第五章15 『約束』
——空間を、凄まじい速度の青光が駆け抜けていく。
「オオオオオオオ————!!」
それは凍結したこの世界で唯一とも言える光で、当然ながら現実のものではない。
まず第一に、光は光そのものを発生させることを目的としたものではなく。第二に、それは分身という結果を引き起こすための過程でしかない。
「そーた、これ、どうなって——っ!?」
「いいから走れ! 一度でも捕まったらやばい!」
並走する芽空と共に駆けつつ、思考を再開。
赤髪を揺らし、走りながら、現在の現象を自分の経験と照らし合わせ、
——第三に、動く光はある一定の法則に従っていて、単純。だからこそ映像では連続して放出されているように見え、実際は目標を仕留めるため、絶え間なく出現と消失を繰り返している。
第四。光が向かう先はひたすら駆け、避けている奏太と芽空。後には、光を通して高速で投げられた包丁が転がっていた。
「——結構厄介だな、これは」
「何か分かったの?」
前方に設置されたワイヤーを避けつつ、頷く。
「芽空が想像してた通り。というか、それ以上だな。ある意味じゃ華以上に厄介な能力になった」
ハンドサインで部屋を——外へと出ることを芽空へ示しつつ、奏太は彼女の先を行く。
店の人には申し訳ないが、扉を蹴り壊す形で密室状態から脱出。再び駆け出す。
「希美——貴妃の能力は本体の動きと戦術がキモになる。それについては芽空も分かってるよな」
すんなりと出れなかったのか、わずかに動きに遅れが出た芽空の手を引いて、光を回避。
「そーた程知ってるわけじゃないかもしれないけど……」
前置き、
「分身は本体を起点に発生すること。数は本人の体力に依存するけど、全開状態ならほとんど無限に引き出せる。それから後は……希美の戦い方の問題もあるけど、動きが遅いから基本的には罠を貼って相手と戦う」
「これぐらいかな?」と問いかけてくるので、軽く補足。
「自分自身と認識するものなら、たとえ包丁やワイヤーでも分身させることができるんだ。上手く使えば、切れ味とかを気にせずひたすら攻撃、なんてのもできるわけだけど」
ちら、と後ろを向く。
奏太たちを見失ったのだろうか、青光——『青ノ蝶』の追撃はないようだ。
ならばちょうど良い。今のうちに変わってしまった彼女について対策を————否。
「上だっ!」
叫んだのと同時、直上に『青ノ蝶』の出現を確認した奏太は、芽空を抱えてその場から飛ぶ。
半瞬後、奏太たちのいた位置へ刃の雨が降り注ぎ、続けて光から巨大な影が落ちてくる。
巨大な青の八枚羽と、中心でその動力源となっている少女。既に異形と化した美水貴妃だ。
彼女は全身の瞳で一斉に奏太たちを捉え、再び攻撃を再開せんと青い光を展開。
ぼうっと突っ立っているわけにもいかないので、急いで芽空に逃げるよう指示を出しつつ、
————掌底。
「————」
前動作なしの本体への攻撃。
後ろ方向への急加速と同時に一瞬で『昇華』を発動、身を沈めて振り絞った一撃、だったのだが、
「……ダメか」
どうやら彼女に致命傷を与えるには至らないらしい。
当たったと確信した手のひらの先には彼女の姿はなく、代わりに直前に光が出現していた位置に彼女の巨影があった。
確認した奏太は、舌打ち混じりに高く跳躍。
空中で『昇華』を解除しつつ、芽空がいる地点で着地。並走する。
「そーた、今のって……」
「ああ。ソウゴさんやアザミみたいな超速度の回避、とかとは違う」
言うなれば、そう。
「——攻撃の瞬間に、本体が分身の方へ瞬間移動した。それも、俺の攻撃を見てからでも間に合うくらいの速度でな」
前動作がなかった分、速度はまだ上がる。だが、そもそも不意をついた攻撃であれだ。いくら速度が上がろうとも、正面からただ殴る蹴るだけでは確実に避けられるだろう。
「でも、どうして? 私も全部見てたわけじゃないけど、確か希美はもっと——」
瞬き。
芽空の瞳が結論を出す。
「そっか。だから私が言った通りなんだね」
「ああ、厄介なことにな」
奏太が意識を取り戻してすぐ、芽空に聞いた推測はこうだ。
——『纏い』は心一つで形を変える。改変者は現実を書き換える。
