第三章番外編① 『育ちゆく芽たち』
じり、じりりり。じりりりりりり。
デバイスのアラームが起床時間を知らせる。
寝ぼけ眼をこすりつつ、宙の——仮想画面に手を触れ、もう不要だとウインドウを閉じた。
昔は『トランサー』だのなんだの、デバイスを使うだの使わないだのとこだわっていたものだが、何かと物がかさばらなくなるというのは意外と良い。
いつものようにそのままベッドから体を起こし、その場で軽くストレッチ。
腕、足、腰、首。まだ寝ぼけている体の筋肉をほぐしつつ、ぼんやりと考える。
……それにしても、本当に大きい家だな、と。
ここへ来てから今日でちょうど五日目、最初の休日である。
例の事件があったとて、自分たちは学生だ。動けないほどの傷は負っていないのだから、学校へ行くのが義務だ。
それに奏太も「お前らはちゃんと行ってくれ。……というか、何日も休んでたら怪しまれるし」と言っていた。彼と芽空以外は世間に素性を明かしていないことだし、それはごもっともである。
まあでも、それはあくまでここ数日の、平日の話。ある程度体調も回復して来たこの休日から、葵は日々の習慣を再開することとする。
あまり怠けていると、いざという時体が動かせなくなるし、と。
「…………よし」
さて、顔を洗って歯を磨いて、稽古を始めよう。彼は来られないそうだが、自分一人でも問題はない。
と、気合を入れたところで、
「——みゃおみゃおって名前なんていうの?」
開かれた扉から覗く、蜜柑色。
一瞬で複雑な感情に染まった心が、ため息と気合いとを吐き出した。
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さて、天姫宮葵はみゃおという愛称で呼ばれている。
やや挑発的というか攻撃的というか、何かと物騒な性格。稽古も欠かさず行っているのだが、そうは見えない中性的な顔立ちと細身、男にしてはやや高い声。
そんな理由から、「なんかちげー名前だなー」とかなんとか、勝手に悩まれた結果、つけられたものである。
まあ当然ながら、即座に拒否をした。したが、一部のメンバー……というか約半分には定着してしまった。
しかし今思えば、それはあの名付け親の気遣いだったのだろうと葵は思う。
葵が尖っていたからこそ、少しでも周りに馴染めるように、と。
けらけらと笑い、いつも構って来ることに口では鬱陶しいと言っていたものの、過ぎてみれば寂しさを感じてしまうものだ。
……しかし、だからと言って、いつまでも落ち込んでなどはいられない。というか彼女なら恐らく、葵が落ち込んでいる姿を見てにやにやけらけらと笑うだろうし、と。
部屋を訪れたユズカに向き直る。
「そもそもボク、あなたたちに名乗りましたよね。初対面から何回も」
「んー、そだっけ? よく覚えてないや」
「なのにみゃおだけ覚えていたんですか?」
「うん、リカおねーさんがそう呼べって。あいつ嫌な顔するけど、ほんとはめっちゃ喜んでるから、って」
…………遅すぎる事実の判明と、ぶつける先のない怒りがこみ上げてきた。
「しかし、どうして今聞いたんです?」
「んー、ん? ほら。えっと……」
珍しく動揺。指先をくるくる、視線は宙を飛び回る。まあ、予想は大体付いているが。
「アタシさ、改めて考えてみたんだけど」
頰が赤い。熱があるのかもしれない。
近くに病院はあっただろうか。悪化しないうちに急いで行かねば。
……いや、そうじゃないとは分かっているが、直視もしづらいものだ。
空色の瞳がこちらを見上げて、
「アタシ、みゃおみゃおのお姫様……なんだよね? それならアタシもほら、言葉とか家事とかそういうのとか、しっかりしなきゃなのかなーとかとか」
さて。目の前にいるのは元最強の元『獅子王』。趣味も特技も戦うこと、好きなものはご飯、ただし食べる方。そんな少女である。
確かに彼女から王の座を——戦いを奪ったのは葵だ。間違いないし、今更返上する気もない。
だがここへ来てから計五日、ゆっくり話をする時間が取れなかったとはいえ、まさかこう来るとは。
「えっと……」
どうしたものかと葵は考える。
いや、確かに、この機会に直してもらえるというのならありがたい。
だが、いきなりそんなことを言われても違和感がすごかったり、あと恥ずかしかったり。ていうか稽古の時間が大幅に過ぎている、とか。
