第三章番外編③ 『わたし色の空』
ユキナは空色の瞳を揺らしながら、続ける。
「その、私はあんまり、シャルロッテお姉さんのお仕事を知りません。で、でもっ、ピアノってお仕事とは関係なさそうで、お姉さんはどちらかというと社交ダンスとかのイメージ……じゃなくて、えっと…………」
「ふふっ」
思わず、吹き出した。
確かにシャルロッテの持つ本来の仕事とピアノは異なるし、接点と呼べる接点もない。社交ダンスも過去に教えてもらったことがあるため、今ではそれなりに好きで得意でもある。
しかしよりにもよってそれを口にするとは。それに、
「別に、ある程度は趣味でもピアノやる人いるわよ? というか、その方が多いわね。まあ、ワタクシはちゃんと理由があるけれど」
ただの偶然だとは思うが、ひょっとするとシャルロッテの根底に——ピアノに始めた理由に関して、何か感じ取ったのかも知れない。
自分と彼女は似ているから、という理由だけでは難しいかもしれないが。
けれど、少しだけ。
何となくその可能性が頭をよぎったせいか、話す気になった。
「…………今から話すことは内緒よ?」
声を落として、建物の影に。
壁にもたれながら、シャルロッテは語っていく。
「ワタクシの家、フロイセン家がどういう立場にあるかは知っているかしら?」
「えっと……すごい家、とは知っているんですけど」
「アバウトね。まあ、おおよそそれでも合っているわ。……規模が違うとはいえ、この家とは長きに渡って友好的な関係を結んできた。『ノア計画』やデバイス関連も、こことの共同開発によるものが多いわね」
と言っても、実際はその規模の関係から、割合がかなり偏っているのだが。
「先代のヴィオルク、つまりルメリー……じゃない、芽空やヨーハンの父も例外じゃなくてね、パーティーにもよく招かれたわ。もちろん大人だけじゃなく、ダンスなんて踊れもしない子どもも一緒に、ね」
瞳を伏せる。
その記憶は埃に埋もれているわけでもなければ、鍵を閉めて閉じ込めているわけでもない。少なくとも今は、そうだ。
シャルロッテという少女の始まりを思い出せば、すぐに見つかる。
「——ワタクシがそこで出会ったのは、宝石みたいにキラキラ光ったお嬢様。話す言葉も、動きも、一つ一つが輝いていたの。ワタクシは見ているだけでも胸がいっぱいだったのに、その子に手を引かれたのよ」
彼女はとても美しかった。
話す言葉は朗らかで快活、けれど動きも含めてどこか気品があって。
ひどく、憧れた。
「じゃあシャルロッテお姉さんは、その人のようになりたいって……?」
「一時期は、そうだったわね。でもそれは、ほんの一瞬。すぐに負けたくないって気持ちがやってきたわ」
別に最初から憎いとか、怒りとか、嫌いとか。そんなものを抱いていたわけではない。
ただ彼女と共に話し、遊んでいて、自分はこのままじゃいけない。手を引かれるだけじゃなくて、隣に行きたいってそう思っただけ。
「ワタクシはあの子の……ルメリーのような美しさが欲しかった。他の何かだと、たったの数年では追いつけないと分かっていたもの」
「ルメリーって、メソラお姉さんのこと、ですよね」
「ええ。本名がプルメリア・フォン・ルクセン。その愛称ね。……それで、そんなあの子の隣に行きたくて、ワタクシは自分を磨こうとした。そしてたまたま目に入ったものがピアノだった、と」
一度言葉を切り、
「もし、近くにあったのがピアノ以外だったら、そっちに進んでいた可能性もあったわね。重要なのは美しくなれるかどうか、だったもの」
話が逸れかけたので、最後はやや早口になりつつ、締める。
そういえばどうして古里芽空なのか、本人に聞き忘れていたなと思い出すが、まあそれは後に回すとして。
「……だから憧れる人、じゃなくて自分の理想像って言ったんですね」
「当時憧れはあったけれど、そのものになったって仕方ないもの。あの子にはあの子で、欠点もあったしね」
そして、それを知っているからこそ。
ユキナにシャルロッテが通ってきた道を通れ、などとは言わないが、どうやって道を見つければいいのか、そのくらいは教えてあげるべきだと思うのだ。
我ながら、甘い考えだとは思うものの。それでも。
「ユキナ。あんたは今持ってる、そのカメラを通して世界を見なさい」
「カメラで?」
「ええ。足りないもの、知らないことを見て、その中で自分はどうしたいのか、どうありたいと思うのか。素材はそこら中にあるから、探してみるといいわ」
それは被写体や風景に限った話ではない。閉じこもってばかりでは見つけられないものがあり、逆に一人で自己を研磨していても分からないこともある。いや、あった。
