第一章17 『守るために』
空は雲で覆われていた。
照りつける太陽は既に沈んでおり、代わりにあるはずの月は一向にその姿を現そうとしない。
ただ建物の明かりだけが、辺り一帯を照らす。
蓮は少女と別れ、離れた所にある建物の中で息を潜めていた。
「…………ふぅ」
深く息を吐いて、騒がしい心臓の音を落ち着かせる。
これは相手の命を奪うわけでも、致命傷を与えるわけでもない。ただの時間稼ぎなのだと自分に言い聞かせ、前方を見据える。
視界に映っているハクアにこちらに気がついている様子はなく、時々立ち止まり、辺りを見回していた。
これを見て、蓮は確信をする。
——彼は頭に血が上っているからか、『探索』を行わない。
ならば、と瞼を閉じて、イメージする。
「広げて、纏う……」
その小さな囁きは、決して誰かに届く事のない言葉。
彼女の内にあるモノを具現化し、より強固なものにする為の言葉だ。
「————」
瞬間、白く変化していた彼女の髪が、風も吹いていないのに小さく揺れた。
続けて、頭頂部付近でその髪をかき分けて、何かが立ち上がる。
白い毛並みでぴょこんとした長いそれは、耳だ。およそ人についているはずのないそれが、彼女の頭頂部から出現したのだ。
しかし蓮はそれを躊躇なく受け入れる。
それが当然であり、自身がこの力を扱えることを知って、苦悩の日々を送ったのは、既に何年も前のことだから。
「しっ」
膝を曲げ、体制を低くする。
急加速し、確かな一撃をハクアの意識外からぶつける為に。
逸る体を抑えると、左手で首元のネックレスに触れ、その感触を確かめる。
まるで、大丈夫なのだと自分に言って聞かせるように。
「ふっ!」
そして彼女は、自身を発射させた。
体に力を込める為、思わず蓮の口から声が漏れた。
しかし彼女は動じない。
普段なら、口元を押さえて顔を朱に染めたかもしれない。だが、今は照れる余裕すらも命の危険を及ぼす可能性があるのだ。
跳ねて弾むゴムボールのように、あるいは押した分だけ弾こうするバネのように、彼女はその体をぐんぐんと加速させて行く。
そのまま風を切り、すぐに目標物に接触した。
「————」
背後から迫ってくる物体にハクアは気がつき、勢いよく振り返ってその正体を確かめようとする。
しかしそれは、あまりに遅すぎる反応だ。
「見つ、けッ!?」
すれ違いざまに手刀をハクアの脇腹にぶつける。
次の瞬間、当てたその箇所が小さく裂けて、赤い液体が幾筋も垂れ出した。
蓮は加速を止め、その場に留まろうとして、地面を大きく削る。
削った先、数百メートルの末にようやく止まる。
「あなた……やっぱり」
「見つけた、見つけた、見つけたぞ。このクズ! あのクソガキはどこだ? 今すぐ殺す、もう今殺す、即座に早く殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すッッ!!」
蓮の前方にいるのは殺意だ。
取り繕いをやめてむき出しになったそれは、一切の遠慮なしに彼女に向けてぶつけられる。
しかしハクアの普段の言動など、そもそも蓮の前では大した意味を持たず、また、獣人の前で素顔を晒してしまう、装飾だけ凝った弱くて脆い安物の仮面に過ぎない。
ゆえに、蓮は言う。
「——それがあなたの本音なのね」
彼女がそう言ったのと、ハクアが蓮に向けて駆け出したのはほぼ同時。
蓮に比べればあまりに遅い彼の動きは、この場に奏太がいれば驚きの声を上げただろう。
何故ならハクアは、およそ一般人が出せるような速度ではない、人にしてはあまりに速すぎる速度で走っているのだから。
蓮は顔をしかめつつ、再び加速するために膝を曲げて————、
「——殺させない、あなたには。あの子も、みんなも」
