第三章番外編⑤ 『ユズカとユキナ』
目の前が暗闇に覆われている。
体の半分が硬い何かに当たっていて、痛い。体勢を変えようとごろん、と転がると、冷たい地面が頰に当たる。
……冷たい地面?
「…………は」
ぱち、と目覚める。すぐに頭を襲ったのは鋭い激痛。
なぜ自分がこんなことに、と考えるが、激痛の奥に、ぼんやりと覚えている。
————さわらないで。
蓮と梨佳が連れて来たのだという姉妹。その姉の方に、全力で殴られたのだ。そこから先はよく思い出せないが、恐らく地面にそのまま倒れ、今の今まで寝ていた、と。
体を起こすと、ぽとりと丸めたタオルが落ちる。冷たい。今しがた変えられたばかりだろうか。
「ん……っ!?」
続けて来たのは、口内の違和感。
唇を含め、突然殴られたからか切れているところが多いのだが、その痛みとは別に妙な——そう、独特の酸味が広がっている。
いや、まさか。
いやしかし、よく思い出せば梨佳は言っていた。昼食がどうこうとかなんとか。殴られた部分は腹、揺れた臓器。口の中の気持ち悪さ。
ここまで材料が揃えば子どもでも分かる。
「……最悪、じゃないですか」
倒れた後か途中か、無様にも胃の中身をぶちまけたのだろう。
見渡してもその跡が見られないあたり、どこの誰が処理をしてくれたのかは知らないが、申し訳ない。
一瞬でついた決着とその結果、敗北という味と他者にかけた迷惑が、底冷えの気分にさせる。
と、そこへ、
「あ、あの…………」
白扉を開け、入って来たのは先の少女、震えていた妹の方だ。
慌てて葵は口元を隠し、立ち上がる。
「どうしましたか? この通り、ボクは怪我もありませんし……」
無様な敗北を見せて、今更取り繕ったって無駄なことくらいは分かっている。
だが、これ以上情けない姿を誰かに見せることは、他の誰でもない葵自身が許さなかった。
「皆さんはどこへ? 今あなたが入って来た、ということは部屋に? あなたはどうして戻ってきたんです?」
「え、えっと……」
つい早口になってしまったせいか、少女が慌てて目を回す。
葵は疑問を頭の中で整理し、言葉を選んで、
「失礼しました。少し、焦っていたようです。……あなたは一体?」
「あ、はい。わたしは、おねえちゃんのいもうと、です。その、レンお姉さん? たちにつれて来てもらったんですけど……」
首を傾げる。
妙な自己紹介だ。
「その、さっきはおねえちゃんがごめんなさい、です。おねえちゃん、わたしが危ないからって……」
「ああ、いえ。それは別に構いません。立場をわきまえていないとはいえ、姉ならば当然の行動でしょうからね」
もちろん、それは口だけで許してはいないが。
「あとあと、おねえちゃんがもうあめ食べちゃって……なんかたくさん、ごめんなさい!」
「それも構いません。それより——手当てをしてくれたのはあなたですか?」
地面にぺしゃりと落ちたままのタオルを指差す。
少女はそれに首を振って、
「リカお姉さんがやる、って。それで、えっと、わたしたちは外をあんないしてもらったんです。ごめんなさい、何もしないまま」
「何回謝罪するんですか、あなた」
「……え」
「ああ、いえ。責めているわけではなく。しかし、そうですか。梨佳さんが……」
彼女は分かっていたのだろう、こうなることが。
いや、分かっているから突っ込ませる、というだけの性悪な女性ではないはずだが、ここだけ見れば性悪そのものだ。
本来の狙いはここより先のはずだが、
「あ、あの?」
「……すみません、少し考えごとをしていました。ちなみにあなたはどうして戻って来たんです? 案内、ということは部屋に連れて行ってもらったのでしょう?」
