第五章16 『希望の未来へ』
腹の奥底——自身の体の中心には確かな生命がある。
それは常に奏太とともにあり、もう一人の三日月奏太、あるいは『ユニコーン』とも言うべき存在だ。
力を使う度。
何かを救おうと思う度、奏太はそれに語りかけ、奇跡を引き起こして来た。
——片割れ。
ずっと近くにいたのに、奏太はその本質を知らないでいた。
「わたシ、の。約束は……」
それは彼女についても同様だ。
奏太はずっと分かった顔をして、上から目線で偉そうに語って。
今更ながら、何様だ、と思う。
三日月奏太は結局のところ、周りに恵まれただけの、一人の少年でしかない。
少し前まで、一人では何もできないちっぽけな子どもだった。感情も記憶も失って、知るべきことも自分自身すらも知らないまま生きてきた。そんな奏太に怒ってくれる人がいて。側にいてくれる人たちがいて。
だから誰もが超えない、超えられない白線を、一歩踏み出せるだけの少年。
たとえそれが小さな一歩でも、先にはみんながいたから。
「…………約束、か」
奏太はここまで来るのに、一体どれだけの約束を交わしてきただろう。
今ではもう数え切れないほどで、そのどれもに大切な記憶がある。
叶えられなかった約束もある。
叶わない約束もある。
けれど、——届かないものに届かせるのが『ユニコーン』。
全部を救ってやろうなんて傲慢で強欲なことは言えない。言っていたけれど、無理だった。
でも。目の前の彼女だけは手遅れにしない。してやらない。
「私。わた、シは。姉さん。ああ、あああああ。ァ、アアアアアアアアアア————!!」
芽空が取り付けた『トランスキャンセラー』をも弾き飛ばし、さらなる変化を遂げた『一人の少女』。
その体に侵食していた獣は、既に彼女のほとんどを飲み込んでしまっている。
八枚羽は六枚にまで減り、足もちぎれ、その姿すらも一定のまま保たれることはない。姿にノイズが生じ、ブレ、人にはないパーツが加わることで、彼女という人間を犯していく。
かろうじて自我が残っているようだが、もはや時間の問題だろう。
今、この世界で『一人の少女』を救ってやれるのは、他でもない三日月奏太。ただ一人だけだ。
それが奏太に課せられた絶対の義務で、譲れない意志で、交わした約束だから。
「そーた!」
「ああ。——分かってる」
『青ノ蝶』がこちらへ向けて放たれる。
それはもはや彼女の意思なのか、それとも感情が暴走した結果なのか分からないが、これだけは言えよう。
今の彼女にとって、力の発動は苦痛でしかなく、
「——約束はもう、お前を蝕む 呪いでしかない。それにいつまでも縛られてちゃいけないんだ」
衝動ゆえかこれまでとは比べ物にならないほどの量、数だったが、全身全霊の『昇華』をもって『青ノ蝶』の攻撃を全て避け切る。
しかしそのまま接近戦に挑まず、大きく後ろへ距離を取って。
すぅっと、一呼吸。
————隙を覚悟で地を蹴り、真正面から突進。
「——行こう、『ユニコーン』」
三日月奏太は改変者だ。
だから見た目がどれだけ似ていても、能力まで完全に再現できるはずのない幻獣ユニコーンを『ユニコーン』たらしめている。
そのおかげで自分自身はもちろん、誰かを回復させることもでき、幾度となく危機を救って、乗り越えてきた。
しかし、ここで一つ疑問が生じる。
改変者はカミサマと契約した『イデア』か、自身の願いを奇跡として発言させた原点に分かれるわけだが、奏太はその後者。今更そのことについて疑いはない。
ただ、『エデンの園』で記憶を遡り、蓮との邂逅を経て。
原点を確認して、
————三日月奏太の能力は本当に回復なのか、と。
体を再生する速度があまりにも早すぎることと、特徴的な角。白い皮膚。それらの特徴を見て『ユニコーン』と名付けられたわけだが、それはあくまで本来の能力の一端に過ぎなかった。
だってそもそも、奏太の原点——美水蓮が死んだあの日。想ったのは、たった一つ。
