第三章番外編⑦ 『青の空白/黒の世界』
——ラインヴァントに来たのは、もう半年以上前のことだ。
姉に話を聞いて、勧められて、そこからは特に手間があったわけではないので、すんなりと。
アジトには姉の親友であり、時々話す機会のあった梨佳もいた。本格的に彼女との交流が増えたのも、それからだったか。
「…………」
ソファにぐったりと体を預けながら、直上の空を見つめる。
暗い。街の人工的な光や、星や月、光源となるものはたくさんあるけれど、ずっと暗いまま。デバイスの有無など関係ない。
気分的な問題だ。夜になるとどうしようもない喪失感が襲ってきて、自ずと向き合わざるを得なくなる。
失ったものの大きさに。
脳を満たす、空白に。
「…………」
全ての歯車は、あの日に狂ってしまった。
だから——そう。
連続する不都合は当然の結果で、当然の過程。望んだ世界は最初から果てしなく遠く、手の届かない位置にあった。
星々の光が、今の希美の目には単なる暗闇の一部としてしか映らないように。
大事なものが欠け落ちてしまっているのだ。既に、この世界は。
いや、正しくは。
自分にとっての世界はもう終わっている、か。
「…………」
冷たい夜風が通り抜け、髪を揺らした。姉よりも少し色素の濃い青が、視界をチラつく。
さらに濃度が高い紺色の彼女は生を終え、彼女を慕っていた彼も意識を取り戻さない。これは本来、姉の望んでいた結果とは違うのだろう。
けれど今更、止まることはない。
壊れたものは、戻らないのだから。
「…………」
瞬きを一回。
視界が一瞬黒に塗り潰され、
「誰?」
横を見る。
敵意や殺意のような棘のある感覚ではない、単純な物音。
誰も立ち入らないような場所だ、扉が開けばすぐに分かる。見やれば、それが見知った人物であることも。
「——よ、希美。寒くないか?」
「…………奏太さん」
黒髪黒目の少年、三日月奏太。
同じ約束を持つ彼が、ぎこちない笑みを作りながら、現れた。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「こうやって話すのは、かなり久しぶりな気がするな」
「……うん」
実際は、たったの一週間ほど。
けれどそれだけ濃密な時間を駆け抜けたからなのだろう、と奏太は思う。
ブリガンテとの事件もあったし、奏太と芽空、シャルロッテはここ数日かなり忙しくしていた。だから希美を含めた皆が何を考えているか……とか。ゆっくりと考える暇もなくて。
だから、葵から話を聞いた時には驚いた。
みんな進んでいるのだ、前に。
そして、希美は。
「そうだ。何か飲むか? 一応お金は持って来てるから、いるなら——」
「ミルクティー、で」
「わかった、ちょっと待っててくれ」
即答かよ、もう少し躊躇とか……なんて言いかけた口は閉じることにして、自販機の方に向かう。
喉が渇いたから何かを買う、そんな当たり前のことすら懐かしい。
芽空とここへ来た時もやり取りはあったが、いざこうして落ち着いた心境でくるとそう感じてしまうものだ。
そして、だからこそ————希美を前にした瞬間、張り付くような焦燥感を覚えた。思い出した。
ただ、それを理由に奏太が足を止めることはないし、希美がこうしてショックから立ち直れていない現状を、どうにかしたいと思っていることは変わらない。
覚悟を決めるように息を吐き出し、手早く飲み物を購入。そのまま戻って、
「——お待たせしました。こちらミルクティーになります」
「……?」
少し気取った口調でミルクティーを差し出すと、表情に出さない困惑と疑問が、奏太を鋭く刺した。
「ああ、いや。……前にさ、蓮がこうして俺に飲み物出してくれた時があってさ」
「姉さんが?」
頷きつつ、座る。
初めてここへ来た時のことだ。
確かあの時は彼女はこう言っていた。
「前に手伝いで接客をやったことがある……とかなんとか。希美は知ってるんだよな?」
「うん。姉さんが、高校に、入る前。たまに、梨佳さんも、来てた」
