第五章11 『愛の夢』
流れていく時間。
瞬きを繰り返す輝きの日々。
一瞬は鮮やか。一瞬は彩り。
一瞬は永遠。一瞬は終わり。
同じ世界に住む、違う場所の人々。その全ては自分たちにとって遥か遠くの存在だ。
死者にとって生者は実感。
生者にとって死者は虚実。
決して変わるはずのない現実。
決して交わるはずのない実感。
それがいつかは終わってしまうことなのだと、分かっていても。
それでも、たったひと時でも夢を見ていたいから、私はモノクロの昨日を抜け出した。
——でも、全てが全て、上手く行っていたわけではない。
『獣人』を救うためと目標を掲げ、動いていても所詮は子どもでしかない。
たとえ私が『獣人』でも、改変者でも。大きなアジトを持つ組織であっても、目の届かないところはある。
あと少し早ければ助かった。もっと自分が強ければ間に合った。
そう思うことは一度や二度だけじゃなくて。何度も何度も、傷ついて。
——でも、だからこそ、その度に前を向いた。
たとえHMAと敵対する形になっても。
たとえ同じ『獣人』と戦うことになっても。
あの子の居場所を守りたい。
あの子たちの居場所を守りたい。
そう強く思った。
——冬に、なった。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
その日は前日から冷えて、朝起きた時には雪が降っていた。
積もらないほど少量でもなければ、外に出られないくらいたくさん積もったわけでもなく。少し足場は悪かったが、仕方ない。
交通機関が止まってしまう前に、早めに家を出た。
中学三年生の冬。
高校受験の日だった。
『ノア計画』実行の日まで一年を切り、活動が活発になってきた『獣人』組織ブリガンテとの決戦も控えているが、それはあくまで『獣人』の——『青薔薇の姫』の話だ。
学生としての美水蓮は、学生寮のある都心の高校へと進学するために今日、受験へと向かう。いずれは家族で居を構え、『ノア計画』に臨めるように。
ありたいと願った当たり前の平穏を、皆で分かち合えるように。
「…………」
そう思って、雪を踏みしめ、会場へ行って。
自分と同じ受験生を前に、当然だが人間が多く、同時に自分が人間とは違うのだと改めて認識させられた。
「……いない」
現実と非現実を行き来することが半ば日常と化していた蓮。
現実ばかりが溢れている、そのことに内心喜んでいる自分がいて、疲れているのだろうか、と思う。
だが梨佳や葵少年いわく、『獣人』にとってはむしろその逆の人の方が多いのだそうだ。
『獣人』としての生活が現実で、人間と暮らすこの今は非現実。それだけ距離がある難しいことなのだ、と。
……と、回りくどいことを考えてしまったけれど、つまりこの学校には、
「嘘の味がしない。……人間以外がいないんだ」
情報の真偽は、一部の情報についてはHMAの選ばれた幹部なら分かるだろう。
だがそれ以上の全ては、この舌が知っている。
人間以外がいない——その結論は、嘘を見抜く能力である『透世』によるものだ。
悪意のある嘘ならば苦い味が広がり、その逆、好意ならば甘い味が広がるといった判別の仕方。
梨佳やその他の『獣人』たちの存在を見抜けたのもそのためだ。彼女らは普通の人間にはない、虚実の何かが体内に含まれている。
貴妃や華など、改変者にも効くと見られ、便利な能力ではあるけれど、当然欠点はある。
一つは対象を直接見なければいけないこと。もう一つは嘘の内容が分かるのではなく、ただどこかに嘘があるとだけしか分からないので、最終的な判断は自分でするしかないこと。
それから————嘘が絶対片方の味とは限らないこと。
改変者は死者。
死者の力を使うことで、ありえない現実を引き起こす。
だから自分が、人という概念を捨てしまったその時には、能力が強まり、欠点すらも失くして世界の疑念と疑問を明確なものにしてしまうのだろうか、と思う。
あの日、妹が望んだように。
世界は透明に、
「——?」
視線を感じて、そちらへ瞳を動かす。
今しがた、誰かに見られていた。
受験生の待機する廊下、人が密集して、自分の声すらも満足に聞こえないようなこの状況で、確かに誰かが。
自分を知っている誰かだろうか、と思う。
