第二章2 『脆弱な怒り』
奏太はティーカップを持ち、その水底を覗くようにじっと見つめていた。
柑橘系の香りが昇ってくるそれは、先ほどクッキーとともに芽空から受け取ったものだ。
しかしそれは、飲んでも良い、と言われたものの芽空が何度か口にしたはずのものである。
見た所彼女は奏太と同年代か、一つ下くらいだったが故の苦悩である。
いっそのこと歳が離れていれば良かったのだろうか、そう考えても目の前の現実は何も変わらない。
「……飲もう」
飲まないというのも一つの選択肢だが、それによって苦しみが続くのは避けたい。喉の渇きと言う名の苦しみから解放されたいのだ。
いっそのこと秋吉のように、可愛い子が飲んだ後だやっほう、などと喜べれば悩む必要もなかっただろう。
決意しても湧いてくる苦悩を追い払うように、奏太はカップの中身を勢いよく飲み干し、息を吐く。
「多分これ上等なやつ……だよな」
しかし一度飲んでしまえば簡単なもので、おかわりが欲しくなって、空になったカップに紅茶を補充する。確か回すように入れるのだったか。
黄金色に染まった液体から湯気が立ち上り、同時に身体中を駆け巡るほどの香りが、呼吸とともに奏太の鼻孔をくすぐる。
そしてそれを飲もうと口をつけて、
「熱い」
飲めなくはない熱さだが、冷ました方がまだいいだろう。そう思い、カップをワゴンに戻す。
冷めるまでは時間があるし、戻ってくるまでネットでも眺めていようか、そう思って奏太はデバイスを起動しようとし——
「あれ?」
いつの間に外していたのか、左手首に巻かれているはずの腕時計が見当たらない。
また、服装もいつものものとは違い、旅館で泊まった時のような薄着だ。
今まで気がつかなかったが、着替えさせられたのだろう。
となると腕時計は別の場所に置いてあるのが妥当なところか。
そもそもどうして自分がこんなところで寝ているのか。仮に自分が怪我をし、意識を失って運ばれたのだとすれば、どこかに怪我があるはずで。
思い当たる節があるとすれば頭痛くらいだが、恐らく他にもあるのではないか。そう思い至り、身体中のあちこちに触れると、どうやら目立った傷がないことが分かる。
奏太は安堵の息を吐いて頰を緩めようとして、ふいに首元のネックレスに触れた。
瞬間、その感触が奏太に衝撃を与え、それまでの心持ちが一気にひっくり返される。
奏太の心に嵐を巻き起こしたのは、記憶だ。
「————蓮」
そうだ、蓮。どうして忘れていたのだろう。目を背けて、いたかったのだろうか。
内面がどうであれ、事実は変わらない。変わらないのだ。変わらないというのに。
蘇ってくる記憶は、全て事実なのだ。昨日蓮と娯楽エリアに行った。デートをした。ハクアと遭遇した。
そして蓮は、蓮は————
「死ん、だ」
断片的に思い出されるその光景は、奏太の心を砕き、安寧を奪い去る。その後に来るのは、後悔と悲嘆だ。
もっと早く蓮を見つけていれば。
最初にハクアと遭遇した時、彼女の表情の変化を気にしてその場を離れていれば。
あるいは、蓮の側を離れていなければ。
「オレの、オレのせいで……ッ」
動物園へ行こうとしなければ。
あの日デートに誘わなければ。あの日、あの日あの日あの日あの日あの日あの日のあの日あの日あの日あの日あの日あの日あの日のあの日あの日あの日あの日あの日あの日あの日のあの日あの日あの日あの日あの日あの日あの日のあの日。
とめどなく嘆きが溢れて、行動の全てが、選択の全てが間違いだったと思えてきて、
「オレが蓮と出会ったのは……」
間違い、だったのだろうか。
蓮が獣人でも、奏太と出会っていなければ、少なくともあの日、あの場所で死ぬことはなかったはずだ。付き合わなければ、仲良くならなければ、話さなければ、出会わなければ、彼女は彼女のままで。蓮は蓮として生きていたはずだ。
