第四章31 『ハジマリノオワリ』
何かの、音がした。
深く暗い、闇の水底で。
まどろんだ意識ははっきりとした認識を得ず、言葉を持たず、分かっているのに分からない。
誰かの記憶の中には確かにあって、その情報は聞いた。でもそれはあくまで情報であって、経験ではない。
なぜなら自分は、選ばれた存在でもなければ至った存在でもないから。
だから、分からない。
体を、足のつま先から順に何かが侵食していく。
優しく撫でられるようにくすぐったく、得体の知れないものが中を這いずり回っているような、気持ちの悪い感覚。
それは変貌だ。
他者からは認識できずとも、自身はその現実に気がつくことができる。
肉体が固定され、概念は制限され、けれども『少女』は悲観しない。
この変貌は自身が望んだものであり、それこそが『英雄』たる魔女が遺したもの。破滅の未来を超えるための不死。
音が、強くなる。
覚醒の時が近いのだろう。
音の正体、その理由——今は分からないけれど。あるいは自分には分からないというだけで、彼なら分かるのかもしれないけれど。
音は徐々に鋭さを増し、体に染み込んでくる。
浮かんでいく体、もう目覚めはすぐそば。
「————」
声が出ない。
やはり、『少女』はこの場所に至れないということなのだろう。
ならばせめてと、胸の奥で、
——不死の呪いをありがとう。
そう一言唱えると、暗闇に亀裂が走り、周囲が光に包まれて—————。
「……は」
ぱち、と瞼を開く。
真っ先に視界に入ったのは知らない天井。次いで、やはり継続して凍結している世界。
軽く手を握ったり開いたり、上にかざしてみる。
見た目にはこれと言った変化はないが、間違いなく、今の自分は。
「…………、この音は」
ゆっくりと体を起こす。
空間が凍結しているのだから、何人かの例外を除けば音など聞こえるはずもないし、周りを見渡してみればある程度の事情は察せる。
以前、あの少年と蓮がデートをしたという喫茶店。そこに自分は寝かされていて、遠くから金属が弾かれるような音がしている。
彼と華が戦闘するに至った、とは考えにくい。ということは、結論として出せるものは一つ。
「華たちじゃなく、私たちが止めなければいけない終焉。起きるべくして起きた歪みゆえの天災……か」
となると、あまりチンタラとしてはいられない。
未だに音が止まないということは、それは『昇華』を持つ彼でさえも苦戦するような強さを持った相手。
それに比べて自分は、身体能力も戦闘力もこれと言って高くなく、彼のように正面切って戦えるわけではないけれど。
世界を書き換える改変者が相手。
推測が正しければ、判断を間違えると死に至ってしまうし、重要なところでは彼任せになってしまう。だから自分にできることは数限られていて、けれど。
「——そーたを一人になんてしない。それだけはしちゃいけないって思うから」
自分も——芽空も人のことは言えないけれど、彼は一人では危なっかしい存在だ。
だから隣で彼と共に立ち向かいたい。彼がそれを望むのなら、どんな時だって。
両手を上げ、ぺちぺちと、頰を叩く。
鈍い痛みがじんわりと広がっていくが、同時に頭は冷静に、向き合うべき一つに向き合える。
そのためだろうか。
さっきまで自分の寝ていた位置に、何かが落ちていることに気がつく。
「これって……」
金色のチェーン状のブレスレット。過度な装飾の付いていないそれは、元々は蓮が『トランスキャンセラー』として身につけていたものだ。
それを奏太が継ぎ、今日も式典の途中までは身につけていたはずだが——本格的な戦いになるので芽空に預けると、そういうことだろうか。
そもそも先程まで芽空は意識のない状態だったから、彼は巻き込むまいとしてここへ運んできたのだろう。
それは正しい判断で、気遣いには感謝しているけれど……妙な胸騒ぎがする。
早く行かないと取り返しがつかないことになるような、そんな気が。
「って、そんな嫌な想像してる場合じゃなくて。早くそーたのとこに急がなきゃ」
危うくこの場に置いていくところだったが、見つけられて良かった。
慌てて拾い上げ、
「——っ」
左目に言葉にできない違和感が走る。
痛み、というにはあまりにも脆弱で、涙と錯覚するには感情の欠如が目立つ。
手鏡は……ない。恐らく待機室だろう、ならばと窓を見ようとするが、気づく。
世界は時間を停止している。
ということは自分たちのような例外の姿は、鏡や窓に映るものではない。ゆえに、確認できないのだと。
……まあ、気になるところではあるが、仕方ないだろう。
幸いなのかは分からないが、違和感は一瞬で止まったし、体にこれといった変化もない。
ならば、改めて。
「そーた。今、行くから……っ!」
その手に『トランスキャンセラー』を強く握りしめ、芽空は走り出す。
不死を継ぐと華に頷いた時のように、真っ直ぐ少年のために。
二人で望んだ未来を歩きたいから。