葵への一撃の件でどういう処遇を受けるのかはさておき、アジトに連れて来た以上はここへ住ませる、というのが蓮や芽空の判断。となれば、当然この少女も部屋は決まったはずで。わざわざ一人で戻ってくるのも、無駄足以外の何物でもない。
「……えっと」
少女が口ごもり、葵はすぐにはっとなる。
自分はどうしてこんなことを聞いているのだろうか。
確かに気になりはするし、梨佳からも「仲良くしろ」とは言われた。
だが、それはあくまで形だけのものでいいはず。いちいち他人の心に踏み入るのは無駄なことだと分かっているはずだ。
どうしてなのか、答えが出るよりも先に、
「——わたしたちにやさしくしてくれたから、です」
心の底から安堵しているような、あまりに平和な笑顔。
何を言っているのだろう、彼女は。
葵はあくまで、目的のために姉妹に声をかけただけ。飴玉も、所詮は気を緩めさせるための道具でしかなかったのに。
「おねえちゃんも悪気があったわけじゃないんです。言わないんですけど、心の中では、たぶん……」
……それは。幸せな考え方だ。
あまりに危なっかしく、放って置けないほどに。
眩しくて、内心偉そうに考えを巡らしていた自分に舌打ちをしそうになる。
だが、同時に。
何かに納得しそうになっている自分がいた。何か、というのがいまいち分からないが。
「あ、そういえばその、聞きのがしちゃったんですけど、あなたの名前って——」
しかし、それでも。
そこから先の行動をどうすべきなのかは分かった。
「葵です。天姫宮葵。好きに呼んでください」
「は、はい! それじゃあアオイお兄さん!」
…………これは、あくまで利用するだけだ。
蓮たちに稽古をつけてもらう他に、この少女の姉からも強さを学んでみせる。そのために、葵は姉妹と接することにする。
自分が本来の才能を発揮すれば、どいつもこいつも最弱だ。だから利用されて後悔するなよ——と。
決して、情が移ったわけではない。
そもそもあんな本気で殴りかかってくる少女相手に情など抱くものか。この妹の方ならともかく……いや、そうじゃない。二人ともだ。
しばらくは、そう思うことにする。
「さ、あなたのおねえちゃんのところへ案内してください。色々とやることもありますからね」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
それから二週間。
休日か、あるいは平日の学校帰りか。アジトに立ち寄るたびに、葵は姉妹のところへ顔を出した。
とはいえ元々稽古のためにアジトへ寄っていたようなものなので、すぐに生活が激変したわけではない。
せいぜい、少なかった料理のレパートリーを増やす努力をし、彼女ら姉妹に夕食として振る舞ったりとか。あるいは、日々の会話相手が増えたこととか。
その中でいくつか分かったことがある。
姉妹はどうやら少し前までどこかの組織に属していたらしく、詳しい内容はわからないが、妹の方はそのことについてあまり話したがらない。
蓮と梨佳のような信頼に値する人物だととられたのか、最初に比べれば話してくれるようになった彼女でも、そこは難しいラインらしい。
それから、姉妹といえど、姉の飛び抜けた強さとは対照的に、妹の方に獣の力はないらしい。鳥仮面の男——フェルソナと言ったか、本人の言動も相まってかなり怪しい男だ——と本人がそう語っていた。
次に姉はというと、これがほとんど何も変わっていない。葵の前では大体唸っているか妹を近づけまいと遠ざけるし、一日に一回くらいは殴られている。理不尽すぎる暴力である。いや、彼女の警戒を知りながらも、近づく自分にも原因はあると思うが。
ただ、葵がいない場合は話が別だ。
最初はアジトでの生活に激しい抵抗があったものの、そこらで部屋を借りるよりもよっぽど整った設備のためか、数日後にはあっさりと陥落していた。
