第四章7 『至者同士の立ち合い』
こんこん。
二度、扉を叩く音。
芽空がそちらに振り返ると、
「——失礼するわよ」
難しい顔をしたシャルロッテがふっと顔を覗かせた。
そのまま彼女は視線を右左に移動し、ため息。よくわからないが、どうやら求めていた光景はここになかったらしい。
「シャルロッテ様。いかがいたしましたか?」
それを芽空と見ていた、部屋の主であるヨーハン。
落ち着き払ったその声的に、彼の中で当主としてのスイッチが入ったのだろう。風邪の時はそういうの忘れた方がいいんじゃないかな、とかそもそもシャロって昔からの仲なんだから、公的な場面以外は肩に力入れなくても……なんてことは後で言うことにして。
「下民に聞き忘れていたことがあったのよ。あんたのとこに行くって言ってたから、わざわざワタクシが出向いたっていうのに……どこへ行ったかわかるかしら?」
「あ、そーたなら廊下ですれ違ったよ。ソウゴと出かけるってー」
「…………『トレス・ロストロ』の一人と?」
彼女の目つきに、一気に警戒の色が走る。
「シャロ、大丈夫だよー。そーたはあの人のこと信頼してたみたいだし、私から見ても二面性がある人とは思えないから。それに……」
「ええ、わかってるわ。……HMAが下民の立場を落としても、今得られるものはそうあるわけじゃない。だから衝突は起きないし、何かが始まるのならもっと後」
そう理解してはいても、相手がHMAとなると警戒せざるを得ない、ということだろう。
芽空もその気持ちはわからなくもない。
「あ、そういえば用件ってなんだったの? 私がわかることなら答えるけど」
「…………わかること、ね」
シャルロッテは自身の髪を指で弄びながら、窓の外を見つめる。
つられて芽空もそちらを見てみるが、特に何か目立ったものがあるわけでもない。非戦闘員の子たちが裏庭で遊んでいたりとか、使用人が掃除がてらそれに付き合っていたりとか。ごくごく平凡な、日常の一コマ。
「どこへ行くかは聞いたの?」
「え、うん。そーたじゃなくて、ソウゴからだけど、廃工場って教えてくれたよ。明らかに怪しいけど、そーたなら大丈夫だと思って見送ってきた」
話を変えてきたあたり、芽空では答えられない何かを奏太に聞くつもりだった、ということだろうか。その真意を彼女が言わないのなら、芽空も聞きはしないけれど。
「……。あんたも、行ってきなさいな」
思わず、視線を戻してシャルロッテを見つめた。
今、彼女から発せられた声は、彼女にしては珍しい優しい声色。仲直りをして以降、時折出すことはあったのだけれど、どうして今なのだろうか、と。
疑問に答えるように、彼女は続ける。
「あんたがあの下民のことを信頼してるのは知ってるわ。さっきの口ぶりからして、個人的な事情まで踏み入ってるんでしょう。……でもね、それは先の未来が見えるってわけじゃない。自分のいないところで何か危険な目にあっていないか、とか考えないの?」
「——。私は、それでもそーたなら大丈夫だって思ってるよ。必要な時は必要だって言ってくれるし」
「あの下民は、放っておいたら一人で落とし穴にはまってそうな危うさがある。これは、あんたが一番わかっていることでしょう? 荒事が生じずとも、彼が道に迷うきっかけは山ほど落ちてるのよ?」
確かに、彼女の言う通りだ。
奏太はその身一つで多くのことを抱え、いつだって頭を悩ませている。
芽空は彼の助けになれるように、隣で共に支え合おうと考えていたけれど、
「意見や行動を尊重するだけじゃダメなのよ。勝手に一人で突っ込んでいく馬鹿なんだから、あんたが首輪でもつけてやるつもりで行ってきなさいな。……それに、鬱陶しいくらいおせっかいな方が、ルメリーらしいわよ」
「シャロ……」
彼女がこんなことを言い出したのは、自分たちが少しずつ、危険な事情へと足を踏み入れつつあるから、なのだろう。
ゆっくりと、兄の方に振り返る。
彼はシャルロッテに同調するように頷き、芽空は、
「ありがと、シャロ。——行ってきます」
二人に別れを告げ、部屋を出て行く。
時には強引に踏み込むことも、自分たちの一つのあり方であるべきなのだろう。いつもいつも、気がついた時には事態は進行してしまっているから。
だから親友の言葉を、素直に受け入れることにしよう。
今度は、遅くならないように、と。
芽空が出て行ったのを確認し、シャルロッテは長く息を吐く。