「……この世界は、間違ってる」
だから傷ついた体を否定する。
だから『ラプラスの選定』によって停止した世界を否定する。
『青ノ蝶』が体を刺し、それでも奏太は前を向くのをやめない。
走って、駆けて、全力で踏み出して、それでもまだ前へ。
「……奏太さん。私を」
攻撃が止んでも、加速した動きは止まらない。既にその速度は思考をも超え、痛みも筋肉の限界も、全ての感覚が後回しになる。
けれど構わない。
やることは変わらない。ずっと前から彼女と約束をしていた。それを果たすだけ。
「————助けて」
強く、踏み出す。
「——ずっと遠回りしてきたけどさ」
今が選ぶ時なのだ。
今の今まで目の前にあった選択肢。けれど自分の幸せを見つけて、選ばなかったこと。選べなかったこと。
それが彼女の救いとなるのなら。
それしか姉妹を救う手段がないというのなら。
三日月奏太は、
「——約束。守りに来た」
——美水貴妃を殺す。
『約束』を守るために。
次の瞬間。
ずぶり、と。
奏太の角は彼女の柔らかな肌を突き破り、骨を、臓器を超えて貫通した。
文字通り、端から端まで。
「…………ぁ」
『一人の少女』から小さく声が漏れ、唇の端から血が垂れる。
それは曲線を描きながら角へと落ち、伝って、奏太の瞳に入った。
「……痛いな」
眼球に異物が入ってこれば、当然誰でも痛みを覚える。
けれど、多分これはそれ以上の。
彼女がずっと向き合えなかった、積み重なった過去の数々だ。
瞬きをすれば、なおのこと痛みは増す。瞳いっぱいに血が広がって、視界の半分が赤く染まる。
「……でも、向き合わなきゃいけないんだ」
奏太は角を貴妃の体に刺したまま全身に力を込め、額に——片割れと、集中。
「この世界は嫌なことで溢れてる。一人じゃ解決できないことばっかりで、気が付いた時には取り返しのつかないこともたくさんあって、目を逸らしたい。嘘だって否定したいよ」
思い返せば、本当に自分は状況に振り回されてばかりだった。
その度に傷ついて、心が折れそうになって、もしかしたら奏太も彼女と同じ道を歩んでいたかもしれない。
「でもさ。それじゃダメなんだ」
奏太の願いを聞き届けて、『ユニコーン』が発動する。
「泣きたくなるくらい辛くても、信じてた人もいなくなって、孤独だって感じても、前を向かなきゃいけないんだ」
——角を通して、『ユニコーン』の力が貴妃に伝わる。
「自分を必要だって言ってくれる人がいる。一緒にいたい人がいる。その人たちだけは失っちゃいけない。失ったら、今度こそ自分は立てなくなるから。だから、みんな前を向いてきた!」
攻撃を受けた体が痛む。
けれど、力は決して緩めない。
「過去は変わらない。でも、たくさんの大切な人たちとの出会いは絶対に変わらないよ。俺も、お前も! みんなも!」
————『ユニコーン』の本質は、『間違った現実を否定する』ことにある。だから、
「受け入れたくない、苦しい痛みの過去があって。けど、それでも大切な誰かを守りたいって顔を上げて。自分の幸せが何か分かって、未来のために駆け出して」
角から発せられた光は、『一人の少女』と同化していた『青ノ蝶』を溶かし、消していく。
彼女を呪いの運命から解放し、正しく現実を受け入れて。幸せになれるように。
「————そうやって俺は。俺たちは、大人になっていくんだ」
砂のようにサラサラと、青が散っていく。正しく死者を死者として導くために。最後の一粒まで、『青ノ蝶』を。
……そうして残ったのは、一人の少女。倒れこんできた彼女を奏太は抱え、ゆっくりと目線を合わせる。
かつて、幸せの約束を願った美水貴妃だ。
「……奏太さん」
注意していなければ聞き逃しそうなくらい、掠れた声。
瞼はもうほとんど開いていない。
焦点も、合わない。
だから奏太は、聞き届ける。
「…………私たちを。幸せにしてくれて、ありがとう」
