第一章15 『振り解かれた手』
「え?」
一体この女性は何を言っているのだろうか。
動物園、その言葉が指すものは、恐らく娯楽エリアでも絶大な人気を誇り、現在でも予約待ちだというあの動物園のことのはずだ。
しかし、どうしてそこに奏太の意思が関係するのか。
黒髪の女性の意図が分からず、心の奥底からは困惑ばかりが溢れてくる。
それに対して彼女は、奏太の言葉を待っているらしく、一向に言葉を続ける様子はない。
ともなれば、一言断りを入れるしかないだろう。
そもそも、目的がなんであれ、蓮がいる以上彼女について行く理由は一切ないのだから。
「え、と……すいません。俺、彼女待ってるんで」
「ええ。知ってるわ。あの水色の髪の可愛い子よね」
彼女はその表情に微笑みを浮かべたまま、のんびりとした口調で答えた。
時折、長く伸ばされた黒髪を指先で弄りつつも、その目は奏太を離そうとしない。
「————」
蓮が一番であるとは言え、目の前の美人にじっと見つめられて、何も思わないはずはない。
が、決して言葉には出来ない違和感が胸の内にあり、思わず眉を寄せる。
鋭い目つきで見つめ返すと、その視線に眼前の女性は肩をすくめて見せ、
「警戒しなくても大丈夫よ。彼が用事で来れなくなって、チケットが余っちゃったから、あなたたちにあげようって、ただそれだけ」
私一人で回るのも楽しくないもの、と彼女は付け足した。
確かにそれならば声をかけられた理由に関しては辻褄が合うが、腑に落ちない感覚は依然としてある。
それゆえに、
「ちょっと考えさせてくれませんか」
「大丈夫よ。時間はたっぷりあるから」
悩む理由は妙な感覚を含めていくつかあったが、一番は蓮が楽しめるかどうか、であった。
確かに動物園へ行きたくないわけではないし、蓮がいつか行きたいと考えていることは今朝に聞いている。
あまり遅い時間まで遊ばないほうが良いだろうと思う奏太からすれば、今更計画になかった所へ行くよりかは行かない方が良いのではないだろうか。
それならば、と自身の内で出した答えを口に出そうして、気がつく。
蓮に聞かないで断るのは、それはそれで良くないことだと。
何故なら、
「あー、えっと。すみません。本当に頂けるのなら、頂いてもいいですか?」
選択肢がないよりかは、あった方がきっと良いはずなのだから。
「ええ、構わないわ」
その女性は肩にかけていたバッグを下ろすと、中からペラっとした紙切れを二枚取り出す。
「ごめんなさいね。焦って出てきたものだから、直に渡すことになるけど……」
「いえいえ、大丈夫です。お姉さん、ありがとうございます」
チケットを手渡され、念のため裏表を確認する。
ここの動物園に来たことはないが、一応偽装等の心配はなさそうだ。
しかし、見ず知らずの人にここまでしてくれるのは、大人の貫禄というやつなのだろうか。
行く行かないの選択は蓮が来てからするとしても、可能性を与えてくれたことには感謝の念は尽きない。
どちらにしてもあとは蓮を待って決めるだけで——、
「————奏太君?」
後方から声が聞こえ、そちらを見やる。
そこにいたのは蓮だ。ちょうど洗面所から出てきたばかりらしく、わずかに髪の毛が整えられていた。
眉間にしわを寄せた彼女は、奏太と黒髪の女性を交互に見ると、
「えっと、その人は……?」
わずかに声を震わせて、不安げな表情で問いかけた。
ひょっとすると、これは浮気か何かと勘違いされているのだろうか。
冷や汗が流れるのを感じて、すぐさま事の顛末を説明しようとし、
「それじゃあ、さようなら。二人で楽しんできてね」
黒髪の女性はそう言い残すと、最後までその微笑みを崩さないまま、軽く手を挙げて去って行った。
「…………え、えーと」
残されたのは二人。チケットを手に動揺と焦りに支配される奏太と、立ち去った女性の後ろ姿を眉を寄せたままじっと見つめる蓮。
両者の間には深い温度差があった。
「あ、蓮、これは、あの人がチケットを」