一応、知り合いの少ない学校を選んだつもりだが、過去にいた小学校で自分と関わっていたとか。『ノア計画』が進行している今ならば、大抵の者が都内に集まっている。だからおかしくはない話。
それからあるいは、『青薔薇の姫』を知る『獣人』。
自分的には返上したい二つ名なのだけど、ともあれ、顔が知られている可能性はないわけではない。
でもその割には、警戒心や敵意というものがこの会場からは感じ取れないし……視線が向けられていたであろう方向を見ても、それらしき人物は見受けられない。
「受験生は会場にお入りください————」
と、そうこうしているうちに、受験前、最後の勉強時間は終わってしまい。色々と中途半端になってしまったことに小さくため息を吐いて、開いていた教材を鞄へとしまう。
————強烈な嘘の味。
「っ!?」
反射的に、声にならない驚きの声を出し、振り返る。
だが、そこに同じ嘘はない。他の受験生たちは皆会場へと入っていっており、『獣人』はおろか、改変者一人も。
当然、こちらへの接触もなかった。
——今までに感じたことがないくらいに強い、嘘の味。
それがまだ舌先に残っており、思わず息を呑んでしまうほどだったけれど。
誰が発していたものなのか突き止めるのは受験の後。
まずは目の前のことに集中して、後で確かめよう。そう気持ちを切り替えて。
結局その日は、分からなくて。
でもいずれ分かるだろうと思い。
合格発表。卒業式。入学準備。
ずっと分からないまま、もやもやとした日々を過ごした。
そして、だからこそその日は、やってきた。
「えっ、と。三日月奏太です。よろしく、……美水さん?」
そして、全ては原点へ————。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
耳を澄ませば、遠くの方から音が聞こえてくる。
キィンと、爽快な金属音。
走り込みをする運動部の掛け声や、連携を取ろうと自分の存在を主張する者の声。怒鳴るコーチの声。
それぞれ特徴の違う音を合わせ、一つのハーモニーを奏でる吹奏楽部。新入生のものだろう、旋律とは関係のないタイミングに、真っ直ぐ響かない、ぐにゃりと曲がった音。
近くには生徒会活動に勤しむ者もいた。あの生徒がどうたらと話し合う教師もいた。
部活動もなければこれといった用事もなく、学校に居残っている生徒たち。
それぞれの放課後があった。それぞれの日々があった。
だから、目を開ける。
「————」
音はもう、聞こえなかった。
元々なかったのかもしれないし、あるいは消えてしまったのかもしれない。
でも、一つだけ言えた。
重い荷物を抱えていたことで、じんわりと痺れた腕。スポーツテストの疲れが残る体。非日常的なことが続いた瞳は、乾燥して。
それは確かに——あの日の光景、なのだと。
「……」
何も言わずに、周りを見る。
今しがた自分が出てきたであろう職員室。扉は固く閉ざされており、開く気配がない。というより、開くように作られていない。
掲示物が貼られていた掲示板には張り紙こそあれ、何も書かれていない。白で塗りたくられている。
側の机も椅子も動かず、表面を撫でても埃一つつかない。
後ろには——白い、道がある。
人が五、六人並列していても通れる縦横の広さ。天井。床。壁。余計なものは何もないが、廊下を構成するために必要なものは全て揃っている。
けれどすぐに前を見る。
多分、アレをもう一度見たら自分は帰ってこれなくなる。そんな気がしたから。
「……」
そして、最後に廊下の最奥。
階段を見つけて、ゆっくりと足を向けた。
無意識のうちに髪に触れて、鏡もない空間で、自分の容姿を確かめる。
階段を、一段。
誰もいない、何もない空間で足音が響き渡る。ゆっくりと、心を向けていく。
二段、三段。
それは深層心理に入り込んでいくような音。皮や肉、骨をかき分けて、自分の体に潜り込んでいくような。
何段も何段も、登っていく。
自身の心の在り処を探すために、進む。動くこの手と足で。確かに。
階段を登り切れば、今度は廊下だ。
やはり誰かや何か、世界を構築する音は聞こえない。けれど確かに、そこへ景色は続いている。
後ろの階段は白に染まっているだろう。だから、進む。
「……」
誰もいない、自分だけが世界に存在しているような、しんみりとしてしまう妙な寂しさ。
それは前にも味わったことのある、ノスタルジックという感覚。
