第四章3 『過ぎ去りし時を求めて』
多人数の、恐らくは家主と同じような立場の要人と話し合うために作られたものだろう、広い一室。
使用人の一人に通されて入ると、
「遅いわよ、下民」
開口一番届いた、ため息混じりの冷たい声。
それから、
「久しぶり。きみ、元気だった?」
淡々とした言葉とは裏腹に、何か思うところがあるのか、奏太に急接近してくるもう一人の少女。それに驚きつつも、
「むしろ時間の二十分前だし、それなりに元気にやってるよ。……シャルロッテはほとんど毎日のように顔合わせてるけど——ジャックは確かに久々だな」
白金色と月色、似たような色合いの髪をした少女たちに、それぞれ返答。
シャルロッテ・フォン・フロイセンと、元ブリガンテのジャック。
彼女らが最近共に行動していることは知っていたが、考えてみれば後者は話の一つも聞いていなかったので、情報的な意味でも一ヶ月ぶりである。
何か物珍しいものでも見るように、ジャックがじっとこちらを見上げているものの、いつまでも見つめあっているわけにもいかないので、ひとまずそれから視線を外す。
「ユキナにジャック。二人も増えると大変なんじゃないか? 騒がしいのとか、あんまり好きじゃないだろ?」
ふんぞりかえり、自身の白金色の髪を弄ぶシャルロッテにも、軽口を投げてみる。
しかし意外なことに彼女は首を振って、
「どちらも要領が良くて助かってるわ。ジャックは元々似たような立場っていうこともあるし……ユキナも教えれば素直に覚えてそつなくこなす。素材としては十分よ」
意外と高評価である。
しかし、彼女は「ただ」と一度言葉を切り、
「ジャックの私語には時々調子を崩されるし、ユキナが焦った時はろくなことがない。その点では頭が痛くなるほどには迷惑ね」
「な、なるほど」
……かの事件後、それぞれ理由があり、シャルロッテの元で仕事の手伝いをすることになったユキナとジャック。
これまでがこれまでだっただけに、少し心配な面もあったのだが、どうやら楽しくやっているようだ。
「というか、ユキナのことならたまに話しているでしょう。ねえ、ルメリー?」
「そうだねー。でも、そーたは過保護なところあるから」
「私は過保護にしないの?」
「下民は言われなくても過保護にするわよ。ワタクシからしたらぞっとするような話だけれど」
各々にあれこれと言われているが、さすがに最後のぞっとするには文句を返したい。いや、多分、過保護にするというのは間違ってないけど。なので、
「…………まあ。それでも俺がやることは変わらないし」
「変わらないのは構わないけれど、あんたもあんたで、世間に顔を出す立場なんだから、もう少しアドリブを効かせられるようになってほしいわ。毎回文面を考えるワタクシからしたら」
とても耳が痛くなる話である。
確かに、現状芽空とシャルロッテに頼りきりだけれども。
……と、盛り上がるのはこの辺りにしておいて、ジャックを剥がしつつ、揃って席に座る。
右隣にジャック、左に芽空、正面にシャルロッテが来る形だ。
軽く周りを見渡して、
「残りの二人は? フェルソナはともかく、ヨーハンならもう席についてるかと思ったんだけど」
「お兄様なら、体調が優れないらしくて、今日は欠席だって。情報の共有はシャロがしてくれたらしいけど」
さて、聞いた覚えのない説明だ。同じ部屋なのにどうして情報伝達が行われていないのか。いや、それはともかく。
「何か重い病気とか……じゃないよな?」
「ええ。話を聞いてくる時確認をしてきたけれど、過労と季節風邪よ。ワクチンソフトもデバイスで配信されているし、明日には治ってるでしょう」
聞き、ほっと息を吐く。
そうそう重症などあるはずもないのだが、奏太の経験は他者の傷に敏感だ。つい、最悪の状況を考えてしまう。
だからと言って変に無理をしてここに来い、などとは絶対に言わないし思わないが。
それを知ってか知らずか、シャルロッテは笑み混じりに、
「もちろん、あんたの治癒も必要ないわよ」