「そっか。確か元々家が都心の近くとか言ってたしな……」
「私たちにサービスとか、してくれてた。バイトの人より、優秀だったから、お咎めもなしだった」
なるほど、蓮らしいといえば、蓮らしい。
梨佳ならそこに甘え、便乗して追加リクエストしそうなものだが、まあそれはさておき。
…………これは、奏太にそう見えているだけなのかもしれない。
「姉さんはいつも——」
普段は無表情の希美だが、蓮のことを話す時の彼女はどこか自慢げで、楽しそうだ。
梨佳といる時は口数も多かったが、それとは明確に一線を引いた絶対的愛情……とでも称すべきか。
むろん、だからと言って梨佳の死について何も思っていないわけではない、というのは、誰の目から見ても明らかなのだが。
「本当に仲良かったんだな。蓮と希美も…………梨佳も」
「……うん」
だから奏太が彼女から聞き出したかったのは、そんな本音。彼女が普段漏らさない感情を、打ち明けて欲しいと思ったのだ。
「希美にとってさ、梨佳ってどんな人だったんだ?」
「どんな、人?」
少し間があって、
「私が私でいられる人、だと思う」
その言葉には、納得せざるを得ない、と思う。
確かに彼女はそういう人物だった。普段のくだけた調子もそうだし、こっちが切羽詰まって八方塞がりな時だって、本音を引き出させてくれて。
「助けて、くれてたんだよな。いつも」
行動もそうだが、多くは精神的に。
そしてそれは奏太や希美だけではなくて、きっと他のメンバーたちも。
「……だからさ、あいつが欠けちゃダメだって思ってた。梨佳がいない世界なんて、幸せになんてなれないって。……情けない話だけどさ、寂しかったんだよ、俺は。もう話せないんだ、ってわかった時」
「……寂しい」
目を細めて空を仰ぐ奏太に、口の中で言葉を唱える希美。
両者に違いなどありはしない。同じ約束を持った二人だからこそ、梨佳の死がよりいっそう自身を苦しめる鎖となっているという事実は。
視線を戻すと、燃えるような朱眼と目が合う。その口は何度かの躊躇ののち、ゆっくりと開かれて、
「梨佳さん、は。…………多分、大切な人、だったんだと思う」
どこかぎこちないその口ぶりは、自分でもしっかりと認識できていなかったと、そういうことなのだろう。
「奏太さんも姉さんも、あの人が、大好きだった」
「……ああ」
そして、だからこそ。
認識したのならば、次に出てくる言葉は当然、
「——じゃあどうして、奏太さんは、前を向くの?」
彼女は、表面上は淡々とした調子で言葉を続ける。
「梨佳さんだけじゃなくて、オダマキさんも。あの人は、私を、守ってくれた。ボロボロの私を、かばって、アイに立ち向かった」
結果は、奏太たちが遭遇し、聞いた通り。けれどその姿勢は結果的に彼女の心に深い波紋と傷を残した。
「奏太さんは、私と約束を、したけど。でも、あの人は、そんなことしてない。それならどうして。どうしてあの人は、私を」
希美が早口になることは早々ない。ないから、わかる。
戸惑っているのだ。どうしたらいいのか、わからないのだ。
恐らくは多分、今までずっと蓮の背中を追い続けてきたから、オダマキを含めた奏太たちの行動が。
今までのように、ただ姉を正しいと肯定することは簡単だ。だが、その先、意味を理解するには足りないものが多くあって、少なくとも今の希美にはそれができない。
だから、
「もう、姉さんが望んだ世界は、作れない。壊れて、歪んだこの世界には、幸せなんてないし、なることもない」
ポツリポツリと呟いていった言葉の中にあるのは、果てのない暗闇。
ひょっとすると、彼女はこの事件——いや、蓮を失った瞬間からそう感じていたのかもしれない。
それでもと必死に繋いできたものが、梨佳とオダマキの犠牲で、音を立てて切れた。たったのそれだけ。
「だから、奏太さん」
瞳の奥の、透き通った無が奏太を写して、
「————どうして奏太さんは、生きてるの?」
泣いているようにも、笑っているようにも見えるその表情に、奏太の息は止まった。
