第一章19 『目覚め』
何度も聞いた鈴の音だ。
『獣人』に触れることで時々響くそれは、涼やかに、しかし次第に不快になるほど大きな音を鳴らす。
しばらくそれは続き、ようやく止まったかと思えば、身体中を鋭い針で刺されたような痛みが生じて、苦痛に歪んだ声が出た。
「————痛イ」
痛い。熱い。
奏太の中で、今までとは比べ物にならないほどの痛みが駆け巡る。
それは他の何も考えられないほどに彼の頭を支配し、侵食していく。
痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
脳髄がえぐれるような、どろりとしたものが体の中を蠢く。
視界が真っ赤に染まっていき、再び鈴の音が奏太の耳に届いた。
「————」
いつか聞いた音だ。それはいつだったのか、分からない。どうしてなのか、分からない。一体、どうして、何故、何が、分からない。
しかし、己の中に蠢く何かに身を委ねれば、それが分かるのだと確信していた。
故に奏太は、選ぶ。
「俺は——オレ、は?」
むくりと体を起こし、彼は吠える。
ずっと昔に失った、『怒り』を、奥底から湧き出すままに。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
少女は震えていた。
それは本能的なものだ。カエルが蛇に睨まれて、動けなくなるように。なす術もなく狩られる、弱者のように。
震える瞳で見つめた先、そこにはハクアの姿があった。
「お前はここで死ぬんだ。後悔しろ、僕の友達でなかったことを。お前の仲間のクズが、友達ではなく、弱かったことを。お前が、お前であったことを!」
灯りもない暗闇の中、彼の顔も、姿形も、はっきりと分かる。
彼の言うクズとは、蓮の事だろう。
それに怒りがないわけではなかった。
普段は怒ることのないその少女でさえも怒りを抱く。そんな不快さが、目の前の男にはあった。
しかし強い後悔の念と、蓮の身に何かがあったのだという悲嘆が怒りを上回り、耐えきれなくなって少女は涙を流す。
「ごめ、ごめん、なさい。レンお姉さん、私が、私のせいで……」
この場に誰かが居れば、間違いなく心を痛める光景だ。同情し、情けをかけようとするだろう。
しかし、それに対するハクアの言動はあっさりとした、冷徹なものだ。
「クズはクズらしく死ね」
ハクアの手が少女に迫る。蓮が死ぬに至った、その手が。
少女は怖くなって目を瞑り、もう逃げられないのだと覚悟を決める。
幼さ故に、単純で残酷な覚悟を。
ハクアが行うのは単純な動作だ。近づき、手刀を少女の頭にぶつける。そうするだけで彼女の頭は砕け、粉々に————、
「…………?」
なる、はずだった。
いつまで経ってもその瞬間が訪れず、少女は目を開ける。
そこにいたのは、ハクアではない。赤黒い髪をした少年だ。
少女が目をつぶっている間に、この少年がハクアを突き飛ばしたのである。
しかし、少女は何が起きたのか分からず、目の前の人物を仰ぎ見る。
それは血だった。どす黒い尖った血が、灰色の何かを引き連れて、ハクアに襲いかかったのだ。
少女は目をぱちくりとさせて、彼の姿を注視する。
血が固まったようなそれは赤黒の髪の毛であり、ねじれた大きな角が一つ。肌が露出している部分は灰色の毛皮に覆われており、茶色や赤の毛が少し混じっていた。
この場に彼を知るものがいれば、思わず驚きの声をあげただろう。
何故ならそれは、
「————」
三日月奏太、だったのだから。
「ぁ、え、えと、あの」
ようやく目の前の状況が理解できた少女は、奏太に何かを伝えようとするが、上手く言葉が出せない。
その理由としては、少女の中には驚き、感動、感謝、様々な感情が混ざっていたことに加え、疑問があったからだ。
目の前の彼は獣人。だが、彼のような姿は一度も見たことがないし、助けられる理由もないはずなのに、
「どう————」
どうして、そう尋ねるはずだった。しかし少女の声をかき消すような騒音が、真横から響く。
「なんだ、なんだよ、なんなんだよお前はっ!! クズが、クズ共が動くな、話すな、群れるな、生きるな……死ねッッ!」
崩れた建物から姿を現したのはハクアだ。
激昂をあらわにした彼は、突如現れた奏太——未知に対して、殺意を向ける。
「ひっ!」
消えていたその存在が戻ってきて、思わず少女は怯えた声を出す。
目の前の少年がいても、きっとあの化け物には敵わない。あのレンお姉さんが敵わなかった相手なのだから、そう少女は悲観する。
「————ァ」
掠れるような声が一瞬、聞こえたかと思えば、目の前から少年が消える。
少女には彼がどこへ行ったのかがすぐに分かった。それは遥か右方、ハクアの元だ。
そちらに目を向け、次に訪れるであろう光景に少女は唇をきつく結ぶ。
「…………ぇ?」
そこにあったのは、確かな優勢だ。
低い体勢から突き上げるように角を繰り出した奏太の一撃が、ハクアの顎を直撃する。
かすり傷程度でしかない一撃だが、それにハクアは全く反応し切れていなかった。
「こ、のっ!」
頭が揺れても彼が倒れなかったのは、奇跡と言ってもいい。反撃をしようと全身に力を込めたハクアが、奏太を見据えようとして—— 、
「はっ」
彼が急に視線を横にずらし、顔を向けた。
一体そちらに何があると言うのだろう、少女も追うように目を向けると、
「おお、友達よ! 待っていてください、今すぐにこのクズを——」
そこにいたのは、学生服を着た少年だ。それは少女がよく知っている少年であったがゆえに、ハクアも、少女も、注意がそちらに向く。
——この一瞬が仇となった。
ハクアの声が途中で途切れ、小さな突きが彼に繰り出される。
それがあらゆる場所に、ハクアが蓮に与えた傷をなぞるように、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も突き出された。
「…………すごい」
少女の口から声が漏れる。
既に少女からは恐怖が消え、そこに残ったのは素直な感動と、衝撃だ。
「————ッ」
幾数もの箇所に穴が空いたハクアの体から、血が零れ出していた。
頭を揺らされても倒れなかった彼の体がグラつき、大きく左右に揺れる。
今の彼の状態は、まさに異常としか言えなかった。
奏太によって何度も刺されたはずのその体には、小さな穴が空いているだけなのだ。
少女が知る限り、並大抵の人間であれば、それは間違いなくおかしな光景で、体は千切れ、息絶えるのが当たり前のはずだ。
苦痛に耐えようとしているのか、何度か彼から声が漏れて聞こえてくる。
しばらくそれが続いたかと思えば、やがて陽炎のようにゆらりと体を揺らし、ハクアは倒れた。
その事実に嬉々とした声を上げようとして、少女は気がつく。
「————」
ハクアを、あの化け物を倒した少年——奏太が、何かを小さく呟いたのを。
しかし少女にはそれが何かを聞き取れない。
——そして奏太は、ゆっくりとその場に倒れ伏した。