「いや、俺が万能だと思ったら大間違いだからな? いや、風邪は試したことないけどさ」
「今日のそーたはいやいや星人だねー」
「……いやいや星人?」
奏太の『ユニコーン』には自身だけでなく、他者まで治療できる能力がある。
星人はさておき、シャルロッテの言うそれは、あんたならいざという時ヨーハンを治療できるでしょうとか、そういうことだろう。言われずとも、必要な時奏太はするつもりだが。
「となるとあとはフェルソナだけど……」
先ほど顔を合わせたばかりだ。さすがにヨーハンと同じく、ということはないはずだが。
皆が揃ってドアを見つめると————噂をすれば、というやつだろう。
外でやたら「っス」という声が聞こえたかと思えば、扉が開いて、
「…………やあ、みんな。遅れてすまないね」
話し合う前からよろよろと疲れ切っているフェルソナ。経緯には察しがついているので、お疲れ様とだけ声をかけつつ。
そうして、彼が入ってきたことで、全員が揃った。
喪失を体験、あるいは追っている者たちが、一つの部屋に。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
こほん、と軽い咳払い。
「……さて」
調子を確かめるように低められたその声は、シャルロッテから放たれたものだ。
先ほどまでの緩んでいた空気は、既にそこにない。一同が揃い、顔を合わせた時点で、既にこの会合は始まっている。
たとえそれが見知った人物であろうとも、それぞれに抱えたものの重みは理解しているから。
「最初に、立場を明確にしておくわ。ある程度は把握しているでしょうけれど、改めてね」
シャルロッテはそう言い、こちらに視線を向けてくる。
奏太から説明しろ、ということだろうか。
混乱を生まないよう頭の中を整理、言葉を選んで、
「今回こうして集まってもらった原因で、生き証人に近い立場——つまり誰かの手で記憶喪失にさせられた人たち。俺は喪失者って呼んでるけど——それが俺とフェルソナ、ジャックとアザミ」
名前を呼ぶとともに手を向けつつ、補足説明。
「今回の一件で言えばヨーハンもそうだし、フェルソナは二度目だ」
「そんなあんたたちの喪失の原因を、ワタクシとルメリーは追っている……と。ここまでは皆、いいわね?」
奏太を含め、一同が頷く。
改めて列挙してみれば、間違いなく偶然とは言えない数の喪失である。アザミもそうだが、それをたったの数人で追っていることを考えると、これまたとんでもない話にもなってくるが。
「喪失の情報のすり合わせもしておく必要があるわね。——まず確認しておくこととして、三人は五年前より以前の記憶を失っている。そしてそれは今もなお変わらない……正しいかしら?」
頷く。
記憶を失った直後は精神的に不安定だったこともあり、正確な日付までは分からないが、他の喪失者も同様だという。
ただ、一つ例外があるとすれば、
「でも、シャロ。確かアザミには記憶があったんだよねー?」
「そうね。取り戻した、じゃなく残っていた、と表現する方が正しいけれどね。その辺りについてはまた後で話しましょう」
今にして思えば、アザミにはもっと話を聞いておくべきだったのだろう。
あの時必要だった情報は聞き出したとはいえ、同じ喪失者。彼の性格を考えれば、まだ何か語っていないこともあったのではないかと思える。
……過ぎたことをとやかく言っても、仕方ないとはわかっているが。
「——ん?」
と、ふいに服の袖を引っ張られる感覚がして、横を見る。
ジャックだ。彼女はフェルソナを指差して、
「彼は?」
ああ、なるほど。
そう言えば彼女はまだフェルソナと会ったことがなかったのだったか。心なしか、その瞳に未知のものに対する好奇心のような感情が見える気がする。
表現の仕方はともかく、なんとも自分の心に素直な少女である。
「えっと、ヨーハンは厳密に言えば例外なんだけど、喪失者は『獣人』だけじゃないんだ。それがあいつ、フェルソナ」
奏太が軽く紹介をしてみせると、