ゆっくり言葉を飲み込み、理解していく。
彼女が言わんとしていることは何なのか、奏太が何を言うべきなのか。
……ここに来れて良かった、と思う。
ひょっとしたら、少しでも遅かったら、奏太はまた大切なものを失っていたかもしれない。
本来ならもっと早くに声をかけるべきで、今の今まで忙しさにかまけて行動に至らなかった自分を責めたい。
だけど反省は後回しだ。今は、目の前の少女。
美水希美に、三日月奏太は伝えなければならない。
「……俺は、ずっと考えてたんだ」
あの日の後悔。
過ちの始まりと、奏太の原点。
「世界を幸せにして、俺も幸せになる————それってどんな世界だよ。どうやったらそうなるんだよ。蓮がいない時間に、好きな人たちがいない今に何の意味があるんだよ、って」
希美が頷く。
奏太はゆっくりと、星空に手を伸ばす。
「——いつだって世界は俺たちの敵だ。都合の悪いものばかりで溢れてる」
「…………」
「傷つけて、傷つけられて、失って。そんなの、ひどいだろ。おかしいだろ。ワガママでもなんでも、好きな人を奪われるなんて、苦しいに決まってる」
下を見なくても、分かる。
希美は同じ痛みを抱えて、かつての奏太と同じ道を歩もうとしていた。あるいは、今も。
子どもだからかもしれない。
精神的に未熟だから、犠牲に耐えられなくて、手っ取り早くストレスから逃げようとする。
『獣人』だから、生まれた時点から過酷な運命を辿ることを決定づけられている。
「——けど」
奏太は否定した。
たとえ理不尽がこの身を焼いても。
できるはずない、無理だ分かり合えない、綺麗事だ。人間と『獣人』は交わることのない敵同士。滅ぶべきは人間で、そのための力を自分たちは持っていると。ならば行使すべきだと。
世界を支配し、自分たちを苦しめる人間どもに復讐すべきだと。
『獣人』は本来の生き方を、獣としてあるべきだと。
そう言った彼らの言葉を否定した。
現実にしてやると誓った。
だから奏太は、
「託されたものを受け取って、歩いていくよ。みんなのためにも」
「託された、もの?」
奏太が左手を掲げるように持ち上げると、めくれた袖から腕時計と『トランスキャンセラー』が現れる。
それはかつて蓮から渡されたもので、梨佳が崩壊したアジトで、最後までその手に持っていてくれたもの。
奏太は彼女らの存在を、彼女らの生きた日々を、無駄になんてしたくない。
「だって、みんなのおかげで俺は生きていられる。希美だってそうだろ? オダマキに助けられて、今ここにいる」
「それは」
「失われた過去は戻らないし、目の前のことを否定したって変わらない。それとも……希美は、あいつらが何もできずに犠牲になったやつらだって思うか?」
「…………思わない。思いたく、ない」
「じゃあ、俺たちができることは一つだ。——これからも生きて、幸せになる」
希美はぱちくりと瞬き、
「それだけ?」
「ああ。それだけだ。あいつらがやったことは間違ってなかったって、おかげで俺たちは笑っていられるって、そう証明するのが、あいつらにしてやれる唯一のことだ」
胸を張って、自信を持ってそう言ってみせる。
とはいえ、奏太がこんな考えに至るには、長い時間を必要としたけれど。
自分がもう幸せだったのだと気がつくには、一人じゃ無理だったけれど。
「——、どうやったら、笑っていられるの?」
俯いた希美の表情は、見えない。
わずかに震えた声は、聞こえないふりをする。
「したいことを見つければいいよ。料理のできる女の子になりたいとか、こんな職業に就きたい、とか。そんな希望でいいんだ」
奏太が人間と『獣人』を結びたいと思うように。
ラインヴァントの皆が、次々に自分の道を見つけて行っているように。
指針の蓮を失ってから、ずっと足踏みをすることしかできなかったのなら、彼女は、
「————自分の色を見つけてさ、ゆっくり、少しずつ。染めていけばいいよ、目の前の世界を」