——改変者は力を使えば使うほど、世の理から外れていく。
——だから華が『ラプラスの選定』を強力な力に変化させたように、貴妃の『青ノ蝶』と『等生』にも変化が現れた。
それはあの、獣とも人とも言い難い見た目だけのものと思っていたが、違う。能力そのものにも影響が出ているのだ。
だから速度も効果範囲、制限もなくなって、「個人の分身」の域を完全に超えている。
そして、本体への攻撃方法すらも。これまでとは桁違いに難易度が上がったと言えよう。
「疲弊するのを待つ? 元々私はそのつもりだったし、奏太もいるなら——」
「いや、多分今のあいつにはそれも通用しない。色んな意味でな」
横に発生した『青ノ蝶』をしゃがんで回避。
「……」
頭に手を置いて、考える。
現在のこの状況を打破するための一手。何かないだろうか。
力押しは通用しないだろうし、あの手数を相手に長期の接近戦は危険だ。下手したらこちらが不利になって無限刺突地獄……いや、こんな時に考えることではないし、シャレにならない。
ならば何か過去に、これまでの記憶の中に彼女をどうにかするための方法は、
「……いや、待てよ?」
思考を途中で止め、
「あいつの言葉が確かなら…………」
頭の中で光景を思い描く。
実際その通りに動けることはないと思うが、もしかすると。
「そーた、何か思い浮かんだの?」
まだ動きにぎこちなさが見えるが、この戦闘である程度慣れてきたのだろう。光から放たれるワイヤーや包丁を避けつつ、芽空は顔を上げ、こちらをじっと見る。
疑問はあるし状況に不利を感じる。けれど、奏太に対しては一切の疑念を抱いていない……そんな信頼の瞳だ。
それを見て奏太は少し考えて。
ニヤリと笑みを浮かべ、言った。
「芽空。——少しやってもらいたいことがあるんだ」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
貴妃の猛攻から逃げ続けること数分。
途中隠れてやり過ごそうとした場面もあったが、気配の読み取りなどとは違う、単純な「目で目標を捉える」という行為がそこら中で起きれば、すぐに場所もバレる。
だからここらが頃合いかと、奏太は芽空に視線をやり、
「——うん。えっと、じゃあ……お互い頑張ろーね」
「ああ。……不死って言っても痛くないわけじゃないんだ。分かってるとは思うけど、その辺、気をつけてな」
「了解、だよ!」
駆けた先、曲がり角で奏太と芽空は二手に分かれた。
振り返り、青い光が二人の行き先をそれぞれ捉えんと分裂し——本体を含めた多くがこちらへと向かって飛んでくる。
「そりゃ、そう判断するよな」
奏太と芽空のうち、貴妃にとって一番に厄介なのは間違いなく奏太だ。
経験の問題もあって、戦闘で使う頭は素人に毛が生えた程度にはあり。純粋な戦闘力は言わずもがな、恐らく短時間の間なら圧倒することも可能。となると、奏太がここから先、なんらかの弱点や勝機を見出してしまうことでもあれば、貴妃の勝利の可能性が薄れてしまう。
それに。そもそも貴妃は奏太に対し、様々な負の感情を抱いている。
彼女が大好きな姉を奪った存在。四肢を切断して、臓器を取り出して潰して、魂の髄まで燃やし尽くしてもまだ尚足らない——彼女からはそんな殺意すら感じた。
だから多分、芽空はそのおまけ。奏太を殺した後、世界を滅ぼすついで程度でしかない。
「式典がなければ多少違ってたかもだけどな……」
そう。
式典に奏太たちが参加していなければ、戦力的にも戦術的にもだいぶ変わっていたことだろう。もちろん、それによる貴妃の芽空への警戒度についても。
簡単な話、芽空は普段持ち歩いている——というと語弊があるが——スタンガンを今、持っていないのだ。
音量こそ大きいものの、どれだけ打撃に強かろうと、電流が流れるのならば人間だろうと『獣人』だろうと関係ない。一撃決殺で相手を気絶させる……だから梨佳が渡したもので、姿を隠せる彼女ならではの武器。
アレがあれば、貴妃に対しても通用していたかもしれない。でも、今ここにはない。
だから芽空は店内の物を投擲して攻撃していた。だから貴妃は、今の芽空にそこまでの警戒をしていない。
