第五章7 『——行ってきます』
「————」
緊張のせいだろう。肌にじんわりと汗が滲んで、焦点が少し歪む。
「久しぶり……でもないよな。ほんの数時間ぶりだ。あんたと会うのは」
それは、彼がこのような場であっても圧倒的な存在感を放っていること。それから、
「…………体感時間は別だろう。貴様は奴を通して、我らの記憶を見ていたのだからな」
——改変者、正確には『イデア』たちの過去を奏太は見た。
その事情を知っている、あるいは当人である彼を前にすれば、今までのように接することは難しい。
「えっと、ごめん。過去を見られるなんて、気分の良いことじゃないよな」
「……我も沙耶も了承したことだ。案ずる必要はない」
申し訳なさそうに頭を下げる奏太の口調はぎこちない。が、彼はその内心を理解した上で簡単に流してしまう。
「それより」と次いで、
「貴様がここにいて、我の言葉を聞いているということは、そういうことなのだな」
「……」
——ふと。
奏太はついさっきまで、ソウゴに対してどう接するべきか推し量っていたために、気がつかなかった。
この白黒の空間を見渡す彼の瞳はどこか暗く、語る言葉は重い。
理解していたこととはいえ、堪えるには難しい。
普段から感情を読み取りづらい人物ではあるが、そんな心情が見て取れるくらいには奏太は彼のことを知り、同時に彼が傷ついているのだと分かる。
だから奏太も、すっと一呼吸。
「……ああ。華は死んだ。あんたたち『六人組』の『ノア計画』の通りにな」
「貴様を含め、美水希美に殺されて、か」
ゆっくりと顎を引く。
「…………そうか。そう、なんだな」
事実を噛み締めるように空を見上げるソウゴ。
彼の表情は見えない。涙が流れているわけでもない。
けれど大事な人を失う気持ちは分かっていて、奏太は何も言えなかった。
奏太の何倍も、何百年もの歳月を生きてきた彼でも、彼だからこそ、苦しいのだ。体がどれだけ化け物じみていようとも、人間を捨てられなかった彼だから。
しかし、間に多くの時間を必要とはしなかった。
彼は最後に強く瞳を閉じたかと思えば、 こちらに向き直る。
「……いいのか?」
気を遣おうとする奏太に首を振り、
「無論、感情の全てを御しきれるわけではないが、物事の優先順位はつけているつもりだ。特にこの場所は、今はあまり長居できるわけではないからな」
時間を置いた方が良いのでは、と思うけれど。
そう言うので、奏太も彼の意思通りに話を進めることにする。
「……えっと。あんたはどうしてここに?」
彼の伝言の半分は、先ほどまで奏太が見ていた彼の記憶。
それを通して藤咲華——沙耶という女性のことを理解してもらいたかった、ということなのだろうと思う。
だが、その後奏太が考えを改めることまで計算に入れていたかはともかく、ここまで来た理由が分からない。
ソウゴは「簡単な話だ」と前置きし、
「少しだけ、貴様に伝えておきたいことがあってな」
「伝えておきたいこと……?」
頷く。
「——『イデア』が能力を使い過ぎた場合、不死の体となることを知っているな?」
確か、華がそんなことを言っていた気がする。
元々改変能力は世界の理を外れた力。使うたびに使用者は死者へと近づいていき、やがては肉体すらもこの世のものではなくなってしまう、とか。
蓮はその線を越えようとはしなかったため、ハクアとの戦闘で死んだ。……希美がどうだったかは、分からないけれど。
「奴は——沙耶はその不死を呪いと称していた。それが何故か、分かるか?」
少し考える。
「……生き続けることが呪いだから」
「ああ、そうだ」
自分でもすんなりと、言葉が出た。
「人工的な不老不死を経験してきた我らや、ああいった境遇の沙耶は総じて生きることに苦痛を感じている。特に改変者は自身が世界の変化を願ったにもかかわらず、な」
自身と彼女にかけた『ラプラスの選定』による封印すらも、華はそう言っていた。
それでもやらなければいけないことがあったから、全力で生き。そして最後は、死んだ。
頭にそっと手をやる。
いつも、『ユニコーン』の象徴として角が生えていた部分。表面を撫でて、思う。
「じゃあさ。改変をすること自体が呪いだってことなのかな。——いや。それを言い出したら、人間が存在を始めたことも……」
カミサマは言っていた。
世界にはたまたま起きることや、本来はできないはずのことが、願いによって偶然届くことがあるって。
それを奇跡と呼ぶのだと、言っていた。