希美の冷たかった朱眼が、小さな口が、大きく見開かれる。
……奏太だって、偉そうなことはそう言えない。記憶だけで言えば生まれてたかだか五年で、誰かに助けられてばかりの少年。人生経験なら、ラインヴァントの他のメンバーの方がよっぽど凄まじい。
けれど、あるいはだからこそ。
そんな奏太は、希美に言ってやれる。背中を押して、隣にいてくれる者たちがいるから。
そしてやがて、閉じた口は開かれて。
「……今の、言い方、姉さんみたいだった」
「え?」
「前に、姉さんが名前をつけてくれた、って話をしたの、覚えてる?」
「ああ、うん。確か……」
元々の名前は美水貴妃。希美という名前は蓮がつけた、ということだけは聞いている。
しかしあの時は結局、それ以上のことを彼女が話さなかったので、奏太も聞こうとしなかったのだ。
「私は、姉さんと違って、無愛想だから。昔、貴妃なんて名前は似合わない、って色んな人に、言われた」
それは、つまり。
「……いじめられてたってことか?」
こくり、と頷く。
忘れがちになるが、人間は『獣人』だけを拒んでいるわけではない。時には、人間と争い合う。その一例がいじめだった、と。
彼女が語るそれは、聞いていてあまり気分の良い話ではない。蓮に憧れ始めたのがその前と後ろ、どちらに位置しているのかは分からないが、どちらにしても。
……とはいえ、奏太の本心はそんなもやを言葉にしたものではなく、むしろ、
「俺は好きだけどな。貴妃って名前」
「——、どうして?」
「ほら、希美って見た目はクールだけど、中身は結構色々考えてるだろ?」
「…………?」
言葉の選択が悪かった。
少し考え、まとめて、
「お姫様やお嬢様って、見た目によらないし。少なくとも俺は、そうだった」
「————」
「だから中身がこんな子なんだ、って知った時、嬉しくてさ。色んな部分を好きになれるし、見せてくれたら安心できる。希美——じゃない。…………貴妃だって、それと変わらないだろ?」
言って、にっ、と笑みを浮かべる。
蓮が希美とつけたのは多分、彼女が美しくあることを希んだから。読んで字のごとくだが、蓮ならばそう考えるような気がするのだ。そしていつかは、自身の名に向き合えるように、と。
「奏太さんは、私の中身、わかってるの?」
「少しはわかってきたつもりだけど……実際、意外と知らないことばかりだよな、きっと」
「……うん。今私が、何を、思っているか、とか」
じっと目を凝らしてみる。
わずかに微笑んだ、ような気がする。いや、からかっている可能性がないわけでもない。奏太が今まで知らなかっただけで。だがそこまで計算して、実はそんなことは一切なくて——なんて、考えを巡らしても、
「わかった?」
「えっと……喜んでる、のか?」
「どうだろう」
とぼけているのか、それとも本気でわからないのか。それすらも奏太にはわからない。
まあ……多分、奏太の言葉通り、なのだろうと思うが。
「希美ってそう考えると、ノリが良いというかなんというか、だな」
「なんの、話?」
過去を遡れば、フェルソナの白衣に興味を持ったかと思えば、あっさりと捨てたり。食事の時なんて————、
「!?」
思考に割って入ってきたものに、驚きで飛び跳ねた。
「どうしたの?」
突然のそれにはさすがに驚いたのだろう、希美が声をかけてくるが、片手で静止。
原因は奏太の体でもなければ、彼女にあるわけでもない。
「……メールだ」
通知音は鳴らなかったとはいえ、希美との会話に頭が向いている最中に、突然そんなものが現れれば誰でもこんな反応になる。
一体誰かと文句混じりに宙を手で叩いて、
「な……っ!」
それ以上の衝撃が、弾くように全てを持っていった。
思わず、息を呑む。
どうしてこのタイミングで、という疑問はある。だが、何よりも。
————どうして今、梨佳からメールが届いたのか、ということだ。
何かの不具合で到着が遅れた? それともエトが何かをしてくれたおかげで、届かずじまいだったものが届いた? あるいは、別の誰かが?