——それが狙いだとも知らずに。
「……いいぞ、そのまま来い」
この作戦は戦闘力の高い奏太だからこそできるものであり、決めた場所まで貴妃をおびき出せるのも奏太だけ。だからまずはこのまま、
「——ム、だ」
「っっ!?」
奏太が進んでいた先、正面に『青ノ蝶』が四つ出現。放たれた包丁は少しずつタイミングをずらしたもので、今から急停止してもいずれかを食らう。ならば上、
「ヒトりニなってクれて、助カった」
足に力を込めようとすると、頭上からも青光。ワイヤーが迫ってくる。避けようにも隙間が狭く、無理に通ろうとすれば肉が削れるだろう。
後方には本体、前は刃物。
一度込めた足の力はその場にとどまることを許さず、選択は一瞬。
ならば——前方。
『昇華』を発動し、超速度でその場を離脱せんと沈むように跳ぶ。
人の極致。絶大な威力を持っていると言っても、突進だけで全てを弾けるほど攻撃は甘くない。
いくらか、かすり傷程度のものだが切っ先をくらい、肌から血が溢れる。
「こんなザマじゃ、『銀狼』に笑われるな」
頭の中でかの男が嘲る声が聞こえて、すぐにそれを振り払った。
そもそも今の選択は、あくまで対処的判断に過ぎず、攻撃がやんだわけではない。
次の攻撃が来る前に跳躍、近くの屋根の上へと着地。傷を回復せんと、『ユニコーン』たる角を出す。
「……っ」
実は、目を覚ましてから初めて角を出したのが今。ここまでは部分的に発動した『纏い』や『昇華』で戦っていたのだが、正直なところ未だにこの角が能力を持っているのか不安なところがあった。
——奏太の原点は蓮との別れにある。
だから彼女と別れた今、もしかすると使えないのではないか、と。
もっと早く確認しておけ、と数分前の自分を叱りたいところではあるが、まあ。結局のところその不安は杞憂でしかなかった。
攻撃を避けつつ発動した『ユニコーン』は、正しく奏太の体を元通りにし、効果を示してくれたようだ。
「——っと!」
「角、鬱陶シイ」
だが、喜びに浸っている時間はそう長くはない。
奏太を追尾する『青ノ蝶』は、さらに速度を上げて狙いに来る。集中していないと当たり、また回復する羽目になるので、目の前に集中。
——左右から迫って来るワイヤーの網。道中に障害物走のように設置された包丁。上からは本体の投擲。バックするには体に速度が乗り過ぎている。
——全力で駆け、障害物を弾き、避け、砕きながら進む。それでもワイヤーを撒くには足らず、頭上には先ほど投擲された凶器。一秒もしないうちに二つが衝突するだろう。ならばと小さく跳躍。空中で縦回転をしながら、地面に踵を落とした。
凄まじい衝撃音とともに地面が崩れ、すんでのところでワイヤーの回避に成功。そのまま回転をしつつ、上から降ってきたものを弾いて、着地。迷わず直進する。
やはり奏太の予想通り、貴妃にはもはや消耗という概念が存在しない。改変者としての能力がより強力になったのだ。
あの分身は本体を起点としていなくとも、どこからでも光だけで出現できるようになり。出現速度は奏太の『纏い』はもちろん、『昇華』にも匹敵し。
それにそもそも、本体という概念が存在しない。
「——逃がサなイ」
奏太を追いかけ、あらゆる手で奏太を切断せんとしてくる幾つもの青光。
そのいずれもに、時々牽制するように本体である貴妃の巨影が現れる。
…………分かりやすく言えば、今の彼女は分身と本体が入れ替われるのだ。
いずれの分身にも等しく生があり、いずれも等しく自分であるのだと主張するように。
「そんなこと、蓮は望んで——!」
「分かっタ口を聞カナいで」
言葉に呼応するように、なおも迫る怒涛の追撃。
やはり室内では分が悪い。近くの窓から身を乗り出し、逃げるように向かった先は、
「観覧車……」
ここは娯楽エリアの中だ。
走り回っていれば当然、遊園地のある一帯、そのうちの観覧車にも遭遇してもおかしくはない。
一度奏太は後ろを振り返り、貴妃の姿を確認。靴裏に力を溜め、一気に空へ飛ぶ。
今世界は停止している。
だから普段よりも遥かに動きやすく、風も最上に達した時点で微風程度。やや足の位置に気をつけつつ、観覧車の一番上に位置していたゴンドラへ着地する。
