第二章5 『復元と補填と背景と』
「ユキナ、その服がどうかしたんですか?」
宿題を終えた葵は、干してあった洗濯物を取り込むと、ユキナと共にそれを畳んでいた。
太陽の光を当てて乾かしたいのは山々だが、葵と言えど弁えていることもある。
ここで生活が出来るのなら、少なくとも環境に文句は言ってはいけない、と常々自分に言い聞かせることで、時折現れる不満を解消している限り、それは守られる。
問いかけた先、ユキナは着々と畳み進めていた手を止め、膝の上に置いたブラウスシャツに目を留めていた。
「あ、あのね。これ、お姉ちゃんのなんだけど……」
ユキナは手に持っていたそれを掲げ、葵に見せる。
そのブラウスは小さな花がいくつも描かれた柄をしており、その端、右手首に当たる部分に穴が空いていた。
「うわぁ、穴が空いてますね。貸してください、縫いますから」
葵はユキナからブラウスを受け取ると、机の上にあった裁縫箱を開ける。
中から針を取り出し裁縫を始めようとして、
「ユズカ。服もタダじゃないんですから、いい加減————」
手間の元凶であるユズカの方を見やると、彼女はベッドの上で折りかけの折り紙片手にスヤスヤと眠り込んでいた。
「寝てるね、お姉ちゃん」
「……起きたら怒ることにします」
葵は瞼を閉じて深くため息をつく。
寝ている時は大人しく可愛らしい姿なのに、どうしてこう、起きている時はああもやんちゃなのだろうか。
片手の指で数えられるほどしか歳は離れていないというのに、ユキナとは大違いだ。
「さて、早く終わらせて夕食の準備でも——」
裁縫を始めようとして、再び中断させられる。
中断の原因はノックだ。
時間帯を考えると恐らくは梨佳あたりだろうかと考え、立ち上がろうとすると、
「どったのー?」
それよりも早く、寝ていたはずのユズカが部屋の入り口で応対をしていた。
その間わずか数秒で、唖然としたままドアの方を見る。
どうやら予想は当たっていたらしく、ノックの主は梨佳だったようだが、さらにもう一人。
黒髪にさらりと触れてユズカと会話をしているのは、今朝、葵がコテンパンに叩きのめした男だ。
彼はこちらに気がついたようで、視線を向けてきたかと思えば、目を丸くする。
「三日月奏太……さん」
「……葵って結構家庭的なんだな」
奏太はふっと口元を緩め、葵に微笑んだ。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「それで、この人を案内している、と?」
裁縫と洗濯物を畳み終えた葵は、奏太たちを部屋の中へ入れた。
少女二人はともかくとして、間違いなく歓迎されないだろうと思っていた奏太からすれば、渋々許可した葵の反応は嬉しいような、嬉しくないような、微妙な心境だった。
「そういうこと。でも良かったなー、奏太が不死身で。話したかっただろ?」
状況報告を終えた梨佳は髪を指先でいじりつつ、八重歯をちらりと見せて葵をからかっていた。
「ボクは別に話したくありませんよ。そもそも、殺す気はなかったですしね。ただ、この人が色々と勘違いしていたようなので、それを訂正したに過ぎません」
ケラケラと笑って見せる梨佳に対して、葵の反応は冷ややかとしたものだ。
毎度のことなのだろうか、葵が吐いた小さなため息も、梨佳への親しみのようなものを感じる。
いや、本人からすれば毎度からかわれてたまったものではないのだろうが。
「ユキナ、見て見て! がぶぶってみゃおみゃおにされたとこ、何も残ってない!」
元気よくはしゃぐその声は先ほどユズカと名乗った少女だ。
ユズカに呼ばれた少女はおずおずと彼女の指差すところ——つまり、奏太の左肩を覗く。
それから少女はハッとなり、すぐに奏太から離れる。
そして奏太の前にちょこんと座ると、顔を赤らめつつ言った。
「あ、あの、私ユキナって言います。え、っと、ユズカお姉ちゃんとは姉妹で、その……」