たっぷり三十秒、悩みに悩んで葵は結論を出す。
「今日は一日、ボクと家事をしてみましょう」
「家事?」
「ええ。ボクのことは好きに呼んでくれて構いませんから、その中でこれだと思うものを選んでください」
「みゃおい、とか?」
「いえ、それは却下で」
まあ一日くらいはいいかと息を吐く。
…………胸にぽっかりと穴を開けた寂しさが、少しずつ埋まっていく。
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ルクセン家の別荘は本邸と比べれば多少の見劣りはあれ、やはり広い。
端から端まで探検しようと思えばいつの間にか昼になっているだろうし、当然ながらそれだけの広さを清潔に保つには、十分な人手が必要になる。
本邸勤めだった使用人はどうやらここに割り当てられているようで、元々の数と合わせて、何人か暇になってしまうほどに多い……いや、多かったはずだ。
ただ、今回の事件でなだれ込んだ仕事量がそれを超えてしまったというだけで。
「みゃおみゃおたちが学校行ってる間、ずっとこんな感じだったよ?」
「……まあ、ある程度は予想していましたが」
廊下を歩きながら、その光景を眺めてみる。
すれ違う誰もが忙しなく動いている。
男女問わず、主やそれに従うメイドも執事——使用人の皆々も。
向かう先は本来の業務であったり、客人——この場合葵はもちろんラインヴァント、及びシャルロッテも含まれる——の世話であったり、まだ体調の優れないヨーハンの補助などなど。
あとは、「HMAに協力した獣人組織ラインヴァントの代表者」として発表を控えているのだという奏太と芽空の方にも。
しかし、それでも表向きには硬い表情を見せず、洗練された動きで仕事をこなしていくその姿はさすがと言うべきか。思わず目を留めてしまいそうになるくらいには、惹かれるものがある。
「あ、ちなみにあの人たちを手伝うわけではありませんからね?」
「へ?」
全く予想外だ、とでも言うかのように首を傾げるユズカ。
いや、当たり前の話である。
使用人たちは普段から仕事をこなしてきているからこそ、こういった事態にも連携して対応できる。
だがそこへ、家事なんて全然やってないし料理はできるけど汚すし後片付けしないから止められてるしそもそも誰かに合わせるの苦手、なんて女の子が来たら迷惑以外の何者でもない。
そしてそれは葵も同様。大抵の家事はこなせるが、下手に手伝ってもかえって邪魔になる可能性の方が高い。
ゆえに、
「ラインヴァントの他のメンバーのところに行きましょうか」
「ソウタおにーさんのとことか?」
「いえ、今奏太さんは忙しくしていますから……普段会わない、非戦闘員の皆さんです」
——ラインヴァントは基本的に自分のことは自分でやる、という方針だ。
葵たちは蓮の影響もあって食事の時などは集まってはいるが、他の者たちは違う。
主にHMA関連でトラウマを抱え、外出すること自体が怖くなってしまった子もそうだが、保護してもらったのだからこれ以上迷惑をかけられない……とかで、向こうからこちらに関わってくることはあまりなかった。
ハクアを倒した奏太は、本人の性格もあって、向こうから話しかけられているところを何度か見たものの。
「あれ、でもハクア倒した後ならみゃおみゃおも話してなかった?」
「奏太さんに比べれば少ないものですよ。倒したのは間違いなく奏太さんですし……まあ、その話はともかくとして」
関わりが薄いとはいえ、彼らは自分たちと同じ『獣人』だ。
今回住居を追われ、受けたであろう心の傷は放って置くわけにはいかない。ましてや、今は芽空と奏太がいないのだから、なおさら。
それに、『獣人』に理解はあれど、純粋な人間である使用人たちには話せないこともあるだろう、と。
「……どうしました?」
ふと隣から唸る声が聞こえてきて、いったい何事かと思えばそれは頭を抱えるユズカ。
「んー、や、行くって思うと頭の中がぐるるしてるっていうか……」
「は?」
何を言っているのかわからない。
色々と言葉が足りてないため推測にしかならないが、考えてみる。
今からしようとしているのは、今までの彼女にとっての未知。とすれば、彼女の当たり前とは別の——。
ああ、とすぐに納得する。
「何を話したら良いのか分からない、と?」
「んん、多分そんな感じ、かも?」