————その左瞳はかの麗人のように。紅く、染まり始めていた。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
『等生』の厄介な点は、本体が生きている限りほぼ無限に武器が増殖することにある。
「く、……っそ! 鬱陶しい!」
触れれば肌が裂ける切れ味のワイヤーに、その向こう側から放たれる包丁。痛みを感じた瞬間に体を反応させれば回避は可能だが、それだけではダメなのだ。
自分で言うのも変な話だが、そのソウゴにも匹敵する超人的な反応は、あくまで『昇華』で向上した身体能力によるゴリ押しでしかない。
それで本体に攻撃が届いていないのだから、いずれはジリ貧になるだけ。
全く、本当に厄介な能力だと奏太は思う。
これだけ手数が多いとどれだけ早く動いても対処的行動しか取れないし、恐らくラインヴァントで一番に戦闘慣れしていたであろう梨佳が敗北したのも頷ける。
感覚としては、相手を引っ掻き回すことを戦術の一つとして使用している葵に近いような、
「——葵に近い?」
ふと、違和感を抱く。
ワイヤーに注意しつつ、飛んで来る包丁を避け、体の調子を確かめるように一度手を強く握る。
それから周りを、次いで上空へと目を凝らし、
「ああ、そうか。……お前と出会った時に、まさしく俺が考えてた光景だ」
角に意識を集中。
これまでに受けた刺し傷を含む体の状態を治し、強く地を蹴る。
その跳躍はぐんと空を翔け、目にも留まらぬ速度のかかと落としに繋がり——、
「っくそ、戻ったか」
当たる寸前、そこにいたはずの『青ノ蝶』はわずかな鱗粉を残し、消えた。そのまま着地、複数集まった分身体、その奥に声を飛ばす。
「『青蠍』——蓮の毒まで使って俺を殺そうってか。どこまでお前は……!!」
「……使えるものは、使う。間違っていることを、否定するのに、手段を選ぶ、必要があるの?」
そう。
奏太が地上で四苦八苦している間に、希美は上空から『青蠍』を降らせていたのだ。かつて葵が姉妹を守るためにと、蓮と葵に頼んでいたものを。
奏太の『昇華』でも手数の多さには敵わないというわけではなく、簡単な話徐々に麻痺で身体能力が落ちていっていたから。
それから最初の方は何度もあった、近距離による刺突がなかったのは、
「分身体が受けたダメージは本体に還る。だから自分も麻痺しないよう遠くから攻撃して、だからお前は俺の掌底を食らった時、苦しそうにしてたんだ」
だから希美の言った通り、『蜘蛛の巣』という表現はこの包囲に相応しい名前だ。
獲物を逃さないよう檻を作り、じっくりと弱らせてから一気に貪り喰らう。
どこが守らなければいけない対象か。彼女は相手を仕留めるために能力をフル活用し、必要な手札を揃え、この状況を作り出した。
仲間も、信頼も、好意も、姉すらも利用して、騙して、裏切って。
守るどころか、彼女は。
「…………何なんだよ、お前は」
拳が震える。
「どうして、そんなことを平然とできるんだよ! お前は!」
彼女が彼女にとっての理不尽の象徴たる華を殺すために、どれだけの自分勝手があったか。
別に、華と違って最初から計画を練っていたのではないのだろう。ブリガンテと衝突し、その騒ぎに乗じて邪魔になるであろう梨佳を殺し、こうして今、奏太と対面していることは。
全ての終わりの始まり、蓮の死をきっかけに事態が進んだのだ。
たまたま三日月奏太という、同じ復讐を目的としていた者がいて、助力した結果ハクアを殺せた。
たまたまブリガンテがアジトを攻撃し、反抗作戦ということでたまたま武器をもらった。アジトにある姉の忘れ形見も手に入れた。
それから、梨佳が希美をおびき寄せる目的も兼ねて単独行動を取った。だから始末は容易いものだった。
世界の停止は、最初から考慮になど入れていないのだろうと思う。
華を殺せば社会的に終わりを迎える、などと保身的な考えが彼女の頭にあるとは思えないから。
だから、たまたま奏太と二人になって油断したところを、後ろから狙って攻撃した。
そしてそれら全ては、たった一つの目的のために。
「蓮が死んだから約束なんてどうでもいい。世界なんて滅べばいい。……お前はそう思ってるんだろ?」
それが彼女のこれまでで、梨佳と奏太が刃を向けられている意味だ。
どこまでも自分勝手だと思う。
もしかすると奏太もそうなっていたのかもしれないけれど、そんな可能性を理由に彼女を見逃すことにはならない。
奏太も希美も、約束が原点だ。
そんな彼女が間違った道に進んでいるのだとしたら、殴ってでも止める。
————みんなを、幸せにして。
美水蓮が望んだものの中に、希美はいる。
だから奏太は蓮のためにも、彼女を止めなければいけないのだ。それが蓮との、約束だから。
「————違うよ?」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
一瞬、思考が止まる。
「……は?」
彼女は今何と言った?