一気に射出する。
今度は不意打ちではなく正面からぶつかる形になるものの、確かな一撃を当てた上ですぐに距離を取れるだろうとそう考えていた。
確かに彼の速さは大したものだが、彼女には遠く及ばない上、蓮には徐々に彼の動きも遅くなっていく確信があったからだ。
数百メートルの間があったにも関わらず、互いが人間離れした速度で走ることで、すぐに接触は起こった。
それはあまりに短い時間の中での出来事だ。
蓮はハクアの横を通り過ぎる直前、深く身を沈めて、先ほど傷を与えた箇所に手刀をぶつける。
今度は確かな手応えがあり、鮮血が零れ出した。
すぐさま死に至るようなものではないにしろ、確かなダメージにはなったはずだと思った矢先、
「…………っ!?」
深く沈めた体が、突然の地割れで体制を崩され、今度は彼女の脇腹にハクアの手が差し迫り——、
「くぅ……ッ!」
身をよじってそれを回避しようとして、ギリギリのところでハクアの手が脇腹にかすった。
瞬間、元々の加速に加えて、並外れた衝撃を伴った状態で体が吹き飛ばされる。
驚きの声を上げるよりも早く、目の前の危機に対する生存本能が蓮の体を動かし、地に足をつけようとした。
一回、二回、三回、水切りのように何度も地を跳ねて、ようやく足が着いたのもつかの間、勢いを殺しきれずに、建物の柱に背中からぶつかる。
「————が、はっ」
酸素が一気に抜け、声が出なくなった。
すぐさま体に酸素を取り入れるために何度も呼吸を繰り返し、
「はっ、はっ、はっ……あぐっ!」
酸素が体内に戻ってきたかと思えば、次に来るのは脇腹部分の激痛だ。
白いニットに血が滲んで、体が焼けるように熱い。
幸いにも視界はうっすら白んだだけで、動かない箇所はない。
背中も、強く打っただけで目立った外傷はないようだ。
しかしやはり問題は、ハクアの手を避けきれずに先端がかすった脇腹。
その箇所からは鮮血が溢れ出ており、量は決して少なくない。数時間何もしないでいれば死に至るであろう程に。
「————ッ」
蓮は唇を強く結んで湧き出る痛みを堪える。
そして自らが飛んできた方向、徐々に距離を狭めてくるハクアをきっと睨みつけて、
「時間稼ぎ、だけ……でも!」
ぶるぶると震える足で立ち上がる。
それが痛みなのか、それとも恐怖なのか、既に蓮には分からないし、どちらであったとしても、やるべき事も、やりたい事も何ら変わる事はないのだ。
臓器に達しているかもしれないこの傷でも、ハクアの目を逃れてこの場を逃げ出す事は楽に出来るだろう。
しかし、蓮にはやらなければならないことがあるのだ。
それを逃せば少女を含め、自分た達の身に危険が及ぶからだ。
「あの懐中時計を、壊さないとっ」
警報がなってからしばらく経つというのに、増援の一人すら来ないことを考えると、恐らくは下手に人を送れば、ハクアの巻き添えを食らうという判断なのだろう。
そして増援に回すはずだった者たちを包囲に回し、蓮たちは十分な距離を取った上で既に囲まれていると考えるのが妥当だ。
「最悪、私が瀕死になっても——ううん、それじゃダメ」
首元のネックレスにそっと触れる。
瀕死になっても、などという考えはいけない。万が一にも助からなかった時、彼はきっと、悲しむから。
置いてけぼりになんて、したくないから。離れたくないから。
「隣にいるって、約束したもの」
蓮は痛みで強張っていた頰を緩め、笑う。
眼前に広がるアイコンに何度か触れ、メールを起動し、救援が必要だと入力し、それを送信する。
「私が幸せになって、私が幸せにしたい人も幸せにする。あなたと交わした約束を、奏太君と交わした約束を——げほっ、ごほっ」
言葉に出し、自分を奮い立たせようとして、咳き込む。