——『青ノ蝶』が奏太を取り囲んだ。
「こコで死んで」
憎悪に満ちた声。
地から響くような低いそれに、奏太は背筋が寒くなるような感覚を覚える。
けれど向き合う。
黒髪をかき分け、額から現れた長い角を向けて、貴妃に。
決して美しくない——醜い、異形の姿へと変貌してしまった彼女に。
「話せるってことは、意識はあるんだろ? ……なら、答えろ」
「答エルこト、は何モ——」
「————お前は『イデア』だ」
現れた巨影、その中心に位置する『一人の少女』がピクリと反応する。
「カミサマと契約した『イデア』なら、『エデンの園』にも行き来出来る。カミサマに頼んで蓮と会えたはずだ。どうしてそれをしなかった?」
「なんデ、シっテイルノ」
質問には答えない。
だけど、簡単な話だ。
いわく、カミサマの寿命を削ってしまうとのことだが、カミサマは改変者をあの場所へと連れて行くことができる。
それも、改変者がそれを望んだ時に。
あの時ソウゴは、そう語っていた。
「お前は蓮と一緒に契約をした。なら、あの子の願いは果たされていない。あの子は今も『エデンの園』に囚われてるんだってことぐらい分かってた。そうだろ?」
「ヤメロ……」
「それでも会おうとしなかったのは、貴妃。お前が——」
「ヤメロッッ!!」
聞いたこともない、貴妃の怒鳴り声。けれど奏太は力強く一歩。
大きく、叫ぶ。
「——貴妃は逃げてるだけだ、蓮の死から!!」
「————!!」
「あの子との約束はお前を救ったんだろう。どうしようもないこの世界で、唯一信じられるものになっただろうさ。それを失いたくない。壊したくない。誰だってそうだ!」
止まっていた『青ノ蝶』が輝きを増し、『一人の少女』が怒りに震えながらもこちらを捉える。
それでも奏太はゴンドラを揺らしながら、
「でも、そういうもんに向き合わない奴に、あの子の願った明日は来ない!」
「ダマレェェェエエエエエエエエエ!!!!!」
ノイズの走る叫び声と、同時に。
動きが三つあった。
一つ。『青ノ蝶』が奏太を刺し殺さんと持てる武器全てを展開、四方から迫るもの。
二つ。三日月奏太は笑みを浮かべ。
三つ。——停止したこの世界で、ゴンドラが突如動き出した。
「なッ————!!?」
「過去に向き合った奴にしか分からないこともある。それがその答えだよ」
統率されていた『青ノ蝶』が予期せぬ事態に対処しきれず、奏太に攻撃を当てられず。
訳が分からない、という動揺と困惑に一瞬『一人の少女』の動きが止まり。
それよりも一瞬先に奏太は全力の力で地面を蹴った。
千載一遇のチャンス。
三日月奏太が持ち得る武器の中で、最大の威力を誇るもの。つまり、角が向ける先。
それは本体ではない。
「いけ、『ユニコーン』!!」
——横一文字に、角が薙いだ。
貴妃が出現させていた青光のほとんどを削ぐように。
一見意味のない攻撃。
けれどこの方法だから、意味がある。
「アアアアア————ッッッ!?」
停止した世界に、貴妃の絶叫がこだました。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「——そうだね。確かに貴妃は私の声に応じてくれないし、向こうからここへ来たいと言われたこともないよ」
「やっぱり、そうか」
「キミのその質問の意図はおおよそ理解しているつもりだ。同時に、ありがたくとも思うよ。……もう一つの質問はなんだい?」
「えっと……あのさ」
奏太は額に手をやって、
「————俺の能力って、原点に基づいたものなんだよな?」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「ゆる、サナイ————!!」
より勢いを増した攻撃。
もはや『纏い』だけでは避けきれないその数々に、奏太は『昇華』で応じていた。
一歩でも止まれば『青ノ蝶』に囲まれ、距離を離そうとすればその先で再び回り込まれる。
まるで体力が底なしであるのだと、そう言うように。
「でも、そのはずはないんだよね?」
「ああ。それは間違いない」
腕で抱えた芽空の問いかけに頷く。