これでいいのだ、と。
「…………本当によろしかったのですか、シャルロッテ様。先ほどルメリーにかけた言葉は、奏太一人を案じてのものではないのでしょう?」
「あら、気づいてたの。相変わらず鋭いことね」
答えつつ、片手でデバイスを起動。
「ただ、案じるとは少し違うわね。ワタクシは下民がミスをしでかすのを防ぎたいだけ。それによってワタクシたちが痛手を受けるなんて、最悪の流れだもの」
「失礼ですが、それは案じている、というのでは?」
「うるさいわね。そもそも、どちらかといえば理由はもう一つの方。ルメリーが彼の側にいることに意味があるのよ」
それは別に、二人の恋愛や友情がどうこうという話ではない。
いや、少しも混じっていないといえば嘘になるが……ともあれ。芽空にも言った通り、奏太は一人で勝手に突っ込み、落とし穴にはまるような少年だ。少なくともシャルロッテはそう評価している。
けれどそれは、何もできない迷惑ばかりをかける無能という意味ではない。時には事態の最奥に突っ込み、生き残るその強さは、もしもの時一人の少女を守るくらいのことは容易だ。
芽空にも奏太と同じ情報を共有してもらう、という意味でも、二人が一緒にいてくれた方が助かる。
「……奏太のこともだが、妹を気にかけてくれてありがとう。兄としては、これ以上の喜びがないと言っても過言ではないよ」
「兄としての本音、ね…………」
「え?」
「あんた、たまにはマッサージでもしてもらった方がいいんじゃないの、ってことよ。肩とか、凝ってるでしょうしね」
珍しく素っ頓狂な表情を見せる彼だが、まあそのうち意味もわかるだろう……と、くすりと笑みを漏らしつつ。
あまりちんたらしていると二人が戻ってきてしまうので、ここへ来たもう一つの理由を進めることにする。
「少し、聞きたいことがあるのよ」
真顔になり、部屋の外を警戒しながら、
「というより、資料を用意してもらうだけでいいわ。あんたのとこならまず間違いなく残ってるでしょう、この別荘でも」
「それは構いませんが……一体、シャルロッテ様は何の」
「————フェルソナ、エト」
ヨーハンの瞳が見開かれる。
……本当に、我ながら危険な道を進んでいるとは思う。親友を最大戦力のところへ送り、我が身を守るは我が身のみ。はてさて、ジャックにもついて来てもらうべきだったか。
しかしそれでも、シャルロッテの推測が正しければ、
「あの二人の資料が欲しいの。ここに来るまでの経緯を、ね」
この行動は、間違っていない。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
戦いはさらに苛烈なものとなり、廃工場という場を次々に破壊していく。
「しィィィ————!」
空間そのものを削るような、強烈な攻撃。両者が放つそれは時として爆風を生み、地を粉々に砕き、飛翔するかのように空に光の線を描く。
威力は同等。経験からくる勝負勘と反応は向こうの方が上、しかしこちらは速さでその分をカバー。
勝負は均衡しているように見える……が、
「身体能力だけでは、我に一撃を決められんぞ——ッ!!」
ずん、と死角から放ったはずの踵落としが、彼の丸太のような両腕に弾かれ、しかしすぐに接近戦に持ち込む。
左の牽制拳、からの右拳、回し蹴りというセオリー通りの動き——否、最後をあえて小範囲のものに留め、体を回転。つけた足を起点に、裏蹴りを叩き込んで、
「な、掴むとか、ありかよ!」
「動きが見えていれば、どうということはない!」
掴まれた左足ごと体が引っぱられ、そのまま空中で弧を描き、反対方向へ叩きつけられる。……と、なるのはわかっているので、地面に接触する前、両手を先につけて体を支える。反対に今度はソウゴを引っ張ろうとするが、中止。
直前で手を離した彼が、振り返るついでに裏拳を。奏太は地面につけたまま腰を回し、それに蹴りをぶつけることで相殺。
同時にソウゴから瓦礫が蹴飛ばされるのを確認し、跳躍して回避しつつ、距離を取る。
——すぐに間を詰められるだろうが、ほんの一瞬、溜めの時間があればいい。
「……借りるよ、あんたたちの技」
弓を引くように左手を前に、右腕は手前に引いたまま、風船に空気を入れるように、限界まで溜め込む。
ソウゴが目前に迫り、射程距離内に入ったところで、
「この、技は————!」
