第五章3 『片割れ』
三日月奏太は、特段変わった家庭の生まれではない。
……少なくとも、十歳以後の記憶の中では、そう思っている。
息子である自分は『獣人』——『ノア計画』の全容を知ってしまったため、正確な説明とは言えないものの——だが、両親はあくまで普通の人間。
記憶を失う以前の自分がどう考え、どう生きていたか、なんていう疑問はもうしばらく考えていないし、今更それが掘り起こされたところで、と思うけれど。
多分、人並みには幸せだったと思うのだ。
「——そろそろ時間だけど。本当にあいつ、来るのか?」
「大丈夫ですよ、パパ。あの子、誰かを振り回すことが多いけど、予定だけはしっかり守る子だから」
間に子どもを挟んで、左に父親、右に母親。
前者は記憶の中では最新の、ついこの前見た姿よりかは幾分か若く、くたびれた雰囲気もなければ黒髪に白髪も混じってはいない。むしろ年相応に活気に溢れた好青年、といった印象を受ける。
それから後者は、一本一本綺麗に伸ばされた黒髪に透き通った白い肌。家にある写真と同じくらい、ふんわりとした雰囲気の清楚、という言葉が似合う白服の綺麗な女性。一緒に過ごした記憶もなければ、最新の容姿もずっと更新されていない。
けれどはっきりと分かる、確かな血縁関係。
……やはり決して見間違えることがない、知っている顔ぶれだ。
「おかあさん、今日だれかくるの?」
間の子どもについても同様。
どういうわけか今よりも目つきが鋭い気がしないでもないが、左右の両親の血をしっかりと継いだ、黒髪黒目。記憶をなくす前の三日月奏太。
ラインヴァントの子どもたちを思い出すに、歳は九か十といったところか。彼に母親は人差し指を立て、
「今日はですね、奏太くんに会わせたい人がいるの」
「どういう人?」
「ん、と……」
子ども——『そうた』の純粋な疑問に、母親が考える。じっくり五秒、頭をひねった後にへっと笑って、
「奏太くんがいつもテレビで見るような、すごい人」
「ふーん。すごいひとかぁ……」
対して『そうた』は興味がないような返事をしてみせるが、口元がほころんでいる。一体誰を想像したのかは分からないが、期待へと矢印が傾いたのだろう。
「……あらあら」
ならば当然、素面の決壊も早くなる。
『そうた』は瞳を輝かせ、繋いだ手をブンブンと振り回す。先のことなんて何も知らないで、笑っている。
母親も、父親も。
『…………』
現在の三日月家にはいない、母親の姿。『そうた』ではない三日月奏太は、そのことについてこれまで何も思ってこなかったわけではない。
——どうしてみんなには母親がいて、自分にはいないのか。
——みんなの当たり前がどうして自分にはないのか。
記憶ある限り、父親は仕事で家を空けることが多く、いつも奏太は一人だった。
「ただいま」と声をかけても、写真の中の母親は返事をしてくれるわけではない。「おかえり」の声はずっと聞けず、一方通行。
当たり前が遠くて、寂しかった。
蓮と出会う前の奏太が他人と同調することばかりを考えていたのは、そういった面が強く影響しているのだろうと思う。
今更非難したりはしないけれど。死は仕方のないことだと、自分に言い聞かせてきたけれど。
進学して、一人暮らしをして、恋に落ちて。その寂しさは忘れられていた。でも、こうして、『そうた』たちにとって一番に幸せだったであろう時を見てしまうと、言葉にはならない、乾いた感情がこみ上げて来てしまう。
「おかあさんもおとうさんも、そのひとと、ともだちなの?」
「ん、まあ。……いや、俺は友達っていうべきなのか?」
「友達ですよ。あのことがなくても、ずっと——」
しかし奏太の感傷など、記憶には何の影響も及ばさない。事実は事実だ。どこまでも時は流れ、次の行動は止まることなく起きる。
『そうた』が園内に友人か何かを見つけたのだろう。質問の回答を待たずに二人の手を離れ、ぱたぱたと駆けていく。
それを止めることなく、顔を合わせてやれやれと肩をすくめる二人。その足がベンチへ向かい、
「人の話を聞かないところは、誰に似たんだかな」
どっさりと腰を下ろした父親は短い髪を撫でつつ、苦笑。
「あら。あなたにそっくりじゃないかしら?」
