第四章24 『藤咲華』
「……始まったようだね」
部屋に置かれている、仮想のデータで出来たテレビ画面。デバイスを通して可視化されるそれを鳥仮面は見つめ、次いで視線をこちらに向ける。
そこに絡んだ感情は哀愁か、あるいは喜びか。いずれにしても彼は一切動揺するそぶりを見せず、ただ仮面の下で小さく笑う。
対面する少女が不愉快な気分になり、顔をしかめても。ただそこにあり続ける。
「君はこの光景について、どれだけ想像していただろうか? ——シャルロッテ君」
彼はわかっていたのだろう。
藤咲華が思いもよらぬ発言で、世界を混乱に陥れることを。
魔女が魔女たる理由を。
「…………ハッ」
問いかけへの答えは、嘲るような笑い。
向けた対象はあの性悪女かフェルソナか、あるいは自分自身か。
いずれにしても、今ここに自分がいる意味。
それだけは、シャルロッテは間違えない。
「エトはどこにいるのかしら? 話では、彼女も来ると聞いていたけれど」
「彼女なら部屋の外で見張りをしてくれているよ。今頃はジャック君と楽しくおしゃべりをしているんじゃないかな。……彼女は『獣人』に比べれば戦闘力はないけれど、ね」
じっ、とフェルソナを見る。
「随分と聞き分けが良くなったのね?」
「——。自分で口にするのも妙な気分だが、彼女が僕に向けてくれている好意と、彼女自身の性質は今も昔も変わらないよ」
「それはあんたが瀬黒裕里仁として振舞っても?」
間髪入れない問いかけ。彼は、
「……やれやれ。真面目な時の梨佳君と話をしている気分だよ」
肩をすくめ、頷いた。
言動や声音に普段と変わった様子は見られない。表情は見えないが、本来の名が何であっても素面は変わらないと。つまりはそういうことなのだろう。
カフェオレの入ったカップを傾け、口に含む。
「君は鋭いね。年齢で見れば高校生にも満たない少女だとは思えない」
「本来の能力的にはルメリーの方が断然上よ。あっちの精神が昔と比べて腑抜けてるから、自然とワタクシの方が鋭く見えてもね」
まあ、彼女本来の才能が輝く日が来るかと言われれば、微妙なところではあるけれど。
そっと、カップを置く。
「さて。いい加減話を聞きましょうか。ワタクシの想像では、さほど時間もあるわけではないのでしょうし。……違うかしら?」
フェルソナはシャルロッテの問いに、「ふふっ」と意味深に笑うのみ。
……なるほど。ふざけた意趣返しだ。
ある意味、問いかけの答えにはなっているので、続けるけれど。
「ワタクシは一つの考えにこだわるのが嫌いよ。これだと決めてしまえば自然と視野は狭くなるし、予期せぬことが起きた時に厄介だもの。だからあらゆる可能性を考え、絞り、一つの答えにたどり着く」
一度言葉を切り、
「不明瞭なのは嫌い。だから求めるの。それがたとえ、どれだけ危険なことであってもね」
「…………じゃあ、君の答えを聞こうか。シャルロッテ君」
……『パンドラの散解』から護身用として持ち歩いていた拳銃。
今回それは危険物となるため、持ち込んでいない。
だから恐らく、ここで何かが起きればまず間違いなくシャルロッテは勝利できない。
相手が『獣人』なら良い。予備のアクセサリー型の『トランスキャンセラー』はもらってきた。相手がメモカを使う相手ならメモカを無効化することもできる。相手がデバイスを体内に入れているのなら。
だが、そこまでだ。
それらの鎧が剥がれても、敵は人間と同等の力を持ち、あるいは世の理を外れた力を使う。
シャルロッテがあの黒フードの改変者に応じられたのは、防御のための訓練を少しかじったから。けれど、だからこそ相手を制するには至らない。
辿り着いた答えについて、幾度も考えた。芽空や奏太には話さず、ジャックにすらも伝えていない。
動揺を抱えたままあの場に臨むのは危険だと思ったし、何よりこれは、本人に直接聞かねばわからないからだ。
「————」
そこで気がつく。
今の自分はきっと、あの下民の熱がうつったのだろうな、と。
ただまあ、自分は彼とは違って、
すぅっと、息を吸う。
瞳を閉じ、次に開けた時にそこいるのは、澄ました表情で物事に応じる美しい自分。
シャルロッテ・フォン・フロイセンだ。
ゆっくりと口を開いて、
「フェルソナ……いいえ。瀬黒裕里仁。あんたは————HMA幹部『トレス・ロストロ』の初代メンバーね?」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「————真実をお話ししましょうか。『獣人』の皆様方に」
