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黒と白の世界と  作者: 夕陽ゆき
第一章 『彼女』
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第一章18 『美水蓮』



「————ぁ」


 目の前の惨状に耐えきれず、声が漏れた。


 歩き方を忘れたかのように、よたよたとした足取りで蓮の元へと向かうと、彼女の体が月明かりに照らされて、どれだけの傷を負っているかが分かった。

 身体中の至る所から血を流し、しかしそれはいずれも致命傷とは言い難い、小さなものが無数にあるだけだ。


 ——ただし、脇腹を除いて。

 その部分だけは血の量があまりにも多く染み込んでいるようで、明らかに酷い状態だというのが見て取れた。


 しばらくすれば、間違いなく死に至るであろう程に。


「…………蓮」


 蓮の前に膝から倒れ、彼女を見つめる。

 彼女は苦しそうに顔を歪め、荒い呼吸を繰り返していた。


 どうして、彼女は倒れているのだろう。どうして、彼女は血を流しているのだろう。どうして——、


「そ、ぅた……くん?」


 真っ白になっていた頭が、掠れるような声を聞いて途端に活動を再開する。

 この声は、蓮だ。


「蓮! 良かった。血が、血、出て、このまま、じゃ」


 焦るあまりに、頭がごちゃごちゃとして、話す言葉までもがしどろもどろになってしまう。


 上手く伝えられずに恥ずかしいところを見せてしまったけど、良かった。

 蓮は、蓮は無事なのだ。それなら、


「奏太君」


「そうだ、デバイスの修復で、かなり時間はかかるけど、じっとしてれば」


 弱っている時は誰でも声の調子が沈む。

 それならば、元気な声をかけて、彼女を励まそう。そうすればきっと、今よりもずっと楽になるはずなのだ。


 ——奏太は気がつかない。蓮に声をかける自分が、一体どんな表情をしているのか。


「奏太君」


「何なら今から、病院行こう。大丈夫、このくらいの傷なら」


 空元気を絞り出して、何てことないのだと明るく振舞って見せる。


 ——目の前の現実から目を逸らすように。普段通りの日常なのだと、自分に騙って聞かせるように。

 それが、どれだけ苦しいことなのか、自分では分かっているはずなのに。


「————奏太君」


「蓮、何弱気になってるんだよ。ほ、ほら、いつもみたい、に……笑って、くれよ」


 奏太は縋るような声で蓮に言った。

 そして彼女の表情を見ようとして、気がつく。


「…………?」


 視界が滲んでよく見えないことに。

 分からない、一体何がこの視界を邪魔しているのだろう。


 ——それは涙だ。しかし奏太には分からない。ただただ本来の感情のままに流れるそれは、蓮を見るのに邪魔なものでしかないからだ。

 目の前の状況に頭が追いつかず、感情だけが先行してしまう。それは、ひどく自分勝手なものだ。

 正常な判断が出来れば、彼女に優しい言葉をかけ、あるいは一挙一動、一言一句に耳を傾け、その意味を理解しようとしたのだろう。


「蓮…………」


「ごめんね」


 ぽつり、と蓮は呟いた。


 しかしその言葉の意図が奏太には分からない。

 一体どうして彼女が謝っているのか。どうして彼女は、先程から苦しげに声を出すのか。


「————ごめんね。約束、守れなくて」


 ——約束。ヤクソク、やくそく。


 それは奏太と蓮を繋ぎとめていたものであり、流れ出そうになるくらいに限界になったすれすれの心をせき止め、癒したもの。

 何年もかけて積み上げられてきた傷を、苦しみを甘やかに溶かし、解放したものだ。


 それに触れられて、奏太は否応にも現実と向き合わなければならなくなる。


 嫌だ。見たくない。知りたくない。分からない。分からない、分からない分からない分からない。彼女は生きるんだ、それなら、彼女が謝る必要もない。きっとどうにかなるはずで。なるはずだ。なって欲しい。 ——どうにか、なれよ。


「————」


 靄で隠れていた奏太の心に、一つ雫が落ちた。それは記憶であり、思い出であり、救いであり、希望であり、愛であった。


 乾いた心に潤いが戻る。

 瞳から流れる液体が、涙が線を引いてゆっくりと、そして次々と零れ落ちていく。


「嫌だ、嫌だよ蓮。約束、守ってくれよ。俺は、ぁ、お前と、こぇからも、これから、も!」


 声が上ずって、嗚咽が混じり始める。

 酸素が足りなくなって、呂律が回らず、言葉がはっきりと発音出来ない。


「ごめん、ごめんね、奏太君」


 彼女の顔を見たいのに、ぼやけて止まらないその視界が、彼女をちゃんと映してくれない。


 蓮は今どんな表情をしているのだろう。


 何度も何度も、喘いで酸素を得ようと呼吸を繰り返す。

 必死に手で拭っても拭っても、溢れ出てくる涙がたまらなくうっとおしくて。


「なんっ、で、謝るんだよ」


「私だけ先に、ごめんね」


 そう呟く彼女は、ひどく寂しげで。


 きっと笑ってなんていない。悲しそうな表情をして、苦痛に顔を歪ませて、それでもきっと、奏太の方を見て、奏太を大事に思って見てくれているはずで。


「そんなこと、もっと歳取ってから言えよ」


 未だに溢れて止まらない涙を強引に払って、蓮の顔を見る。

 ギリギリと、噛み締めた歯が音を立てて、


「まだまだ、ぁ、やること、やりたいこと、たくさんあるだろ! これっ、からなんだよ。ぉ、れは、俺は、もっと蓮のことを知りたくて、蓮にもっと俺のことを知ってもらいたい、なのに、なの、に」