上品にスカート部分を畳み、続けて腰掛ける母親。彼女は頰に手をやり、
「私の予想だとあと数年もしたら、好きな子のために、誰かのために——って走り回ってると思います。きっと誰に言われるでもなく、自分自身のために」
それから少しだけ言葉を交わして。視線を自分たちの息子の方へと向ける。
それはたまらなく愛おしいほどの愛情で染まった、温かな瞳。『そうた』だけでなく、未来の、今の三日月奏太に向けられているようにも思えて、言葉を失う。
こんな時間が過去にはあった。
それを一身に受けて、過ごした『そうた』はどんな思いだったのだろう。
『……は。ははっ』
腹奥を締め付けるような、滲み出る切なさ。それが上り、胸の中に広がって、思わず乾いた笑いがこみ上げてくる。
頭を抑え、乾いた瞳を宙にさ迷わせて、ぶつける場所もなく、感情を放出させる。
笑って、笑って、空を仰ぐ。
『……そんなこと、考えるまでもないか』
そうだ。
——多分とか、思うとかじゃなくて、絶対。
自分は、幸せだったのだ、と。
奏太の記憶の有無なんて関係ない。未来なんて関係ない。過去にこうして幸せな時間があって、両親はしっかりと自分のことを愛してくれていた。
これが誰かの記憶であったとしても、これは記憶だ。確かな事実だ。
『…………世界から外れてしまった存在。一人だけ置いてけぼりをくらった、哀れな子ども。『獣人』のことも、自分のことも、何も知らないのが三日月奏太』
ぽつりぽつりと、呟く。
記憶を失い、何も知らなかった自分が吐き出した結論。苦痛。空白。
この世界に居場所はないのだと、一人泣いていた自分へ。
——否定しよう。
三日月奏太は、絶対に間違いなくここにいた。
二人の愛情を受けて、応援されていた。まだまだ知らないことだらけではあるけれど、それだけははっきりと言えるから。
——一筋の熱が、頰を伝った。
「……奏太には平和に過ごしてもらいたいけど、そうはいかないんだろうな」
父親がふと、真面目な顔になって呟く。
奏太は彼らに近寄って行き、側に座る。
「いや、そりゃまあ確かに性格も似てるだろうけど」
ぼんやりと、言葉に耳を傾ける。
「面倒ごとを作るのも巻き込まれるのも、間違いなく似てる。無茶してすっ転んで、命がけの綱渡りをバカみたいに繰り返して、間違えるだろうな。そのうち信じてたものもひっくり返って……」
雑だが、優しい口調。あまり意識してはこなかったけれど、現実の父親もこんな感じだったのだろうか。
半年ほど前まではろくに相談もしないで一人で悩んでいたし、ここ最近はラインヴァントの皆とばかりいたから、落ち着いて話したりとかは、していなかったけれど。
「…………たとえそうなったとしても。私たちは私たちに出来ることをするだけですよ」
二人の視線が、絡む。
「あなたが昔、私にしてくれたように。奏太くんは最後に選べる子だから」
『…………』
二人の、奏太には分からない無言のやりとり。
しかし伝わるものも、感情も。彼らにとっては言葉以上のものなのだろう。
「……そうだな。何てったって、俺たちの子どもだから。——前を向けるはずだ。奏太が望むやり方で」
彼らの想いには、どれだけの過去が詰まっているのだろう。
それを今奏太が問うことはできない。仮にできる状況にあったとしても、問いかけるつもりもない。
お互いに全てを投げ出してでも救いたいと思える人がいた。そのために世界を変えてやろうと踏み出した。たくさん辛いことがあって、でもたくさんの笑顔のために、その手を掴んだ。
そこには奏太が知る由もない、奏太にもあった日々が。色鮮やかで眩しいくらいに忘れられない出会いが、二人には二人の、物語があったはずだから。
——そしてそれは、かの麗人にも。
じゃり、と地面を踏む音。
どうやら奏太にとっても、『そうた』にとっても、平穏の時はここまでらしい。
そちらを見るまでもなく、空気の変化によって、誰が来たのか分かる。
「久しぶり、って言いたいけど。お前俺らの話聞いてたな?」
「——さて、どうかしら? 私はせいぜい、……この人たち、本当昔と変わらず盲目的な愛の中で生きているのね、程度にしか思ってないわ」
