第一章間奏 『醒めて』
学生服の少年は、目にかかるクリーム色の髪を指で撫でつけながら、今しがた止んだばかりの騒音の地を、何も恐れることなく平然と歩く。
それはさながらライオンの上で胡座をかく小動物のように、世の中の全てが自分の思い通りにいくのだと錯覚しているかのように。
途中、数分前まで騒音を奏でていた二人の男の姿を見つけると、ジロリと睨みつけ、しかし何にも触れることなく通り過ぎる。
「アオイお兄さんっ!」
駆けつけて来たのは蜜柑色の髪をした小さな少女だ。
白のワンピースが薄汚れているのは長い間地面に腰を下ろしていたからだろう。
「無事、みたいですね。……あの男がハクアを?」
「うん。突然現れてね、血みたいでね、何回も突いてね」
「興奮しているのは分かりますが、落ち着いて話してくれないと、全く分かりません」
こういう所は姉にそっくりだな、と学生服の少年——葵はため息を吐く。
そして目をキラキラとさせ、喜びを伝える少女に事の顛末を順番に聞こうとして、ふっと愚痴が湧いて出てくる。
「そうそう。ユズカが心配してましたよ。というか、そのせいでボクがこんな危険な所に戻ってくる羽目になったんですけどね」
最後まで言い切った後で、返ってくる反応はしょんぼりとした表情と謝罪だろう。葵はそう思って少女の顔を見ると、
「お姉ちゃんが——そうだ、アオイお兄さん、レンお姉さんは? 結構前に別れてね、それからずっと会ってなくて、そしたら、ハクアが……」
「あれ?」
勢いよく言葉が滑り出てくるあたり、恐らく少女は、今の今まで予期せぬ事態の連続で、すっかりと忘れていたのだろう。
しかし、
「すみません。蓮さんの方はユズカと芽空さんに任せて来たので、ボクは知らないんです」
「そう、なんだ……。でもでも、お姉ちゃんやメソラさんの方がハクア相手なら役立ったんじゃ……?」
言外に役立たず宣言をされて、相手が一回りも下の子どもとはいえ、苛つきを覚える。
「別にボク一人でもあの化け物の相手くらい、出来ますよ」
ふん、と鼻で笑ってみせる。
彼の表情にあるのは、根拠のない自信と意地。それが一体どれほど難しいものなのか、特に自分にとってはどれだけ無茶な事なのか、それを分かった上で、だ。
「さて…………」
予想外の事態によって随分と遅れてしまったが、恐らく今頃は向こうも合流した頃だろう。
となれば、自分もすぐに少女を連れてこの場を離れるべきだが、
「彼、どうしましょうか。……ユキナ」
ユキナ、そう呼ばれた少女は、僅かな躊躇いの後に、困ったような表情を葵に向けてくる。
それはつまり、
「助けて欲しい、と?」
「ダメ……? あのね、あの人私を助けてくれたから、その、お礼言いたくて。それにすごく強くて、かっこよくて、だから、その……」
「あーもう、分かりました。そうですね、聞かなければならないこともありますし、獣人みたいですしね。仕方なく、面倒ではありますが、慈悲深いこのボクが助けてあげますよ」
長々と言葉を並べてみせる葵へのユキナの反応は苦笑いだ。
その笑いに対して思う所がないわけではなかったが、飲み込むことにする。
ユキナに怪我がないことを確認すると、二人は奏太の元へ向かう。
無論、その近くにはハクアも共に倒れており、意識がないと分かっていても警戒せざるを得なかった。
それゆえに、葵はじっくりとハクアを観察した上で、ある一点で目が止まり、深く息を吐く。
「それじゃあ急いで戻りましょう、と言いたい所ですが、その前にユキナさん」
どうして呼ばれたのか分からずに、ユキナは首を傾げた。
この質問は足りない情報の埋め合わせに必要になるはずだ、そう確信して、葵は少女に問いかける。
「ハクアの手首の懐中時計……いえ、『デバイス』は、いつから壊れていました?」
「え? ええっと、多分レンお姉さんと別れた後、かなぁ」
「そう、ですか」
再び葵は深く息を吐く。
これは面倒なことになっている、と。
そもそも葵は、蓮とユキナが離れた時点で嫌な予感はしていたが、ハクアの懐中時計が壊れ、そしてこの場に彼女の姿がないことから、それは確信へ変わった。
ならばこそ、彼には問わねばなるまい。未だ目覚めない、このどこの誰ともしれない獣人に。
「ユキナを助けてくれて、ありがとうございます」
彼の囁きは、ごくごく小さなものだった。ユキナにも、奏太にも、届かない。
誰にも届かないその感謝は、宙を舞うと、誰の目にも触れず、やがて消えてしまった。