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黒と白の世界と  作者: 夕陽ゆき
第三章 『反転』
135/201

第三章71 『ユニコーンVS銀狼』



 地を滑るように回転する白爪の乱舞。

 見る者には体毛の銀と白が混ざり合い、ある種の美すら感じさせる無駄のない動きだ。


 だが、それに見惚れていられる程、状況はのんびりとしたものではない。

 『纏い』で迫る乱舞は、命を刈り取る凶器そのものだ。

 奏太は目の前の風切り音から必死に体を退けつつ、何とかその爪を破壊せんと拳を繰り出す。


「甘ェ!!」


「少しは、当たってくれてもいいんだけどな!」


 しかし、元々警戒しているのだろうアザミにどれも防がれる。

 ならばと大きく後退。両手を地面につけ、重力に逆らって足を持ち上げつつ、回転しながら両足を振るう。


「——えらく技が豊富じゃァねえの。格闘技でェもやってんのか?」


「俺の師匠がその手のことに詳しい、ってだけだ!」


 蹴りは彼に直撃。衝撃を与えることには成功するが、当たったのは両の前腕。爪の破壊には至らない。

 奏太は歯噛みし、跳ね起きて再度向き合う。


 間髪入れずに加速——と、そこで空間を割るような音が耳に入ってきて、怪訝な表情を浮かべる。


「……どういうつもりだ?」


「見たまんまだ。なかなかやるじゃァねえか」


 音の正体は拍手。

 それも、およそ戦闘中には似つかわしくない無防備な賞賛だ。

 アザミは「あァ、いや」と言葉を継ぎつつ、


「これは三日月奏太、テメェだけに送ったもんじゃァねぇ。お仲間たちにも、だ。俺の兵隊を——『カルテ・ダ・ジョーコ』をことごとく倒してやがるみてえだしな?」


 思わぬタイミングで、思わぬ情報が転がり込んできた。


「——、そりゃどうも。みんなは元々強いからな」


 そう、一部の者は条件こそあれ、実力を発揮できれば、ブリガンテの幹部であろうとも倒すことは可能なのだ。

 それに、今回は切り札ともいうべき援軍もいる。

 まさか手を組むことになるとは思ってもいなかったが、


「HMAまで味方にすゥるなんざ、本気で潰し合いをする気かよ。なァ、三日月奏太?」


 心を読んだように、アザミが高らかに笑い声を上げる。

 それらしきそぶりは見えなかったが、籠城戦と同様に彼は、他の仲間たちの戦闘を見ていたということなのだろう。


 そして彼の性格を考えれば、語るそれは間違いなく事実だ。

 HMAのアイを中心に、皆が『カルテ・ダ・ジョーコ』を倒している。葵とユズカの戦闘がどうなっているかまでは分からないが、少なくとも奏太たちは一つの目的のためにこの戦闘に臨んでいる。持てる力の全てを尽くして。