藤咲華の言葉に、奏太の周りでざわつきが起こる。
それは予期せぬ方向へと式典が進もうとしていることへの危惧もあるし、彼女の変貌への困惑もある。
だが、それ以上に。
発言の意図と真意について、疑問を持たなければならないことが多くあるからだ。
立派な社会的地位にいる者たちが何をそんなに動揺している、と非難する者もいるかもしれない。だが、それは違う。
その高みにいるからこそ、いついかなる時も責任が付きまとうのだ。
どんな事態であれ、培われた知識と経験は思考のためにあるべきだと。過程はどうあれ、結果としては人類のためになることをすべきだと。
ならば結論。
意図はどうあれ、一度彼女を
「————静粛に」
——一声。
まるで、こちらの動くタイミングがわかっていたとでもいうかのように。
華はただ一声、出席者たちに。
あるいは観客を含めた世界中に告げた。
「————っ」
すると、あまりにもあっさりと声は止み、会場中に充満していた疑問が一気に弾け飛んだ。
いや、正しくは。無音の警戒一色に染まったというべきかもしれない。
元々、『英雄』として半ば盲目的に崇められていた彼女だ。途中、『パンドラの散解』でこれまで隠して『獣人』の存在が知られ、疑念もそれなりに向けられるようになったものの——あるいはそれも計算のうちだったのかもしれないが——かつて『獣人』から世界を救ったという事実、圧倒的な強さは変わらない。
『大災害』を経験していない世代であっても、件の動画や散解を通して『獣人』の強さを皆は知っている。
だから人々は、警戒という取り繕いの下で彼女に怯える。
魔女の発言と表情、それらから感じられるのはどこまでも呑み込まれるような圧力。白旗への手引きだからだ。
そういう意味では、元より本性を知っていたヨーハンや芽空、奏太は比較的冷静になるのが早かった。
驚きこそあれど、彼女に呑まれはしない。
それを一目で理解したのだろう、華はこちらを見て、
「——遊丹奏太君。『獣人』の代表である君に問うわ」
「…………」
冷や汗が流れる。
奏太は視線を隣の芽空に。
彼女が頷いたのを確認して、問いに応じる。
「……期待に添える回答をできるとは限りませんが、よろしいのですか?」
「かしこまる必要はないわ。それに君なら、——わかっているのでしょう?」
浅く、息を吐く。
立ち上がると、警戒は抑えることなくそのまま舌先に乗せ、それでもかろうじて体は行儀良く。
「そう、それでいいの」
笑み混じりに頷く華。
彼女は何かを操作したのだろう、背景にこれまでの記録と思しき『獣人』の画像を出現させた。
「『獣人』がどういった能力を扱えるのか、改めて教えてもらえるかしら?」
少し考え、言葉を整理して、
「——そもそも『獣人』っていうのは、非科学的な言葉を使えば、魂。一つの体に人間と動物の魂が合わさってできた生物だ。だから生身の身体能力に乗算する形でその動物の能力が使用できる。得られる恩恵とその変化は個体によって差があるけどな」
これについては、以前に公表したことがある。
奏太が『ユニコーン』であると口にするのはなかなか疑問を呼びそうだったので、とりあえず複数の動物が混ざっているとだけ説明したが。
「そうね。だから『大災害』によって、人類は失われてはならない多くの、大事な命を失った。失わせてしまった」
彼女は「けれど」と次ぎ、
「力とは表裏一体なのだと、貴方達ラインヴァントは証明してみせた。同時に、人と『獣人』は手を取り合うことができるものなのだと」
「……何が言いたい?」
彼女が言っていることは正しく、真実だ。
奏太たち『獣人』の立場が言うのも変な話だが、評価がまるっきり変わった美談。少なくとも彼女の語る話は、そう映るだろう。
だが、彼女の語る口は美しいものではない。
「『獣人』という種に関して、どういう推測がなされているか知っているわね?」
「……自然災害そのものとか、新たな進化の可能性とか。歴史上他に類のない能力を持っていて、終わりの種とも考えられている。ぐらいか?」
どうやら、期待通りの回答をしてしまったらしい。笑みを濃くした華が告げる。
「————あえてもう一度言うわ。貴方、わかっているのでしょう?」
……。
…………。
奏太は、思う。