滑るような加速。のち、踏み込むタイミングで、溜め込んでいた右掌底を一気に前へ押し出す。掌一点に集中した威力が、ソウゴの拳を弾き、仰け反らせる。さらに奏太は踏み込んで、
「『崩壊』!!」
持ち上げた足を思い切り下方向へ叩きつけ、地面を叩き割る。走った亀裂はそこを中心とし、辺り一帯の地を文字通り崩壊させていく。当然、至近で仰け反っていたソウゴもその影響を受け、
「これで終わりだ——!!」
放った直後に地を蹴って、前方へ飛んだ奏太の攻撃。どれだけ先読みと力が優れていようとも、今、足元が不安定な状態のソウゴではまともに受けられない。
そう確信していた。
事実、『崩壊』の影響を受けた地面は広範囲で、咄嗟に跳躍した程度では影響下から逃れられない。
彼の武器の一つである反応速度も、立て続けに幹部二人の技を受け、驚いているのか、わずかに遅れが出ていた。
だが————忘れてはならない。
ソウゴはHMA幹部『トレス・ロストロ』の一人。奏太が『昇華』を使っているとはいえ、それだけでやられるはずがないのだと。
空中で腰をひねり、放った回し蹴り。
しかしこれは当たることなく、空を切る。一体どこに逃げ場が、と上を、
————違う、下だ。
「はぁぁぁ!!!」
「ぐ、う……っ!!?」
眼下から攻撃が、迫る。
ソウゴは動きに遅れがあったわけではない。動揺したように見せて、実際は奏太が飛び込んでくるのを待っていただけ。だから落ち着いて対処行動がとれた。
そもそも、足場が崩れようと彼は気にしていなかったのだ。自身の隙を突いてこようとする敵を捉え、打ち砕く。最初に直感した通り、それこそが彼の戦い方であり、片腕一本でも体を支えられるその筋力と体幹は、たとえ足場が崩れようとも攻撃に移れるくらいには、ブレがない。
だから彼は体を後ろに倒し、揺れる地面の中片手で全身を支え、飛び込んで来た奏太を下方向からの突き上げ蹴りで強襲する。
対して、咄嗟の反応。
奏太は空中で転がるように体を丸め込み、両手で防御。しかし威力は、殺せない。
「————ッ!!」
足のつま先から頭のてっぺんまで、雷が走ったような感覚。肺から酸素が一気に抜け、頭が真っ白になり、見えない壁に空中で何度もぶつかっているような衝撃を受ける。
しかしそれでも骨が砕けた感触がないのは、『昇華』によって身体能力が上がっているおかげだろう。そして追撃がないのも、『崩壊』の威力のお。——避けろ。よけろ、避けろ避けろ回転しろそのままだと——!!
無意識に思考へ流れ込んだ、危機を察知した本能。奏太は言葉を発するよりも先、それに従って体を回転、真っ直ぐ落ちていた軌道が横へ逸れる。
「ォオオオオオ————!!」
直後、咆哮。否、見えない攻撃が、一瞬前まで奏太がいた場所を掠め、空気を震わせる。
驚きはあった。疑問もあった。しかしあれが何か、と考えるよりも先に全集中を下へ。衝突はすぐ。標的は目の前。取るべき手は、一つ。
全身を使い、振り絞って、
「う、おおおおおおおお!!」
「ぬうううう!!?」
重力と体の捻りを利用して、上方向から蹴りの連続を叩き込む。
防がれるなら回転して反対の足を。重力で落下するのなら、衝突を利用して再度上へ跳躍。かかと落とし、回転蹴り、膝蹴り、さらに裏拳、掌底、後方宙返り、まるで飛んでいるような連続の攻撃。
こちらがソウゴを足場として使っているのに対し、向こうは崩れた地面。彼が先ほどのように体を倒せば、奏太の攻撃をまともにくらう可能性が高くなるし、力の入った最初の数発を防いだ奏太にとって、この攻撃は。
起こるべくして起きた結果であり、奏太が描くそれの役割が、その通りに事を果たした結果だ。
「——なるほど」
連続攻撃の果てに、ついに地面に落ち、転がった奏太。その胸の至近には拳が迫っているが、これ以上動くことはない。理由は、届かせたい場所へ届き、既に勝敗が決まったからだ。
「——集中させた攻撃の中に角を混ぜ、我の体に傷をつけた、か。確かに一撃を入れたらとは言ったが、これが実戦なら、貴様は死んでいたぞ?」
「まあな。でも、これは実戦じゃないし、本気で憎み合って戦ってるわけじゃない。それなら、こういう幕引きもありなんじゃないか?」
にしし、と寝転がった奏太が見るのは、彼の右腕。一線、縦に入った傷は血を垂らしているものの、致命傷と言うにはあまりにも浅い。
だから多分、
