
蓮はきっと、奏太を信じているから。そう答えるはずだ。
ならば奏太は、それを信じよう。
「手伝う?」
希美は僅かに首を傾げて奏太に問う。
「ああ。世界が悪いって言うなら、まずはその一つ。ハクアを倒して、幸せになっていこう」
「どうして、奏太さんが、手伝うの?」
ハクアを倒す——仇討ちをすることは、口で言うのは簡単だが、相当に厳しいことだ。
葵の言う通り、まともに『獣化』できない今の奏太がやろうとしたところで、間違いなく敗北を喫するはずで。
ならばこそ、小さな一歩を、出来ることを増やして、一つずつ叶えていけばいい。
不可能であるならば、不可能の材料を取り除いて、可能に変えてやればいい。
全ては、約束の為に。
「……俺も、蓮と約束してたんだ。それに希美は蓮の妹だから、幸せにしてあげたい。だから——」
ゆえに奏太は、逃げない。
ハクアを倒した後か、それともそれ以前か、もっと後か。いずれかにおいて、奏太は蓮の死と向き合うことになる。
だからこれが、単に目を背けているだけなのだとしても。
「俺は、希美と世界を幸せにするよ」
沈黙があった。
奏太の言葉に対して、希美から返ってきたのは、ほんの小さな、短い答え。
「……よろしく、奏太さん」
「よろしく、希美」
この時、奏太は気がつかなかった。その言葉に一つだけ、欠如しているものがあることを。
そして、その言葉がどれほど重たいものであるのか、言った自分自身ですらも、理解をしていなかったのだ。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
廊下に出ると、久々の明かりの眩しさに思わず目を瞑る。
半目になりながら周りを見渡すと、すぐに梨佳の姿は見つかった。
「……どうだった?」
「大丈夫、ちゃんと話せた。ありがとな、俺のために」
「まああーしはお姉さんだから、当然当然。じゃ、さっさと部屋送ってくから、行くぞー」
やんわりとした笑みを浮かべて、梨佳は踵を返す。
その後ろ姿は、どこか楽しげで。
「……よし」
まずは小さなことをやろう。順番に順番に、一つずつ進めて、それで————
「絶対、約束守るから」
奏太は言う。もう隣にはいない彼女に対して。あったはずの温もりに、告げる。
みんなを幸せにするのだと。
それは梨佳の耳にも、誰の耳にも届かない。自分に言い聞かせるかのように放ったその言葉は、やがて消え、空気へと溶け込んでいった。