「オレが……」
思いたくない。否定したい。自分がいなければ、そう思いたくない。
しかし、無数に存在するもしもは、例外なく奏太を苦しめ、救おうとしない。
救われるとすれば、それは一体なんだ。奏太が死ぬことだろうか。いや、奏太が死んでも蓮は生き返ったりなど、しない。都合の良い奇跡などありえないのだ。じゃあ、何が——
「……ハクア」
蓮が死ぬに至った理由の根元、怪物。
彼を思い浮かべた途端に、体の中、奥深くから何かがこみ上げてくるのを感じる。
あいつが死ねば、救われる。殺せば、救われる。蓮と同じくらいに痛めつけて……いや、その倍、何倍も傷付けて殺す。殺してしまえばいい。当然だ。
それ相応のことを、あの男はやったのだから。
奏太は気がつかない。自身の狂気に染まった顔に。殺意にまみれ、醜く歪んだその表情に。
そう考えることが当然の帰結であると、決めつけて。
次々に湧き出てくる憎悪がピークに達しようとして、
「…………?」
突如、奏太の内にあったドロドロした感情が離散していった。
それは奏太の記憶の一部に不可解な場面があったことに気がついたからだ。
あの時。蓮を失った直後だ。失っていた何かが戻ってきて、その蠢く心地よい何かに身を委ねた。
そうして気がつくとハクアを何度も何度も突き続け、しかしそれでも彼は死ななかったという、記憶。
その何かが怒りであり、またどういうわけか怒りを取り戻した直後、自身が獣人の姿になっていたことを、奏太は覚えている。
「訳が、わからねェよ……」
奏太は奥歯を強く噛みしめる。哀情、悔やみ、怒り、疑問。それらは奏太の身に余るほどに大きく、重くのしかかって、思考が侵食されていく。まともな判断ができなくなって。
思考に走るノイズを少しでも除去しようと、奏太はすっかり冷めた紅茶を一気に飲み干し——
「——ちょっと付き合ってもらってもいいですか。いえ、付き合ってもらいます」
突如ドアが開けられたことに驚いて、ノイズが一気に離散していった。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「なンだここ……」
やけに長い部屋だ。
恐らく元々は二部屋だったものを、壁をぶち抜いて作られたのだろう。
始めに待合室のような空間があり、その先の狭い通路で、ドアによって空間を隔てられている。
そのドアを開けた先にあったのは真っ白のだだっ広い空間だ。
どうやらこの白い空間は、通路側からも窓越しに見えるようになっており、まるで拷問でもするために作られた、そんな部屋だった。
地面から天井まで、全てが白色に塗装されており、椅子やソファの置かれた待合室とは違い、家具の一つもない。
また、先程まで奏太が寝ていた部屋や廊下に比べると異質な空間だと言えよう。
なにせ、廊下はどこまでも広がっていると錯覚しそうになるほど長く、無数にあるドア、シャンデリア、赤絨毯と一目でお金持ちだとわかるような、豪華な装飾が施されたものだったのだから。
ただ、今の今まで窓を一度も見ていないことが気がかりだったが。
「ここはトレーニングルームのようなものです。ここなら、どれだけ暴れても、どれだけ叫んでも、外には何の影響もありません」
クリーム色の髪を指でいじる学生服姿の細身の少年は、淡々とそう言って、こちらに向き直った。
「ああ、挨拶が遅れました。ボクは葵と言います。三日月奏太さん」
その中性的な顔立ちを保ったまま、表情をピクリとも動かさずに名乗ってみせた少年に、奏太は何か引っかかりを覚える。
「なんでオレの名前を……葵?」
葵という名前をどこかで聞いたことがある気がする。確かあれは、ケバブ屋の——