ならば、改変者が改変を望むに至った理由。人類が存在したことも、もしかしたら。
そう思う奏太に、ソウゴは「違うな」と否定して、
「我々改変者の持つ能力は本来幸せを望むもの。世界に起こる奇跡も、その個人が持つ幸せの一つ。それが事象となって現れるだけだ。言うなれば、呪いのようにな」
「呪い……」
「だが、呪いも過ぎれば呪いとなる。自分が幸せだと思うことでも、他者からは不幸と映り。かつては幸せだったことも、ふとした拍子に不幸へと成り替わる」
その逆もまた然りだと、彼は言う。
「————」
一度視線を下に。
ふっと空を見上げて、
「なら、さ」
声が震える。
戸惑いを隠さないままに、問いかける。
「ソウゴさん。あんたや沙耶は——幸せになれたのか?」
自分でも、どうしてかよく分からないけれど。
一筋の涙を流しながら。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
世界にはたくさんの人がいて。それぞれの人生があって、中には奏太が想像もつかないような、鮮明で壮絶な人生を送っている者もいるのだろう。
それら全てを知ることはできない。
それら全てが幸せだったとは限らない。
奇跡と言っても、願えばすんなりと叶うものではないはずだ。だってそんなことがあったら、それは奇跡じゃない。当たり前で、日常で、現実だ。
偶然だけじゃどうにもならない。改変者だからと言って、絶対にどうにかできるわけじゃない。
だから必死に手を伸ばした。
苦しくても、自身が不幸になろうとも。規格外の非日常を、現実にした。
そんな彼らだから、奏太は問うのだ。
「……幸せ、か」
長い沈黙を経て、彼はポツリと呟く。
彼の中で一つの答えは出ているのだろう。だが、彼は、
「ならば逆に問おう。——貴様には我々がどう映る?」
簡単に教えてはくれない——いや、奏太に見つけろと言っているのだ。
今の奏太にはそれが必要なことだと、分かっているから。
…………考えてみる。
ソウゴは華についていくうちに、未来を望むようになった。
ならば華の幸せはそのまま彼のものでもあり、彼女が願ったのは千恵との約束を守ること。
——世界の腐敗をなくし、千恵が笑って過ごせる場所を作る。
たとえそれが一瞬でも、たとえそこに自分がいなくとも、華にとっては良かったのだ。
あまりにも破滅的な願望。虚しさもあったはずだ。
でも、彼女はそれで、
「幸せになれたんだ。『ノア計画』の通りに、華とソウゴさんは」
悲しい結末だ。
当人たちにとっては幸せであっても、はたから見ればそう映ってしまう。
依存に近いものを抱えたまま生きてきて。死によって解き放たれて。
後に残る者がやりきれない思いになるとも知らず。
————はたから見れば、そう映る。
だが、奏太は藤咲華じゃなく、沙耶という人を知っている。
だからこそ、知っている。
「約束とは別の場所で、沙耶は幸せになれた」
「——何故、そう思う?」
自惚れるわけじゃないけれど。
奏太自身、そんな期待をかけられるほど大層な人物ではないと自分を評価しているけれど。
それでも奏太は、堂々と胸を張らなければいけない。
「だってあいつは、俺たちに託したんだ。最後、死ぬ瞬間、任せたって」
世界の敵を討ち取らせることで、一人の少年を『英雄』とし。
呪いを呪いに変えてくれる一人の少女を『魔女』とし。
二人ならば世界を任せられると、微笑んだのだ。
それは諦めなんかじゃない。
正しく、彼女が望んできた幸せだ。
「ソウゴさんが未来を望んで改変者になったのなら、俺たちが世界を終わらせない。もう幸せだって言うのなら、これからも幸せでいてもらうんだ。絶対に」
それが、あの麗人から受け取った者たちの役目なのだから。
ふっ、笑いが漏れる。
「……え」
マッチの火の粉のようだったそれは、勢いを強くし。楽しげに声を上げ。奏太も驚くくらい無邪気に、ソウゴは笑う。
ひょっとすると自分はおかしなことを言ってしまっただろうか、と言葉を振り返ってみるけれど。感情のままに言っていた部分もあって、明瞭に思い出すことができない。
そもそも、過去から今までずっと寡黙だった彼がこんな反応を見せるなど、よっぽどのことがない限りあり得ないはずだ。
ひとしきり笑って、彼は自身の煉瓦色の髪をかきあげる。
「大した男だ。この場合、貴様たち、というべきかもしれんがな」
冷静にかえったようで、まだ熱の残った言葉。