できるのなら、外れていて欲しかったな、と。
周りから、疑問の視線が奏太に向けられる。
一体何が分かったのか、説明する責任があるのではないか、と。
それらは無言だ。無言だからこそ、苦しい。
……けれど。胸中にあるのは説明責任から来る苦しさだけじゃない。
焦げるような罪悪感だけじゃない。
これまでの全て。出会い。発言、行動、衝突。別れ。何もかも全てが頭の中で繋がって、震え出す手。奏太の始まりである感情。
腹で眠っていたどす黒いものが現出し、いつか学校で味わった感覚が————、
「……一つ、よろしいですか?」
——爆発する手前。
奏太の二つ隣の、一人の男。
ヨーハン・ヴィオルクが手を挙げた。
その声によって、冷めていく熱情。正気に戻る頭。どうしてこのタイミングで、彼が。
問いかけるよりも先に事態は進み、華は「構わないわ」と頷き、ヨーハンは「ありがとうございます」と柔和な表情で軽く頭を下げる。
「では、改めて。私の名はヨーハン・ヴィオルク。家名はルクセンと申します。……私はお二方の会話について、理解できない部分がいくつかあるのです。特に、お二方の間で『わかっている』とされている情報について」
「ヨーハン……」
「話の経緯から何か重要なことであるのだと、私は推測しています。ですが、だからこそ。一研究者であり、まだ力不足な点はあれども資源区の領主を務めさせていただいている立場としては、決して無理解、などということはあってはならない」
奏太でもはっきりとわかる。
これは嘘だ。
「しかし今現在、私が無理解という状況にあるのは、あくまでも自身の無知がゆえ。ゆえに恥ずべきことではありますが、どうか解説を願えないでしょうか」
思わず唇を、噛みそうになる。
だけど堪えなければいけない。
彼は知っている。
どころか、今現在この式典を見ているもののうち、何人かは華と奏太の指すものについて理解しているのだから。
特にこの場に限って言えば、奏太と芽空、フェルソナとシャルロッテ、それからヨーハン。
ここまで起きたことを正しく把握している人物ならば、理解できないはずがないのだから。
では、どうして彼が自分の名を落としてまで、わざわざ知らないふりをして華に説明を求めたか。
それらは全て、説明を求められる奏太のためを思っての行動だからだ。
「……恥じることはないわ。私こそ、言葉が不足していたもの」
つまらないと思ったのか、あるいは何か別の感情か。彼女は表向きは薄い笑みを浮かべ、軽く頭を下げる。
そして、
「——終わりの種について、改めてお話ししましょうか」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
ヨーハンの気遣いは、『獣人』である奏太の口から真実を話す、というあまりにも残酷な行為を嫌ってのものだ。
申し訳なさと悔しさ。それらで俯きそうになるけれど、今は前を見る他ない。
なぜなら魔女が語るそれは、冒涜の歴史と原点の反転だからだ。向き合わずして、声を上げることなどできない。
「…………っ」
既に式典の厳格な雰囲気など、どこにもない。あるのは狂気に晒され、恐怖から始まって意識を意図するままに支配される者たちと、それを行う魔女の悪辣さ。
始まりとは別の意味で、下手な動きは取れない。それがヨーハンの気遣いのうちの一つであり、全てが華の筋書き通りだとしてもそうすることしかできないという現状。
何度でも口にしよう。
今現在、この場を支配しているのは藤咲華。彼女だ。
「……そーた」
心配する声が隣から聞こえてくる。
表情に出してはいないつもりだったが、それでも胸中にあるものを彼女は感じ取ったのかもしれない。ヨーハンとは違う気遣いで、奏太に接してくれようとしているのかもしれない。
だけど、今は。
「大丈夫だ、芽空。……俺は大丈夫だから」
たとえそれが自分に言い聞かせていることであったとしても。
残酷な事実の突きつけであったとしても。
支配している、すなわち一番信ぴょう性のある言葉を発してくれる彼女の言葉を、奏太たちは聞く他ないのだ。
世界の真実を、正しく世界に伝えられるためには。
浴びる視線を、深く味わうように瞳を閉じる華。
幾億の時間を待ち続け、ようやくきたかと喜びの声をあげるように。あるいは、知らぬ全てのものたちを嘲り憐れむように。
彼女はゆっくりと、多くの血を吸った赤の瞳で世界を見つめる。
