第四章22 『星降る空の下で』
誰しも、現実に耐えきれなくなって感情が爆発することはある。
たとえばそれは大事な誰かを失った時で、いつもは飄々としていたり、冷静でいたりと精神的に丈夫な印象を持たれる者であっても例外ではない。
というより奏太の経験上、変に抱え込んでしまう者ほど爆発は強力に、己が体を締め続ける鎖となる。
復讐という、ある種の逃避行動に取り憑かれていた者も同様だ。
いずれはのしかかる重さに耐えきれなくなって、限界を迎える。
だからこそ、奏太は思う。
…………なるほど。
あの時彼女が言っていたのはそっちの意味だったか、と。
奏太やユキナは、糸が切れるのが希美よりも少し早くて、周りに助けてくれる人物がいたからこそ立ち上がれた。
だが、希美は。
蓮を失ったという事実を受け止めるに至ったきっかけ、その人物たちこそがまさに彼女の助けとなってくれる人物たちだったのだろう。
梨佳は言わずもがな、オダマキは恐らく、あの戦いで彼女なりに心を動かされる何かがあったのだと思う。
その点、奏太は。
「希美が他の者と同様に自身の道を見つけられる」と信じ、あの秘密基地で言葉を交わしたけれど。
彼女はそれもまだ満足にできない少女なのだということに、奏太は気がつけていなかったのだ。
誰にも頼らず、改変者と戦おうとしていたのが一つ。それを経て、こうして涙を流しているのも一つ。
なぜならそもそも、貴妃の止まった時は、蓮の意志が残っている『ノア計画』を過ぎなければ進まないから。
ならば、時が過ぎるのを待てばいい。
そうすれば自然と彼女はいつもの様子に戻り、また誰かのそばにいたいと自分から動くはず——否。それではダメなのだ。
蓮に向けている感情が信頼というよりは依存の域に達している彼女が、現実へと向き合えるようになるには。
「…………希美はさ。失うことって、怖いか?」
悩んだ末、奏太はゆっくりと口を開く。
まだ、瞳には迷いがあるけれど。
「蓮に梨佳にオダマキ。三人とも、色んなやり方で希美を守ってくれたけどさ。立て続けにみんな失って、心のどこかで恐れてるんじゃないかって思うんだ」
彼女は俯いたまま数秒の沈黙、頷く。
正確にはオダマキはまだ生きているものの、彼女にとっては失っているのと変わらない。
「……。奏太さんは、怖くないの?」
「いや、怖いよ」
しれっと、そう答える。
「失うのは誰だって怖いよ。俺だけじゃなくて、ラインヴァントみたいに何かを失ってきた人なら、なおさら。だから俺は戦うんだよ、無くさないために」
「大事な人を、作れば、それだけ辛くなるのに?」
「辛くなるために作るもんじゃないし、そもそも大事な人ってのも作るもんじゃない。誰かと一緒に居るうちに、それが当たり前に変わるから失いたくないと思えるんだよ」
会場内を見渡す。
皆、それぞれ好きな者たちと一緒に過ごしている。子どもも大人も、人間も『獣人』も。割合こそ偏っているものの、それは変わらない。
一瞬、視線が葵たちの方へ向いたところで、彼と目が合う。
奏太たちの場の雰囲気が、他と異なることに気づいていたのかもしれない。数秒の視線の交差がいくつかの感情を混ぜ、その果てに奏太は「大丈夫」と頷く。
視線を希美に戻し、
「もしかしたらだけどさ。『パンドラの散解』以降、一人で寮生活してたのって。誰かを巻き込まないようにしてるとか、なのか?」
燃えるような朱眼がこちらをじっと見つめ、
「うん。何かあった時、危ないから」
「そっか。…………そうなんだな」
なるほど、と納得がいった。
葵や梨佳あたりなら既に気がついていたのかもしれないが、ダメだな。
今までの行動を考えていけば、簡単に出せる結論なのに。奏太は気がつけていなかったのだ。
——希美はずっと信頼してなどいない。
奏太を含めた、今のラインヴァントを。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
と言ってもそれは、なるべくしてなった結果だ。
元々希美は蓮に依存していたのだから、蓮が失われた時点で時が止まってしまった。
追うのは姉の幻影で、しかし世界への恨みはあって、依存先は彼女自身も知らず知らずのうちに、近くにいた梨佳へとずれていった。
なんともややこしいが、つまり彼女は彼女なりに現実に向き合おうとしていたのだ。蓮を胸中に留めておこうと自身の心に鍵をかけ、それでも時折それは開くという矛盾を抱えながら。
