第二章1 『消失と』
「蓮、遅いな……」
数十分ほど前、奏太が教室に入った時、いつもなら先に来ているはずの蓮の姿はそこになかった。
それは朝部活を終えた生徒たちが教室に入って来ても同様で、ホームルーム五分前になっても、彼女は一向に姿を現そうとしない。
デバイスを起動し、新着メールを確認するも、メールはない。当然、着信もだ。
何か事故にでもあったのだろうか、とそわそわしていると、そんな奏太を見かねてか、秋吉が席を立ってこちらにやってきた。
「どうしたよ、奏太」
「蓮が来ないからさ、どうしたのかなって心配で」
女々しい考えを茶化されるだろうか。
しかし、心の底から彼女の身を案じ、何事もないことを祈っているのだ。それは茶化されても変わらない。
わずかな沈黙があり、怪訝に思った奏太は顔を上げて秋吉の顔を見る。
彼はどうやら首を傾げて考え込んでいるようで、ようやく口を開いたかと思えば、返ってきた言葉は予想外のものだった。
「蓮?別のクラスの子か?」
眉を寄せて秋吉は尋ねる。
およそそれは、冗談や嘘の類の言葉を口にしている顔には見えず、
「……は?蓮だよ、美水蓮。大丈夫か?」
そもそも茶化すならまだしも、惚けるなど彼らしくもない言動だ。
ひょっとすると彼も疲れているのだろうか。そう思い至って心配げな声をかけるも、
「お前こそ大丈夫かよ。誰だよその……美水蓮、って」
瞬間、奏太は目を見開いて、唇を震わせる。
やけに喉が渇き始めて、言葉が上手く出てこない。
昨日まで隣にいた蓮が忘れられていることなど、あり得ない。あり得ないのだから。
しかし彼が頭を打った、記憶を無くした、などという話は一切聞いていない。ならばどういうことなのか。
奏太は立ち上がる。
蓮が忘れられている事などないのだと。確かに蓮はいるのだと、証明してもらうために。
しかし縋るようなその願いは儚く崩れ去る。
「誰それ?」
「彼女? 自慢かよ」
「知らないなぁ」
それぞれ発言に違いはあれど、はっきりとした事実がそこにあった。
誰一人として蓮のことを覚えていない。
「どうして」
誰の記憶にも蓮はいない。蓮は、人として過ごしていた蓮は、確かにここに存在していたのに。
世界から彼女が失われていく。忘れられていく、彼女が。人としての、蓮が。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
目を開けると、カラフルな天井が視界いっぱいに広がった。
ぼんやりとした頭でもはっきりと分かるくらいに色鮮やかなそれは、視界が鮮明になるにつれて、いっそ鬱陶しいくらいにその主張を激しいものとする。
「ァ…………?」
ひどく掠れた声が耳に届いて、しかしどうやらそれが、喉の渇きによってガラガラになった自分の声だと分かった。
額ににじんだ汗を拭いて、浅い呼吸を繰り返す。
夢を見ていた気がする。よくは覚えていないけれど、それが辛く悲しいものだったと、それだけが記憶に残っている。
加えて、寝起きだからか、全身に妙な違和感を感じて、手のひらを何度か開いたり閉じたりするも、それは一向に離れようとしない。
——まるで、自分の知っている体ではないような。
一度深く息を吐いて、朧げな夢の記憶を視界の端に追いやると、目をパチクリとさせる。
それからどうして自分が寝ているのかを確認しようとして、ゆっくりと体を起こすと、
「…………ッ!」
次に来たのは割れるような頭痛だ。
それはぼんやりとしていた奏太の頭を覚ますには十分すぎるくらいのもので、反射的に右手を頭に当てて痛みを抑えつつ、周りを見渡す。
「ここ、どこだ」
カラフルな部屋だ。床に天井、ベッドに机に椅子など、それらの全てが赤青黄緑の主色だけで構成されている。
唯一の例外は天井から吊り下げられたシャンデリアくらいのものだ。
部屋全体がトイカラー、と言うのだろうか、おもちゃの部屋を奏太に連想させた。
「オレは人形かフィギュアかよ……」
部屋の色合いばかりを注目していたが、改めて見ると、中々に面白い部屋である。
ベッドやソファもそうだが、その一つ一つがかなり大きい。部屋自体が広いというのもあるが、およそ一人で生活するには十分過ぎるくらいのものだ。
加えてそこら中に転がっているクッション。奏太の寝ているベッドだけでなく、部屋のあちこちに絵柄の描かれたものや無地、様々な色形をしたクッションが転がっている。