彼女は『昇華』を使えないし、かと言って『纏い』でどうにかしてもらう、というのは無茶な話で。
だからこうして先程から抱えている訳だが、
「一応、数だけは減ってるんだ。だから多分、これは貴妃の……」
執念ゆえの抵抗、のようなものだろう。
先の一閃で、奏太の攻撃は『一人の少女』本体ではなく、分身である周りの青光を蹴散らした。
それは回避されることなく対象を捉え、結果的に本体へとダメージが還った。
その際、青光の多くは耐えきれなくなり、消滅。『一人の少女』も気が狂うほどの体を引き裂かれる痛みが走ったはずだが、同化した『青ノ蝶』が消える様子はなく。
そのまま奏太は落ちて、制御室から戻って来た芽空と逃げ————今に至る。
「私も変だと思ったけど、そーたの力が漏れ出してたからあの時、店内の物が動いたのかな」
「話を聞く感じだと、多分な。それでもまだ、世界全体に効くってわけじゃないみたいだけど」
視線を一瞬後ろへ、貴妃を見つめる。
完全な同化を果たしていたはずの八枚羽は、時々ノイズが走ったように消え。けれど今もなお、彼女と共にある。
『一人の少女』は瞳から血を流す勢いでこちらを見つめ、既に限界を超えているだろうに、『青ノ蝶』を展開。
——奏太は、
「そーたは。本当に良いの?」
奏太の心の内を読んだかのような問いかけ。けれど、
「……ああ。それがあいつにしてやれる、唯一のことだ」
もう、決めている。
そのために奏太はここまで戻って来た。
「……分かった。じゃあ、私も最後までそーたに付き合う」
青光を避けながら辿り着いた先。
アウトレットの中央部にて、奏太は彼女を下ろす。
「ありがとな、芽空」
「今更だよ、そーた」
そんなやりとりが交わされ、戦闘が再開するまでにさほど間はなかった。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
——世界が、憎い。
どうしようもなく世界が憎い。
ずっと、美水貴妃の心は激しい怒りと憎悪で溢れていた。
名前も顔も否定された。
役割どころか存在価値すら否定され、騙された。
友達もいない。優しい父なんていない。自分を理解してくれる人なんて、いない。
醜いもので溢れていて、自分を傷つける世界は嘘だ。
等しくなんてない。幸せになる価値なんてない。どうでもいい。
「——ねエ、さん」
だから、姉こそが真実で、世界だ。
姉が世界を幸せにしたいというのならそれに従おう。
姉が以前より幸せだというのなら、それが真実だ。
みんながみんな幸せになれる。そういう価値のある場所なんだ。きっと、そうなんだ。
「…………ネえサン」
嘘が姉を否定した。
嘘が姉を殺した。
ハクアも、華も、全部忌むべき嘘だ。
だから死んだ。だから殺した。
三日月奏太だって、そうだ。
あの人が姉と付き合い出したから、全てが狂ってしまったのだ。
姉が嘘に絡め取られて、奪われてしまった。
姉は色んな人を助けていたけれど、いずれは自分のところへ帰って来てくれる。そう信じていた結果が、アレだ。
だから許さない。
嘘を全部壊して、姉の世界に戻すんだ。
憎い。悲しい。痛い。消える。消えたくない。私は。姉のために嘘を否定する。あの人は嘘が嫌いだから。私は。嘘を否定する。そうしたら私はその後の世界で、また姉と会える。会える。会える会える。きっとそう。
会いたかった。
だから痛い。
姉さんと付き合うなんて。
独り占めするなんて。
……ずるいよ。
「返、セエエエエエエ——!!」
使うたびに頭の奥で激痛が走るのを感じながら、それでも『青ノ蝶』を展開。
計五つ。青い光が大量の服を引き裂いて行き、隠れていた目標を見つけ出す。
「だから……言ってるだろ!!」
さらに三つ、下からワイヤー滑らせ、左右斜め上から包丁を真っ直ぐ彼へ向けて投げる。
だが、これも当たらない。
「蓮はお前が幸せになることを望んでるんだよ! 貴妃が、希望を持って自分の道を進めることを!!」
「うルさい、ウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイ————!!」