体のうちから上ってくるような感覚がして、何度か咳が続く。
しばらくそれを手で押さえて、やがて治まったかと思えば、
「血、だ」
押さえた右手からは血が垂れていて、ポタリポタリと地面に落ちていた。
それを目にして一気に負の感情が湧いてきそうになり、頭を振る。
限界が来そうなのだというのなら、このままではまずいというのなら、
「どうにか、乗り切ってみせる」
——約束を、守るために。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「俺は…………」
何をしているんだろう。そう呟こうとして、しかしそれは声にならずに離散する。
蓮達がどこかへ行ってしまった後、群衆は徐々に落ち着いて、すんなりと行われて行った。
しかし奏太は、奏太だけは、それに抗うように、あるいは置いてけぼりになったかのように輪を外れて、目的地も決めずに一人で彷徨い歩いていた。
先程から妙に見たことがある景色が続いているような気がして、ふっと辺りを見渡すと、服や小物が置かれた店がたくさん並んでおり、それが気のせいでないことに気がつく。
「——ここは、アウトレットか?」
ぼんやりと歩いていたものの、改めて見渡すとそこは今日何度か通過し、蓮と歩いた場所だった。
誰一人として、奏太の声を聞くものはいない。
ただただ、灯りだけが店と、そして彼を照らす。
その光は、結局自分は一人ぼっちなのだとそう告げられているように思えてくるもので、
「元々俺は、一人だったんだ。蓮も異端者じゃなくて、元々『獣人』で」
がらんとした通路に、空虚な嘆きが響く。
己の心中を吐き出すように、黒く変化した内面が言葉となって自然と漏れた。
「そうだよ。俺はきっと、騙されてたんだ」
理由は分からない。
だが、いつかは利用しようと考えていたのかも知れない。今までのは、すべて演技だったのだろう。
「告白やデートだって、……約束だって俺を駒にするためのもので」
——本当に、そうだろうか。
悲観的なことばかりを考える思考に、突如ノイズが生じた。
それは、約束という言葉に触れて、発生したものだ。
「嘘だったんだよ」
ノイズが亀裂となって、言葉と内面にズレが生じた。
彼女のあの優しさは、あの温もりは、声は、笑顔は。あの約束は、嘘なんかじゃないと、そう思いたい。
奏太を肯定し、隣に立っていた彼女が、決して嘘なんかじゃないと、そう吠えたい。
「——いいや、嘘なんかじゃない」
ノイズの正体は希望だ。希望が亀裂を生んだのだ。
そしてその始まりは、約束。
あの日約束をしたことで、奏太の世界の根本に希望が生まれた。
一人きりの黒く、寂しい世界はあの日、あの約束をした瞬間に崩れ去ったのだ。
「————」
足を止め、ふっと顔を上げた。
眼前に広がるのは、彼女と送りあった物を買った店。
首元からかけられたネックレスに手を触れてなぞる。
「約束、か」
黒を孤独、白を愛と呼ぶのなら、約束は二つの間に架かる橋だろうか。
きっと、蓮を好きになり、約束をしたことで、自分は彼女の白の世界に渡れるようになったのだ。
そうして白に染められて、何年もかけて固まった奏太の黒の世界は、徐々に色を変え始めた。
けれど、完全に黒を失くして、自分が自分だと認められるようになるには、先程のように黒に飲まれないようになるには、まだまだ長い時間が必要になるはずだ。
だから、
「——何が出来るかじゃない」
奏太を蓮は救ってくれた。何年も苦しんで、何年も一人ぼっちで、置いてけぼりで、寂しくて。
過去の自分が分からなくて、必死に抗おうとして、自分自身すら肯定することの出来ない自分を、彼女は肯定してくれた。
奏太が自分を自分だと認めて笑えるまで、隣にいると。ずっと隣にいると。