ひとまず、それが奏太の発言を馬鹿にしたものではないのだと知れて、ほっと息をつく。
「確かにそうだ。貴様の話を聞いて、納得した。我も沙耶も幸せになれたのだ」
「……そりゃ、良かった」
それならば多分、『六人組』の他のメンバーたちも同様に満たされたのではないか、と思う。
彼女らが世界に与えた影響は大きく、行いが正しかったかどうかは別として。一つの願いが叶ったのだ。
————と。
「ソウゴさん、あんた……!」
突然、彼をぼんやりとした光が覆い——否。彼の体が光り始めているのだ。
「ふむ。時間が来たようだな」
しかし当の彼は全く動じておらず、むしろ受け入れている。
そういえば、最初にも彼はそんなことを言っていたなと思い出す。
「——カミサマは幸せを叶える存在。奴からそう聞いているな?」
「ああ。それが関係して……?」
「そうだ。我ら『イデア』は皆、奴の力を分け与えてもらうことで、幸せになることを契約としている。だが——その力は我らが死に、あるいは願いを成就させたとて、奴に戻ることはない」
それは、つまり。
奏太が供給をできなければ、片割れは『ユニコーン』としての力を発揮できないように。
カミサマを生み出した少年がいなければ、彼はエネルギーを供給されず、いずれはその存在をなくす。
そしてその少年は恐らく、もういない。
こうしてソウゴをここへ呼び出せても、時間に限りがあるのはきっとそのせいだ。
蓮と華が死んだことで、力を大きく失ったから。
「じゃあ、俺が記憶を見せてもらってるのも——?」
「案ずるな。消費が起こるのは、奴が奴だけの力で改変を行った時のみ。それが我がここにいる理由で、貴様はただ迷い込んだ。それだけの話だ」
それだけの話、どころではない。
それを分かっていてもなお、彼がここに来て。カミサマが承諾したのは、全て奏太の幸せのため。
——光がより濃いものとなり、彼の体と空間の間を曖昧にさせていく。
「……っ」
奥歯を強く噛む。
何もかもが終わりかけていて、それでもなお彼らは力を貸してくれている。自分の力のなさに呆れてしまいそうだ。
でも、下は向かない。
「ありがとな、ソウゴさん。それにカミサマも。俺を助けてくれて」
「礼を言うのはこちらだ。——沙耶を救ってくれて、ありがとう」
——すぅっと、足元からゆっくりと体が消えていく。終わりの時は近い。
彼の瞳がこちらを見つめる。
「…………我の名はソウゴ」
大きな手がこちらに差し出される。
「相棒を失ってもなお、対等と認めた相手のために拳を振るう。そのための覚悟は決まっている」
既に光は彼の膝まで迫って来ている。
奏太は何も言わずに彼の手を掴んで、視線を受け止める。
「貴様との約束は守ろう。貴様が守りきれないものは我らがどうにかしてみせる。——だから」
最後に、強く力がこもって。
光は弾けて、泡となって消える。
あるべき場所へと、帰っていく。
「————ソウタ。貴様は貴様が一番に守りたいもののために、行け。他でもない自分自身が、それを望むのなら」
体を奮い立たせる音が届いて。
再び世界は向かう。
全ての始まりの記憶へ。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「…………悪い冗談じゃないんだな?」
一瞬で喉が干上がるような、緊張感。
カミサマに止められていたその瞬間が戻って来て、奏太はじんわりとこれまでのことを思い出していく。
これは現代よりも五、六年前の華の記憶だ。
改変者の別の可能性とも言うべき超能力者の母親——遊丹はまだ生きていて、過去に彼女を救った経験のある父親もまた、今とは違った何かを背負っている雰囲気がある。
彼らはどうやら高校時代に華と出会っていて、今回彼女を呼び出した理由であろう『そうた』はまだ記憶を封じ込められておらず。
そしてようやく本題へ入ろうというところでお預けを食らって、今に至るわけだ。
そこまで思い出して、奏太は気がつく。
確かに華は直前に、
————私を死なせて欲しいの。
と言っていたが、この言葉の真意がどこにあるのか、一度目に聞いた時には分からなかった。
しかし、視線をチラと横に向けてみれば、
『二人とも……分かってた、のか?』
父と母、どちらともが何かを覚悟し、重たい表情を作っていた。
華がどういう経緯からそういった発言に至ったのか、まるで理解しているのだというように。
いや、しかし。