彼の言葉を聞いてはいけない。
彼の言葉は、嘘だ。間違いだ。
だってこの世界は間違ってる。
だから自分が否定する。しなければいけない。
「わタシは、私はアアアアア!!」
ひたすらに光を展開し、持てる力の限りで全力で潰しにかかる。黒髪の少年を。……黒。
そうだ、彼は黒。彼のような黒は消さなければいけない。白黒のこの世界で、自分が信じられるのは姉だけ。だから、消す。殺す。殺して、嘘を。
「姉さんヲ奪ったこノセカイなんて、なくなればいい。全部消エて、消えてっ!!」
避けきれなくなったのだろう、肉を削ぐワイヤーが、皮膚を刺す包丁が。彼を斬りつけ、その度に血が流れる。
「私は許サない。奏太さんモ、世界も、みんな!」
ズキズキと、頭痛がこれ以上なく、酷い。脳の中をえぐられるようだ。
視界も半分以上が真っ赤に染まっていて、けれどまだたくさんの目が自分にはある。
——彼が横の壁へ突っ込み、隣の店との境界を破壊。
貴妃もその後を追い、『青ノ蝶』を先行させる。
そして入った場所は、
「こ、こは……?」
思わずピタリと、動きを止めた。
どうやら二人が入ったそこはアクセサリーを取り扱った店らしく。
見覚えのあるものがちらほらと見えたから、貴妃は過去の記憶の一つを思い出した。
——『トランスキャンセラー』はネックレスやブレスレットなど、アクセサリーを元に作られている。
それは蓮や貴妃、ラインヴァント全員がそうで、一人を除けば例外はない。
加工についてはフェルソナが担当。では、その元であるアクセサリーはどこから出てきたのか。
答えは真実。つまり蓮。つまりこの、
「——また、姉さんを、知ったように……!!」
我に帰り、途端に溢れてくる怒り。
どれだけ姉の冒涜をすれば気がすむのだ、彼は。説得の言葉も嘘で、存在自体が嘘なのに、最低だ。最悪だ。
展開していた『青ノ蝶』は、彼が潜んでいる場所を間違いなく捉えている。もう逃さない。今度こそ私が、絶対————、
「——捕まえた」
思考と行動を割って、後ろから声が聞こえた。
だが、振り返るよりも、彼女にされたことの効果が現れる方が早い。
「————、は」
憎悪によって煮えたぎっていた血液。熱くなっていた頭。一つに集中していた強力な力。
それらが一気に冷えて——失われていく。これは。『トランスキャンセラー』。
そうか。
武器を持っていなくとも、彼と同じく彼女もまた『獣人』。
式典に持って行っていてもおかしくはない。
だから自分はここで獣の力を失い。
目的も半ばで倒れ。
聞きたくもない嘘で覆われ。
嫌だ。
「——そんナ、のは。認めナイ」
戻りかけていた体の変化が、止まる。
完全な停止。それから、少しずつ逆流。戻る、力が。『青ノ蝶』が戻っていく。
鈍くなっていた痛みが再び訪れる。『トランスキャンセラー』などものともせず、激痛が戻る。そうだ、『トランス』が強力なら抑えきれないことだってある。だから私はこの力、を。
「——私は。死なない。姉さんと約束したから」
そう。約束がある。
姉を幸せにする。その姉が望んだのは、幸せな世界だ。
そのために自分ができることは、群がる嘘を消し去って、世界を真実に戻すこと。
だから抑える力なんて消し飛ばしてしまえばいい。
今邪魔をした少女なんて倒して、奏太さんも。全部、だから、私。
——姉さんのために、私は。
痛い。頭が割れるように痛い。血が噴き出す。痛い。もう、痛い。体が震える、ちぎれる。
——私が私じゃ、いられなくなる。
見たく、ない。聞きたくない。全部嘘だ。痛みだって嘘。姉さんが死んだこともそう。そうだった。そうだったら、いいのに。
都合が悪いことは全部幻だって、嘘だって思えればいいのに。そうしたらきっと幸せで、私は笑えてた。
でも、だから、無理なの。
姉さんはもういない。
その時点で間違えてしまった。だから。
私は。
奏太さん。
私を、
「————助けて」
頭の中に響く、声がした。
「——ずっと遠回りして来たけどさ」
近くまで来る。
見えない。でも、分かる。
「約束。守りに来た」
——何かが胸を突いて、血が流れる。
けれどそれは、不思議と。
とても、温かかった。




