第一章16 『霞む世界』
「蓮……?」
そこにいたのは、流れるような薄青の髪をした少女ではない。
「あなたは一体何を? 罪人であるそのクソガキを、僕の友達のあなたが、助ける? そのことに何の意味が?あなた、何を? あなたは、いえ、あなたも……友達では、ないのか?」
花のような笑顔を振りまいて、コロコロとその表情を変える少女ではない。
「——最初から私は、あなたの友達じゃないわ」
蓮は今までに見たことのないような冷めた目でハクアを見下ろし、冷たく言い放った。
彼女の言動に付きまとうのは、氷のように冷ややかに引かれた境界線。
一切交わることのない平行線だと、そう最初から告げているかのように、彼女は冷たかった。
対するハクアの反応は、凄まじい程の怒気だ。
「あなたは……いや、お前達は、クソどもが、生きていてはいけない。僕は僕の友達のために、等しく博愛であるためにッ!」
ハクアは湧き出る激情が増すにつれて、徐々にその口調が早まっていく。
当然言葉にもひどく感情が乗り、そして——、
「滅ぼします、罪人を」
「そう、あなたの嘘は気味が悪いわ」
最後に一言、極めて冷静に放たれた互いの言葉を皮切りに、ハクアは動いた。
それを見ている群衆達の反応は愚かなものだ。
彼の一挙一動に目を奪われ、逃げ出すことも声を上げることも忘れ、思わず目で追ってしまっていた。
奏太もまた、その一人だ。
それがこの場においてどれだけ危険なことなのかも、知らないままに。
「殺すッ!殺す殺す殺す殺す!」
言葉に反して彼はゆっくりと足を持ち上げたかと思えば、急にその動きを早め、地団駄を踏むように足裏を地面に何度も叩きつけた。
次の瞬間、起きるのは地の割れた強い衝撃だ。
「なっ…………!!」
ハクアが足裏を叩きつけた地面がいとも容易くめくれ上がり、それが拡散、次々に崩れていく。
重たい鉄球を勢いよくぶつけて出来たクレーターのようなその跡は、危うく近くにいた者達を巻き込みかけ、
「————ぁ」
誰かの声が漏れた。それは目の前の状況に対する緊張と恐怖に耐え切れなくなった声だ。
コップ一杯に水を入れて、今にも溢れそうな水のように、ピンと張りつめられていたその場の緊張は、
「うわあああああああっっ!!」
一気に溢れかえった。
場から一斉に群衆が方向転換をし、少しでも早く逃れようと駆け出し始める。
しかし当然ながら、元々幾百もの人がいたために、それを行えば、
「どきなさいよ!」
「お前がどけよ!死にたくないんだ!」
人同士の衝突が発生する。
ただ反対側に向かうことしか考えられない、ある種の思考停止状態にある群衆はスムーズに退避を行えないのだ。
本来なら退避行動を先導するべき役割の HMA の人員達も、それに阻まれて進むことさえ許されない。
人が人を、群衆が群衆を妨げて通さなかった。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
避難をしようとして人がごった煮になる中、奏太もまた妨げを受けていた。
手のひらの中にあった、蓮のネックレスをズボンのポケットにしまい込むと、改めて周りを見渡す。
「俺は……俺は蓮のところに!」
固まりかけていた頭を動かして、少しでも前に——群衆が退避しようとしている反対側に進もうとする。
依然とし、何が起きているのかは分からない。けれど、何か蓮の役に立つことがあるはずだ、と。
「————くそ、これじゃ進めない」
しかし、どれだけ自分を煽ったとしても、現実は奏太の妨げをする。
山のような群衆の間を抜けようと何度繰り返しても前には進めず、むしろ弾き返されてしまう。隙間を潜ろうにも、至るところに人がいるために叶わない。
「蓮のために……!」
——蓮のために、なるのだろうか。
ふと、内面の底の底から声が湧いた。
蓮は待ってて、とそう言った。きっと巻き込まないように、彼女はそう言ったのだ。
一部始終を見ていて、それが分からないわけがない。
ハクアの方は、どういう仕組みであの地割れを起こしているのかは分からないが、彼が獣人から人々を守るHMAの一人であることは、疑いようもない事実だ。