もはや、奏太の部屋どころか、この部屋の主の性別すら違うのではないかと疑い始め——
「あ、起きたんだねー」
意識外から間延びした声が聞こえて、慌ててそちらの方向に目をやる。
すると先ほどはクッションが転がっているだけだったはずのソファに転がり、本を読んでいる恐ろしく髪の毛の長い少女がいた。
「……妖怪?」
「お化けや幽霊なら言われたことあるけど、妖怪は初めてだなー」
少女は平坦な声でそう答えた。
突然のことに驚き速くなる鼓動を抑えつつ、奏太は少女をじっと見てその異常性に気がつく。
目の前の少女は存在がひどく曖昧だ。話さなければ気がつかなかったほどに影が薄く、まるで周りの景色に同化しているかのようだ。
しかし一度存在を認識すれば、その少女への衝撃が怒涛のように押し寄せてくる。
顔を構成するパーツの一つ一つが整っており、まるで人形のような少女だ。
ガラス玉のような碧眼に、ぷるんとした唇。全体的に華奢な体つきだが、隙間から見える肌は日に焼けていないミルク色をしており、それがひどく綺麗な顔をした少女の魅力を引き立て、生を与えていた。
ただし、それ以外は別だ。
膝あたりまで伸ばされた暗めの黄緑——鶯色の髪は、前髪でさえも顎下まである。伸ばされた、というよりは放置してたら勝手に伸びてきたと言わんばかりの量だ。わかめか。
極め付けは部屋着なのかパジャマなのか、ネグリジェのような生地の薄いものだけを身につけ、奏太の前に無防備なその姿をさらしている。
恐らく彼女自身は女を捨てようとしているわけではないはずだが、整った容姿とはずれたその見た目が、妙な違和感を奏太に感じさせた。
「あ、ひょっとしてお腹減ったのー?」
「まあ確かに減ってるけど、何でまた」
「さっきから私のこと見てるから、食べたいのかなーって」
眼前の少女は、発言の内容に反して、表情をあまり変えないで綺麗な人形の姿を保っていた。
それに妙な残念さを感じつつ、
「さすがにお腹が減ってても目の前の人を食べる趣味はないな」
「食べないのー?」
「食べない」
「そう、残念」
それまで内の感情を明かさなかった少女がふいに沈んだ声を出し、奏太は思わず驚く。
冷たくしすぎて落ち込んだのではないか、と。
「あー、じゃあもしもの時は、よろしく」
と軽口を交えると、
「え、嘘……」
少女は寝転がっていた体を起こして、自分の身を守るように両肩を抱いて見せる。
その表情にはれっきとした怯えがあったかと思えば、
「冗談に決まってるだろ」
「そう、なら良かったー」
今度は安堵の息を吐いてみせる。
一体この少女は何なのだろうか。
終始その吸い込まれるような碧眼でこちらを見つめてきて、何だか心中を見透かされているような気さえしてきてしまう。
会話に至っては、こちらのペースをことごとく崩され、しかしそれはどことなく懐かしい感覚が奏太の中にはあって。
それは奏太自身が無意識に目を背けているものであり、奏太にとってつい最近までは身近にあったはずのもので。
「そうそう。君が起きたら呼びに来るよう頼まれてたんだったー」
「呼びにって……誰に?」
奏太の問いに対して、少女はうーんと首を傾げて、
「変態?」
「俺は変態と話さなきゃいけないのか」
「じゃあ変人でー」
「結局変なのかよ」
どういう因果関係によって今から変人と話さなければならないのか、それは恐らく今ここで目を覚ました理由と無関係ではないはずだ。
だからと言って、一度変態と称された人間と話すことに抵抗感がないわけではないのだが。
「ん、しょ……」
少女はのっそりと立ち上がると、近くにあったティーセットの乗ったワゴンをガラガラと動かし、
「これ、飲んでいいよー。私の飲みかけだけど。クッキーもあるから」
ワゴンの上には、見るからに高そうなティーセットと様々な模様のクッキーがある。
確かに少女の言う通りそれは飲みかけで、
「いや、いいよって……あ、ちょっと待った」
少女が足音一つ立てずに部屋を出て行こうとするのを止めて、奏太は問いかける。
「名前聞き忘れてた。オレは三日月奏太。お前は?」
「私は……古里芽空。芽空でいいよ。よろしくね、そーた」
そう名乗った少女——芽空はわずかに口元を緩めると、やや気だるげな雰囲気を全身に纏ったまま部屋を出て行った。