「蓮の友達、か」
ケバブ屋のことを思い出すと同時、蓮の顔が浮かんできて、哀傷の念に染まりそうになる。
慌てて頭を振ってそれをどうにか振り払う。
「ええ、まあそんなところです。彼女から既に聞いていましたか」
「名前だけな。で、お前……葵は、どうしてここにオレを連れてきたんだ?」
「いきなり本題ですか。確かにボクも無駄話はあまり好きじゃありませんが、初対面の方に急かされるのはあまり気分の良いものでは……まあいいでしょう」
奏太の眼前、葵は鼻を鳴らして笑う。
その態度が嫌に上から目線で、不快に感じないではなかったが、ひとまず抑えて彼の話を聞くことにした。
「いくつか質問をするので、答えてください。長い間寝ていたせいで頭が働かないとは思いますが、その頭でどうにか考えて、思い出して答えてください。……あなたは何者ですか?」
質問の意図がわからず、奏太は首を傾げる。
「ただの人間で、そこらの学生と変わらねェよ」
奏太の答えに対して、葵は怪訝な表情で自身の口元にそっと手を当てる。
そして数秒沈黙し、考え込んでいたかと思えば、疑念を振り払ったように再びこちらを見て、
「質問を変えましょう。あなたはハクアを倒したことを覚えていますか?」
「ぼんやりと。途切れ途切れの記憶だから、突いて倒したくらいのことしか覚えてねェけど」
「では、自分が獣人であるという自覚は? ボクが見たところ、あなたは今の今までそれを知らなかったような様子だ」
「は?」
獣人、この二ヶ月ほどで何度も聞いたその言葉をゆっくりと飲み込み、言われてみればと納得する。
不思議と自分の中に反発はなかった。
確かにハクアを倒した時には獣人の姿になっていたし、元々その可能性はあの秘密基地で、考慮していたのだから。
ゆえに、
「自覚はなかった。……でも、納得がいく部分があるから、驚きはない」
「そうですか。今の今までなかった、そうですか……」
何か腑に落ちない部分があるのだろう。
しかし葵はそれ以上の言及をしなかった。自らの考えは口に出すほどではないと考えたのか、あるいは何か口外したくないことがあるのか。
いずれにせよ、奏太が聞いたところで、彼が答えないであろうことは顔を見れば分かった。
だが、代わりに彼が言い放ったのは、奏太を震わせる事実だ。
「……蓮さんが亡くなりました。あなたは、彼女の最後を看取って、その上でハクアの元へ向かった——それで間違いありませんね?」
蓮の死。分かっていたことではあるが、改めて他人に言われ、その事実が重い衝激となって奏太に襲いかかる。
表情が強張って、手の先が震え出す。
「そうだ。それで間違い無い。あいつは、ハクアはまだ生きてる……よな」
「ええ、生きています。仇討ちでもする気ですか?」
心中を見抜かれた奏太に動揺が生まれるが、すぐにそれは別の感情によって飲み込まれた。
憎悪だ。
荒々しい怒気が奏太の全身を支配して、先ほどバラバラになった殺意が再び集まり、その姿をあらわにする。
「するよ。殺してやる。蓮を殺したんだ。オレが絶対に、あいつを、ハクアを——」
「無理ですね」
言いかけ、葵の声に妨げられる。
それは、ひどく奏太の怒りを買う言葉だ。
「ンだと?」
「今までの話で分かりました。今まで自覚のなかったあなたのような人が、単独でハクアを倒せるわけがありません。予め、蓮さんが毒を打っていたから、彼の動きが遅くなっていたのでしょう」
つまり、葵はこう告げているのだ。
あの時奏太が怒りのままにぶつけた攻撃は、復讐は、すべて蓮の力がなければ叶わなかったと。
そして彼女の仇討ちも、奏太だけでは到底叶わないのだと。
つまりそれは、
「じャあてめェは、オレが弱いッて、そう言いてェのか?」
奏太の怒りに呼応するように、口調が荒れて、激しくなっていく。