食事についても、葵がいない間にこれまた綺麗に平らげてくれる。随分と作りがいのある相手だ。……それだけで食らった拳を許せるわけではないが。
ともあれ、そんな感じで着々と側からみれば、それなりに充実しているように見える日常を送っていた。
二つほど、頭を悩ませている事項があることを除けば。
「まだ思いつかねーのか?」
「……当たり前でしょう。ボクがどれだけ優れていると言っても、親になった経験があるわけではないのですから」
「ぱぱっと決めちまえばいいのに。あーしらの稽古受けてーんだろ?」
「それとこれとは話が別です。適当に決めて良いものでもないでしょう、これは」
姉妹の自己紹介は受けた。
どちらが姉で、どちらかが妹か。対して葵も名乗ったし、あとは仲良くなって…………の前に。
妹と初めて話した際、妙な自己紹介をするものだ、などと思ったものだが、ある意味その感想は間違っていなかった。
何を隠そう、姉妹には名前がなく、血縁関係しか話せることがなかったからだ。
「しかし、それでもボクが名前を考える理由にはならないでしょう。言い出した梨佳さんが考えればいいじゃないですか」
「名前がないと色々困んだろ。名前呼ぶ時とか」
いや、それはそうだが。
妹さんとか姉さんとか、口に出すたびにどうしようもない違和感に襲われるが。
「それに言ったろ? あーしは最近忙しいんだよ。読モ始めたし」
「……昨日蓮さんとお父さんのところへ行ったと聞きましたが。思い切り遊んだ帰りとか聞いたんですが」
葵の父が店主と店員と広告を務めるケバブ屋のことだ。
「遊びも忙しいのうちだっつーの。……つか、これクリアするだけで稽古受けられるってんなら頑張れよ。男だろ?」
だけとはなんだ、だけとは。
妹の方はともかく、扱いが面倒な姉を押し付けられ、家事を手伝えと言われ、生活の支援のためにあれこれ買って来るよう頼まれ、挙げ句の果てに名付け親。人使いが荒いとかいうレベルじゃない。
だが、
「全く。約束は守ってくださいよ?」
「当ったり前だ。約束は破らねーよ。…………蓮はな」
「最後、何か呟きました?」
「んや、なんも。さー、行った行った。今日も一日あいつらのこと頼むぜ、お・と・う・さ・ん!」
そしてそのまま背中を強く叩かれ、笑い声とともに部屋から追い出される。
深く、息を吐き出す。
一体どうしてこんなことを自分はやっているのだろうか。
何かはめられているような気がしないでもないし、そもそもそんな手間をかけてまで自分が付き合う必要があるのかという疑問もある。
だが、あのピアスがきらりと光る読モのポニーテールが言うには、あとこれだけ達成すれば、ようやく稽古を受けられるのだという。
どこまで信用して良いものかはわからないが——まあ、そこまでの付き合いならいいだろう。
お父さんごっこも、それで終わりだ。
「……そうと決まれば、あの人のところですかね」
廊下を迷いなく進んでいく。
口ではああやって文句を言っていたが、別にあてがなかったわけではない。このアジトには、名付けのヒントになるであろうことを知っている者がいる。
別に彼女は、そういう目的で知識を得たわけではないだろうが。
……名前が決まったら、あの姉妹は喜ぶだろうか。
まあ、喜ぶだろうなと思う。
妹の方は人見知りこそあれ、基本的に人と関わりを持とうとするタイプだ。名前に素直な反応を見せてくれることだろう。
姉の方は——どんな反応をするか、わからない。いつものように嫌な顔をして殴ってくるかもしれないし、あるいは意外にも驚いたり喜んだり。それなら少し、ほんの少しだけ、見てみたい気もする。
「……って」
今、自分は何を考えていた?