困惑と疑問と動揺、胸の中がぐちゃぐちゃになるような感覚を味わいながら、それでも手を止めず、フォルダを開く。
長文だ。急いで書いたのか、所々に誤字脱字が見られるが————。
「……は」
「奏太さん、どうしたの?」
スクロールを繰り返して、繰り返して、内容に目を通していく。
奏太は思わず、笑い声を漏らした。
先ほどまでとは全然違う、心地の良い感情が全身を駆け抜けて、満たして、希美が心配して近寄ってくる程度には、感情が溢れだす。
涙は流さない。そう決めては、いるけれど。
————奏太へ。
まるで書き置きのように綴られたそれは、先日に届いていたメール——調べ物が終わったから学校に駆けつける、という写真の添付ファイル付きのものと、『改変者』の情報の二件だ——とは違う、紛れもなく彼女が書いたと思しき文章。
流れは至って簡単だ。
服は分けて配ればいいとか、いつも飯美味かったとか、学校やバイト先にはこう伝えてくれ、とか。アドバイスを含めた、事後の対処の仕方。
それから、ラインヴァントの各メンバーに伝えるよう、個別に書いてあるメッセージ。申し訳ないとは思いつつも、それらには目を通した。
所々に散りばめられた、雰囲気を重くさせないための茶化しの言葉。
基本的に重苦しいことが嫌いな彼女らしい。
そして、
————任せたぜ、奏太。
締めの一文。思わず、奏太は顔を手で覆う。
そこに込められたお姉さんの言葉に、先ほどまで保てていた落ち着きが、失われていく。力が抜けてしまう。
だって、梨佳は、ちゃんと残してくれていた。
メッセージが今どうして届いたのかはわからないけれど、今ここにあるのが、現実。
弱音なんてこれっぽっちも書いてくれないあのお姉さんは、最後までその役割を全うしていたのだ。
だから、彼女が言っていた言葉を思い出した。
奏太にだけ、教えてくれたあの言葉を。
それから、奏太が思い出さなければいけなかった約束を。
「…………なあ、希美」
初めて会ったあの日。
蓮と手を繋ごうとしたところに彼女はやってきて、その場の成り行きとはいえ、奏太と握手を交わした。
確かに言った。あの時、約束した。
思い出すように、幻聴が聞こえる。
あの日の彼女と、あの日の奏太の約束が。
——蓮のこと、よろしく頼むな。
——絶対に、幸せにします。
だから、ごめん。
だから、ありがとう。
「蓮を。絶対に、幸せにしないとな。それをあいつは————梨佳は、最後まで望んでたんだから」
空へ手を伸ばす。
何も掴めるものはない。強く握っても、空白がそこにあるだけ。
けれど、それでいい。
これは誓いだ。
梨佳と蓮と、希美に見せる、決意の証。
やるべきことはたくさんある。
書かれたメッセージをラインヴァントの皆に伝えておかなければいけないし、奏太も気分を落ち着かせなければいけない。
そして何より、届いたメールで、彼女に頼まれてしまった。
——希美を頼んだぜ。あいつをどうにかしてやれるのは、お前だけだから。
だから奏太は立ち上がる。
服の袖で瞳を拭い、振り返って、
「————行こう、希美」
「……どこへ?」
「みんなのところに。きっと待ってるから、俺たちを」
涙は見せない。
けれど、余裕たっぷりの笑みなんて浮かべられるほど、まだ奏太は強くない。
でも、強くなりたいと思う。
最後の最後まで背中を押してくれた、お姉さんのために。
みんなのところへ連れ出してやりたい、貴妃のために。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
黒を基調とした、仕立ての良い服。
身につけているだけで、気持ちだけでも社会的地位が上がったような気がする反面、それを打ち消し、むしろマイナスへと叩き落とすかのようなプレッシャーが、姿見を前にした奏太を襲う。
「……ミスったら怖いな」
怖い、どころの騒ぎでは済まないだろう。