「……ああ、えっと。ラインヴァントの年長者かつ研究者のフェルソナだ。僕は人間だが、『獣人』について研究していてね。だから自然に『獣人』と生活を共にすることが多く、仲良くさせてもらっている……といったところかな」
一見して、普通の自己紹介。
しかし、受け答えに妙な遅れがあったことに妙な違和感。
まあ、まだ話し合いが始まったばかりということもあり、単に聞く情報を元に推測を立てている最中、というだけだったのかもしれないし、そもそもフェルソナは自称恥ずかしがり屋さんだ。
奏太はともかく、数人の女子から見つめられてどぎまぎした、というのでも納得できる。というか、その方が彼らしい。
「変わった人」
「……まあ、うん。話すともっと変わってるぞ」
喪失者に限らないのであれば、さらに変わった人物が今にも過去にもいるが。
ともあれ、そんな紹介を確認し終えると、シャルロッテは次の話に移る。
「記憶を失った時期、失われた範囲は共通していて、種族は関係なく、人数は不明。これ以外に知っていることは?」
「あ、それなら」
シャルロッテの問いかけに挙手し、フェルソナとジャックを順に見ていく。
「関係あるかは微妙なところなんだけどさ、鈴の音と閉じ込められた感情。俺とフェルソナには覚えがあるんだけど、ジャックは何か知ってるか?」
「鈴の音?」
少し間があって、
「感情は分からない。でも、鈴の音は知ってる。アザミもそう言ってた」
「じゃあ感情の方は共通っていうより、アザミやヨーハンのような例外のパターンなのか? いや、でも……」
「一人でぶつくさ言ってんじゃないわよ。……どういうことかしら?」
少しは状況が進歩しそうな、何も変わらないような。なんとも複雑な心境の中、奏太は皆に語る。
フェルソナの場合は日常生活の中のある時、欲望——主に知識欲を。奏太の場合は蓮の死をきっかけに、怒りを取り戻したことを。
それまで不自然なほどに抱いてこなかった怒りが、ある時止めどなく溢れきたかと思えば、そのまま『獣人』の力に目覚めた。
その際、鈴の音が聞こえてきたことが共通しているのだ。他にどこかでも聞いたような気がするが、事態が事態だったので今の今まで忘れていた。
「偶然、とは考えにくいねー。記憶を失う以前の衝撃が残っているのか、あるいは失った直後か……。アザミが意図して記憶を残されたと仮定するなら、鈴の音もその一つなのかな?」
「それが可能なら、そうね。あんたが昔話してたアンドロイドならどうにかなるでしょうけど」
「……アンドロイド?」
「人工生命体、つまりは人の手で作られた生命のことさ。投薬や遺伝子操作をすることで、望んだ性能の人間を生み出すことができる。もちろん、表向きには禁止されているけれどね」
フェルソナはどこから取り出したのか、クリップボードにサラサラと絵を描いていき、
「仮の話ではあるが——それによって生まれた赤子を成長促進剤で急成長させる。そこへさらに一般常識を教えた上で、『自分は十五歳だが、記憶喪失している』という記憶を植え付け、外へ送り出す。……なんてことも、可能な研究者はいるかもしれないね」
「そんなことできる人なんてそうそういないし、まず現状ではありえないけどねー」
……二人は笑って語るが、とんでもない話である。喪失だと思っていたら、そもそもあるはずもない記憶だった、なんて。
別に、奏太は過去の記憶を取り戻したいというわけではないが、誰かに計画された運命なんて絶対に嫌だと思う。
もしもの話であっても、絶対に。
「……大丈夫?」
少し、体がこわばっていたのだろうか。
隣のジャックが心配そうに見上げてくるが、大丈夫だと笑みを返す。
それにそもそも、この喪失に理由があるとしたら、
「行ったやつには思い当たる節がある。……そうだよな?」
大掛かりな装置であるとか、類い稀な才を持つ研究者であるとか。そういうものがなくとも、理解を飛び越えてくるような相手。
梨佳が教えてくれた、
「——改変者。情報に関しては曖昧だけど、現実を書き換えるっていうのが事実なら、関わってる可能性は大きいんじゃないか?」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