しかし、それに対する葵の反応は変わらず、淡々としたものだ。
「ええ、あなたは弱い。もし何なら、今ボクが試してみましょうか?」
不敵な笑みを浮かべてこちらを見やる葵に、腸が煮えくりかえり、視界が真っ赤に染まる。
ああ、こいつは叩きのめさなければいけない相手だ、と。
「上等だ、てめェ死ンでも文句言うなよ」
「あなたによってボクが死ぬことになるなんて、絶対にあり得ませんよ」
言った葵は鼻で笑って見下した目でこちらを見る。
それが合図となって、奏太の内にあるものが外に出て——
「がああァァァァアアッ!?」
瞬間、襲ってきたのはひどい頭痛だ。
鋭い刃物で裂かれたような痛みが生じて、その場に膝をついた。
全身が熱くなって、焼けるような痛みが頭を中心として広がって行く。
ジンジンと痛む頭に手で触れても、血は一滴たりとも流れてはいないというのに。
しかし、
「ァ? 角……?」
割れるような痛みの場所。
そこには角が生えており、しかしそれはハクアを倒した時のそれとは大きく異なる、ごくごく小さなものだった。
角とは思えない程矮小なそれはひどく弱々しい。
角だけではない。薄着から見える肌も中途半端なもので、元の黒髪は血のような赤黒い髪に、肌は灰色の毛皮とまだらになっており、歪な光景だ。
「ほら、あなたは中途半端だ。トランスすら満足にできない。あなたには蓮さんの仇討ちなんて、到底無理な話なんですよ」
涼しげな顔でこちらを見下す葵の言葉に、奏太はわずかに残っていた理性を失い、何も考えられなくなる。
ただそこに残ったのは、純粋な怒り。いっそ清々しいまでに一色だけになったそれは、ひどく痛々しいもので。
切っ先の尖った鋭いナイフのような眼差しで葵を睨んだ奏太は、本能のままに彼に飛びかかる。
それに対する葵の対応は至って簡単で、冷静なものだ。
彼は一瞬だけ目をつぶったかと思えば、飛びかかってくる奏太の攻撃を軽々と避け、その勢いを利用して奏太の腕を掴み、背負って壁に投げつける。
驚くべきことに、奏太のように見た目を変化させていないにも関わらず、およそ人の速度では成し得ない動きが繰り出されたのである。
「が、はッ」
奏太は受け身を取れず、酸素が肺から一気に抜ける。
それでも立ち上がろうとして、次に来るのは、ずぶり、と何かが食い込む音だ。
そしてその音とともに、奏太は左肩に異物感を感じる。
「ぐ、ァがッ!」
鋭く刺さり、どんどんと広がっていく痛みのその正体は歯だ。
葵が奏太の頭を壁に押し付けたまま、彼の肩に噛み付いているのだ。
抵抗しようにも右腕が届かず、左腕も、足も、彼によって押さえつけられている。
全身に力を込めてもがいても、一向に縛りが解けない。
傷が広がっていくとともに、奏太から徐々に力が失われていく。
そして————
「…………蓮」
一言、そうこぼして奏太は意識を失った。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
奏太が動かなくなったのをみて、噛み付くのをやめた葵は、立ち上がり、深く息を吐き出す。
口内に広がる血の味に顔を歪めつつ、動かない奏太を見下すと、
「今のあなたは弱い。このボクよりも。……そして、ボクも」
返答のない呟きが室内に響き渡った。自身を除いた、誰一人として聞いていない呟きが。
葵は皺のよった制服を伸ばす。
そして最後にもう一度、倒れた奏太の左肩を見やり、目を見開く。
「なっ…………」
葵の瞳に浮かぶのは、戸惑いだ。続けて動揺が来て、しかしそれは彼自身の自制によってふっと消え去る。
彼は、本当に何者なのだろうか。
ただそれだけが頭に残り、考え込むように口元に手をやると、静かに部屋を出て行った。