第一章1 『彼女について知らないこと』
「————」
少年は窓の外で何かが飛んでいるのを見つけた。
リンゴのような真っ赤な膨らみに小さな紐がついている——所謂風船である。
一体どこから飛んできたのだろうか。
それはのんびり空中浮遊の旅を続けていたかと思えば、一筋の強い風に乗って宙を舞い、どこかへ消えてしまった。
しばらくすればそのまま上っていって、いずれは『ゴフェルの膜』に触れるだろうか。
膜外の水分の一切を弾くというとんでも機能を持った、あの水色透明な膜に。
引っ越してきてはや数週間、毎日のように見かけるものではあるが、決して見慣れはしないし暇さえあればつい見てしまう。
物珍しさと、技術の発展への感心。
それらが理由の大半なのだが、だからと言っていつまでも見ているわけにはいかず。
目を離してふっと黒板を見やり——、
「——あ」
すっかり板書を忘れていたことに気がつく。
すぐさまシャーペンを手に取ると、黒板に書かれた文字の羅列を睨みつけ、頭の中で何度も唱えながら、机上に広げたノートに書き出していく。
しばらくして、終業を知らせるチャイムが鳴ると同時、少年はギリギリのところで板書を終えた。
どうにか間に合ったと息を吐き、手首に巻いてある腕時計の液晶に触れる。
すると無機質な機械音が小さく鳴ったかと思えば、次に現れたのは—— 、
「三日月くん、板書全部取れた?」
意識外から声をかけられ、心臓が跳ねる。
いや、正確には意識外から声をかけられたことに加え、もう一つ理由があった。
「ああ、全部取れたよ。見せて欲しいとか?」
「ううん、そうじゃなくて……。さっき、三日月くん慌てて書いてたから、書き切れてないんじゃないかな、って」
「ああ、なるほど。気遣ってくれてありがと、美水さん。また次の機会によろしく」
「え、うーん……考えておく」
やや顔を赤らめて話す少年、三日月奏太は、彼女——美水蓮のことが好きだ。
透き通った水のように艶やかな薄青の髪を揺らし、ぱっちりと開いた桃色の眼で見つめてくる彼女は、間違いなくこのクラス、いや、学校中でも一番と言えるほどに、容姿が整っている。
「そういえば三日月君ってどこの中学校だったっけ」
奏太は授業で使った教科書を、次の時間のものと入れ替えると、
「多分言っても分からないよ。俺県外の公立だったし」
「あ、私も県外出身だよ。みんなエスカレーター式か、県内ばっかりだもんね。友達作るのには苦労したなぁ、入学してすぐにはもうグループが出来てるんだもん」
彼女は数週間前のことを思い出しているのか、唇をむむっと尖らせたかと思えば、溜息を吐く。
「でも美水さん、最近じゃいつも誰かと一緒にいない?」
「そうかな」
「そうだよ」
考えてみると、彼女に限らず、女性は誰かと行動することがやけに多い気がする。
一匹狼なんていう言葉に取り憑かれる男と違って、集団行動が本能的に染み付いているのかもしれない。
ふいに、それが悪い方向に発展した時の事が頭をよぎって、ぶんぶんと頭から消し去る。
「でも三日月君もみんなに好かれてると思うよ。少なくとも、嫌ってる人はいないよ」
連の言葉に思わず奏太は固まった。
彼女と話していると、虚を突かれたような不思議な感覚に陥る時がある。図星、とは違うが、その言葉は妙な説得力を持って、すとんと身の中に入るのだ。
毎度のことではあるのだが、それでも奏太は問いかける。
「……どうしてだ?」
「うーん、私の直感かな。それに、三日月君の言葉を借りるなら、いつも誰かと一緒にいる私が言うんだから大丈夫」
蓮はそう答えると、ふふっと笑い出す。
その笑顔は咲き誇る花びらのように鮮やかで、目を離せないくらいに可憐で。思わず奏太は見とれてしまう。
「そ、それなら安心だな……」
赤く染まっていくその頬を隠すように、奏太はすぐさま話題を変える。
「そういえばさ、美水さんは兄弟とかいるの?」
「妹がいるよ、私と妹の二人」
「あー、確かにお姉ちゃんって感じする。仲良さそう」
「うーん、どうかなあ。あんまり喧嘩はしないから、仲良いのかも。いつも一緒にいるし」
そう話す彼女はどこか嬉しげで、姉妹間の関係が良好であることは明白だった。
一人息子である奏太には、姉妹や兄弟の距離感的なものは分からないが、恐らく彼女のそれは友達よりもずっと気兼ねなく話せる関係で。
「みんな大体喧嘩が多かったり、そもそも関わらないとかだもんな。ひょっとしてそのアクセサリーもお揃いだったり?」
きょとんとする蓮に、奏太は彼女の首元を指差す。
彼女の首元からはネックレスらしきものが下げられており、それは彼女のブレザーの下、シャツの隙間から見え隠れしていた。
対して蓮はなんだ、と口元を緩ませると、
「えっと、これはね——」
「蓮ー、授業行こー」
言葉を続けようとした蓮の声は、彼女の友人の声によって遮られた。
友人の声で授業の合間の休憩時間が終わりかけていることに気がついた蓮は、慌てて教材の準備し、
「ごめんね、また後で話そ!」
そしてそのままそれを抱えて教室を出て行ってしまった。
奏太は彼女と教科のクラスが違うことに嘆きの声を上げるが、その声は誰にも届かず離散していく。
それからふと眼前に目をやると、蓮と話す前に腕時計を操作していたことを思い出す。
思い出した理由は至って簡単で、少年の眼前に広がっているのが、用途ごとに分けられたアイコンの数々や、動画、音楽、ウェブブラウザーに、医療ソフトだからだ。
それらのアイコンは、実像ではない。しかし奏太が空中に手を伸ばし、触れてやると、アイコンに変化が起き、ファイルが展開、あるいは起動する。
授業が始まるまでの間、暇つぶしでもしようかととウェブブラウザーを開こうとするが、一足遅く始業を知らせるチャイムが鳴ってしまった。
落ち込みかけるものの、彼女と長く話せた、それだけで充分じゃないか、と自身に言い聞かせて気分を入れ替える。
そして腕時計の液晶にタッチすると、ネットを切り、電源を落とす。
教室を見渡せば、彼と同じ動作をしている者が数名見られた。
当然だ、何もこれは彼だけの特別な力などではないのだ。腕時計型の機械を通して扱う『デバイス』を、この大陸中の人々は、体内に入れているのだから。
奏太は教科書を広げると、先ほどの蓮の笑顔を思い出して軽く笑みをこぼす。
彼女と話していると、心が踊る感覚を覚えるのだ。それはまるで、自分の中の足りないピースが、夢を見ているような感覚が、現実に引き戻されるような、そんな気がして。