 ——どうして。

 奏太はそう続けようとして、声に妨げられる。

 それはようやく顔を見ることが出来た、蓮の声だ。 透き通るように、綺麗な声。


「——奏太君。お願いがあるの」


 蓮は桃色の瞳に涙を浮かべて、申し訳なさそうな顔をして、続けた。


「みんなを、幸せにして。奏太君にはそれが出来るから」


 空中にぶらりと手を上げ、何かを掴もうとする。


「なんっだよ、それ」


「もちろん、奏太君も、幸せになってね。……そうじゃないと、許さないから」


 彼女はゆっくりと腕を下ろし、弱々しく笑う。


「俺は、お前がいないと幸せになんて!」


 蓮が隣にいなければ立っていられないのだ。一人では、笑えないのだ。

 認められて、一緒に笑って、いつかは自分を認めて。そうしなければ、奏太は奏太でいられないのだ。


 笑え、ないのだ。


「……奏太君。もう一つだけ、いいかな」


「……なんだよ」


 これ以上彼女は何を望むのだろう。幸せにすることも、なることも、いずれも身に余る程に難しいことで、奏太には到底叶えられないようなものなのだ。

 一人では、出来ない。無理なことだ。


 蓮は真っ青になったその顔でこちらを見ると、血に染まった左手で奏太の手に触れて、


「キス、して」


 はっきりと聞こえた。この広い空間で、確かに響いたその声は、時が止まったのではないかとさえ、思えるほどに。


「————」


 彼女の言葉を何度も反芻して、その上で奏太は固まり、沈黙する。


 それはきっと、別れだから。きっと、それをしてしまえば彼女とはもう、満足に話を交わすことすら出来ない。叶わない。


 けれど、蓮は望んでいるのだ。

 ならば、応えるしかない。それに応えることでしか、奏太はもう蓮と話を交わせないのだから。


 奥歯を強く食いしばることで、残った抵抗の全てを飲み込み、無理矢理に納得させた。

 蓮の頭を優しく持ち上げると、そのまま自身の顔と近づける。

 徐々にお互いの唇が迫っていき、奏太は息を呑んだ。

 しかしその動きは止まらない。

 弱々しく揺れる桃色の瞳が、その表情が、和らぐ。


 ——そして、唇に触れた。


「…………ん」


 触れた時、そこにあったのは、柔らかな感触と、蓮の温もりだ。

 互いの熱が甘く溶け合って、一体となっていく。溶けて溶けて、何もかもを飲み込んで。


 何秒、何分、何時間続いただろうか。もしかすると、ほんの一瞬だったかもしれない。

 やがて唇が離れ、彼女は言った。


「奏太君、ありがとう。絶対に、約束だから。私を忘れて……幸せに、なってね」


「……何言ってんだよ。忘れられるわけ、ないだろ。幸せになるなら、蓮も一緒に!」


「ありがとう……大好きだよ。奏太君」


 そう言って蓮は、微笑んだ。

 花のような笑顔で、優しげに。


「俺も、俺も好きだ、大好きだ! 愛してる。蓮を、蓮だけを。蓮、蓮、俺は……」


 がらんとした空間に自身の声だけが響いて、奏太は気がつく。


 抱えた彼女の——蓮の体から力が抜け、もう、何の返事もないことを。


 何度体を揺らし、何度声を上げても、何度名前を呼んでも、彼女は答えない。返事をしない。笑わない。


「——信じたくない」


 しかし目の前の光景は嘘をつかない。


「——認めたくない」


 しかし目の前の彼女は、奏太に真実を突きつける。


「——見たくない」


 しかし見ることでしか、奏太は蓮に触れられない。


「——生きたくない」


 しかし蓮は願った。幸せになってと。

 彼女は、蓮は——ありがとうと、そう言った。


「————」


 奏太の全身から、すとんと力が抜けた。


 次に訪れたのは、真っ白の世界だ。店も、月明かりも、蓮の姿も、そこにはない。

 何も聞こえない、何も感じない。何も、見たくない。彼女は、彼女を、彼女に、彼女と——行きたかった。生きたかった。


 ——奏太は想う。蓮の存在を。


 なのに、どうして。もっと。色々やりたいことがあったはずなのに。必要な存在なのに。なのに、どうして彼女は死んだ。彼女は、どうして。


「どうして」


 疑問を抱く。そしてそれは形を変えて、確かな別の感情に。

 奏太の失くしていた感情に、姿を変える。


「おかしい」


 奏太はぽつり、と呟く。


 おかしい。彼女が死ななきゃならないなんて、間違ってる。人も、 HMA も、ハクアも、学校も、街も、都市も、国も、大陸も、社会も、歴史も、思想も、恐怖も——間違ってる。

 蓮が死ななきゃならないなんて、


「そンな世界は————間違ッてる」


 涼やかな鈴の音が、奏太の中で響いた。

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