約束から解放された彼女は。
そこにいた少女は、感情を隠そうともしなかった。
——とても可憐で、咲き誇る花々のような笑顔。
きっと彼女はこれから。
水のように美しい希望を持ち、歩いていくことができる。
奏太は、そう思う。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
声が、した。
「————」
ぱち、と瞼を開くと、いつかどこかで見たような、何色もの色鮮やかな空間が視界いっぱいに広がる。
上も下も、地面も空もない場所だ。
一体どこが入り口で、どこが出口なのか。そもそもここは出ることを想定して作られたものなのか。
いくつか考えてみるけれど、既に自分の中で答えは出ていた。
「よ。いつもありがとな」
『————』
何気なしに、ふよふよと辺りを浮いていた光のようなもの——片割れに声をかける。
以前に来た時は状況が状況だったのもあるが、なんというか。雰囲気がかなり違うように思う。
この場所も、それも。
「でも、それは別に複雑な理由とかじゃなくて、答えは俺の中にある。……そんなところか?」
『————』
チカチカ、と点滅し返事のようなものをしている、と思う。少なくとも、何らかの意思表示であることは間違いないだろう。
「っておい。なんだよ急に?」
『————』
続けてそれは、奏太の周りをじゃれつくように飛ぶ。顔の周りや背中、腕を通って、また正面へ。
「まるで動物……いや、ある意味間違いでもないのか? 『ユニコーン』なわけだし」
そんな自問自答はともかく、この行為は単純なじゃれつきではない。
実際に今さっき触れて、何となくそれが伝わって来た。
愛情から来ると言えばまさにその通りであるが、
「…………これが別れになるかもしれないから、か」
『————』
考えてみれば、意思はそれぞれ独立したものと言えども、それもまた三日月奏太自身だ。
今自分が考えていることくらい、『エデンの園』から出る時点で分かっていたのだろう。
「なら、なおさら。——俺が今考えてることも分かるよな?」
『————』
「そりゃ俺だって寂しいけど。それは俺たちにとって必要なことだ」
申し訳なさそうな調子で、笑み。
けれど、だからこそ。
「今まで一緒に戦ってくれてありがとう」
『————』
「それから——」
耳があるのかは分からないが、それにしか聞こえないように顔を寄せ、小さく囁く。
『————』
しばらく、間があった。
多分きっと、それは奏太の言葉を噛み締め、飲み込んだ。
別れを惜しむように、また何度もチカチカと点滅をし。
視界が白んでいく。
片割れが望むままに進めと、送り出してくれる。
「……」
奏太の前にいたという、カミサマを生んだ原点。
ひょっとすると彼もこんな気分だったのではないか、と思う。意思の方向性は違うけれど、恐らく多分、そうなのだろう。
ならば奏太は。
三日月奏太は。
「俺たちにはやらなきゃいけないことが残ってる。——そうだよな?」
『————』
視界が完全に真っ白な光で覆われて————。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「——ーた!」
自分を呼びかける声に、薄っすらと瞳を開ける。
油断すると閉じてしまいそうなくらい瞼が重たい。しかしそれでも何とか、正面にいる少女だけは、視界に捉える。
こちらを覗き込む、ガラス玉のような青。鶯色の長髪。ミルク色の肌。同年代で考えればやや痩せ気味であるが、不健康とまではいかない体つき。その見た目と声には、何よりも覚えがある。あった。
「……芽空、か」
「そーた! 良かった。……やっと、気がついた」
やっと、ということは。
……えっと。
寝起きだからか、上手く頭が回らない。視界も薄暗くて、天井は遠い。どうやら自分は寝かされているようだが、妙に体に違和感が、