一応、奏太が記憶喪失をしていることは、梨佳を含めたラインヴァントの皆に話している。ならば彼女がそこを怪しんで、という可能性も考えられなくはない。
彼女は人一倍鋭く、いざという時頼りになるお姉さんだったから。
そんな奏太の発言に、
「ワタクシも考えたけれど、いくらなんでも早計過ぎるわ。あんたたちの仲間にそう語る人物がいた、というだけでは判断材料として薄すぎるもの」
「私も蓮を信じてないわけじゃないけど、都合良く記憶を操作できる能力があるなら、どうしてそーたたちだけにって話になってくるしねー」
「僕もおおよそは同意見かな。現時点で奏太君たちがわかっている情報では、こじつけに過ぎないよ」
「ぐ……」
三人揃っての否定。
少しの進展はあったものの、黒幕をこれと判断するにはまだまだ、ということか。
「……思ったけど」
しかしそこへ、静観していたジャックが挙手。シャルロッテが頷くと、彼女は首を傾げながら語る。
「ワタシたちが探していた『施設』は大規模…………って、アザミは言ってた。それなら、二人の可能性も否定できないような?」
援護はありがたいが、少し言葉足らずなので、主にフェルソナへの説明目的で補足しておく。
「何回か話に出てるけど——アザミには記憶が残ってたんだ。『施設』ってあいつは呼んでたけど、その場所の記憶がさ」
——『パンドラの散解』の日。
奏太がアザミから聞いた情報。
そのどれもが喪失にかかわるものだったのだが、そのうちの一つに『施設』の話があった。
詳細は不明で、記憶のみが頼りだと彼は言っていたが、いわく『施設』は喪失の原点。
重ねていわく、おぼろげながら他の喪失者の姿も映っているような気もするが、やはり詳細は分からず。
だが、そこらの一軒家とは比べ物にならないほどの、それこそラインヴァントのアジトのような広さだったことは確かなようで、彼がブリガンテを使って襲撃した場所もそれに含まれているのだとか。
たとえば広大な敷地の中にある、ラインヴァントの地下アジト。
たとえばHMA本部。
施設の大きさに加え、他とは比べ物にならないほどの設備。構造。技術力。確かに、可能性としてはあり得るのかもしれない。
「しかし、そのために僕たちのアジトが狙われたとなると複雑な心境だね」
「それは、ごめんなさい」
「いや、君が謝ることじゃないとも。彼もまた、喪失の在り処を求めて駆けた結果だろうからね」
……アザミのあり方については、思うところは色々とあるが、今は飲み込みつつ、止まりかけた話を進める。
「えっと、結局今手がかりとしてあるのは、その『施設』だけなんだよな。仮説が正しいかどうかは、そこが見つかればわかるはずだ。場所に見当がつかないけど」
「他の手がかりもないし、ひとまずはそれを信じて探してみるしかないかなー。結構難しい話だけど」
「揃って言葉に不安がにじみ出てるわよ。まあ、ワタクシも同意見だけれど」
デバイスでメモを取っているのだろうか、頷くシャルロッテの手はすらすらと宙を叩く。そういえば書記などを決めていなかったが、記録に残してくれるのはありがたい。と同時に、申し訳ないとも思うが。
芽空はともかく、彼女は元々喪失と何の関係もないお嬢様だ。何か理由があってのことだろうが、ブリガンテ戦に続き、こうして手を貸してくれていること自体が不思議なくらいなのだ。
普段のサポートもそうだが、少しは奏太も彼女のために何かするべきだろう、とうんうん頷きかけて、
「この一ヶ月、ワタシとシャルロッテで調べられるところは調べた」
頷こうとした頭ががくりと落ちた。
「……は? 調べた、って二人で?」
「うん、ユキナがいない時に。県外もそうだけど、めぼしいところは大体調べた。でも、結果は残念」
それは確かに残念だ。
が、いやいやそうではなく。シャルロッテとジャックに交互に視線をやって、
「…………なによ」
「いや。だって、お前」