「やっぱり聞いてんじゃねえか!」
なるほど、先の記憶でも確認したことだが、両親に時間の変化があるように、こちらもこちらというべきか。
現実での体験、という意味で遡るのならば、記憶よりもフランクな対応。
基調の黒に所々赤色が混じった、長髪。人をどこまでも見透かしていそうな神秘的な瞳に、クスクスと笑うその仕草。
まだ幼さの残っていた頃とは違う、完成した美しさを持った女性だ。たとえ立場を知らずとも、まぶたの裏に焼き付けておきたくなるくらいには、目を惹かれるであろう容姿。
しかし奏太の驚きなど、当然知るはずもなく、彼女はそのままこちらへ。
ベンチの前でピタリと足を止め、最初に父親を。次いで母親を見つめる。一瞬その目が細められ、しかし奥に眠る感情は瞬きの間にどこかへと追いやられる。
その経緯を経て、浮かべられるのは。
「久しぶりね、三日月君。——遊丹。あたしと会うのは高校以来かしら?」
ふふっ、と。
『英雄』でもなく、『不老不死の魔女』でもなく。
麗人でもなければ藤咲華としてでもなく、彼女の原点である沙耶として。
そう言って、柔らかく微笑んだ。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「子ども大きくなったのね。貴方達に似て元気だわ」
「そりゃあ、三日月家自慢の子ですから」
二人の間に割って入る形で座った華。彼女にふふんと鼻を鳴らす母親——苗字か名前か判断がつきづらいが、例の件から考えるに苗字だろう——遊丹は続けて、
「沙耶ちゃ————華ちゃんのこと知ってるから、きっと懐いてくれるよ」
「沙耶でいいわよ。一般人に私だと知られると面倒だし、何より貴方達に本名を教えたのは特別扱いをしているから。だから別に、今更気を使う必要はないわ」
「あ、そう? なら沙耶ちゃん」
「とはいえその呼び方は……まあ、いいわ。幹部にもそういう人がいるから」
そういえば、と思う。
千恵との会話もそうだが、華がこうして柔らかい口調になっているのはかなり珍しいことだ。
それでも奏太があまり驚いていないのは、以前に華とアイの会話を聞いたからだろうか。
——いや、あるいは。
『ノア計画』中に彼女が言っていた、奏太の両親と面識があるという話。あれがまごうことなき真実だと分かって驚いているから、相対的に情報の価値が下がっているのか。
いずれにしても、普通に考えればなかなかすごい状況だと奏太は思う。なにせ相手はこの当時HMA総長、『英雄』として疑いなく崇められていた、地位も権力もトップクラスの人間。およそそこらの一般家庭の夫婦が親しく話せるわけがないのだから。
ただ————、
『どうして華が父さんたちと……?』
華がカミサマと契約したタイミングは、彼女が高校生の時。
「本名を教えた」発言から考えるに、二人と出会ったのはそれ以降ということになるが、それならそれで特別扱いという意味が分かりかねる。
どんな立場であれ友達でいてくれたことに感謝をしている、だとか。
あるいは——契約の一年後には、彼女が色んな施設を潰して回っていたということが関係しているのか。
両親に対してはあんなことを考えていた手前、なんとも都合の良い頭だとは思うが、こればかりははっきりとさせておかなければいけない謎だ。
しかし、そんな奏太の疑問は、すぐに晴らされることとなる。
「あー、ごほん。そろそろ本題に入りたいんだけど」
わざとらしい咳ののち、多少の罪悪感があるのか斜め上に視線を逸らす父親。彼が二人の会話を止めたことで、話が進み始める。
「確かにそうね、と言いたいところだけど。一つだけいいかしら?」
「……うん。なに?」
「三日月奏太君。——彼に貴方のような能力が備わった、あるいはその兆候はあったのかしら?」
『なっ————!?」
思わず体を跳ね起こし、華を睨むようにして見つめる。
能力。それが指すところが何なのか、候補はいくつかある。が、
「それは——」
「沙耶。その能力、っていうのはさ、俺たちがお前に相談したこととはまた別物、なんだな?」
言いかけた遊丹を父親が止め、声色を低くして問う。
それまでとは打って変わった、感情の見えない憤りとも困惑とも取れる震え。