「————っ!?」
「そーた!?」
動かそうとすると、激痛が走る。
どうやら一箇所や二箇所だけの騒ぎではなく、全身に刺傷があるようだ。頭が先程からぼうっとするのは、そこから血が抜けたからか。
けれど、そのおかげというべきか、ようやく今になって直前の記憶が戻ってくる。
奏太は貴妃と、姉である蓮を救うために奔走した。その結果が今で、
「……芽空が運んでくれたのか?」
「えっと、うん。近くのお店に、とりあえずだけど」
なるほど、確かに右に左に視線を向けてみれば、椅子に机、おすすめメニューを書いた看板だの、観葉植物だの、何だか色々置いてある。
照明がついていればきっとおしゃれな店なのだろう。いつか、誰かを連れてここへ来るのも悪くはないかもしれない。
——けれど、当然というべきか人の気配はなく、世界は未だに停止したまま。
一部の人間は対象外にした、とのことだが、他の者たちがここへ来るにはまだ時間がかかるだろう。
「…………似てるな。あの時と」
「え?」
「いや、こっちの話。ていうか……」
今になって気がついたが、後頭部に感じる弾力。柔らかなこの感触は多分、そういうことだろう。
気遣いは嬉しいけれど、奏太にとってこの体勢は色々と複雑な過去があるというか。
「そーた、どうしたの? 表情がコロコロ変わってるけど……」
「いや。えっと」
せっかくの気遣いに対して、わざわざ自分の複雑な男心を持ち出すわけにもいかず、
「……膝、ありがとう」
「膝?」
何の関連性が、と一瞬芽空はきょとんとするが、すぐに「ああ、そういうこと」と頷き。
「どういたしまして、だよー」
ふふっと笑って、目にかかった奏太の髪を指でどける。
その動作に奏太は心臓が跳ねるような感覚を得、慌てて視線を逸らしつつ。
声を、落とす。
「……頼みたいことがあるんだ」
変化に気がついたのだろう、真面目な表情に変わる芽空。
「……うん。どうしたの?」
華が彼女を後継者として選んだのには、プルメリアとして名乗っていた子どもの頃から見てきたから、という背景もあるのだろう。迷いなくそう思えるくらいに、彼女の言葉に頼もしさを感じる。
元々そういう気質のあった少女だとは思うが、本当に彼女は強くなった。誰よりも近くにいた奏太だから、なおさらそう思う。
だから奏太も、任せられる。
「『獣人』の卵の件だけど、あいつのことだから何かしらの手は打ってると思う。だからこの都市が海に落ちた後、騒ぎの収拾に力を注いで欲しいんだ」
それはもちろん、芽空だけではない。
ラインヴァントには頼れる『獣人』が何人もいて、本来の立場的にはHMA側のフェルソナ、エトも協力してくれるはず。
「それから希美と華のことも。かなり難しそうだけど————」
「ちょ、ちょっと待ってそーた!」
言葉の途中で、芽空が何度も瞬き。震えた声。表情は、縋るように歪んでいる。
「ね、そーたは? そーたもだよね? だって、それじゃまるで。全部私たちに任せて、そーたが……」
感情のこもった瞳が訴えかけてきている。
————三日月奏太は死なないよね、と。
「嫌だよ、そーた。一緒じゃなきゃ嫌。だって私は、そのために——っ!」
涙が彼女の頬を伝って、落ちる。何度も何度もこぼれて、冷たい熱情が奏太に当たって、心の奥が締まるような感覚を覚える。
頭の中で、あの日の光景がフラッシュバックした。
奏太があの日、蓮に言ったこと。言われたこと。
芽空が今、奏太に想いを伝えてくれていること。
どれだけの違いがあるだろうか。
どれだけ、大人に近づけただろうか。
奏太は痛みを堪え、小さく笑みを浮かべる。
「……芽空。華が言った言葉、覚えてるか?」
「華、が……?」
「ああ。原点は願いで改変者になるってこと」
言い、手を額に。
今『昇華』を発動すれば、奏太の『トランス』である『ユニコーン』が体現され、正しくその能力を発動させるだろう。