そしてその矛盾の正体は、梨佳やオダマキ。二人の存在と、恐らく奏太も含まれる。
姉という依存先しか見ていなかった自分を特別に扱ってくれたから、期待した。
時が動こうと、していたのだ。
だが、散解の末に二人を失った上に、この前の襲撃。
自身の無力を知り、それが怖くなって、道を見つけるどころかまた足は動かなくなってしまった。
もしかすると、先ほどの涙は安堵もあるのかもしれない。
失い続けた人生だけど、一人だけは生きていたから、もしかしたら奏太は——と。
その瞳には泥沼の依存か、あるいは救済の手が差し伸べられる。そんな情景が、浮かんだのかもしれない。
上を見上げる。
「…………」
もしかしたら、奏太もありえたかもしれない。
今の関係性からは想像もできないが、相手は芽空か、梨佳か、はたまた希美か。
あるいは、蓮がもしあの時生きていたのなら。
彼女に縋ることで必死に自分を保って、傷から目を逸らしたまま考えることをやめて。そんなイツワリの自分がいたかもしれない。
——全ては想像だ。
イツワリの今は一つの可能性だが、ひょっとすると何か変化が起きるかもしれない。
希美は口数が少ないこともあって、感情が読みきれない部分も多い。だから奏太が的外れなことを考えている可能性もあり得る。
けれど。
奏太にはわかるのだ。
同じ人を好きになって、同じ道に至る可能性があったのだから、彼女が至るべき場所はきっと。
「——なあ、希美。ラインヴァントってさ、元々は『獣人』を保護する組織だったんだよな?」
「うん。少なくとも、姉さんや、梨佳さんは、そう言ってた」
奏太は彼女の返答に「じゃあ」と切り返し、
「どうしてみんなは、今仲良くしてるんだと思う?」
「……。…………?」
数秒考えたようだが、すぐに小首を傾げてどういう意味かと視線で問いかけてくる。
恐らく彼女からすれば、「今までの話に関係があるかと言われれば、あまり関係なさそうにも見える」といったところか。……が、奏太は笑みを浮かべながら、
「えっと、日常生活を共にしてるんだから、自然と息があったり仲良くなったり、っていうのはもちろんあると思うんだけど」
と前置きし、すぅっと息を吸って、
「——俺たちは『獣人』だ。今までに大事な人を失ったり、失いそうになったやつばっかりなんだ。だからそれが怖い。怖いから、集まる。失わないように願うだけじゃなく、失わせないと手を取り合うためにさ」
そう。
奏太は『獣人』の中でも稀有な能力とそれに恥じぬ強さを持ってはいるが、それはあくまで鍛え上げてくれた葵や片割れが強い力を持っているというだけで。
そしてなにより、一人で全てを変えられるほど強くはないのだと知っている。何度も知らされた。
だから奏太は皆の声を聞いて、皆に手を貸してもらって、幾度となく危機を乗り越えてこれた。
もちろんその中でも犠牲はあって、何もかもが救えたわけではないのだけれど。だけど、それでも。
「今希美が居たいと思う場所があるなら。なくても、探したいと思ってるなら————」
三日月奏太が美水貴妃という少女にできることがあるのなら、それは、
「——ここから、一緒に行こう」
依存対象になる気もなければ、救ってやると自信を持って言えるわけでもない。
奏太にできるのは、小指を差し出すこと。
奏太の始まりである約束を、彼女と交わすことだ。でも、
「無理強いはしない。希美が望むのなら俺は、俺たちはそれを受け入れる。でももしいらないのなら、それも受け入れる。だから選んでくれ、希美」
朱眼を見つめて、はっきりと。
「————美水貴妃がどうありたいのか、今ここで」
——これはきっと、境界線だ。
越えることで希美は、昨日までの自分と違う道を進むことになる。
姉たちの喪失を受け入れ、奏太たちと同じ道へ。
あるいは、越えないことを選んでその場に留まり続けるか。
彼女はゆっくりと口を開き、そして————。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
そよそよと流れる秋風は冷たく、パーティーで火照っていた体が徐々に落ち着きを取り戻していく。
テラスから見える遠くの街の景色は今もなお淡い光に溢れており、呼吸を止めようとしない。
明日になれば過去のいずれとも違う、騒がしい日々が来るけれど。