違う。それはつまり、
「奏太さんは、勘違いしてる、みたいだけど。奏太さんは、私のこと、全然知らない」
彼女は続ける。
「私が、ラインヴァントのことを、どう思ってるか。梨佳さんのことを、どう思ってるか。『獣人』についてどう思ってるか。人間についてどう思ってるか。答えは、どうも思ってない」
絶句。
けれど攻撃はなおも飛んでくるので、回避しながら近くの分身を攻撃しようと迫る。
彼女はゆっくりと息を吸って、
「私にとって、姉さんは全て。私は透明。姉さんを通して見る世界が、私の全て。姉さんが世界を正しいって言うなら正しくて、間違ってるって言うなら間違ってる。だからそんな姉さんを否定する人は敵だし、姉さんを肯定する人は味方。たとえそれがHMAでもラインヴァントでもブリガンテでも人間でも『獣人』でも変わらないし、改変者だって。それが私にとっての当たり前で、私が私であるのは姉さんがいるから。姉さんのために私はいるし、姉さんがいるから世界が成り立つ。たとえ姉さんが恋をしても、そう。姉さんが奏太さんに恋愛感情を抱いているって知ったときは驚いた。悲しかった。辛かった。頭がおかしくなりそうだった。だって、今までの姉さんに不純物が混ざって、世界が壊れてしまうと思ったから。私の姉さんは姉さんじゃなくなるし、私は私じゃなくなる。それがどうしようもなく怖かった。でも、違った。それも姉さんで、姉さんが幸せなら私も幸せ。だって、そう。姉さんが私の全てだから、姉さんが抱く感情だって正しい。だから私も全部飲み込んで、それを受け入れる。相手がどれだけ情けなくてみっともない人でも、弱くてちっぽけで姉さんには不釣り合いな人でも構わない。姉さんが選択したんだから、間違ってるはずがないって。私はそうやって生きてきた。だからこれからもって思ってたのに、——ハクアが姉さんを殺した。華が世界が理不尽が敵が不都合が選択が姉さんを殺した。あの日に私の世界は消えた。私は死んだ。姉さんがいない世界に意味なんてない。世界なんて全部消えてなくなればいい。姉さんが愛してあげていたのにその愛を無下にして否定して利用して馬鹿にして拒絶して批判して逃げて受け入れず謝りもしないし後悔もしないし死んでくれない。だから私は終わらせたいって願った。世界を書き換えて、それで終わり。それが世界の償いで、姉さんへの一番のプレゼント。きっと姉さんも喜んでくれると思ってた。でも、そう思ってた時に、奏太さんが来た。……約束。私は姉さんと約束をしてたって、思い出した。だから私は約束を守ることにした。よく考えたら姉さんはそっちの方が喜ぶ、って」
奏太に言葉を挟ませない希美。
頰が赤く染まり、薄っすらと笑みを浮かべているその表情を、奏太は今までに見たことがなかった。
だが、驚きはそれだけにとどまらない。
「——姉さんが、死んだ後。私が、奏太さんのこと、どう思ってたか分かる?」
「それは」
先程の辛辣な評価だろうか、と思うが違う。
「私はどうしようもないくらい————ずっと奏太さんが、憎らしかった。姉さんの側にいたのに、姉さんを守れなかった。姉さんと一緒にいて、プレゼントまで送り合ってた。最後の瞬間まで、一緒にいた。勝手に約束を、交わした」
「なっ……」
怒りと憎しみに歪んだ彼女の顔に、奏太は一瞬動きを止める。
包丁が一、二本体に刺さって、痛みから再度回避を再開。けれど頭が動揺で真っ白になってしまっており、どれもギリギリのものになってしまう。
「奏太さんは何も知らない。私のことも、姉さんのことも、約束のことも。知った風に口を聞かれることが嫌で嫌で鬱陶しくて最低で最悪な人」
否定、
できたら、良かったのだろうか。
できたら、奏太はもっと器用に楽に生きられる人間だったのだろうか。