大してやましい事があるわけでもないのに、しどろもどろな説明になってしまった。
一刻も早く事態を正しく理解してもらう為に、慌てて言葉を整理し、それを言葉にしようとして寸前で止められる。
それは以前、どこかで聞いた一言を蓮が口にしたからだ。
「…………嘘の味がする」
苦々しく、彼女はそう呟いた。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「動物園?」
「そう、動物園。あの女の人の彼氏が来れなくなったみたいで、チケットをたまたま見かけた俺たちに譲ろうって」
うんうん、と頷き、先程の状況の説明を飲み込んで行く蓮。
その彼女の表情には、先程の呟きの影は一欠片ほども残っておらず、
「なるほど、そういう事だったんだ」
特にねじれた誤解もなく、すんなりと話を聞いてもらえたことに、ほっと息をつく。
初めてのデートで仲が拗れるなど奏太にとって絶望でしかないのだから。
「そういう事。……行く?」
先程の蓮の呟きの意味が気にならないではなかった。
しかし、それが果たして言及をしていいものなのかどうかが分からないのだ。
下手に聞いて蓮の機嫌を損ねるのは奏太の望むところではないし、彼女にも話せない事の一つや二つ、あってもおかしくはないはずなのだから。
もっともそれに寂しさを感じてしまうのは、また別問題になるのだが。
「うーん、そうだなぁ…………」
瞳を閉じた蓮は暫し考え込み、告げる。
「行こ、動物園。私も行ったことないし、せっかくのデートなんだから」
彼女ははそう言うと、ふふっと笑ってこちらを見た。
それは疑念一つないごくごく自然な笑顔で、ひどく安堵を覚える。
先程までの彼女の表情は、どこか難しげで、滅多に見かけないようなものだったのだから。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
暗くなり始めた娯楽エリア内には、様々な色でデコレートされた明かりが灯っている。
その光は端から点灯、拡散していったものだ。気が付いた時には、前に見たケバブ屋の何十倍もの数になり、エリア内に溢れかえった。
奏太達を含めたエリア中の人々が、道行く人々を歓迎する光に温かみを感じて、
「そういえばね、友達も今日ここに来てるみたい」
自然と声のトーンが上がり、いつもと比べて会話にも弾みが出ていた。
「あ、さっき出てくるのが遅かったのって、そのせい?」
言葉にしてすぐに、それがデリカシーのない発言だと気がつき、ハッとなる。
さっき——つまりお手洗いのことを指している為、間違いなく聞いてはいけない類の質問だ。
慌てて謝罪をする為、口を開こうとすると、
「うん、電話かかって来ちゃって。ちょうど動物園の近くで、はぐれてるって」
蓮はそれをあっさりと肯定した。
彼女の表情に怒りは見られず、ほっと息を吐くが、二言目に明らかに聞き逃してはならない情報があった為、問いかける。
「いやいや、それ大丈夫なのか?」
「多分……。目立つ子だから大丈夫だとは思うんだけど。途中でちょっとだけ探してもいいかな?」
「そりゃもちろん」
「ありがとう、奏太君。んと、三人で来てるみたいなんだけど、一人はもう列に並んでて、一人が迷子、最後の一人がその子を探してるみたい」
「えっと、じゃあ道中で探しつつ、見つけられたら問題解決で、見つけられなかったら並んでる子に伝える……って感じか」
「かな。迷子になってる子、あんまりデバイス使わないから、連絡取りたくても取れない状況なんだ」
恐らく蓮は、チケットのことがなくてもその提案をしていたのだろう。
あってもなくても、きっと彼女は心配をし、どうにかしてあげたいと、そう考えるはずだから。
それに、蓮の友達ともなれば手伝ってあげたいし、彼女の不安を取り除かずに歩くのは、奏太にとっても決して心地良いものではないのだ。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「お、あれか」