しかしそれでも、慣れ親しんだ今日はまた訪れるのだと教え説くように。
明日は『ノア計画』実行日。
テレビやラジオなんかでは記念番組の類がやっていそうだが、静かに過ごすというのもまた一つの選択だ。
テラスにもたれかかり、景色を眺めながら紅茶を口に運んで————。
そんなロマンチックな過ごし方も奏太は好きだ。しかしそれが絶対というわけではなくて、誰かと盛り上がるのも良いと思う。今日ならば特に、そう思う。
「ノゾミおねーさん、こっちこっち!」
「……ん」
下の声に視線を移せば、ちょうど少女たちが外へ出てきたところだ。
パーティーはつい十分ほど前に終わったものの、まだ騒ぎ足りないと主張する者がいた、というより大半だったので二次会をすることに。
「今日明日は客人も来ないから、前庭を使うといい。あそこなら広々とした環境で騒げるからね」
そう頷いてくれたのはヨーハンだ。軽く咳き込んでいたのが気になったのだが、騒ぐ少年少女たちを見てニコニコと笑みを浮かべていたあたり、体調の辛さよりも喜びの方が上なのかもしれない。
……と、そんな感じで。
最初に聞こえた声は希美とユズカという、かなり珍しい組み合わせだ。
「ノゾミおねーさんってダンスしたことある?」
「私は、ないけど」
「じゃ、アタシと踊ろ! くるるーって! アタシもやったことないけど!」
元々妹を持つ身だからか、希美相手にもグイグイと接していくユズカ。反対に希美は、ユズカの言動にどこかたじろいでいる部分があるように見える。
————そのぎこちなさは諸々の理由があるが、まず一番に来るのは今の希美の心境が現れ、だ。
あのやりとりの最後に、彼女は奏太の手を取らなかった。
が、首を横に振ったわけでもない。ただ一言、
「……わからない」
だから少し悩みたい、と言ったのだ。そしてその一つの経過として、今現在ユズカと共に踊りを始めようとしている、と。
一体どういう流れから二人が踊ることになったのかはわからないが、これをきっかけに希美が自分自身を見つめ直せれば良いなと思う。
……ダンスというより掴み合いみたいになっているのはともかく。
「——そーたは下、行かないのー?」
ふいに、後ろから声をかけられる。
慣れ親しんだ、間延びした声。
振り返らなくてもわかる。そこにいるのは、
「——芽空。そっちこそ、どうしてここに?」
「そーたの姿が見えたから。どこ行くのかなーと思って、ついてきた」
彼女は隣に来ると、奏太と同じく手すりに体重を預けた。
明るい髪色とは対照的に、紺色という暗めの色のドレス。薄い化粧も施してあり、元の素材が素材だけに、同年代の少女とは思えないほどに綺麗な印象を受ける。
視線を上げ、目が合うと、彼女はふふっと笑って、
「明日が『ノア計画』だからしみじみとしてるのー?」
「……まあ。改めて、ラインヴァントの目的を思い出したら、そりゃな」
考えてみれば、最初期のラインヴァントがどんなものであったか、とか聞いたことがなかった気がする。
蓮と梨佳がどんな付き合いをしてきたのかは、以前もらった写真である程度はわかった。が、彼女らが芽空やフェルソナと出会い、今に至るまではわからない。
だから気になるところではあるが、
「そのうち、ゆっくりできる時に聞いてみたいな。意外な一面とかありそうだしさ」
「まーそうだねー。今のみんなからは想像もできないことがちらほらあったかなー。フェルソナに警戒するみんなとかー」
「…………いや。あれは初対面なら誰でも警戒するからな?」
ああ、そういえば。
フェルソナと最初に出会った時は彼の顔が超至近にあったのだったか。目覚めていきなりあの画面を見たら誰でも叫ぶと思う。ほんとに、間違いなく。
「……ていうか。俺の記憶だと、大抵のやつがすごい出会い方だったんだけど」
「誰かの記憶に残り続ける出会いでありたいねー……」
「確かにな。第一印象はその人の多くを決めるって言うし————じゃなくて。というか、出会いだけ記憶に残ったらただの出オチだろ、それ」
まあ幸いにも、と言うべきかはわからないが、奏太の記憶の中にそういう者はいないけれども。
「他のやつが個性がない、とかっていうつもりはないけどさ。ラインヴァントってかなり自由だよな」
有り体な言い方をすれば、個性が強い。
「基本方針がそれぞれ自由に、だからねー。ルールとかも特になくて、自然にやってたらいつの間にか定着した、って感じだし」