どうやら三人は『六人組』や千恵とは別のところで仲が良かったらしく、華が本名を教えているあたりからもそれは窺える。
ということは、全てではないにしろ、事情のいくつか——例えば改変者という存在について、華は二人に話していたのではないだろうか。
……そんな奏太の考えはまずまず当たっていたのだろう。
ようやく聞ける話の続きは、華の呟きから始まる。
「先日、——と言ってももう何年も前の話になるけれど、『大災害』を覚えているかしら?」
「……ああ。『獣人』が世界に出現し始めて、そいつをお前が倒したことで解決した事件だろ。お前のラプラスのなんとかって能力で」
「『ラプラスの選定』ですよ、あなた。当時はニュースに——ああ、今も使ってるんだね」
遊丹の発言にハッとなり、奏太は周りを見渡す。
まだこの頃は件の動画こそなかったものの、『獣人』の傷跡が深かった時期だ。
恐怖を体現化した存在。一種の自然災害。名前を出すことすら恐ろしく、絶滅したとされていても思い出すには凄惨な事件。
加えて、ここは何人もの子どもたちが遊び、親も当然同伴しているわけだが、特別広い作りになっているわけではない。
只ならぬ雰囲気で、かつさも当たり前かのように『獣人』などと口にしていれば、誰だってそちらに目を向ける。そして気がつく。
ひょっとすると彼女はかのHMA総長ではないか——と。
しかし、それが起きないのは遊丹の言う通り『ラプラスの選定』の効果だろう。
概念すらも弄くれる上に応用力もあるとのことだから、存在感をなくすとか、注意が向かないようにするとか、あとは一部の空間だけ音をなくすとか。まあ、そのあたり。
別に遊丹の発言は、そういった意図がなかったのだろうと思う。
言った後で気まずそうに口をつぐんでしまっているところを見るに、段階を踏んでから後で言うつもりだったのではないかと思う。
だが、奏太に察しがついているということは、同じく事情を知っている父親もまた、同じ結論に至る。
「……沙耶。困ったことがあったら頼れ、友人だから。って昔のお前は言ってたな」
その声は低く、鋭い。
一瞬の隙すらも見逃さないといった、先を知っている奏太ですらも息を呑む雰囲気。
「今奏太に起きている現象を、HMA総長か友人か。お前はどっちに転がすつもりだ?」
それは、ただ。
一家の大黒柱として、一人の父親として。
三日月奏太を案じてくれているから出る言葉だった。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「奏太、行くぞー!」
「わわ、父さん高いよ!?」
公園に張り切った声が響き渡る。
それは恐らく彼元来の元気もそうだが、腹の中に溜まったもやもやを解消するためにも見え、奏太は思わずクスリと笑いを漏らす。
奏太の記憶の中に、彼のああいった姿はなかったけれど、過去にこうして遊んでもらえているのなら、それで良いかと思い始めている自分がいる。……いや、この歳になっても遊んで欲しいというわけではないが。
ただ、まあ。
彼女が生きていたらそれもあり得たのだろうな、と奏太は思う。
「父親らしくなったというべきか、あるいは子どもの年齢が彼の精神に追いついたというべきか。分からないわね、遊丹」
「あら。あの人だって、家ではちゃんとパパやってるんですよ? だからちゃんと成長してるんです。二人とも」
ベンチに残った二人はその光景を肴に、女二人の会話に華を咲かせる。奏太は何をするでもなく、彼女らの話を側で聞いていた。
「……二人、と言ったけれど。貴方はちゃんと成長しているのかしら、遊丹?」
風が流れる。
彼女らの黒髪がゆったりとした曲線を描き、混ざり合って、時々境界を曖昧にさせる。
だからこそ、華の髪に混じった赤は、改変者になってから世界を書き換え続けている証として彼女に刻まれていて、それが今や二人を隔ててしまう線のように見えて。
昔はそうではなかったのだと、分かった。
「……不老不死になる気はない?」
ふと。
問いかける華の横顔に、哀愁が漂っていることに気がつく。
自らの使命を捨てるわけではなく。自らの感情を共有せんとするものでもなく。自らの意思を否定することもなく。ただきっと、遊丹の先を知っているから紡ぎ出される言葉。
久しぶりに旧友と会って、その友達が今は楽しくしているようだから、その幸せを願おうとする。たったそれだけの。
——本来起こるはずのことが起きなくなる。