しどろもどろになって話すユキナが緊張しているのは、誰の目から見ても明らかだ。
ゆえに奏太は安心させるように表情を柔らかなものにして、少女に言う。
「ユキナ……でいいのか? 大丈夫、落ち着いて話して。俺はちゃんと聞くから」
子どもに接する機会などほとんどなかったが、目の前の少女が緊張しているのを見て、直前まであった奏太の緊張はすっかり何処かへ消えてしまった。
ならばこそ、年下である少女に助け舟を出すのも当然の役割と言えよう。
「は、はい……っ!!」
少女は奏太の発言に信頼できる何かを感じ取ったのだろう、あわあわとしていた様子が一転、深呼吸を繰り返し、徐々に落ち着きを取り戻していく。
「えと、ソウタお兄さん。その、私を助けてくれて、ありがとうございました」
ユキナはまだその頰に照れを残しつつも、ぺこりと頭を下げた。
奏太はそれに一瞬表情を固めるが、しかしすぐに口元を緩め、少女に微笑む。
「俺はたまたま通りかかっただけだよ。それに、あの時は無我夢中だったからさ」
自然と口調も優しげなものとなり、そのまま自然にユキナの顔を見るも、どうやら先の一瞬の表情の変化に、少女は気がついていないらしいことが分かる。
そう考える奏太の内心には、焦りや動揺の類いのものはほとんどない。
「————」
自分でも驚きだ。
二度目に目覚め、フェルソナと話している際に聞こえた、己の内の黒い囁き——それが聞こえて来るのではないか、少女に怒りを抱き、恨んでしまうのではないか、そういう不安がないわけではなかったというのに。
ともあれ、先の表情を何とか隠し通せたことに安堵の息を吐くと、
「すごくカッコ良かったです、ソウタお兄さん! 見た目は少し怖かったけど、私が危ない時に突いて、飛ばして、それからそれから……」
「ユキナ、落ち着いてください。何言ってるのか分かりません」
葵は興奮して前のめり気味になるユキナを抑える。
「えー、みゃおみゃお今ので分かんなかったの? バカだなー」
「まあユズは感性豊かだからなー。あ、でも今のはさすがにあーしでも分かんなかったわ」
「ほら、奏太さんも恐らく分かってませんから、ゆっくり、落ち着いて話してください」
一回りも体の小さな少女にけなされた部分は無視して、改めて感謝の理由をユキナに語らせようとする葵。
しかし、こうして見ると完全に兄である。
元気な妹と、真面目で恥ずかしがり屋だけど、興奮すると調子がおかしくなる妹。
そして、それを支え、あるいは振り回される葵という兄。
ため息まじりに言ったり、嫌々そうに話す葵も、内心では楽しいと感じている。そう考えると梨佳が言っていたカッコつけにも納得がいくというものだ。
「……何です?」
温かい目で見守っていた先、視線に気がついた葵にジロリと睨まれる。
奏太はふっと笑いを浮かべ、
「何でもないよ。それで……えーと、どんな感じだったのかな。ユキナ」
「あ、はい! まずですね……」
ユキナは語り出した。蓮と別れた後、ハクアと遭遇したことを。
殺される寸前のところで、奏太が現れたことを。
緊張ゆえか、最初は拙い説明だったものが、葵の補足もあり、徐々に徐々に詳細のはっきりとした説明へと変わっていく。
そして、少女が話し終える頃には、虫食い状態だった空白の記憶が完全に埋まった。
その中で改めて明らかになったのは、大きく分けて三つだ。
一つ目は、奏太が獣化する際、黒髪が赤黒のものへと変化し、肌が灰色の毛皮に覆われ、ねじれた角が額から生えること。
これに関しては葵と一戦交えた際には中途半端なものだったので、葵曰く土壇場でたまたま上手くいっただけだと言う。
二つ目に、ハクアは一度触れた相手の『探索』を行えるが、懐中時計を破壊すれば防げるとのこと。
あの日、蓮が命を張ってまでこだわったのは、そのまま逃げ帰って『探索』をされればこの場所——アジトの場所が割れてしまうし、何よりユキナ達にはここ以外の場所がないからだ。