たかだか二週間の付き合いだ。それだけの相手だ。名前をつけ終えたら関係を終える予定の姉妹だろう。情を抱いてどうする。
全く。気をしっかりと保たねば。
天姫宮葵は強い。周りの誰かに構うなど、時間の無駄でしかない。敗北など、あんなものはたまたまだ。
そう自分に言い聞かせて、再び歩き出した。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
食堂の扉を開けると、煮物特有のだしの甘い香りが飛び込んで来る。
次いで、鍋の煮える音。フライパンを動かす音。それから、薄青がそれらを慣れた手つきで操る姿。
薄青はこちらに気づいて振り返ると、
「あ、天姫宮君」
「おはようございます——蓮さん」
平日はともかく、休日の朝、この時間帯ならいるだろう、そう思って食堂に来たところ、予想はしっかりと当たっていた。
美水蓮。彼女は休日になるとこうして、アジトまでわざわざ足を運んで朝ご飯を作りに来ているのである。
というのも、どこかの自称お忙しいポニーテールや鳥仮面、他には芽空が朝ご飯は適当だったり抜いたり、放っておいたら一日中読書してたりと、色々と生活リズムが危ない者ばかりなので、蓮が心配して作りに来るようになったのだ。
「天姫宮君は朝ご飯済ませた?」
「ええ。ここに来る前、あの姉妹と一緒に。まあいつも通り妹はすらすらと、姉の方は唸ってばかりで食べなかったので、放って来ましたが」
とはいえ仮に食べていなくとも、彼女が言おうとしていたであろう「もう一人分くらいなら朝ご飯作るよ」という提案に乗る気はない。両親もそうだが、あまり他人に面倒はかけたくない。葵自身、他者とそこまで関わりたくないし。
「……あ。ひょっとして、私のところへ来たのってあの子たちのこと? って言っても、私あんまり事情を知ってるわけじゃないんだけど……」
「ああ、いえ。事情を知りたいわけではなく」
火を止め、盛り付けを始める蓮に、葵は話を切り出す。
「——名前について、少し相談がありまして」
「名前……ああ、梨佳が天姫宮君に頼んでたことだね。でも、相談って? 私あんまり名付けの経験ないんだけど……」
あまりということは過去にあるのだろうか。ペットか何かかもしれないが、葵が求めているのはその方面ではなく、
「前に花に詳しいと言っていたでしょう? 女の子の名前ならば、花を用いたものが良いかと思いまして」
「そっか、確かに可愛いもんね」
うんうんと頷く蓮。
実際は彼女に聞くよりもデバイスで調べたほうが早いが、元々葵はそこまでネットが好きではない。
情報を得るために楽な手段を取りたくないというか、なんというか。いまいち形になっていない理由ではあるのだが。
それに、生まれ持った体そのものを保ちたいという『トランサー』の思考にも共感していることだし、と。
「花言葉も考えるのかな? 私も全部覚えてるわけじゃないから、アドバイスできないこともあるけど……」
「いえ、わかる限りでも十分にありがたいです。こちらこそすみません、色々と」
「いえいえいえ。こっちこそごめんね。梨佳が色々と任せちゃって。私がやるっていうと止められるし……」
葵の負担が多いのはそのせいか。
いや、その申し訳なさそうな表情を見る限り、蓮は嘘をついていないのだろうし、かといって梨佳の愚痴として言葉に出したりはしないが。
「二人の今の性格から考えたりとか、将来どんな子になってほしいとか、天姫宮君の希望はある?」
「ええっと……」
そこまでは考えていなかった。
というか、将来どうなろうと葵には関係ない気もする。別にこれだけの縁だし。
だが……だからと言って適当に決めるのは、あの子たちがかわいそうで、失礼だとも思う。それだけはしてはいけないと、思う。
「あ、そうだ。私、花言葉が載ってる本持ってるけど、読んでみる? それなら私がいない時にも考えられるし」
「借りられるのであれば、ぜひ。まだ色々と悩んでいる段階でして」
「悩んでる…………」
盛り付けを終えた蓮はそのまま調理器具を洗い場へ、水を出して——ぴたりと動きを止める。
「どうしました?」
「……ううん、なんでも」
どういう理由からか、ふふっと笑った蓮は、そのまま何事もなかったように洗浄を始める。
何か変なことを言っただろうか。
「すぐ洗うからちょっと待ってね。梨佳に貸してたから、朝ご飯運ぶついでに返してもらってくる」
「いえ、貸してもらう立場ですし、よろしければボクが」
「いいの?」