見えているものは違うけれど。
感じていることは違うけれど。
似たような感情が自分の中にあって、少しだけ、唇の先が動く。
それでも止まることなく、歩み続ける。
『——うん。大丈夫』
誰もいない空間で、ふいに声がした。
教室の前で。考えなくても、誰だか分かるその声が。
だから、足を止める。
扉は固く閉ざされて、いない。
確かめていないけれど、きっとそうだ。
手を伸ばして横に引けば、それは開く。
一切の後悔を許さず、一切の抵抗をも消して。
全てが過去になるのだろう。全てはここから始まり、後戻りのできない未来が始まる。
だから、手を伸ばす。
「————これは選択肢だ」
触れる直前、声がして。
ピタリと手を止める。
一歩、二歩。下がると、最初からそこにいたかのように、扉の前に一人の少年が現れた。
黒の布切れのようなものを羽織った、白髪の少年。あらゆる現実という概念を無視・超越した存在。
カミサマは、語る。
「——もしもあの時ああしていたら。あの人やあの子は救われていたかもしれない。死ななくても済んだかもしれない。あるいはもしも、あの時彼や彼女を止めていたら、自分はたくさんの後悔を抱えなくても済んだかもしれない」
「……」
「……そういった願いを誰しもが想う。確かな必然性の元に、想う。ならばもし、そういった願いが叶うのだとしたら。ここがそういう場所なのだとしたら」
二色で構成された少年が。あるいは、世界そのものが。
————黒と白の世界が、こちらを見つめた。
「——三日月奏太君。これまでたくさんの願いを抱えてきたキミならば、どうする?」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
カミサマの問いかけに、数秒の間が流れる。
自身の呼吸音すら耳に入ってくる無音の空間。向かい合うは一人の少年と一つの概念。思考は滞りなく進み、一つの答えを導き出す。
「……それは、つまり」
迷いなく、言う。
「俺が望めば、世界はリセットされる。同じ世界をやり直せる……そういうことか?」
「——うん、そうだね」
カミサマはそれを否定せず、すっと顎を引き。
「ここに来るまで、キミは多くのことを知った。本来知るはずのなかったことまでもを記憶の中に所持している。ゆえにその状態で過去に戻れば、実現出来ることは無数に増えるだろう」
それは、あの姉妹が時間を遡っていたのと同じ。
改変したい過去がある。だから遅すぎた時を戻して、未来の記憶を所持した自分たちが介入し、終わりの時を乗り越える。
その自由が三日月奏太に与えられるのならば、一体どれだけの理不尽を乗り越えられるのだろうか。
「事情を知っているのならば、行動が起きる前に話し合うこともできる。敵対していた誰かと衝突することもなければ、和解、共通の問題へと立ち向かうことも可能だ。以前とは違う賢い選択をし、もしくはもっとたくさんの選択肢を前に、十分な時間をもって吟味することすらも」
救おうとして救えなかった者たち。
それら全てをその賢い選択とやらで、奏太の都合が良いように救い、あるいは利用することだって可能。望む通りの、犠牲の生まれない幸せな世界を作れるということだろう。
およそ現実味のない、とても、夢のある話だ。
「それにあるいは——」
聞いているだけでお腹がいっぱいなのに、カミサマはさらに一つ、選択肢を挙げる。
「キミが望むのなら————蓮と話さないという選択だってできる」
ピクリと、顔を上げた。
「…………蓮と、話さない?」
「ああ。世界が本来あるべき姿からずれたのは、キミが蓮と関わりを持ち始めた瞬間からだ」
後ろの扉を指し、
「キミも覚えているはずだ。ここで蓮とキミは一つの約束をし、以降親密になっていった。『獣人』を知り、恋人になり、そして————」
——そして、終わりの時は訪れた。
蓮がハクアに殺されたあの日。
奏太は『獣人』の力を取り戻した。華の狙い通りに、母親の願いの通りに。
そうして、全てが始まったのだ。
『獣人』たちとの日々。ハクアやアイ、ブリガンテとの決戦。改変者によって変わる世界に振り回され、嘆き、苦しんで。
「関わらなければ、何も始まらない。キミが原点として目覚めることはなくなるし、戦いはここで終わり、戻った世界で誰もキミを責める者はいない。平穏の時を好きなだけ、好きなように楽しめるだろう」