「だから俺の願いで世界を戻す。止まったままの世界はきっと、すごく退屈だからさ」
だが、先日の一件から奏太の角は折れていて。今もその部分だけは再生を行えない。
「そんなことをしたら、そーたは……」
「ああ。多分、力を使い果たすだろうな。前はともかく、今はもう限りのある能力だから」
奏太の原点は美水蓮を失ったあの日。
何もかもを否定し、世界が間違っていると叫んだあの時だ。
だから目的を失えば当然……力も、失われる。
たとえ芽空が、それを望んでいなくとも。
「……ダメだよ、そーた」
否定する彼女は不死だ。
奏太のために華から継いで、しかしその奏太が失われたら、彼女は。
「そんなことになるんだったら、私。このままこの世界で————」
「——ダメだ、芽空」
それは、望んではいけないこと。
溢れる激情から、口に出しそうになった彼女に、
「それだけは、ダメなんだ」
重ねて言う。
永遠の世界で共に居られる。
それは多分、幸せなことだ。
誰かに責められることもなければ、平和を脅かされることもない。平凡で、穏やかな日常をずっと過ごせるのだろう。
でも、それは奏太たちに託してくれた者たちへの裏切りで、冒涜。
だからたとえ、本心からこぼした想いでなくとも、それだけは許してはいけないのだ。絶対に。
「でも、私は……」
「————」
「そーたがいない日々なんて。そんなの、耐えられないよっ!」
……。
…………。
あの日と似ている。
……けれど、奏太は知っている。
あの日と今は絶対に違うのだと。
奏太が求めるものが何か。
芽空にとって必要なことは何か。
二人が行くべき先は、どんな世界か。
——体が痛い。
けれど無理やり起こして、彼女に向き合う。
「芽空。俺はこの世界が好きだよ」
涙は止まらない。
こうやって誰かを泣かせてばかりの奏太は、いつかバチが当たるのだと思う。
でも、奏太のために泣いてくれた人はみんな立派な人たちばかりで。見るたびに胸の奥が痛くなって、たくさんのことを教えられるのだ。
「確かに誰かが監視してなきゃ、悪巧みをする奴らはいる。人道に反した、最低なことをやる奴らもいるけどさ」
それを乗り越えてきた人たちに、教えてもらった。
「それでも報われない誰かを救いたいって人がいるから、世界は回ってる。少しでも心の痛みを取り除いて、幸せにしたいって思いながら」
身近な立場なら、そうだ。
「ラインヴァントも好きだ。葵もユズカも。ユキナに梨佳や蓮、フェルソナにオダマキ、絢芽たち非戦闘員の子たちだって」
それから、
「シャルロッテにエト、ヨーハンに秋吉。ケバブ屋のおっちゃんに、何ならHMAだって。……みんなみんな、俺は好きだ」
「そー、た?」
たくさん悩んだ。たくさん迷って間違えて、本当に不器用な人生だったけれど。
それでも確かに心に一つ、できたことがある。
きっとこの先、また多くの困難が待ち受けているだろう。けれど構わない。もう、迷わない。
奏太はありのままの想いを、正直に伝える。
「————好きだよ、芽空」
彼女の唇に、そっと自分の唇を重ねた。
芽空は潤んだ瞳を驚きで見開いていたが、やがてこちらを、感情のままに受け入れる。
一度離れ、それでもまた、もう一度。
「————っ」
柔らかな感触。温かい人の温もり。人形なんかじゃない、確かな生。
背中に電気が走ったような甘い衝撃。頭の中が途端に熱くなって、想いが溢れかえる。
でも、永遠はない。
だから、長く思えた数秒も。
二人の時間も、終わりが来る。
「……そーた」
息遣いさえ届く距離。
目の前には彼女の青い瞳がある。
涙は——まだ、止まりそうにないけれど。
「これまで、たくさんありがとな」
先ほどまで重なっていた唇が強張り、——奏太は、優しく微笑む。
「俺は原点だ。一つの願いのために、世界を書き換える」
困惑。けれど、もう一度驚きに目が見開かれ。
それを確認した奏太は、体の奥底に集中。