「ええ。何かとお世話になってるのもありますしね」
そう、蛇口の壊れた水道のように溢れていた『トランス』の力を、葵が抑えられるようになったのは、彼女のおかげなのだ。
その研磨に関しては姉妹の一件もあって、主に梨佳のせいで先延ばしにされているが、今現在葵がHMAに狙われることなく無事でいられるあたり、蓮には頭が上がらない。
梨佳は……やたら話しかけてくることしか記憶していない。下げる頭もない。
「では、しばらくお借りしますね」
「ごめんね、天姫宮君。あの子たちのこともだけど、ありがとう。返すのはいつでも大丈夫だから、また何かあったら遠慮なく言ってね」
綺麗に並べられた料理の数々に、感心という意味で息を呑みつつ、葵は部屋を出ていく。
途中、梨佳の部屋に寄って朝食と引き換えに本を受け取りつつ。
廊下を歩きながらパラパラと本をめくっていく。
「パキラにアネモネ……」
花言葉はそれぞれ、快活と期待。意味的には良さそうだが、人の名前に使うにはやや硬すぎる気がしないでもない。
まためくる。
「アルストロメリア……なんかかっこいい響きですね」
ではなく。
別にかっこいい名前を知りたくて読んでいるわけではないのだ。
また一ページ、めくろうとして、
「————アオイお兄さん!」
突然の叫び声に、思わず肩を震わす。
それから間髪入れずに、曲がり角からここ二週間、毎日顔を合わせている少女が飛び込んできた。
慌ててぶつかりかけたところをなんとか止め、
「ど、どうしたんです?」
本を閉じて見やれば、息は絶え絶え、額に汗を滲ませる妹。
明らかに普通の様子ではないし、彼女がここまで焦っている姿を、ここ二週間で葵は一度も見ていない。
息を吐く暇もなく、妹は息を吸って、
「お、おねえちゃんが——たおれたんですっ!!」
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
ベッドに横たわる小さな体。
それは普段の生命力に満ち溢れたものとは大きく異なり、ぐったりと重力に身を沈めていた。
「ん…………ぐぅ」
顔を苦痛に歪め、呻き声をあげる姉。
姉妹について、部分的に分かっていることを当てはめていけば、彼女のそれは極めて当然のものだった。
いや、むしろ。
遅すぎる反応だったのかもしれない。
「あ、あの。おねえちゃんは……」
「大丈夫、とは言い切れませんが、熱が冷めるまではしばらく安静にしないといけませんね」
妹に——あるいは自分にそう言い聞かせるように、軽く頭を撫でてやる。
その感触は、男の葵でもはっきりとわかる程度には傷んだもの。
どれだけ技術が発展していようとも、たった二週間程度で彼女たちのこれまでを否定することはできない。
たとえば今触れた髪。
たとえば彼女たちの住居。
たとえば彼女たちの生活全般。
あくまで断片的なものを繋いだに過ぎない、けれど限りなく確定に近い理由。
————姉妹はこれまでおよそ健康とは程遠い生活を送っていて、それがここ二週間で一気に改善された。全ての理由はそこにある。
要は、急な環境の変化に体がついていっていない、ということだ。
妹の方も同じ状態になってもおかしくないだろうが、姉はそれに加えてもう一つ。
「……妹さん。申し訳ありませんが、このことを蓮さんたちに話してきてもらえますか?」
「あ、はい!」
どうしていいかわからなくなっていた妹に指示を出し、その姿を見送る。扉を開けて、駆けて、途中で閉め忘れたことに気づいて戻ってきて、閉めてまた駆けていく。
はっきりとその光景は目に映っているのに、果てしなく遠く、ぼんやりとしていた。
視線を戻す。眼下の姉。
彼女は葵の存在にも気がついていないのだろう、ただの少女のように、いつもとは違う様子で…………ああ、クソ。
分かっている。そんなこと。
「ボクがここに来ていたせいで、あなたは……っ!!」
どっかりと椅子に座る。
たまらなくなって、何かにこの怒りをぶつけたい気分だ。だが、そんなことをしてどうなる。目の前の状況は変わらず、姉は体調を崩したまま。
葵が見ていた彼女の「いつも通り」は、葵に対して警戒し、気を緩めない状態。そんなものを毎日続けていたら、環境の変化も相まって体調を崩すに決まっている。
いずれは起きていたであろう崩壊。けれどそれを早めたのは他でもない葵だ。
——じゃあ、最初から姉妹に関わらなければよかったのか。放っておけばよかったのか。今後、近づかなければいいのか。
「——あ、た」
思考を破る声。