……なるほど。
それは確かに魅力的な話かもしれない。
昔の奏太は周りに合わせるばかりだったので、人間としての時間を満喫できていたか、と言われれば答えに困るところだ。だが、今の奏太なら蓮ありきでなくともそこそこ楽しめるように思う。
もっと普通の生活……そうだな。毎朝髪の毛をセットして学校へ行き、秋吉など学友とだべり。放課後はどこかへ遊びに行ったりして、学生らしい、楽しい時間を過ごせるはずだ。
それからひょっとしたら、そのうち誰かに告白したり、されたり。あるのかもしれない。普通の恋をして。普通に誰かと手をつなぎ、キスをして。
永遠の約束をするのだろう。
そしてそれは多分、
「…………誰から見ても幸せなこと、なんだろうな」
争わないに越したことはない。
無理に自分の命を危険にさらすことはないし、手に負えない問題はそういう、力のある人たちに任せる方がずっと楽だ。
楽に生きた方が幸せで、今よりもずっと平和だ。
——音が、する。
自分が通ってきた廊下の向こう、今はもう真っ白になったその空間から。
爽快な金属音。運動部の掛け声。連携を取ろうと自分の存在を主張する者の声。怒鳴るコーチの声。
一つのハーモニーを奏でる吹奏楽部。新入生のものだろう、ぐにゃりと曲がった音。
近くには生徒会活動に勤しむ者もいた。あの生徒がどうたらと話し合う教師もいた。
部活動もなければこれといった用事もなく、学校に居残っている生徒たち。
それぞれの放課後があった。それぞれの日々があった。
それらが、呼んでいる。
——でも、それらに混じって。
——声がする。
『あなたは弱い』
ああ、そうだ。
三日月奏太は最初から弱かった。
どれだけ鍛錬して、小手先の技術や身体能力を上げたとしても、中身はどこまでも子どものままだった。
『どうにかしようと一人で突っ走って、返り討ちにあった。奏太は負けた。——そうだろ?』
いつだってそうだった。
教えてもらっていたはずだったのに。奏太は一人じゃ何もできないくらい弱くて、そのくせ意思だけは人一倍強くて。
周りに迷惑ばかりかけていた。
いつだって、そうだった。
『しかし、——最後は決めた一つのために意志を貫く。それも奏太さんです。皆が信じ、ボクが力を貸す、数少ない相手なんですよ』
でも、そんな奏太を信じてくれる者がいて。弱音も本音も言い合える友達ができて。
『奏太君。貴方はどれだけの痛みがあろうとも、どんな現実があろうとも、決して止まることなく前へ進みなさい』
あれだけ憤りを感じ、憎んでいた彼女に任された。きっと大丈夫だと、託されてしまった。
何人にも、何にも変えられない願いとともに奏太が選択し、進むことを。
だからそれは重荷だ。
奏太一人では抱えきれないくらい重く、目指す場所は遥か遠くにある。
肩書きがいくつ増えても、普通の子どもでしかない自分にはとても難しい。投げ出した方が、ずっと楽だろう。
瞳を伏せればすぐだ。
ゆっくりと、暗闇を受け入れる。
そうするだけで自分を縛る何もかもから解放される。「これから」に出会わないまま、いずれは賢い判断のできる大人になって、一生を終えられる。
大切な人を理不尽で奪われることのない、普通の幸せを得られるだろう。
————でも、俺は。
「それでも俺は、あいつらと出会いたい!」
大きく一歩、前へ踏み出す。
「そりゃ、お前の言う通り、賢い選択ってのができた方がずっと立派だ。そういう大人になれた方がずっと幸せだ。きっと、世の中の大多数の人にとって、そうなんだろうな」
自分でも分かっている。
「これがどれだけ自分勝手な考えが、分かってる。なんで自分のせいで失くした全員を救おうと思わないのかって。どうしてせっかくの機会をふいにするのかって」
——だが、その選択肢は、奏太に託してくれた皆に対する裏切りだ。
なかったことにしてはいけない。嘘にしてはいけない。皆がいたから、今の自分はいる。
だからこそ奏太は、責任がある。
「俺がここで蓮と話したら、全てが始まる。止まっていた何もかもが動き出して、失われちゃいけないものまで消えて、誰かが悲しむことになる。また失うことになるはずだ。——でも」
それでも、声がする。
『————ありがとね、そーた』
だから三日月奏太は、両の手で頰を叩く。
ぺちぺち、と場違いな音を立てて、後にはじんわりとした痺れが残る。