言いたいことが山ほどあり、それら全てを語ろうと思うと喉が詰まる。結果的に口をパクパクとさせ、言葉は続かない。
どれだけ奏太たちのために動いてくれているというのか、シャルロッテという少女は。
確かに、第一印象は最悪で、そこからもあまり良くなかったが、事件以後の彼女はなんというかこう、頼りになるどころの騒ぎではない。
まず何を言うべきだろうか。謝罪? いや、それよりも何よりも、
「——いつもありがとな、シャルロッテ」
「気持ちの悪いニヤケ顔でこっちを見ないでくれるかしら、気持ち悪い」
心底嫌そうな顔で気持ち悪い、と文頭と文末で言われたが、それはともかく。
前のように呆れていないあたり、芽空との間にあったいざこざが消えたことで、シャルロッテはシャルロッテなりに心境の変化があったからなのかもしれない。
「ああ、鬱陶しいわね」
感謝されることに慣れていないのだろうか、わずかに頰が赤らんで見える。それでも済ました表情を崩さないあたり、さすがというべきか。
「…………少し。休憩入れるわよ」
主に奏太が原因ではあるが、シャルロッテに向けられた皆の感謝の念。それによって緩んだ空気の中、彼女は手をパタパタとさせてそう言った。
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「ドブに落ちなさい」
「…………すいませんでした」
実際感謝しているとはいえ、やりすぎたと思う。
真剣に話し合うべき場において、しつこくやりすぎたと思う。
結論として、そのせいで廊下にて怒られている最中である。
「あんたたちにとって大切な話し合いでしょうが。茶々を入れたら話は進まない、脱線したら戻すのが面倒、そのくらい分かっているでしょう?」
「いや……うん、はい」
「そもそも、下民がワタクシに感謝をするのは当然よ。言葉に出さずに崇めなさい。どれだけ仕事量が増えたのか分かっているのかしら? いや、それは別に良いのだけれど……全ては喪失をどうにかするため。分かったかしら?」
「はい、分かりました」
「それで良いのよ、それで」
ふぅぅ、と長くため息。
何から何まで感謝……というより、申し訳ない。主に、彼女が抱えているであろうストレスに対して。
「まあ、ある意味タイミングが良かった、と言えなくもないけれど」
「え?」
それは奏太に対するフォローだろうか、と顔を上げて、
「下民へのフォローじゃないわよ。……少し、耳を貸しなさい」
考えを即否定されたが、無理やりに体を引き寄せられ、それどころではなくなる。
接近する顔、ドギマギする間もなく、そのままシャルロッテは声を殺して、
「————あんた、ワタクシがメモを取っていることに気がついてたわね?」
眉を寄せる。
まさか、気づいているのなら感謝をしなさい、とかそんなことをわざわざ言うわけではないだろう。ということは、
「……あれに何か意味がある、って言いたいのか?」
「そうね。というか、他の三人なら遅かれ早かれ気づくか、あるいは既に気づいていてもおかしくはない。でも、あんたは気づいてなさそうだから声をかけたのよ。……ヨーハンの記憶がどれだけ失われているか、詳細は聞いているかしら?」
「まあ、おおよそは」
話が読めない。
メモを取るのとヨーハンの記憶、何の関連性があるのか。
「こう言えばわかるかしら。——籠城戦の前、彼に頼んだことをあんたは覚えてる? そしてそれによって、彼がどうなったか」
騒ぎの中でうやむやになっていたが、確かに奏太は彼に——正しくはエトも含まれるが——頼みごとをした。その内容を思い出すとともに、導き出される結論。つまりシャルロッテが言いたいのは、
「じゃあまさか、俺が頼んだからヨーハンの記憶が消されたって、そう言いたいのか?」
「その可能性が高いってだけの話よ。藤咲華について調べる、その結果が記憶喪失だというのならね」
「——!」
思わず目を見開く。
恐らく、彼女が考えているであろう仮定は、奏太がつい半刻ほど前に考えていたことだ。だが、
「それならエトは? あいつは記憶がないとか、そんなこと——」