もう一人の自分——片割れに意識を向け、さらに、口の中で唱える。
——広げて、纏う。
体の中心から全身に伝わっていく力。それはとても澄み切った、純粋な想い。だから至る。『憑依』の上にある『纏い』、さらにその先の『昇華』へ。
黒髪が揺れ、前髪をかき分け、額から先端が折れた角が伸びる。
意思に答えるため、力は全てそこに集中している。だから、
最後に、芽空を見つめて。
「————またな、芽空」
だから彼女も、それを受け入れた。
「————待ってるよ、そーた。……私の、最愛の人」
涙でいっぱいになった瞳。
戦闘で髪も服装も、乱れてしまっていたけれど。
それは心が突き動かされるような、最高の笑顔だった。
『ユニコーン』が、世界を戻していく。
あるべき姿へ、あるべき場所へ。
たくさんの犠牲があって、苦痛に苛まされ、喪失を取り戻すには難しい、そんな世界だけれど。
きっとこれから起こるのは、一筋縄ではいかないことばかりだろうけれど。
少なくとも、今日、ここにいる自分は。
「————俺は、幸せになれたよ」
視界が揺らいで、体が前に倒れる。
全身の感覚が瞬く間に消え失せて、本来何も感じるはずがないのに。
「おやすみ、そーた」
その瞬間は、とても温かかった。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
そこは、白黒の世界だった。
白い空に、五角形に切り出された黒い地面。
二人の少年がいて、一人は白髪。もう一人は黒髪だった。
「キミはこれで、良かったのかい?」
「ああ。俺たちはこれで良いんだ」
白髪の少年——カミサマはどこか納得がいっていないという様子。
そんな彼に黒髪の少年奏太は、
「ここに来れるってこと、教えてくれてありがとな」
現実世界に戻る前、カミサマが伝えた二つ目のこと。それは奏太にとって必要なことだったから。
なぜなら、
「もうみんなに会えなくなるんじゃないかって思ってたんだ。でも、そうならなくて良かった」
「そう……かい」
やはり彼の態度は変わらず、奏太は仕方ないかと思う。
きっと、彼が自分たちの行動の意味を理解できるのは、もっと先。
それまでの自分の全てを変えてしまうような人に出会って、一緒に悩んで、苦しんで、笑って。
そうして彼も、自分の幸せを見つけられると思うから。
「……あ、そうだ。一つ聞いていいか?」
ふいに浮かんだ疑問。
カミサマが顎を引くのを確認し、奏太は問う。
「今の俺があの世界に戻るとしたら、それはいつになるんだろうな?」
彼は少し考え、
「それはきっと、彼女が真にキミを必要とした時だ。一週間後か、一ヶ月後か。はたまた、数年先か……」
でも、そんな時が来るまでには、
「長い、時が経つだろうね」
「…………そっか」
答えを聞き、満足した。
ぼんやりと空を見上げて、変わりのない時を受け入れる。
「それまでキミはどうするんだい?」
「そうだな、俺は……」
何をするか。
全く考えていなかったけれど、どうしようか。
話すことにも限りがあるし、稽古をする気分でもない。というか、考えてみればいつも行き当たりばったりで、その度に慌てていた。忙しい日々だった。
——なら、今の奏太がするべきことはきっと。
「俺はひとまず、休むよ」
「休む?」
「ああ。俺の役目は終わった。だから、また必要とされた時に、一緒に立ち向かえるように」
そう言って、ごろんと地面に倒れる。安らかな笑顔を浮かべて。
「…………そっか」
だから、それまでは————。
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いつもお読みいただきありがとうございます。
これにて、『黒と白の世界と』第五章及び本編が終了となります。
後日談とエピローグがありますので、もう少しだけ彼らにお付き合いいただけると、幸いであります。