しばらく歩いた先、目的地が見えた。
大きな装飾のついた看板があり、そこが動物園の入り口であると示されている。
「……見つからなかったな」
「遠くの方に行っちゃったのかもね。一応今探してる子にメール送っておこうかな」
そう言い、蓮は何度か空中で手を叩き始める。
二人はあれから道中で迷子を探していたものの、結局見つかることはなかった。
蓮曰く迷子になることはしょっちゅうのようで、今までも何度かあったようだ。
その度に長時間探す羽目になり、今回もその例に漏れず、というわけだ。
もっとも、今回は動物園まで数分の距離だったので、単純に探す時間が少なく、見つからなかったのは仕方ないとも言えるのだが。
「しかし、朝も思ったけど、本当に外から見えないんだよな……」
迷子の事を一度頭から追いやると、当初の目的地である動物園を見る。
入り口を起点として大きく円で囲われたその敷地は、他のテーマパークに負けず劣らずの大きさを誇っているが、他と大きく異なる点が一つだけあった。
警備が強固である、という点だ。
円形の敷地を囲うように警備員が何人も置かれているが、出入り口はたった一つしかない。上空までもが屋根で隠れ、正面から堂々と入る以外に中を覗くことはできないのだ。
「絶滅危惧種ってそんなに貴重なんだな……って、あれ?」
看板の下を通り、受付へ向かおうとすると、前方には幾百人もの人が列になって並んでいた。
その景色はなんら違和感のない光景だ。むしろ、朝見た時に比べればかなり人が減ったといえよう。
しかし、だ。
「 HMA…… いや、ハム」
そこにいたのは、ハムの人員達。
片手の指で数えられる程だが、彼らはどうやら先頭に立って何かをしているらしい。
最後尾に並ぶと、背伸びをして何とか彼らの動きを確かめようとし—— 、
「——あなた方もすぐに調べますので、待っていてくださいね」
背後から肩に手を置かれて、背伸びしようとした体が抑えられる。
動揺がなかったわけではない。が、声の主に聞き覚えがあったせいか不思議と表面的な驚きは出てこなかった。
声の主の正体に会ったのは遡ること二週間程前だ。
その日はスポーツテストの日で、測定途中で集会が開かれた。
皆の前に立った彼は、やや変わった人柄を見せつつも、その場にいた者達に深い安堵を与え、今でも強く記憶に残っている。
ゆっくりと振り返り、その顔を見上げる。
相変わらず不健康そうな見た目だ。痩身に全身灰色の男、彼の名は——、
「この平等博愛が、 HMA の名の下に、罪人がいるかどうかを確かめたいと思います」
彼は人の良さそうな顔で、にこりと微笑んだ。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「あの人って前に学校来てた人だよな」
先頭に立って獣人がいないかを確認しているハクアを指差す。
二週間経ってもはっきりと覚えていたその姿は、あの時点で獣人の恐怖を知らなかった奏太でも印象に残る程のものだった、と言うべきか。
「……蓮?」
蓮から何も言葉がなく、一体どうしたのかと隣を見やると、彼女は神妙な面持ちでハクアをじっと見つめていた。
その表情を見るに、奏太の言葉に気がついている様子はない。
だから再度彼女の名前を呼んで、
「蓮、どうした?」
「え? ……あ、えっと、ごめんね。ちょっとその、うん。考え事をしてたの」
動揺して頭が回っていないのか、言葉に詰まりながら申し訳なさそうに笑う蓮。
そんな彼女に対して、純粋な疑問が湧いて出た。
先の黒髪の女性の時もそうだ。いつもコロコロと表情を変え、花のような笑顔を見せる彼女の姿とは違う。
それらをどこかに追いやって、何かについて考え込む表情をし、しかしその理由を語ろうとしない。
先程は機嫌を気にして問わなかったそれが、再び湧き上がって来て、ついに喉元まで出かかる。
「————」