その点ユキナは……迷いはあれど、綺麗な瞳をしている。彼女なら素直に真っ直ぐ育ってくれる、そんな風に思えるから。
「——、何なら、ワタクシの仕事の手伝いをしてみても良いかもしれないわね。外出することもそれなりにあるし、今のうちに上流を知っておくのも悪くはないわ。あんたにやる気があるなら、だけれど」
「え、でも……」
視線を彼女から逸らして、
「ああ、言っておくけれど、ワタクシは嘘が好きじゃないの。必要な場合を除き、言うのも言われるのも、ね」
別に、情けで言っているわけではない。寂しいとか、そういうものとも違う。
ただ何となく彼女とは気が合いそうだ、と。そう思っただけで、他意はない。
再び彼女を見つめると、一体どうして急に勧誘を受けたのだろう、と言わんばかりにあたふたしている。まあ、説明不足も甚だしいのでそうなるだろうとは思うが。
くすっ、と笑みを浮かべる。
「分からないなら分からない。そう言えばいいのよ。別に、答えるのは今じゃなくていいんだから」
「あ…………それじゃ、えっと。分かりません」
「自分の意見がどんなものであれ、持っていても口に出さなければ意味がないんだから。覚えておきなさいな」
「は、はい!」
仮に彼女が手伝いに来たら、こんな感じなのだろうか、と思う。
そして同時に、いつの間にかここ数年張り詰めていた気が抜けているな、と気がつく。
それは多分、この一週間の出来事のおかげなのだろう。
ユキナもそうだし、下民こと三日月奏太や古里芽空。彼女たちと出会い、あるいは再会したから、自分にもまた新しい風が吹いている。
「…………ルメリー、か」
「え?」
「何でもないわ。さ、行くわよ。時間は有限、やることも見ることも山ほどあるんだから」
ユキナの手を引き、陽の下に出る。ふいの眩しさに目を細め、けれども足は止めない。
らしくないとは思いつつも、これもまた悪くないなと笑みを浮かべながら。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
結局葵が諸々の用事を済ませて帰って来た頃には、すっかり陽は落ち切っていた。
さすがにこの時間帯にもなれば仕事もひと段落がついたのか、邸内にちらほらと見られた忙しさはもうない。そしてそれは使用人に限った話ではなく、
「皆で一緒に……ですか?」
部屋近くで待機していたらしい使用人の話によれば、ここ数日忙しくしていた芽空や奏太、ヨーハンたちの方もようやく時間が作れるくらいに落ち着いたのだとか。
それで、せっかくだから皆で一緒に夕食でもどうだろうか…………というお誘いが来たのである。
別に断る理由もないので、了承。
ベッドに腰掛け、一息吐く。
時計を見やると、
「……まだ時間がありますね」
時刻はちょうど十七時を回ったところ。せいぜい一時間程度だが、空き時間ができた。
平日ならば学校の課題を、アジトならば家事を、というのが葵の習慣だったので、生活のほとんどの負担を無くしてもらえる客人という立場は、なんとも困るものである。いや、助かるのは助かるのだが。
持ち出していたもの以外はアジト襲撃の折に燃え、あるいは紛失したために、手元にある——既に何十と予習復習を繰り返した——教科書と本しか時間を潰せるものがない。
先ほど外へ出たタイミングで、参考書でも買ってくるべきだっただろうか。ネットはあまり趣味ではないし、食事前に運動をするのもあまり好ましくない。
ならユズカと、今日はまだ顔を合わせていないユキナの様子でも見に行こうか……と立ち上がろうとして、ドアが開いた。
「おや、こんばんは。ちょうど、今から行こうとしていたところです」
「ん、そーなの? アタシ部屋にいなかったけど」
目の前を、尻尾のような一つ結びが揺れる。開いたドアから現れたのはユズカだ。
葵は彼女の言葉に妙な引っかかりを覚え、
「まさか、今の今まで皆のところを回っていたんですか?」
別れてからもう何時間も経つが、「部屋にいなかった」ということはその可能性が高い。
対してユズカは「んー」と首を傾げると、
「みんなの方はそこそこすららって終わったよ?」
「そこそこがどの程度なのか気になるところではありますが……じゃあ、その後はどこに?」
「絢芽のとこ!」
「……あの子、ですか」
今後どうなるかはともかく、非戦闘員の一人である絢芽。彼女は『シマリス』の『トランス』に目覚め、その使い方に関して悩んでいたが……だからこそ、ユズカと気が合って、話し込んでいたというのだろうか。