確かに奏太は、希美と会話をする時想像で心情を推し量ることが多かった。きっと彼女はこうだろう、行動から考えるに彼女はこう思っているのだろう、と。……それが見当違いで、全く逆のことを考えていたとも知らずに。
分かっているような口を聞いて、偉そうに上から目線で物を語る。彼女からはそういう風に映っていたのだろう。振り返れば、そうだった。
本当は分かってなんてやれていなくて、痛みを分かった気になって、奏太は、
「————この、感じ」
沈みかけていた心が、咄嗟の感覚に跳ね上がる。
迫っていた刃物、進んだ先にあるワイヤー、再度飛翔し始める『青蠍』を持っているらしい上空の『青ノ蝶』。
事態は危険で、だがそれ以上に、ここで奏太は立ち止まっていられない。
前後から迫る投擲、その場で奏太は高く跳躍。
しかし今度狙うのは『青ノ蝶』でだけではなく、さらに上を行く。
「——やっぱり、そうだ」
『昇華』でさらに研ぎ澄まされた感覚が周囲一帯へと行き渡り、結論を出した。
姿は見えないが、近くに芽空がいる。
それはあの日、奏太が彼女を見つけられた時の感覚と同様の。
ソウゴは気配を感じ取れていたが、あれに近いのかもしれない。土壇場でしか使えないあたり、まだまだ鍛錬不足ということかもしれないが。
しかしともあれ、奏太は彼女のおかげで何とか集中を取り戻せた。
——これで、ちゃんと自分と希美に向き合える。
芽空と約束したのだ。彼女は奏太が守るし、ずっと一緒にいる。ならば奏太は負けられないし、二人きりならともかくここで弱いところを見せてなどいられない。
何より奏太は知っている。
人は間違ってもやり直せるのだと。その度に強くなれるのだと。
今までずっと無理解だったのなら、すれ違い続けていたのなら、
「考えろ。どうすればいい。どうすればこの場を乗り越えられる……」
そのために、今一番に必要なのは戦闘を終わらせること。
まだ地上に落ちるまでは数秒ある。その間に光明を見出せれば。
……芽空は恐らく、奏太の邪魔にならないような位置から状況を見守るだろうから、問題ない。ならある程度までなら地形の破壊も可能で、そうすれば希美の『蜘蛛の巣』も分身もある程度は——いやダメだ。そもそも空間が凍結しているのだから、奏太でも、
「待てよ?」
藤咲華は何と言っていた。
奏太は改変者。原点。決められた終わりの未来に囚われず、現在から否定する。
以前は華の能力で気絶させられかけたが、葵のように一撃で沈んだわけではなかった。未来に奏太の姿はない。完全にくらうわけではなく、拒絶も可能。否定も。ということは、
「……頼むぜ、『ユニコーン』」
数秒の思考が終わり、地上がすぐそこまで迫る。
奏太を待ち受けている分身、奏太の落下点をなぞるように包丁が振り上げられる。
しかし奏太はこれを、空中で回転して落下位置をずらすことで回避、直後に大きく横へ跳躍。影を追うように刃先が空を切る。
そこまで読んでいたのだろう、空中と平面両方から投擲、さらに低空飛行をする蝶がワイヤーをもって、全方向から奏太のカポエイラを防ぎにかかる。
しかし奏太はそれでも動揺しない。すぅっと息を吸って、
「『崩壊』————!!!」
全霊の一撃で、地面を強く蹴り叩く。鉄球を力強くぶつけるが如く、あるいは神の雷を叩き込むように。
半分くらいは賭け。
もしかすると、奏太の改変なら華が停止させたこの世界に影響を与えられるのではないか。そう思っての一撃。これで無意味だったら色々と危なかったのだが、
「……やっぱり、そうか」
どうやら賭けは成功らしい。
『昇華』どころかオリジナルであるハクアの威力にも劣るものの、割れた地面は奏太を守る大きな盾となり、至近まで迫っていた蝶を含む分身体をまとめて吹き飛ばした。
そして、そうなれば、本体である希美も。
ぐん、と地を滑るように急加速。