今から向かい、行うのは、奏太自身の立場の証明。
世界を脅かしてきた『獣人』であることを明かし、その上でHMAに協力してブリガンテを倒した、『獣人』組織ラインヴァントの代表者だ——と、マスコミを通して世界に発表するのだ。
もう自分がどんな表情をしているのか、わからない。
少なくとも笑ってはいないと思う。いや、笑っていても引きつっているはずだ。それはもう、ひどく。
ミスを犯した結果、奏太の名誉とか地位とか評価とか、そんなものがどん底へ落ちるよりも、ヨーハンやシャルロッテ、『獣人』やその協力者たちの悪い評判に繋がらないかのほうが心配だ。
そもそもが綱渡りのような発表だ。結果は全てそのまま今後の生活に関わってくるわけだし。
——だけどしかし、それでも。
「……芽空。そっちの準備は?」
軽く頭を振って気分を入れ替えると、原稿の最終確認をしていたらしい芽空に声をかける。
「大丈夫だよー。そーたは……心の準備の方、大丈夫?」
……どうやら、先ほどの自分との戦いを見られていたらしい。
大丈夫かと言われれば、およそ大丈夫なはずがない。
しかし芽空は、
「怖がる必要ないよ、そーた」
「え?」
眼前の少女が消えたかと思えば、右手に触れた柔らかな感触と他人の熱。
小さく、けれど温かい。
「——もう、知ってるよ。私はそーたのこと。だから、失敗しても笑わない。私も一緒だから、ね?」
「…………そっか。うん、そうだよな」
深く息を吸って、吐いて。
何度か繰り返して、片手は使えないので左手で自身の頰をぺちぺちと叩く。
最後に横を向いて、芽空を見つめる。
まだ焦りは残っているけれど、それでも多少は気分が落ち着いてきて、ようやく周りが見えてきた。
隣の少女はこれまたいつもとは違い、華やかというよりは礼節のある綺麗めの見た目だ。
まとめた髪に薄い化粧、彼女にしては珍しいスーツ姿。一切焦りが見られないあたり、あまりにも頼もしく、落ち着いた相棒である。
隣に立つ者として、芽空に恥はかかせられないなと思う。
だから緊張は飲み込むし、それに——そうだ。
あまり装飾が多すぎるといけない、とのことで『トランスキャンセラー』やネックレスは携帯できないものの、アレは今、奏太が身につけている。
芽空に聞くところによると、元々それは彼女がラインヴァントに来てすぐに購入したものなのだという。心機一転とか、そういう目的で。
だからそんな装飾なのか、と納得した部分もある。
だから今、前を向けるのだと思う。
再度大きく、息を吸う。
目的を確認する。
自分たちは『獣人』。
けれど人間と争う気はなく、ともに手を取り合いたい。誰かがもう傷つけられることなく、失われることのない未来を。
ある者たちが望み、奏太は託されたから。誰かを孤独にし、歪めてしまう黒の世界を終わらせる。
そして、始めるのだ。
「行こうぜ、芽空」
「うん、行こう。そーた」
奏太の耳につけられたのは、『イルカ』のピアス。あの日、『トランスキャンセラー』とともに彼女の手に握られていたものだ。
今にして思えば、初対面の時にも彼女は——梨佳はこれをつけていたなと思う。
だから約束を果たしに行こう。
蓮を————世界を、幸せにするために。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
これにて第三章番外編締めとなります。
本編第四章の開始は1月3日を予定していますが、今回登場しなかったオダマキ、エト、フェルソナ、ヨーハンについては四章、あるいはその間におまけのような形で挟まれる話にて。
それとは別に、今回の更新で150話に到達しました。いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。
少し期間が空きますが、第四章もよろしくお願いいたします。