それは世界にとっての異常そのもので、果てには全く別の結果を生むことすらあり得る。
ましてや、超能力者であるという女性を生かすなんて、『ノア計画』が失敗する危険性すらあるのだ。それを華が理解していなかったとは思えない。
しかしそれでも、遊丹を生かそうとしたのは。
奏太には見えない、知らない過去。強い何かで結ばれた彼女に、「沙耶ちゃん」と呼ばれることに、在りし日の親友を重ねたから、なのだろう。
「——遠慮しておきます」
だからこそ、遊丹の答えは決まっていた。
奏太が奏太であるように、彼女もまた彼女。そこに誰かを求められたとしても、頷いたとしても、穴は決して埋まりはしないから。
——それは、遊丹自身も。
「沙耶ちゃんの気持ちは嬉しいです。本当に、嬉しいんです」
一度ギュッと目をつぶって、思い切り開いて、空を見上げる母親。
その瞳が見つめるものは遠く。果てしなく遠いどこか。
「でもね。私はもう、あの人にたくさんの幸せをもらった。それだけでいっぱいいっぱいなのに、これ以上を望んだら——多分私は、しちゃいけない選択をすると思うんです」
彼女は続けて、
「今沙耶ちゃんがやろうとしてることの邪魔にもなる。……違う?」
「…………」
華は何も答えない。
「奏太くんに起こってる『獣人』の兆し。沙耶ちゃんが関係してるんだよね?」
答えない。
「私は怒ってます。だって私は利用されてた側で、何よりあの子の母親だから」
答えられない。
「——うん。分かってるよ。沙耶ちゃんは一度決めたら何だってやっちゃう人。だから世界中を駆け回って、これからも何かをするから、何も言えないんだよね」
「……ええ、そうね」
絞るような華の声。
それだけでも、どれだけの感情を彼女が押し殺そうとしているのかが分かる。
そしてそれは、遊丹も同様だ。
「私は怒ってます」
先の言葉を、繰り返す。
「沙耶ちゃんは根が優しいから、きっとそれが誰かのためだって分かります。私が何を言っても変わらなくて、これから先、奏太くんや色んな人のことを巻き込む。……自分のことなんてお構いなしに」
風が流れていく。
彼女らの黒髪がゆったりとした曲線を描き、混ざり合って、時々境界を曖昧にさせる。
線引きのようにあった赤色は、お互いの感情のように見えた。それが溶けて、一致する。
「私は、怒ってます」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
言葉とは裏腹に、その唇は柔らかく形を変えている。
「だから——お願いがあるんです」
ようやくその時になって、二人は視線を上から下ろして。横を見て、目を合わせる。
「私が死んだら、あの二人にある私の記憶を封印して欲しいの」
「……貴方は、忘れてもらいたいの?」
遊丹は言い淀み、
「そう。私は、忘れて欲しいんです」
自分の気持ちをなぞるように言葉を紡ぐ。
誰かに似ている、と思った。
「大切なものを失うのは悲しいこと。私はあの二人が傷つくのが悲しいです。苦しいです。でも、止められないことはあって。沙耶ちゃんの進む道は、きっとそうなっちゃう」
苦しい思いはしないならしないに越したことはない。
でも、遊丹の言う通り、避けられないものは確かにある。
お願い、とは言ったけれど。
華が自身の行いの意味を自覚しているからこそ、断れないと分かっていて言っているのだ、この母親は。
父親が先ほどそうであったように。彼女もまた、彼女なりに家族のことを想って。
「——私が苦しいのなら、いくらだって耐えられるから。だからあの二人の苦しみを少しでも減らしてあげて。きっとそれは、二人の幸せになるはずだから」
華は何も言わない。
再び空を仰ぐ遊丹が雫を流していることに、気がついているから。
人は忘れることで生きていけると言うけれど。
忘れてはいけないものがあって、それを取りこぼしてしまうのは何より、悲しいこと。
だから本当の意味では幸せにならないのだとしても。そう思っていても、言わないのだ。
「…………。約束しましょう。——私が生きている限り、貴方の意思は全うしてみせる。絶対にね」
「……うん」
藤咲華は話術に長けた人物だ。
不思議な説得力を持った口調で、あたかも正しいように言葉を並べ、相手を惑わし、自分の思う方向へと誘導させる。
彼女に騙された者は数知れず。
なぜなら、言葉の裏を読み取ることは難しいことだ。
普段は頭の切れる者であっても、一度感情を表に出したり、平静でいられない何かがあれば、途端に頭は判断力を鈍らせていく。