「何の力もない、ただの人間だ。簡単に壊れて、簡単に死ぬ。それでも」
ハクアが地面に、柱にぶつけたあの一撃を食らったら、間違いなく奏太は一瞬で死ぬだろう。
件の動画の『獣人』を前にしたら、抵抗をすることなくその命を散らすだろう。
HMAにも『獣人』にも、どちらにも到底及ばない奏太には出来ることなどない、はずなのだ。
しかしそれでも、
「俺は蓮の隣にいたいよ」
人であるとか、『獣人』であるとか、そんなものは関係ない。もっと蓮といたい。彼女の愛に触れたり、彼女のような白の世界で色々と知った上で、自分の色を探していくのだ。
——それは、子どもの我儘と言ってもいい。
蓮が好きだから隣にいたいというひどく単純で、ちっぽけな理由。
それでも、奏太が走り出す理由には、十分だ。
「————よし」
奏太は駆け出し、耳に入って来る音の一つ一つに集中して、必死に情報を手繰り寄せると、遠くの方で騒音が聞こえた。
恐らくこの騒音は、ハクアと蓮が戦闘を行っていることによって生まれているものだろう。
それならば、
「蓮……!!」
奏太は目指す。蓮のいる場所を。
彼女に、会うために。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
走り始めて、どのくらいの時間が経っただろうか。
いつの間にか音が止み、やっとの思いでたどり着いたその場所には、嵐が過ぎ去った後のように崩れた建物があるのみだ。
それは幾百、いや、幾千もの距離まで続いており、そのどこにも蓮やハクアの姿は見つからない。
電気がやられているのか、辺り一帯の灯りも消えており、暗闇が辺りを包んでいた。
「……どこだ」
手がかりはなくなってしまい、闇雲に探そうにもあまりに大きすぎる敷地。
「————」
八方塞がりでどうしたものかと思った矢先、奏太の鼻腔をくすぐるものがあった。
「鉄臭い……いやこれは」
血の匂いだ。辺りを見渡しても、その原因らしきものは見つからないが、この血の匂いがどこから発せられるものなのかが直感で分かる。
それがどうしてなのかは奏太にも分からない。
しかし、
「……嫌な予感がする」
止めていた足に鞭を打って、再び駆け出した。
全身の身の毛がよだち、先程まで長時間走って汗をかいていたはずなのに、体が恐ろしく冷えている。
まるで自分が自分でないように。
「はっ、はっ、はっ……」
臭いの大元は数百メートル程離れたところにあった。
準備運動もなしの久々の運動に、体が悲鳴を上げ、酸素を求めて何度も呼吸をする。
「…………よし」
しばらくして、息遣いが落ち着いてくると、目の前の建物を見据える。
それは、今日蓮と朝一番に来た場所だ。
一体何の偶然かは分からないが、血の臭いがするあたり急いで中に入ったほうがいいのは確かだろう。
「喫茶店に——この中に、蓮が?」
やや急ぎながらドアノブを掴んで開けると、ベトリとした何かが手についた。
こんな時に一体何なのだろうかと目を凝らすと、
「…………は?」
それは血だ。 血がドアノブについていたのだ。
そこだけではない。辺りを見渡すと、ここに来るまでの道中、何度も跡としてそれはあったのだ。
「蓮!」
すぐさま店内に入ると、だだっ広い空間に人の姿を見つけた。
薄青の髪に、白いニット。間違いない、蓮だ。彼女は、血を流し、そこに倒れていた。
「蓮…………?」
ひどく弱々しい声が出て、それが自分の声だと分かるには時間を要した。それ程までに、目の前の状況が信じられないものなのである。
「————」
蓮からの返答はない。
ただ、いつの間にか雲の合間をすり抜けて現れた月が、別世界の住人であると告げるように、彼女をぼんやりと照らしていた。