「——皆様の体内には、デバイスが入っています」
それは今では老若男女、あらゆる者が体内に入れている。
オーバーテクノロジーとフェルソナは称し、『獣人』の一部は非人間的だと批判した。
「従来の携帯電話の機能に加えて、全面的な拡張現実の導入。さらには、仮想ファイルをインターネットを通して体内に取り込むことにより、体内を常に健康に保つという医療機能。その効果については、皆様の知っている通りです」
話している内容は真実で、言葉の調子は隠す気の無い嘘で塗り固められている。
——誰かが、声を上げた。
「しかし、その一方で医療機能には弱点がありました」
しかし、その一方を彼女は見ようとしない。
見る必要がないのだと、あるいは自分で起こしていることなのだからと暗に告げるように。
声はそのままに、一人の声をきっかけに、光景がコマ送りで流れていく。
「メモカ。つまりは、医療機能を悪用して違法ファイルを体に当てるという、身体能力の底上げですね。……といってもそれは一時的なものであり、副作用も相応のものとして返ってきますけれど」
クスクスと、笑う、笑う。
彼女も、周りも、声は止まらない。
上を指す者。あるいは、さらなる変化が起きたことに気がつき、自分を他者から遠ざけんとして逃げる者たち。
阿鼻叫喚。どこまでも広がる、悪夢。
「HMAは『ノア計画』のために動物を保護している。けれど、都市の大きさは限られている。無駄にスペースを取るようでは後々厄介になりますから、——あぁ、極力小さくまとめなければいけませんね?」
彼女を思い出させる、独特の口調。
それが今、間違いなく自分に向けられていることに奏太は奥歯を噛みしめる。だって、彼女は。
「動物を結晶化させ、仮想ファイルに変換して体内に取り込ませる。————そんな哀れで愛しい獣の卵を、貴方達には植え付けさせていただきました」
真実を告げるだけじゃない。
事実を突きつけるだけじゃない。
彼女がしたのは生物への冒涜。『獣人』と呼ばれていた種への、あまりにも無残な仕打ち。
彼女がしているのは、人類という種の改変————世界の崩落だ。
人々の体内に眠っていた卵。そこにかけられていた錠が、自我が、崩壊していく。
きっかけでしかなかったパンドラの箱の中身が今、全て解放された。
少女の周りに群がっていた者たちを弾き飛ばし、次いで横から飛び込んできた攻撃に、奏太は腕一本で止めて、全ての元凶の方へと踏み込む。
「『大災害』という実験を経て、デバイスを配布。……それらは全て、この時のために」
視線が、絡み合う。
奏太は激昂を。
華は薄い笑みを。
「——気分はどうかしら、三日月奏太君?」
「——藤咲、華ァァァァアアッッ!!!!」
会場に、世界中に突如出現した『獣人』の群れ。
今奏太や芽空、ヨーハンに襲いかかるそれらは分身したわけではない。怯え隠れていたわけではない。
いや、ある意味。
人間の中にずっと隠されていたと表現するのなら、意味は通じるだろうか。
一体どんな手を使ったのか——いや。彼女ならばそれができるのだ。
『獣人』の進行を止め。
奏太と葵の意識を奪い。
オダマキをあんな状態にして。
————奏太たち喪失者の記憶を、人々の中に眠る獣を、封印してきた存在。
封印ができるのなら、解放もできるのではないか。
あの『施設』で出した結論を、彼女はまさしく、今。
「全部、お前が……っ!!」
全力で地を蹴って、『怒り』のままに彼女に衝突する。
そのつもりだった。少なくとも、奏太は。けれど、
——瞬間。
きん、と氷に一閃が通るような音がした。
「は……?」
思わず、間抜けな声が出た。
だって、そうだろう。
周りに広がっていた悪夢は、奏太たちを襲おうとしていた人間は、糸が切れたように倒れた。
その場から動く気配も、ない。
そしてそれはどうやら、騒ぎが起こり始めた上——観客席の方も同様らしい。奏太と芽空を除き、誰もが。
静止している。
「HMA総長、という肩書きはあるけれど。今の貴方達にはこう名乗った方が伝わるかもしれないわね」
それを引き起こしたのは間違いなく、彼女。
薄赤の髪を後ろへ流し、コツコツとこちらへ向かって歩いてくる麗人。
奏太は何より先に芽空の前に立ち、彼女を睨む。
だって、彼女は。
「————改変者が一人、藤咲華。またの名を被験者I。ようこそ原点、私の世界へ」
そう言って、魔女は口元を歪めて笑った。