それを守るために、蓮は戦ったのだ。あの化け物と。
そして三つ目は、
「藤咲華が、あの場に……?」
「みたいだ。あーしはあの時娯楽エリアにいなかったから、駆けつけた時には遅かったけど……」
「ボクが迷子になっていたユズカを見つけた直後に警報が鳴って、すぐに向かおうとした所、その場にいた藤咲華に足止めを食らったんです」
彼なりに思うところがあるのだろうか、ここまでほとんど崩れることのなかった葵の表情に変化が生じた。
悔しさを押し殺すように、それを隠して見えないようにするために、歯を軋ませて耐えているのが奏太の目から見てもよく分かった。
一体どう声をかけるべきなのだろうか、それが奏太には分からない。
葵達も、奏太同様に蓮の死を知っているはずだ。それならば、奏太が未だに蓮の死に向き合う事が出来ないように、葵にも葛藤があるはずで。
少しでも早ければ、あの時ああしていれば。そのもしもの可能性は、奏太だけが考えるものではないのだ。
たとえそれが、向き合う事への遠回りに、あるいは目を背けているだけであったとしても。
「でもでも、ソウタおにーさんがずばばってハクアをやっつけてくれて良かった! ありがとね、ソウタおにーさん」
奏太の暗い考えを払うように、ユズカは明るい声で奏太に言う。
「どういたしまして。でも、さっきも言ったけどたまたまだったし、それにユキナを助けたのはほとんど————」
蓮のおかげだ、そう言おうとした瞬間、何かが奏太に語りかけて来る。
それは声ではない。視線だ。焼き切られるような視線を感じて言葉が止まり、
「——ユキナ。そろそろ夕食を作りに行きましょうか。時間も時間ですし」
「え? あ、本当だ。えっと……それじゃ、ソウタお兄さん。また後で」
空白を埋めるように飛び込んで来たのは葵の声だ。
彼の声が耳に飛び込んでくるとともに消えた視線は、恐らく彼から発せられたものだろう。
だとしたら、それは一体どうして奏太に向けられたのか。
その疑問を口に出すより前、答えるつもりはないと言外に告げているかのように葵は言った。
「非常に不服ですが、奏太さん。あなたの分も作るので、梨佳さんにでも案内してもらって部屋に戻ってください。ほら、ユズカも立って。手伝ってもらいますから」
「仕方ないなー、みゃおみゃおは。ソウタおにーさん、楽しみにしててね! これでもみゃおみゃおは料理上手いから、きららなもの作ってくれるよ!」
「キラキラな料理って例えじゃなさそうなのが怖いところだな」
ただでさえ大きいこのアジトで作られる料理だ。
きっと、世界三大珍味やそこらでは扱っていない高級食材が出て来ても、不思議ではないだろうから。
とはいえ、三大のうちキャビアとフォアグラは既に手に入らなくなっているそうだが。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
それぞれの目的地へ向かうために、部屋を出て、二手に分かれた。
先ほどはかなり長く歩いているように感じた廊下は、案内するために階段を介したりして長かっただけで、どうやら直線上に向かって行けばすぐに着くらしい。
しかし奏太には、着く前に聞かなければならないことがあった。
「…………一つ、聞いていいか?」
奏太と梨佳がいるのみの廊下に、声が響く。
部屋の前で別れた葵達は既に食堂へ着いている頃だろうか。そこまで声が届くことは、絶対にないはずだ。
「どーした? って、聞きたいことは分かってるけどな。さっきあいつが——みゃおが止めたことだろ?」
奏太の前を歩く梨佳の顔は、ちょうど奏太からは見えず、どんな表情をしているのかが分からない。
しかし、その声はいつになく真剣味を帯びていて、
「そう。俺の解釈が間違ってなければ、あれはまるで何かを隠すみたいな、そんな感じがした」
沈黙があった。それが如何なる理由なのかは分からない。