楽しげに名前を呼んだユズカを見るに、確かに仲は良好と見える。だが、
「……話したんですか。彼女にあなたのことを」
数秒の沈黙を挟み、
「……うん。全部、話したよ。そしたら、なんかよくわかんないけど、抱きつかれた」
「それは……確かに、よく分かりませんね」
ユズカの事情を聞いて、予想できる反応はおおよそ二つ。その一つは、実情はともかく、ブリガンテの武器として戦っていたユズカへ恐怖を抱くというもの。
それからもう一つは、絢芽のような立場——ユズカの味方になってくれるというものだ。ただ、抱きつかれたというあたりがよく分からないのだが、愛情表現だろうか。
「ちなみに、他の方には?」
「絢芽みたいにアタシの話はしてないけど、ごめんなさいはしてきた! アタシたちがみんなの家を無くしちゃってごめんなさい、って」
聞いた者のうち、半分くらいはその意味を理解しておらず、残り半分くらいは勘違いしてしまっていそうな文面である。
しかし、そうか。
彼女は彼女なりに自分にできることを、やらなければいけないと思うことをやってきたのだ。
多分、意思を固めたからと言って、すぐ話せたというわけではないと思うけれど。
「それでね、アタシ思ったんだ。ごめんなさいだけじゃなくて、これからも色々と、みんなのこと助けなきゃって」
鼻から息を吐き出し、気合いを入れるユズカ。その表情には自分を追い込むような、独特の重苦しさは見られない。
ならば葵も、止めない方が良いのだろう。
代わりに、
「その抱きしめられたという絢芽さんとは、どんな感じだったんですか?」
「へ? あー、えっとね。絢芽って色んなこと知っててね、色々教えてもらってきた!」
随分とアバウトな説明である。
身振り手振りと言葉の調子が、充実していたと説明してくれてはいるが。
「弟の方は全然話せなかったけど、絢芽ってすっごい話しやすくてね、もややーってしたのすぐなくなってね、それで」
「…………仲良くなれそうですか?」
「うん! てかてか、もう仲良い!」
それは間違いなく、向こうがユズカの事情を聞いてなお、素直に受け入れてくれたことが大きいのだろう。
感謝しなければな、と思う。
既に仲が良いと断定しているあたり、ユズカの方は不安たっぷりだし、果たしてどっちが年上なのか分からないが。
「あー、それで」
と、事情も知れたところで、わざとらしく咳を挟んだ。
きょとんとするユズカに葵は言う。
「朝言っておいたことは覚えていますか? ボクの呼び方について。まさかとは思いますが……」
「んと。えーと、それなんだけど」
忘れていないだろうか、と言おうとしたところで歯切れの悪い返事が返ってくる。なんだろうか、まさか本当に忘れていたのだろうか。
「……」
そのままじっと見つめていると、次第に彼女がそわそわとし出した。部屋の中をウロウロちょろちょろ、何故か枕を投げてくる。顔に当たりかけたそれをギリギリでキャッチ、投げ返す。
「…………ん」
「は?」
小さな呟きと、再び枕。今度は速い。しかし当たるわけにもいかないのでやはりキャッチ、投げ返す。
「——葵くん!」
そして再び————顔面に、食らった。
しかしそれも構わず、ぽかんと口を開けてユズカを見つめる。
「む、なんか変だった?」
「あ…………いえ。その、ですね。もう一度だけ呼んでもらえますか?」
「やだ」
「それじゃ意味ないじゃないですか」
我ながら、何を言っているのだろうと思う。
だが。目の前には顔を赤くした少女がいて、その口から自分の名前が呼ばれることに喜びを感じている。呼んでほしいと、思っている。
葛藤しているのだろうか、「ぐぐぐ……」と唸り声のようなものがしばらく続いて、
「…………葵くん」
「——っ」
直後、多幸感が脳天を突き抜けた。
思わず咄嗟に枕を拾い上げ、顔を埋める。
「どったの?」
「……いえ、特にどうもしていません」
嘘だ。どうかしてる。
言葉に出来ない熱情が胸から登ってきて、瞳が熱い。今枕を手放せば、口から無数の言葉が溢れ出そうだ。早く平常心に戻らなければ、そう思う反面この幸せに浸っていたいという自分もいて、いやしかし、
「……その、変だった?」
「え?」
枕から顔を上げる。
「絢芽からそう呼んでみたら、って言われたんだけど。アタシもいいかなって思って決めて、でもでも変だったら変えるけど。……そもそも、アタシがそーいうの、似合わない気がするし」
葵の思考を裂く、不安に染まった声。
確かに、その不安はごもっとも。「葵くん」は彼女には似合わない、たどたどしさの残る響きだ。それなら呼び捨てや「みゃおみゃお」の方がよっぽど似合っている。