「ああ、なんか前に言ってたな。料理とか掃除は蓮が初めて、みんながやるようになったとか……」
「そうだねー。無法地帯だったってことじゃないけど、蓮が頻繁に遊びに来るようになるまでは、それぞれ交わることがなかったもん」
特に葵あたりはそれが大きかったのだろうと思う。以前の彼は人を見下すことが多かった上、他人と距離を取ることを基本としていた。
本人いわく、それでも梨佳は鬱陶しいくらいに絡んできたとのことなので、時間の問題だったのかもしれないが。
「……そう考えると」
ほう、と息を吐く。
再び下を見ると、あの会場にいた皆は既に揃っているようだった。
踊る者は曲に頼らず踊り、話す者はいつものメンバーも、そうでない者も、一緒くたにして話して。
もちろんその中にはユズカやユキナ、希美に葵。シャルロッテ、ジャックも。
それぞれ以前は抱えていたものがあった。心の奥に引っかかるものがあって、前に進めないでいたけれど。
「…………。みんな、変わったよな」
それは彼らはもちろん、奏太も芽空も。
消せない傷跡も癒えない痛みも、誰かと一緒にいたから、乗り越えられた。すぐには変われなくとも、強くなろうと思えた。
そしてそのきっかけは、きっと。
「蓮のおかげ、なんだろうな。ああやって誰かの幸せを願ってくれたから、それぞれが影響を受けて——」
「——それは違うよ、そーた」
ゆっくりと、顔を上げる。
「そーた。それは違うよ」
芽空は同じ言葉を二度、繰り返す。
一度目は感情を抑えて。
二度目は、優しく説くように。
彼女は、言う。
「みんなを変えてくれたのは、そーただよ。そーたがみんなに一生懸命になってくれたから、私たちは変わったの」
「そんなこと……」
ない、と否定しそうになる。
が、彼女の瞳に感じる強い意志に、奏太は言葉が続かない。
「そーたの始まりが蓮でも、それは変わらないよ。救われたことも、前へ進めたことも」
芽空は一歩後ろへ。
一度視線を落とし、次いでこちらを見つめると、
「——それとも。そーたは私がこんな表情をすること、信じられない?」
手は後ろに。
月の光で灯されるシルエット。
ミルク色の肌は秋風を受けて冷たくなっているはずなのに、ほんのりと赤い。
呼吸で上下する肩は感情の動きそのものを表しており、さらに赤く染まった頰と、薄められた瞳。
口元を綻ばせ、笑むその表情は。
「私にとって、そーたは特別だよ。シャルロッテやお兄様とは違うの。上手く、言葉には言い表せられないけど、そーただから私はこうしてるの」
……何か、言おうとしたことはあったはずなのだ。
多分、信じられないわけがないとか、特別になんてとんでもないとか。否定の言葉。
あるいは今の彼女を見て…………ともかく。
それらの言葉は頭の中にはあるのだ。だが、そこまで。
まとまった音にはならないし、舌がうまく動く自信もない。
鼓動が早い。体が熱い。
見惚れて、いる。
彼女のそれが、ユキナや蓮と同じ感情かどうかはわからないけれど。
もしそうだったら、奏太がどう向き合うかは、自分でもわからないけれど。
「芽空」
震える声で、一言。
「…………ありがとう」
そう返すだけで、精一杯だった。
芽空はゆっくりと頷く。安堵するように一瞬笑みを濃くしながら。
「おーい、ソウタおにーさーん!」
ビクッと、肩から震えた。
一瞬頭が真っ白になり、我に帰るが——えっと。どこから声が、とうろうろ視線をさ迷わせていると、芽空が下を指す。
「ソウタおにーさんたちは来ないのー?」
ああ、どうやらユズカが下から呼んだらしい。
別にやましいことがあるわけでもないが、爆発しそうなくらいに勢いの増した鼓動。大丈夫だろうか、いや大丈夫じゃない。
ただまあ、さすがにいつまでも動揺しているわけにもいかないので、
「……行くか、芽空」
「うん。行こっか、そーた」
芽空と顔を合わせ、頷く。
それから下に「すぐ行くよ」と声をかけ、テラスを後にする。
廊下に出て階段を降り、また廊下を歩いて。もうすぐ前庭に出る、というところで、
「——ありがとね、そーた」
彼女はぽつりと。しかし、はっきりと。
他に誰もいない暗闇の中で、奏太は笑み、
「……俺もだよ、お礼は。明日、頑張ろうぜ」
「……うん!」
短いやり取りを交わし。
今度こそみんなの元へ。
二人で、あの場所へ帰る。