「途中はともかく、最後までこの勝利条件を忘れてたら、俺かあんたか、どっちかは死んでたと思う。だからこれは、あんたを信じた賭けの結果だ」
「……随分と、危うい賭けだな」
奏太につられて、ソウゴもくつくつと笑いを漏らす。
つい先ほどまで本気で戦っていたというのに、後腐れなく笑いあえる。彼も奏太と同じく、根は善人だと信じて正解だった。
それにあくまで彼は武人であり、奏太を陥れようとしてこの戦闘を始めたわけではないのだ、と。
そのままひとしきり笑って、最後にソウゴに手を差し出される。
その手を掴んで立ち上がると、
「…………見事だった。まさか奴らの技を貴様が使うとはな」
「経験値が少ない身だからな。戦った相手の技術は大抵そのまま盗んでるよ」
「ということは、我もその一つとなるか。面白い」
戦闘後だから、だろうか。
彼はいつも——と言えるほど何回も彼と話しているわけではないが——より口数が多いような気がする。無口、というよりはそもそもが武人気質なのだろう。普段は落ち着いていても、戦闘になれば己を鼓舞し、全身全霊を持って相手にぶつかる。
だからこうして、実力を認めた相手に素直に賞賛の言葉を送るのだ。
「ソウゴさんこそ、驚いたよ。幹部連中がみんな強いのはわかってたけど、まさかここまでとは」
「ひたすらに力を磨き上げた結果だ。いずれ貴様も辿り着くであろう」
人間の身でそこまで辿り着けるのは、本当に相当な化け物ではないだろうか。というか辿り着くってそれは一体いつのことなのだろうか。少なくとも十数年以上はかかりそうである。
……と、破けた服にくだけた雰囲気はここまでにして。
約束の報酬よりも前に、聞いておかなければいけないことがある。
「ソウゴさん。どうして急に俺を外に連れ出したんだ?」
思い出してみる。
あの部屋で、奏太は『改変者』という言葉を口にしようとした。
この際ソウゴがどんな立場なのかはともかくとしても、不自然としか言いようがないタイミングで奏太を止めたのは、明らかに彼に何かの意図があったからで。
「……ソウゴさん?」
回答を待つ奏太。だが、彼からの反応がないので気になり、見上げる。
すると、ソウゴは両目を瞑って何かを——いや、意識を集中させて、何かを探っている。数秒待っていると、
「……いなくなったようだ」
「いなくなった、って何が?」
「我ら……というより、貴様を追っている輩だ」
「な——っ!?」
思わず耳を疑い、しかしさらに彼は言う。
「あの時、彼奴は我らの会話を聞いていた。物音を立てないよう息を潜め、部屋の外でな」
つまりそれは、侵入者。
というより、改変者が奏太を監視していた、ということだろうか。
「ならソウゴさんはそれを察知して、俺を助けてくれたってことか。ありがたいし、すごく助かったんだけど……姿は?」
首を振る。
「隠密行動に慣れているのだろう。頃合いを見ておびき出すつもりだったが、途中で姿をくらませたようだ」
……欲を言えば、姿を確かめたかった。が、奏太も敵意や殺意の類は感じ取れるが、気配はさすがに無理だ。だから気づけなかったし、そもそもそれが可能なのは、彼がそれだけの修羅場をかいくぐってきたからこそなのだろう。それなら今は、救ってくれたその力に感謝しよう。
そして、
「約束の一つ目の質問。……いいかな?」
その人物が関わっているであろうことを、今こそ奏太は問わねばなるまい。
「何度も言うようだが、我が答えられる範囲で、だ」
「難しいところだな。じゃあ——これは俺を助けてくれたって、解釈でいいんだよな。それなら、どうして助けてくれたんだ?」
「どうして……か」
ソウゴは何かを考えるように空を仰ぎ、
「理由はいくつかあるが、我個人としては、ソウタが失われるのはあまりにも惜しい……といった、情話を貴様は求めているわけではないな?」
頷く。
そう思ってくれていた、というのは嬉しいところだ。
しかし、今奏太が求めているのは、先の戦いの中でも再度浮上した、HMA幹部『トレス・ロストロ』のソウゴ。彼の疑惑をはっきりさせる情報だ。
それはとどのつまり、
「——俺を監視してたってやつもそうだけど。…………ソウゴさんは、『改変者』なのか?」
戦闘後ゆえによく回るようになった舌。あまりにもすんなりと出たその言葉は、多大な危険を孕んでいる。
そう体はわかっていたのだ。
だからすっかり熱は冷め、静かに警戒態勢をとって、世界の核心に迫ろうとしている。
ただ、愚直に。