そして、HMAが追っている対象であり、ハクアから疑われていた少女を守って屋根の上へ飛ぶ、という跳躍力を見せた彼女は—— 、
「『獣人』」
たった二文字の言葉を口にすると、涼やかな鈴の音が頭に響いた。
それは前にも聞いたことのある音だ。そして、続けてくるのは全身を針で刺すような痛み。
鈴の音も、痛みの理由も未だに分からない。分からないが、それでも彼女が『獣人』であるという事実は変わらない。
「危ない!」
思考の途中、叫ぶ声が聞こえてそちらに目をやると、ハクアが起こした地割れによって生まれたクレーターに、小さな少年が足を踏み外し、すぐにも地面に落下するところだった。
決して落ちたらタダでは済まない、そんな少年をすんでのところで蓮が掴んだ。
そしてそのまま一気に引き上げると、離れた場所に少年を下ろす。
「————」
それは一瞬の動きだった。
蓮は屋根から跳躍し、地面に着陸するとすぐさま少年を引き上げたのだ。
まさしくそれは『獣人』と言える程に素早すぎる動きであり、その一方で奏太の知る『獣人』とは正反対の行動だった。
件の動画の『獣人』は、生き物の命を無慈悲に奪い、そこには遠慮の一つもなかった。
しかし彼女は、蓮は、生き物の命を慈悲によって救ったのである。
「…………あなた、本当に嘘つきなのね」
蓮はキッとハクアを睨み付け、膝を軽く曲げたかと思うと、再び屋根上に上がった。
「ちょこまかと、動くな! クソが!」
言葉に丁寧さの欠片もない程に激昂を露わにしたハクアが、彼女らの乗った屋根を支える柱に掌底をかます。
瞬間、不可思議な事に、たったそれだけの力が柱を粉々に砕いた。
当然、柱を砕かれて支えを失った屋根は崩壊するしかなくなり、
「————」
落下する寸前、蓮が小さな少女に何かを言って腕に抱えたかと思えば、声を出せないでいた奏太の方にその目が向けられた。
——そして彼女は、ただ微笑んだ。
「蓮!」
屋根が地面に落下し、瓦礫の山が生まれた。そしてそれによって、繋がりの建物が徐々にその形を崩し始める。
「逃が、さない、逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない逃がさない」
呪文のように同じ言葉を繰り返すハクアが勢いよく振り返った。
遥か後方のそちらに奏太も振り返り、見やると、
その視線の先には、先導して避難を仕切っていたHMAの人員がいる。
「————」
彼らのうちの一人の耳元で何かを囁き、すぐにその場を跳んで去る蓮の姿が見えた。
それからすぐにけたたましい機械音が辺り一帯から響き始める。
これは、場内の警報だ。
危険人物がいると、『獣人』がいると、エリア中にそう告げているのだ。
「俺は……」
後方から、逃げるための力に押されるのを感じながらも、それに抗い、何かを掴むようにして腕を伸ばす。
「俺、は」
——そしてその腕は、ぶらんと力なく下がった。
彼女が『獣人』であることは間違いない。
状況的に、ハクアから逃げなくてはならないことも。
あるいは、戦わなければならないのだとしても。
あの戦闘を目にして、彼女の表情を見て、思ってしまったのだ。
「俺には——何も出来ない」
抗う力を失って、消え入るような声で奏太はそう呟いた。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「ここに隠れてて。あの人をどうにかして、すぐに戻ってくるから」
「でも、レンお姉さん、あの人って……」
少女が後に続ける言葉が何か分かっていた。そしてその、危険性も。
しかしそれを飲み込んで、キュッと唇を結ぶ。
「大丈夫。私には——」
仲間の支援を望むには、まだ時間がかかるだろう。それは目の前の少女があの場にいて、あの騒ぎになっても駆けつけなかったことからも分かる。
それでも、と蓮は決意を固めて、少女に言った。
「——約束が、あるから」
首からかけられたネックレスに、触れながら。