大抵そういった時は、言葉の意味を確かめることすら忘れてしまうから。
——一瞬、ちらりと華の目がこちらを見た気がした。
むろん、これは記憶だ。
ただの気のせいだと、分かってはいるけれど。
『……ありがとな、華』
我ながら単純だとは思う。
前はあれだけ嫌っていた——いや、今も嫌っている部分はあるけれど——のに、こうして華も沙耶も憎めないのだから。
「……あ、そうだ」
ポンと手を叩いてから涙を拭いて、何やら忙しい遊丹がポツリと呟く。
華の瞳の奥を覗くように、
「沙耶ちゃんの『ラプラスの選定』は結構自由が効きましたよね?」
「まあ、そうね」
「じゃあ……」
何かを閃いたらしい彼女は、まだ潤んだままの瞳を輝かせながら、華の耳元で何かを囁く。
それからしばらくして、華が頷くのを確認して。
彼女は、咲き誇る花々のように可憐な笑顔を浮かべた。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
時間は止まることなく流れていく。
起きたことは変わらず現実となって現れる。それが記憶。それを奏太は見届けている。
「それじゃ。検査やその他諸々を終えたら、また貴方の家に送り届けるわね」
「……俺たちの息子にこれ以上変なことするなよ?」
「パパ。子どもの前でそんな表情をしちゃダメです」
HMA総長藤咲華。父親。それから遊丹。
三人は先ほどの空気を持ち込まず、もとい一人を除けば皆優しげな表情に戻り、
「え、これからなにするの? ですか?」
拙い敬語に無邪気な疑問。
自身の内に秘めた獣の存在、恐らく少し前に目覚めたばかりのその危険性を自覚していない『そうた』は、親の元を離れ、華の手を握っている。
「変なことされたら噛みついていいからな。俺が許す」
「そんなことしないもん!」
……やがてはそう言っていた人物を憎んだり怒ったりするのだが、今はまだ、何も知らないまま。
さすがに悪ノリが過ぎると遊丹に怒られ、父親はため息を吐き。『そうた』の頭をポンポンと叩く。
「……帰ってきたら三人で外にご飯食べに行くぞ。何でも好きなもの食べさせてやるからな」
「え? 今日おいわいとかじゃないけど」
「いいんだよ、とりあえず頷いとけ!」
それでも納得がいっていない様子だったが、三人でご飯という言葉に惹かれるものがあったのだろう。
やがて『そうた』は「なに食べようかな」と考えごとを始める。
それは微笑ましい光景。
もう戻ってはこない時間。
奏太はただじっと、噛みしめる。
「————奏太くん」
この記憶の後には母親はいない。
それは華が彼女の意思を正しく読み取って、改変して。非日常を白で塗りつぶして、ただの母親として父の記憶に残し、けれど奏太の記憶の中に彼女はいなかったから。
けれど最後にこうして、真実を知った。
華が仕向けたのだ。最後の瞬間を、見届けさせるために。
遊丹は一度華を見つめて、軽く顎を引く。
とても簡単な動作。そこには一言では言い表せられないたくさんの複雑な感情がこもっていて、しかし『そうた』は首を傾げるのみで理解できない。
——でも。たくさんの人に出会って。色んなことを見てきた奏太なら。
好きな人も、母親も、最後には忘れてなんてやらなかった奏太なら、もう分かる。
「奏太くん」
名残惜しむようにゆっくりと。
彼女はもう一度名前を呼んで、それから。
「——行ってらっしゃい」
柔らかく微笑んで、言った。
誰よりも奏太の幸せを望んでくれて、背中を押して、送り出してくれた。
『————』
体が震える。
手に汗が滲んで、唇を強く結ぶ。
瞼の裏に母親の姿を焼き付けて。
記憶の自分と声が重なった。
「『——行ってきます、母さん』」
……これは記憶だ。
あくまで『そうた』に向けられたものであって、奏太に向けられたものではない。
でも、彼女の言葉は確かにあった。だから抱えて行く。
真実で、忘れてはいけない大切な言葉。
これから先、三日月奏太が始まるために、大切な。
遊丹は華に囁いた。
——奏太くんが誰かのために怒った時。それは力が必要な時だと思うんです。
——だからもし、その時が来たのなら。
——あの子に力を戻してあげて。
記憶の世界は姿を変えて行く。
奏太にとって必要な、これからのための世界へ。
笑みを浮かべて、一歩。
「幸せを見つけに、——行ってくるよ、母さん」
何もかも。
笑顔も、光の中に消えて。