そうだ、彼女が何かに悩んでいるのなら、隣にいる自分が手を取ってやらなくてどうするのだ。
今日だけでも、何度も支えられているし、これまでの事を考えれば、数え切れない程の恩が彼女にはあるのだから。
蓮の空いた左手をそっと握ると、覚悟を決めて問いかける。
「——蓮。さっきの女の人もそうだけど、何かあるのか?」
ひどく抽象的な質問だ。
口に出してすぐに分かったものの、他の聞き方が分からず、仕方なく彼女の言葉を待つ。
対して蓮は、しばらく繋がれていなかった手を繋がれて、一瞬驚きの表情を見せたが、すぐにそれは躊躇いに変わった。
それはきっと、奏太が彼女に対して投げかけた疑問への葛藤なのだろう。
ハクアと黒髪の女性。その共通点が見出せず、予想は難しい。それ故に察することも出来ないため、歯がゆさを感じる。
だが、結局は彼女が話すか話さないか、全てはそれで決まるのだ。
しばらくして蓮は迷いを振り切ったのだろうか。軽く頭を振ったかと思えば、こちらをじっと見つめ、言った。
「————えっと、ね。驚くとは思うんだけど、私は」
息を呑んで、蓮の言葉を一字一句を聞き逃さないように集中する。
きっと、異端者である事と同様に、彼女が今話そうとしていることは、数限られた者にしか話していないと考えるのが自然だ。
聞かれなければ話さなかったのだとすれば、彼女は何かを恐れて奏太に告げなかったのだろう。
驚くこと、と言う程のこと。それは何だろう。一体、彼女は——、
「私はね、嘘が————」
彼女の言葉は最後まで聞き取れなかった。
何故なら、前方から上がった怪訝な声に妨げられたからだ。
続く言葉が何だったのか、気になるところではあるが、それを一度思考の隅にやって、声のした方へ視線を向ける。
「おやおやぁ?」
それはハクアの声だ。
彼の手には以前見た懐中時計が握られており、既に数百人を見て回ったのだろう、奏太達の十数列ほど前あたりに彼は居た。
彼の声に反応をしたのは、どうやら奏太だけではないらしい。蓮も含めた群衆のいずれもが彼に注目している。
そしてその声は、小さな少女に向けて発せられていた。
「あなた……何かおかしな、いえ、まさか、いえいえ、まさかまさか、そんなことが……」
それまでニコニコとした笑顔ばかりが目立っていたハクアの様子が変わり、ブツブツと何かを呟き出した。
それに合わせたように周りがざわつき始め、変化の理由を推理し、あるいは不安の声を上げる。
ハクアと共に注目を浴びた少女は、動揺で言葉が上手く出ないのか、
「わ、わた、私、で、ゎ…」
震えた声でそう言った。
周りにつられるようにじっと少女を見つめてみるが、少女におかしな点は見当たらない。
肩程まで伸びた蜜柑色の髪をした少女だ。
白のワンピースの裾をぎゅっと掴み、丸っこい顔にクリクリとした瞳。そのどれもが恐怖ゆえか震えており、およそ何かおかしなところがあるとは思えなかった。
ハクアが疑っているのは、状況的に少女が獣人の可能性があるから……のはずだが、件の動画で見られたいくつかの特徴は、少女には見られない。
どこからどう見ても、ただの少女なのだ。
「ぁ、おね、ぇちゃん……っ」
少女は何度もハクアと自身の左手首を交互に見て、涙目になったままその小さな体を震わせる。
あの震えは恐怖、で間違いはないはずだ。
ひょっとすると、大人数に視線を向けられ、緊張がピークに達しているからなのかもしれないが、それはそれでハクアが声を上げた理由が分からなくなる。
「————?」
ふと、奏太は自身の右手に力がこもるのを感じた。
分からなかった。意識的にやったわけでもないのに、一体どうしてこの状況で手に力が入るのだろう。
考えても分からず、思い当たる節がないものの、今も力の強まるその手に目を向けると、
「……蓮?」
————手に力を込めていたのは奏太ではなかった。
繋いだ右手の先の人物。
蓮が、唇をギュっと結び、何かに堪えるように手を強く握っていたのだ。