だが、それでも。
「——全然。変じゃありませんよ」
枕を手放し、向き合う。
「葵くんって呼んでください。ユズカがそう決めたのですから、ボクもそう呼ばれたいです。というか、呼ばれてかなり嬉しいです」
「ほんとに?」
「本当の本当です。好きな子に名前を呼ばれて、嬉しくない人がいるもんですか」
感情そのままに言葉を発しているため、もはや自分でも何を言っているのか分からない。ただ映るのは、目の前の少女のみ。それしか、視界に入れたくない。
「……もしかして、へんたいっていうのなの?」
「誰が変態ですか。恋をしている人は、みんなこうなんですよ。ボクや……奏太さんも」
「そういう、ものなんだ」
本当に二人揃って、らしくない。
普段ならもっとぶつかり合っていて、実際数日前はその通りだったというのに。葵は本音をなかなか言わなくて、ユズカは恋愛のれの字も知らない少女で。男女の仲になど、なれるはずもなかったのに。
一歩、二歩、進んでユズカの手を掴む。
そして抵抗を許さぬまま、その体を引き寄せ、耳元で囁いた。
「…………改めて言いますが——ボクはあなたのことが好きです、ユズカ」
「え。あ、ええと、あう」
告白を受けた当人は、口をパクパクとさせたまま、まともな言葉を発せていないが、それでも。
「それで、今ボクも死ぬほど恥ずかしいですが、一つだけお願いがあります」
「あ、アタシは」
「……もう一度だけ、呼んでくれますか?」
抱きしめている体が柔らかくて、思っていたより女の子らしくて、甘い香りがして、熱い。全身が茹でられているかのように、温もりで溢れている。
多分きっと、自分も今とんでもない表情で、赤くなっているのだろうと思う。でもそんなの当たり前だ。好きな子を前にして、こんなことをしているのだから。
「あ……あお…………」
胸元で震えるような声は小さく、言葉など忘れてしまったかのように連続して出たり戻ったりする。普段の素直なところももちろん好きだが、恋愛沙汰には疎かった彼女の、こんな意外な反応も好きだなと葵は思う。
今の自分の表情は誰にも——いや、彼女一人だけにしか見せたくない。それだけの喜びが、頭を支配していて。
そして、ゆっくり、すぅっと。
息を吸い込む音が聞こえたかと思えば、
「————葵くん。アタシはまだ恋とか分かんないから、えっと、これから……おしえて、ほしい」
数秒、息が止まる。
色々と落ち着くには時間が足りなさすぎて、けれどそれでもくすりと笑いが漏れた。
どこかのお姉さんはここまで計算していたのかもしれない。喜ぶと分かっていて、ユズカに「みゃお」と教えたのかもしれない。都合の良過ぎる考えだが、もうそれでいいとさえ思う。
だって今こうして、自分は、すごく幸せだ。
誰かに名前を呼ばれるなんて、これが初めてじゃないのに。たった五文字。それだけで、それだけの効果を持った、脳が蕩けるような甘い響き。
少しだけ、力が強まる。
「歩いていきましょう。ゆっくりと……二人で」
——かつては王の名を冠し、力を振るっていた少女。彼女から戦いを奪ったのは、他の誰でもない天姫宮葵だ。
HMAやブリガンテ、あるいは別の脅威に対し、もう彼女が戦う必要はない。犠牲になる必要も、誰かを傷つけることも、もうないのだ。
これからはずっと幸せでいられるのだろう。きっとユズカも、彼女を愛する葵も。
こちらを見上げる、空色の瞳。
離したくない、と思う。
「ちょ、いた。くるし」
けれど、分かっている。
ずっと続く平和なんて、あるはずがない。
でもせめて、出来るなら、やがて訪れる終わりの時まで、こうしていたい。
「みゃ……おいくん、痛いってば!」
そんなことを考えていたからこそ。
葵が抗議の声に気がついたのは、それからしばらく経ったあとのことだった。
……ルクセン家の別荘は本邸と比べれば多少の見劣りはあれ、やはり広い。
清潔で快適な環境を維持し、当主や客人が仕事などを円滑に行うために多くの使用人がおり、敷地内の内装はそこらの家庭とは比べ物にならないほど豪華だ。
しかし、だからと言って、一室につき一人のボディーガードがいるとか、客室は何枚もの厳重な扉で守られているとか、そんなことがあるわけではない。
だから例えば、たまたま早く帰ってきたので皆のところを回っていた、なんていう少年がたまたま通りかかれば、扉一枚。少し開けただけでもやり取りは聞こえてしまう。
「……ごめん、葵」
そのまま百八十度回転、罪悪感を胸に早足で立ち去っていった者がいることを、葵もユズカも知る由はない。