ずっと近づかないでいた希美の元に、あっさりと辿り着くと、
「……これで終わりだ、希美」
「私が、終わり?」
痛みの全てが体に跳ね返ってきているのだろう、『トランス』の力も消えかかり、膝をついて震える希美。
彼女は近くの包丁を握ろうと手を伸ばすが、掴めない。こちらを見上げて、
「まだ、終わらない。私は憎い。世界が嫌い。だから姉さんのために、世界を」
「…………」
奏太は、考える。
今まで奏太が彼女にかけた言葉は何だっただろうか。
分かったような口、綺麗事、的外れな言葉。いずれも思い浮かぶけれど、多分今の彼女には無意味だろうし、理想だけじゃダメなのだろうと思う。
ならば、これだけ嫌われている奏太が彼女にできること。
奏太だけに、できること。
それは何だろうかと考える。
「……約束。俺とお前は、蓮と約束をしただろ?」
「それは、した。でも」
「ああ。お前からしたら蓮が取られたみたいで嫌なんだろうさ。俺は謝らないし、絶対になかったことにはしないけど」
希美の表情がムッとしたものになり、
「——けど。約束に罪はないし、その約束こそが蓮の望んだことだ。違うか?」
奏太は首元のネックレスを見つめてから、言う。
「世界を幸せにする。その中には俺もいて、お前だっているんだ、希美。だから俺らがこれ以上戦う理由はない。蓮が本当に好きだって言うなら、絶対に」
「————」
瞳が、わずかに驚きで見開かれる。
だから奏太は、つくづく甘いとは思いつつも、手を差し伸べる。
「別に俺のことは嫌いなままでいい。力を合わせなくたっていい。ただそれぞれの幸せを見つければいいんだよ。小難しいこと考えずに、俺たちはさ。だから、これで終わりだ」
きっと蓮がこの場にいても、同じことを言うと思うから。
だから奏太は微笑みかける。
悪態づかれるのも覚悟で、けれどそれでも構わないかと思いながら。
少し躊躇いがあった。
それも当然だろう。
罪の意識は今もないままかもしれないが、奏太の手を取ることには深く抵抗があるはず。ましてや、こんな戦いの後だ。彼女の心中も複雑に違いない。
だけど、その手は伸ばされた。
奏太に返事をするように、笑みが浮かべられて、
「…………は?」
手を掴んだ、と思った瞬間。
身体中が脱力感に襲われ、今度は奏太が膝から崩れ落ちる。体から力が失われていく。獣の力が、冷たく体の底を冷やしていくような何かに、
震える瞳で右手首を見る。
——『トランスキャンセラー』。
その効能は、『獣人』のみが使える『トランス』を根源から無効化し、奏太とて例外ではない。
当然ながら『昇華』も、改変者としての能力と混ざり合った『ユニコーン』も。
だから慌てて外すよりも先に、結果は訪れた。
「ご……ぼっ」
先程のダメージが残っていたのだろう。
衝撃は一度だけ。威力は今までよりかは弱いけれど、本来人を殺すには十分すぎる一撃。
背中から刺さった包丁が腹を貫き、口から血が溢れる。
「——やっぱり奏太さんは、何も知らない」
やけに心臓の鼓動が早い。踏みつけられた手が、『トランスキャンセラー』を外すことすら叶わない。何も、できない。
「——私と姉さんが約束した世界に、奏太さんたちはいない。だから私は世界を殺すの。それを叶えることが、私の希みだから」
後ろから加えられていた力が消える。
分身が全て消えたのだろう。だが、今の奏太に、抗う術はない。
命が溢れていく。
力なき手は何も掴めず、望むものは、届かない。
「じゃあね、奏太さん。——大嫌いだったよ」
視界がぼやけて、声が遠のいていく。
声が出ない。
三日月奏太、は。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
涼やかな音がした。
とても懐かしい、鈴の音が。