何とも曖昧な返事だが、考えてみれば自然なことなのかもしれない。
基本的にラインヴァントのメンバーは、学校あるいは幼稚園等のコミュニティに属した経験がある。
その中で他の者との距離感の取り方、空気を読む読まない、建前本音等々を学んで行くわけだが、彼女ら姉妹にはそれがない。
加えて、日々のコミュニケーションも大抵は見知った人物のみ。梨佳のような相手はともかく、ほぼ初対面の相手に緊張や警戒をしても無理はない。
今はユキナの前でもないし、もう変に気を張って、肩に力を入れる必要もないのだから、なおさら。
「……そういえばあなたとの初対面の時、思い切り殴られましたね」
「どったの?」
「いえ、何でもありません」
肉体言語以外のコミュニケーションもしっかり学ばせないといけない。いや、そもそもあれもコミュニケーションとして成り立っていなかったが。
ともあれ、そんなことを話しているうちに、
「…………着きましたけど」
「う……」
まだ心の準備ができていないらしいユズカに笑いを漏らしつつ、途中で作っておいた名簿を眺める。
まずは一室目。二人姉弟の、それぞれ十二歳と九歳。ユズカとはそこそこ歳が近い。
よし、これなら問題ないだろう。
迷う間も無くそう判断し、ドアノブを回す。
「あ、みゃおみゃお、もう少し待って——」
隣でヘタれた制止の声が聞こえた気がするが、無視。
何を言っているんですか元『獅子王』が、そんなの関係ないしそもそも、などと言い合っているうちに、扉は開かれて————。
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同時刻、シャルロッテは机に向かっていた。
元々『ノア計画』が近づいていたことで忙しい身だったのだが、ここ一週間でその仕事量がさらに増えた。
まあ、自分で決めたことなので、後悔や苛立ちのような感情は極力抑えることにする。
そもそも、プルメリア——もとい、今は芽空と名乗っている彼女が原因でやや不安定だったとは言え、感情の制御くらいはもう何年もやってきたのだから。
「…………」
黙々と宙を叩き、文字を入力していく。時折、タブレットの画面をスライドし、手を止めることもあればしばらくして書き進めたり。
内容は先日のメモカに関わる記録だ。大抵芽空が不意打ちで片付けてしまったものの、それでもサンプルは十分過ぎるほどにあった。
『獣人』の並外れた力を見ていると忘れそうになるが、あれらもまた人の限界ほどの力を出せる代物。
デバイスに関わる身としては、いい加減対策を取らねばならないと思う。
ぴた、と手を止める。
「——どなたかしら?」
扉を叩く音が聞こえたのだ。
やや控えめというか、何か音が出る作業でもしていたら聞き逃してしまいそうなほど、微かな。
そんな扉の向こうから声は返ってきて、
「あ、えっと……ユキナです。シャルロッテお姉さんに聞きたいことが、その、あって…………あ、でも忙しかったらその」
最後の方がごにょごにょしていて聞こえなかったが、まあいい。
「別に構わないわ。入りなさい」
声の主は何だか既視感というか、上手くは言えないが、見ていると他人じゃないような気がしてくる少女だ。
所詮は成り行きで、一度だけ顔を合わせた仲ではあるが、断る理由もない。仕事の方もそう遅れが出るほどのものでもないし、と。
おずおずと、こちらの顔色を伺うように入って来たユキナに視線を向ける。
「それで、一体何の用事があって来たのかしら?」
「えっと……」
一応、彼女についてはあの時の——放送室でのやりとりで、なんとなく人柄を掴んでいる。
大人しめで自信がなく、いつも誰かに頼りがち。だが、決まるまでは長くとも、意思を一つと決めたら意外と頑固……既視感の正体がようやく分かった。彼女はどことなく昔の自分に似ているのだ。
ということは恐らく、彼女が聞きたいというのも。
「えっと、シャルロッテお姉さんに教えて欲しいことがあって」
ちら、と仮想の画面を確認する。
彼らの原稿はほぼ完成、あとは本人たちとヨーハンに確認をとるだけ。
メモカのデータもおおよそは完成している。改善案をあと一つか二つ用意しておきたいところだが、まあこればかりはすぐ出てくるものでもない。
他の仕事についても——数時間程度なら削っても問題ないだろう。