「既に確認済みよ。元々フェルソナに関わると言動が危うい人だけれど、恐らくは彼女も失われている。本人は気にしてないし、特に大ごとにはなっていないもののね」
「嘘、だろ……」
「残念なことに、真実よ。何ならあとで確かめてくるといいわ」
被害が知らぬところにまで及んでいたことにショックを受ける。が、そこまでくれば、先ほど奏太が抱いた疑問は真実といって差し支えないだろう。
「藤咲華はやっぱり改変者、ってことになるのか? 自分のことを調べてるから消しに来た……とか。ありえそうな話だけど」
そう語ってみるが、
「いいえ。さっきの会合でも言ったけれど、あんたは早計なのよ。——『施設』と改変者に関係があるかもしれない。あの性悪女と改変者には繋がりがあるか、そもそもその一人かも。……そんな仮定と仮説は、確かめるまでは結局、得るもののない不確定そのものなのよ」
彼女は続ける。
「ワタクシが求めるのは結果。だから、そのために一つの考えに固執して思考を淀ませるのは、愚行も良いところ。ましてや、ルメリーは普段はともかく一つと決めたら頑固だし、あんたなんて論外。勝手に怒りを燃やして話を聞かないに決まってるでしょうが」
それは……確かに、その通りだ。
仮定と仮説が真実だったとしたら。その時奏太は間違いなく、藤咲華に怒りの全てをぶつけていたに違いない。
奏太たちの仲間を、戸松梨佳を殺したのは改変者なのだから。
「…………ごめん。そこまで考えてくれてたんだな」
「ワタクシの迷惑になるからってだけよ。勘違いしないでくれるかしら、下民」
彼女はふんと鼻を鳴らして、「話を戻すわよ」と瞬き。
「黒幕がなんにせよ、少なくとも現在わかっているのは、あまり出過ぎたマネをすると襲撃を受けるということ。これは不確定でなく、事実よ。HMAが関わってたっていう、『施設』もそれに含まれている可能性が高い。もし襲撃を受けたら、奪われるのは記憶か、あるいは命か」
既に四人。いずれも、何かの核心に触れたであろう人物たち。彼ら自身が失ったものと、それを受けた周りの者たちの傷は、そう簡単に割り切れるものではない。
そして、
「最初の話よ。命の方はともかくとして、前者の記憶は調べていた記録そのものがなくならなかったら、容易に復元可能だった。——いい加減、わかるわね?」
「…………あ」
その記録、とやらが指すのはこの場合ヨーハン邸。この便利なご時世にネットを使わなかったのか、あるいは特殊な方法で調べていたのか。いずれにしてもあの騒ぎの中で半壊になり、彼らが復元できなくなったというのなら、
「——保持する情報そのものの場所を変え続ければいい、か」
「ええ、そういうことよ」
つまりはこうだ。
会合で五人の情報を共有したことで、恐らくはこのまま『施設』を探すという目的に決まるのだろうが、そうなるといずれは奏太たちを消しに改変者が現れる。
ならばあらかじめ、消される前に記録をデータとして残しておき、誰かに渡すことで記憶を失っても問題がないようにする。相手からすれば終わりのないしらみ潰しであり、今打てる一番の手だ。
しかし、そこまで考えて気がつく。
「…………どうして、シャルロッテはこのことを俺に話したんだ? メモの理由はわかったけど、本来、エトの喪失は言わない方が良かったよな?」
そう。先ほどのシャルロッテの、『一つの考えに固執することで、思考が淀む』ことを嫌う発言を考えれば、奏太に話すのはむしろデメリットになりかねない。
自他共に認める真っ直ぐすぎる奏太の性質は、疑いの材料が揃えばこれだと一つの考えに決めてしまいかねない。先ほど口に出した、藤咲華が改変者と関与しているのではないかというのも、その一つ。
それにそもそも、聞かないままだったが、
「——どうしてシャルロッテは、喪失について調べてるんだ?」
無意識のうちに、声が震えていた。
今更彼女を疑うわけではないが、ひょっとすると。彼女の中に、奏太の知らない何かが潜んでいるのではないか。
ただ胸中に、不安を抱いて。