しかし奏太には、待つ以外の選択肢もなく。
地雷であるとかないとか、それを気にする考えは奏太の中にはなかった。
ある種の信頼だろうか。彼女はそれを答えると、なんとなく分かっていたからかもしれない。
何秒、何分経っただろうか。ぽつり、と梨佳は呟いた。
「——蓮が死んだことを、ユキには知らせてない」
「————っ」
彼女の言葉に、楽観さは欠片ほども残っていない。感情を押し殺したようなその声は、あまりにも暗く、一瞬梨佳の声とは気づけなかった程に。
そして、ユキナを指すその発言は、奏太が如何に危険なことをしようとしていたかがはっきりと分かった。
「あの子を守るため、か」
「そーいうこと」
簡単な話だ。ユキナのような真面目で気の弱い少女が、蓮の死を知れば、心を痛めるどころでは済まない。
自分のせいだと、責めるに違いないはずだ。一回りも二回りも歳の離れた少女に、それが耐えられるわけもなく。
そんな少女に、奏太は一歩間違えれば蓮の死を伝え、責めてしまう恐れがあったのだ。
「ごめん、俺そこまで考えられなかった」
「いいんだよ。……なんつーか奏太は、あいつみたいだな」
無感情に近い声にわずかに感情が灯って、奏太の耳に届く。
しかしその感情は喜ではない。紛れも無い悲しみ、哀だ。
遠くにいる誰かを見つめるように、あるいは必死に誰かを思い出し、少しでも近くに寄せようとするかのように。
「あいつ?」
「嘘の味……って、言えば分かるか?」
どくん、と心臓が跳ねた気がした。
それは、彼女が言っていた言葉だ。思えば、初めて聞いたのはスポーツテストの時で。
次に聞いたのは、デートの時で。
いや、果たしてそれだけだったのだろうか。考えてみると、今の今まで意識していなかったそれは、この二ヶ月、何度も何度も兆しはあったのだ。
「…………蓮、か。そういえば結局、どういうことなのか聞かずじまいだったな」
「その言い方的に、蓮に話す気はあった、だてことか?」
奏太は問いかけに対して頷いてみせる。
確かにあの時、蓮は奏太に何かを明かそうとしていたのだから。
考え込むように、口元に手を当てた梨佳は、何かに納得したのか、小さく頷くと、
「あいつがな、前にあーしに話してくれたんだよ。私には嘘の味が分かる、ってな」
それは、手を繋いでいたあの時、彼女から聞くはずだった言葉だ。
言いかけようとしてそれは中断され、ユキナが危なくなっていたところに飛び込んでいった彼女と交わすはずだった言葉の一つだ。
「味が分かる……?」
「悪意があれば苦く、善意ならば甘く、だったはず。そんな超能力みたいな話、奏太は信じないか?」
「いや」
彼女には、分かっていたのだろうか。奏太が放課後の教室で、嘘をついたことを。
それが分かって、動画を見せたのだろうか。
ハクアの本性が別にあると分かっていたのだろうか。
それが分かって、あんな表情をしていたのだろうか。
そんな問いかけなど、最初から答えは決まっている。
「信じるよ。だって、蓮の言うことだから」
「————」
ピタリと立ち止まって振り返った梨佳の顔は、驚き以外の何物でもなくて。
彼女は、奏太が信じないとでも思っていたのだろうか。
それとも別の何かか。いずれにせよ、奏太の意見は今も今までも、これからも、変わらない。
梨佳はわずかに口元を緩め、息を吐く。
「あーしらが思ってるよか、大丈夫そうだな。……実はさ、奏太にもう一人だけ、会わせたい奴がいる」
それはきっと、このアジトの主要メンバーなのだろう。
このタイミングになるまで言わなかったと言うことは、やはり目覚めてから今の今まで、ずっと気を遣われていたのだ。
つまり、心の準備が出来ていなければ、奏太には話せないであろう程の相手。
「…………それは?」
梨佳は何かにじっと耐えるようにして瞼を閉じ、やがて開く。
そして彼女は、ゆっくりと奏太に告げた。
「あーしらと同じ獣人で——蓮の妹だ」