「立派な大人になるには…………どうすればいいんでしょうか?」
「随分と大雑把な質問ね」
「え」
間を挟まず、すぐに返す。
「そもそも、どうしてワタクシなのかしら?」
この際歳がどうこうは置いておくとしても、だ。
ユキナがかつてのシャルロッテと同じく、「自分が自分たる何か」を探そうとしているのなら、別に他の相手でも良かったはずだ。
まあ頼りになるかどうかはともかく、シャルロッテよりかは芽空や奏太に聞いた方が気が楽だろうし、普通に大人に聞いた方が早い。
なのに、何故なのか。
「それはその……あの時、シャルロッテお姉さんが怒ってくれて……」
ああ、なるほど。
確かに自分は彼女に対して怒った。逃げてばかりいる態度に苛立って、自分の手で望むものを掴めと言った。
見方によってはそれで、シャルロッテが立派な大人に見えたのかもしれない。特に、彼女のような少女の場合は。
悩みが泥沼に入った時、迷いのない瞳や声というのは深く心を突き動かされる。たとえ知らない人や、嫌っていた相手でも。
だからこそ、思う。
「確かに、ワタクシはワタクシなりの答えを持っているわ」
ユキナの表情が一瞬喜びのものに変わり、
「——でも、他人が用意した答えに従ってるだけじゃ、ただの真似事よ」
どこかの誰かは、そうだった。
何年もかけて、その過ちを正したようだけれど。
「そう、ですよね……」
気落ちする声。
そのまま「ごめんなさい、変なこと言って」と部屋から出て行こうとしてたので、慌てて引き留めた。
「人の話は最後まで聞きなさいよ。あんたの相談、付き合うわよ。……きつい言い方したワタクシも悪かったけれど」
机に置いてあった飴玉を手渡しつつ、改めて彼女を見つめる。
涙目になっていることもそうだが、注視すると目の下にクマができており、シャルロッテは今日の日付を確認。そして結論へ。
「あんた、この何日かずっと悩んでたわけ?」
「え、あっ、はい。……その、勉強したり本を読みながら、ですけど…………」
「で、答えが出なかったからワタクシのところへ来たと。……まあ、そりゃそうなるわよね」
立ったままだったユキナをソファに座るよう促し、改めてそちらに向き直る。
少し考えてから、
「大人と言っても色々あるの」
シャルロッテは続ける。
「例えば仕事だけを生きがいとする人や、その逆で家庭を大切にする人もいる。望んだ姿になれるとは限らないけれど、あんたにそういう理想はあるかしら? ——特定の誰かじゃなくてね」
最後、釘を刺しておく。
誰かになろうと思っても、結局は憧れだ。重要なのは自分が望む自分の像。他の誰かそのものではない。
しばらくの沈黙を挟む。
彼女は必死に考えているようだが、明らかに答えが出ていない。
「……分からなかったら分からない、でいいのよ?」
「えっと、それじゃあ……その、分からないです」
カップのコーヒーを口に含む。
口内に広がる苦味と酸味。早起きの眠気覚ましには丁度良い。
「——ワタクシに提案があるわ」
仕事に問題はない。
ユキナの意思も確認した。
それに…………少し、気になることもある。
ゆえに、
「気分転換に、旅に出ましょう。あんたの自分探しの旅に、ね」
少し楽しげな声で、そう言った。
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葵は目の前の光景に、目を見開いた。
どうやらその驚きは隣の少女にも共有のものらしく、
「みゃおみゃお、これって……」
「ええ」と頷く。
今更見間違えるはずもない。
自分たちにとってはある意味当たり前の光景で、その上で今までのことを考えれば、首を傾げざるを得ない光景。
一室目の少女。
彼女は目元を隠す亜麻色の髪が特徴の、十一歳。八歳の弟がおり、仲も良好。今回の事件で家は失ってしまったものの、ここでの生活も楽しいのでなんとかやっていける……というのが姉談。
弟の方は姉のように隠し事ができず、不安と不満が顔にそのまま出ていたが、それはそれとして。
彼女を放っておけない理由。下手をすれば、彼女自身とその弟の生活を脅かしかねない理由。
それはつまり————『獣人』が獣人たる理由が、そこにあった。
「あ、あの二人とも…………?」
ツンと立ったこげ茶の耳。腕を覆うさらさらの白毛。間違いない。
その日、絢芽という少女が『シマリス』の『トランス』に目覚めた。