弾かれるように姿勢を起こした葵は、慌てて姉を見つめる。
「気がつきましたか?」
「あた、シ…………」
否。目は開いているが、焦点があっていない。覚醒しているとは言い難く、本人にとっては恐らく夢の延長線上だ。
「アタシが、守ら、なき……ゃ」
妹のことだろう。
夢の中でもそんなことを考えているのか、この少女は。
そのせいで自分が苦しんでいることを知らないのか。馬鹿か、いや馬鹿だ。
警戒するなら警戒するで、一発どころか何発でも、もっと葵を痛めつければ良かったのに。葵が作った食事なんて食べないで、投げつければ良かった。何度も何度もそんなことをされれば、さすがに葵だって寄り付かなくなる。そうしていれば、彼女の大好きな妹に寄り付く者はいなくなる。戦うこともなくなる。自分が無理しなくても、いいはずなのに。
じゃあ、どうして。
どうしてこの少女は、葵を牽制程度にしか突っぱねなかった。そもそも姉妹が荒れていたというのなら————。
——ああ、そうか。
「似た者同士なんですね、あなたたち姉妹は」
やっと分かった。
本質的に、他人と距離を置けないのだ。
姉も、妹も。あるいは、葵も。
口だけで、表面上だけで取り繕っても、隠すことはできない。
だからこの結果になったのだ。
それなら、葵がすべきことはなんだろう。
これからは彼女たちに近づかないことだろうか。それとも、今の距離を保ったまま、これからも姉に警戒されたままの日々を送ることか。
答えは否、だ。
「アタシが……」
手を伸ばして、一瞬の躊躇。すぐに振り切って、彼女の髪に触れる。傷んだ髪が時折チクチクと刺してくるが、構わない。
優しく、温度を伝えるように撫でる。
「…………ん、ぅ」
気になるのか、力のこもっていない手で払われそうになるが、その手は触れることなく落ちる。
彼女にとってこれは夢だ。起きたら忘れてしまう、ひとときの夢。
けれどその中で、安心できているのなら、どうか。
「……大丈夫です。ボクが守ります。あなたの妹も、あなたも。だから安心してください」
起きた後も戦わずに済む。いつか、そんな世界を作るから。
夢を現実にしてみせるから、その時まで待っていてほしい。
「ボクが本当に強くなって、あなたを迎えに行くと約束しましょう。あなたが受け入れてくれるかは分かりませんが、ね」
それは交わることのない、一方的に交わされる約束。
諦めと決意と、謝罪と感謝と、形の定まっていない熱い感情とがごちゃ混ぜになった、誓い。
しかし、と葵は思う。
確かに力になってあげたいとは思うし、嘘はこれっぽっちも含まれていないのだが、どうして妹だけでなく姉の方にもこんな気持ちを抱いているのだろう。
いや、厳密には何か違う気持ちだ。上手くは言えないが、そんな気がする。
そしてそのきっかけは——多分、今よりもしばらく前。どこで目覚めたのかは、やはりと言うべきか覚えていないのだが。
と、晴れない記憶のもやに首を傾げていたところ。
「お、っと」
ベッドのそばに置いていた本が、姉の寝返りで落ちそうになる。
寸前でキャッチ、直後、
「…………そうだ、名前」
パラパラとページをめくっていき、目的のものを探す。
一つではなく、二つ。
決めかねていた答えはもう、出た。
「……決めましたよ。あなたたち姉妹の名前を」
聞こえていないだろうが、笑みを浮かべて葵は姉に語りかける。
元気になった時、妹も集めて語ってやろう。由来については、色々と片付いてからだが。
さあ、そうと決まれば蓮に報告だ。何かを忘れている気がするが……まあ、いいだろう。
まずはぬるくなってきたタオルを変えて、おかゆでも作ってやろう。汗を拭くのは女性陣の誰かに任せて、それから————。
どちらも今は似合わなかったり、遠かったりする名前。
けれどいつかは、姉妹揃って自分の色を見つけられるようにと願って。
天姫宮葵は、本を閉じた。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
柚子の花と書いてユズカ。
その花言葉は「汚れのない人」、「健康美」。それから、「恋のため息」です。
ユキナの方ははやや分かりづらく、
雪の雫、スノードロップ。
花言葉は「希望」「慰め」で、どちらもいずれはこんな子になって欲しい、という願いから葵は名付けました。
ユズカに「花」がついているのは、姉として先に花開いて妹を引っ張っていく…といった感じです。
葵の言った通り、そんな女性になるには、まだ長い時間を必要としますが。
補足でした。