彼女は普段とは全く異なる血相をしており、お世辞にもそれが平常時のものと同等とは言えなかった。
今日だけで何度目になるだろうか、再び彼女の名を呼ぶ。
「————」
しかし、彼女からの返事はない。
決まって彼女は、ごめんと謝ってくるはずなのに。
蓮はぐっと目を瞑った。
その行為の意味が、分からない。何かがずれ始めているような感覚がして、しかし彼女に言えるほど明確な言葉は出てこない。
彼女は何度か深呼吸を繰り返す。
そして、頭の中の何かを振り払うように頭を振って、こちらを見た。
「————奏太君」
「蓮、一体どうしたんだ?」
耳に届いたのは、今まで聞いたことのないくらい、力のこもった彼女の声。その裏には、ほんのりと優しさが含まれていて、心地良さを感じた。
しかしそれとは反対に、奏太の内から警鐘が何度も聞こえてきて、ひどく嫌な予感がする。
蓮は問いかけに対して、何も答えなかった。
その代わりとでも言うように、繋いだ手がそっと解かれ、首にかけられていたネックレスを外して手渡される。
二つあった内、奏太が贈ったものだけを、その体に身につけたまま。
そしてそのまま、その表情に微笑みを浮かべ、奏太を見つめる。
「な、なあ蓮。これはほんとに——」
思わず声が震えて、願うように彼女に問いかけようとする。
何故なら、多分きっとそれは——、
「ここで、待ってて」
別れなのかも、しれなくて。
「——蓮!」
蓮は駆け出した。
慌てて掴もうにも、離れてしまったその手はもう、届かない。
掴めなかった手を強く握りしめ、彼女を追うように前方を見る。
それは、先程ハクアが声を上げた方向。
そちらを見て真っ先に感じたのは、状況に変化があった事への決して少なくない動揺だ。
変化の理由はハクアの手元、懐中時計である。少女に触れた後なのだろうら白く光っていたはずのそれが真っ赤に染まっていた。
それに対するハクアの反応は、今までの印象を反転させてしまう程に衝撃的なものだ。
彼は少女から距離をとると、
「あ、なた、あなたは、あなたは、あなたはあなたはあなたはあなたはあなたはあなたはあなたはあなたは!あなたは! ——友達じゃ、ない。あなたは、友達ではない! ここで死ぬべき、愚かな存在。消えて然るべき、どうしてあなたは生きている。どうしてあなたたちは、生きている?」
彼の反応は、全て少女に向けられるものだ。隠しようのないくらいの敵意が、そこにあった。
それはまるで、周りの一切を見ていないのではないかと思える程に。
「どうしてお前達は、生きている?」
そして、ハクアは拳を構えて少女に向けて放とうとして————、
「————っ!?」
直後、爆風が発生した。
突然発生したその衝撃に、周りにいた者たちは悲鳴を上げ、パニックが起こる。
「…………は」
目の前で何が起きているのか、理解ができない。日常生活ではおよそ起き得ないことが目の前で起き、呆然とする。
しかしそれは、前にも経験——いや、目にしたものだ。
およそ現実とは思えない非現実が目の前で広がる。そんな光景は、奏太を含めた世界中の人々にとって、過去に見覚えがあるもののはずなのだから。
違うことがあるとすれば、ハクアがそれを正義のためにかざした、という点だ。
よくよく考えるとおかしな光景だ。ハクアには恐怖の目が向けられず、人々が恐怖を感じるのはその相手側なのだから。
「…………間に合った」
それは、幾度となく耳にした声だ。
たったの二ヶ月だけでも、数え切れないほどに聞いた、その声。
「————」
煙が晴れると、そこに小さな少女の姿はなかった。
当然血の跡もなく、声の出所を探ろうとして、すぐに見つかる。視線を上げた先、屋根の上に少女達はいた。
少女と共にいたのは、よく知っている女性だ。
整った顔立ちを張り詰めさせながらも、その桃色の瞳には確かな覚悟が宿っていた。彼女に迷いの色は、ない。
「…………蓮」
彼女は白く透き通った髪をたなびかせ、じっとこちらを見下ろしていた。