いずれにしてもその原因は、一つ。父親である彼が、愛する遊丹との息子である奏太を思ってのものだ。
対して華は感情を動かすわけでもなく、答える。
「ええ。単に確かめたかっただけ。子どもに能力が受け継がれているのだというのなら、貴方達は親として苦しむことになるでしょう?」
奏太の知っている薄い笑み、とは違う。
先のことを考えると怪しいところではあるけれど、どうやら彼女は本気で心配しているらしく、表情にもそれが現れている。
だから父親も気まずそうな顔になって、
「……悪かったよ。一応、現時点ではそれらしき兆候はない。少なくとも俺たちが見た限りだけど」
「そう。それなら良かったわ」
華の視線が遊丹の方へ、
「もし能力があったならば、貴方のように組織に狙われないとも限らないもの」
「でも、沙耶ちゃんはそうならないように努力してくれてます。HMAはそういう組織、なんだよね?」
胸を針のような痛みが刺す。
「そうね。異端者監視組織。……世界の腐敗を消し去るのが目的の一つだもの」
彼女の言葉に、注意して聞いていなければ分からないほどの影があったことに、彼らは気がついているのだろうか。
HMAは確かに立派な組織だった。
人間を守るために脅威を消し去り、平和を保とうとする。その事実は確かだった。
けれど、他がどうかはともかくとしても、世界を一番に脅かした恐怖は。
『……ある意味守られていた、とも取れなくはないのかもな』
監視の目が組織として巨大だったおかげで、HMA以外の変な輩が出現する、なんていうことがなかった。それは多分、真実だ。
感謝だけはできないけれど。
『…………って。いやいや待て、その前に考えなきゃいけないことが』
話の流れに思考を沿わせていたせいで、思わず流してしまうところだった。
——能力。
今までの情報から考えると、可能性が一番高いのは改変能力。組織に狙われる、どころかもしかすると一つの戦略か戦術に使えるくらいにはとんでもない能力だ。ありえない話ではない、が。
『華が父さんたちと知り合った経緯……』
カミサマが出てこないのは多分、計らいの部分もあるのだろう。
だが、先の記憶までは律儀に補足説明をしてくれていたあたり、ここで理解不能な場面を流してそのまま、なんていう意地悪をするとは考えにくい。
となるとやはり、ここまでの説明と先程から引っかかっている部分。
消去法で導き出せるのは、
『——まさか、超能力者、なのか?』
はっきり言って、それはあまりにもぶっ飛んだ結論だ。
しかし、それならば辻褄は合うし、改変者しかり、カミサマしかり、非現実的なことは今までに幾度となく奏太の常識を壊してきた。
考えてみる。
遊丹はある日超能力に目覚めて、たまたまそれが何らかの組織に目撃された。研究のためとか平和のためとか制御のためとか、表向きの言い訳はいくらでもあって、遊丹はそれに乗った。しかし当然真実は悪用のためでしかなくて、逃げようと思っても時すでに遅し。誰も頼れなくて、どうしようもなくなった。そこで登場するのが父親で、彼女を助けるタイミングでたまたま華と知り合って、それ以降仲良くして————。
……少し無理やり、いや結構無理やりな想像ではあるけれど。
そういえば華は「二人に最後に会ったのは高校時代」みたいなことを言っていた気がするし、部分部分は合っているのではないだろうか。
それぞれの事情を知っている様子が見受けられるし、同じ非日常に関わっていた、ということならば華が二人に心を許してもおかしくはない。
とはいえまあ、結局のところ答え合わせは後でカミサマに聞くしかないなと、頭を切り替える。
奏太はこの記憶の本題を、見逃すわけにはいかないのだから。
「——本題に、入ろうかしら」
ピリ、と空気が変わるのが分かる。
先ほど奏太が立てていた仮定を肯定するような、修羅場を乗り越えてきた者特有の覚悟。それが父親と母親、二人から感じられて、奏太も反射的に背筋が伸びる。
それを味わうようにじっくりと、瞼を閉じる華。
彼女は立ち上がって、一歩、二歩。
「貴方達に、お願いがあるのよ」
振り返り、言った。
「————私を、死なせて欲しいの」