確かな生を実感できて、やらなければいけないことを再確認できて、前を向く。
ずっと、今までだってそうしてきた。
あの子の前でも、彼女の隣でも。
だから、
「————俺の幸せは俺が決める。どれだけ苦労したって、どれだけ失ったって絶対に変わらない。だって今、ここにある俺が原点だから」
はっきりと、確かに言い切って、精一杯の笑みを浮かべる。
とても、清々しい気分だった。
言った内容は、決して誰かに褒められるものじゃない。後先を考えない子どもだと罵られるかもしれない。
でも、確かに自分が、自分なりに出せた答えだから。
そんな奏太の心境を——恐らく、把握しているのだろう。
今更、それについてどうこう言うつもりはないけれど。
カミサマは、笑う。
「自分が決める、か。彼や彼女も同じ言葉を返したよ。……意外と、似た者同士なのかもしれないね」
「……似てたとしても、あの人たちに追いつくにはまだまだだよ、きっと。俺はもう、一人でやろうとしてないんだしさ」
奏太の言葉に、一瞬何かを言いかけるカミサマ。
しかし彼は軽く首を振って、
「もしキミがその選択をせず、過去に戻ろうとした場合。キミは原点ではなくなっていた。だからひょっとするとキミは、原点になったその時から、こうなることを予感していたのかもしれない」
「それは買い被りすぎだろ。いつだって迷って転んで怪我をして。それが俺だよ」
そう、過大評価もいいところなのだ。ただ奏太は、好きな人たちのためにこうありたいと願っただけ。
世界がどうこうの決断だって、その延長線上でしかない。
ふと、
「ていうか……それってつまり、俺を試してたのか?」
「さて、どうだろうね」
奏太の考えなしさは今に始まったことではないが、一歩間違えれば記憶を代償に『ユニコーン』を失っていたとは。
確かに改変者たる理由を考えれば当然であるが、なんというか。
「カミサマも影響受けてるんだな、あいつに」
どことなく彼女の好きな手口が感じられて、笑いを漏らす。
それと同時に、ぐらりと。
突如揺れのようなものを感じて、終わりの時が近づいているのだと、悟る。
「この世界が——いや。俺がここにいられる限界も近い、ってことか」
「そうだね。キミの意識はつい先ほど一つの意思を得た。ゆえに現実世界での体の覚醒は、そのまま遅緩した時の回復を意味する。当然、特定の死者の魂が集まるこの場所からも弾き出されるわけだ」
「だが、その前に」と彼は続け、
「最後にキミに会わせたい人がいてね。——これも一つの選択肢だ。選ぶも選ばないもキミの自由。さて、どうする?」
会わせたい人。
……ああ。だからそのために、彼は。
「行くよ。この扉を開けた先にいるんだろ?」
「理解が早いね。そうだ、この先に彼女はいる」
そう言い、彼は扉の前から離れる。
その横顔はどこか寂しげで、けれどそれでも受け入れると、静かな覚悟を秘めていた。
……カミサマ、と自称しているけれど。
三日月奏太の片割れのように、一人の少年から生まれた彼もまた、確かな心を持っているのだ。
だから改変者のことを気にかけ、幸せを願うと言いつつも、それぞれが選んだ結末に納得し切れていない。一切の後悔がないわけではないのだ。
視線を体に浴びながら、奏太は一歩、前へ進む。
もう一歩足を踏み出して、扉に手をかける。
「……一つ、言い忘れてたんだけどさ」
振り返らず、顔だけ上げて。
「カミサマは俺や改変者の幸せを望んでる。……そうだよな?」
「うん。間違いはないとも。私はキミ達の幸せを願っている」
「——ならさ、覚えておいて欲しいんだ。これは、俺とあの姉妹。改変者も『獣人』も、みんなが幸せになれる選択肢だってことを」
「————」
返事はなかった。
けれど、それで良かった。
どんな人であれ、いずれはそれぞれの考えを持つ。
それは一般的に見ればありきたりなもので、あるいはその逆、突飛なものかもしれない。
人一倍正義感が強かったり、人一倍格好付けにこだわったり。
悩みも願いもそれぞれの形があって、何かを抱えるたびにどうすれば良いかと悩むのだ。
彼もまた、その一人。
だから奏太は前を向き、行く。
決して下を向かず、目の前の扉を開いて、光の中へ。
溶けていく。
輪郭も、境界も。
全てが柔らかな光に混ざって、そして————。