「利害の一致、ってやつだよ。ラインヴァントにとってもHMAにとっても、ブリガンテは放って置けない組織だ」


「……利害の一致、だァ?」


「ああ。俺たちは『獣人』と人間が……」


「——ハッ」


 言葉を遮る、再びの笑い声。


「何がおかしい」


「三日月奏太、テメェそれは本気で言ってんのか?」


「当たり前だろ。たとえ藤咲華が『獣人』目線からじゃ信用できない魔女(、、)でも、人間にとっては『英雄』だ。ブリガンテを倒すのだって、」


「違ェ。違ェんだよ。……そうか、テメェはまだ辿り着いてねえのか」


 辿り着く。それが何を指しているのか、分からない。

 アザミは両手を開いて、


「いいか、三日月奏太。あァのクソ魔女(、、)はテメェが思っている以上に腹黒な野郎だ。慎重に動かねえと、そう遠くないうちにお仲間を失うぜ?」


 確かに、彼の言葉には一理あるかもしれない。

 フェルソナたちから聞いた話では、藤咲華の厄介な性質は、戦闘力よりもその卓越した弁舌能力にあるのだという。

 実際彼女の甘い言葉に惑わされ、命を奪われた『獣人』は決して少なくない。奏太たちもその例に漏れず……という可能性もあるだろう。


「けど、少なくとも今回は、人間もこの光景を見てる」


 たとえ『英雄』であろうとも、人々を救った『獣人』を殺そうものなら当然非難の声が上がる。

 『獣人』の姿が人間であるということも、生徒たちには知れたはずだ。共存には時間がかかるだろうが、今までとは違う変化が起きることは確かで。


「それでももし、HMAが『獣人』にこだわって敵に回るとしたら、その時は戦う。それだけだろ」


 しかし、だというのにアザミは首を振る。


「やはりテメェは、何も分かっちゃいねぇ」


「だから、何が——!」


「何もかもだ。その調子じゃ、『施設』についても知らねぇか」


 疑問に疑問が重なる。が、未だに明確な答えは奏太の前に取っ掛かりすら現れない。

 彼の方もそもそも、答える気がないのだろう。両腕がゆっくりと持ち上げられ、


「まァ、よく言うじゃねえか。——知りたきゃ体に聞いてみろ、ってェな!」


「——、上等!」


 両者が同時に駆けた。

 左右から大きく振られる白爪に対し、深く身を沈めて下方向からの打撃を叩き込もうとする。

 これにアザミは攻撃の調子を変化させ、大振りを利用し体をひねると、舞うような動きで斜めから切りつけを。奏太はさらに身を低くすると、足払いと回転蹴りを混ぜたアザミの脛へ。

 だが、両者の攻撃が接触するよりも、アザミが上へ跳ぶ方が早い。奏太は顔を上げ、


「あ、ぶね……ぇっ!」


 弾くように体を地面から離す。

 一瞬後、部分的に『昇華』をした巨大な右白爪が奏太の残影を掠めた。爪先からぱらぱらと落ちていく赤髪、眺めている暇はない。着地したアザミが左の突き蹴りを放ってくる。

 身をよじり回避、追撃の右蹴りを後方宙返りで弾く。


「やられるだけだと思うなよ——!」


 宙返りの半分のところで体を止めつつ、地面に手をついてぐるりと横方向に二回転。アザミの体を飛ばしつつ、地面を弾いて跳躍。アザミに向けて空中蹴りを左右二度決める。


「っふ……!」


 さすがに耐え切れなかったのだろう、胸元に直撃を受け、肺から酸素を漏らすアザミ。着地し、彼に勢いづけた拳を三、四度かますが、


「調ッ子に乗るんじゃァねえぞ!」


 両手を重ねたアザミの掌底が腹部を——当たる寸前、両腕を間に挟んだが——強く押され、距離を離される。


「この……っ!!」


 互いに距離を詰め、交わされる打撃の応酬。

 奏太は足技を中心とした攻撃を、対するアザミは部分『昇華』を混ぜた高速の拳を。


「どォして強くなろうと思った?」


「……は?」


 次々に生傷が増えていく。

 お互いに致命傷を受けることなく、隙をひたすらになくし、受け、避け、弾き、いなし、流し、衝突。


「獣の力があれば、支配することは容易だ。人も、世界も! 既に決められた盤面すらも覆すことが出来る。だァから『獣人』は抗い、強くあろうとする! それが理不尽に対する叛逆であり、答え! 違ェか、三日月奏太!」


「俺は……!」


 奏太は考える。


 強くなろうと、獣の力を引き出してやると決めた時のことを。

 あの時はがむしゃらに、蓮の願いを引き継ごうとして——否。負の側面の方が強かった。

 ハクアに復讐したいと、そう本気で思っていた。それが、あの時の奏太が出した理不尽への返答だった。


「……確かに、お前の言う通りだよ」


「————」


「世界は理不尽で溢れてる。『獣人』として生まれただけで命の危険がつきまとうし、バレた時には危険視されて、居場所を失う。正直、息苦しいと思う時もあった」


 でも、奏太とアザミは同じものを見てきたわけではない。

 向き合い方も、答えの出し方も、何もかも違う。


「————けど、俺はそんな世界を嫌っても、人は嫌えないし嫌わない! だから俺は理不尽を押し付けない。お前が支配を望むって言うんなら、その理不尽だって打ち砕いてやる!」


 三日月奏太の始まりで、今も根底にあり続ける想いは、他の誰のものでもない。

 ただ一人の少女が好きだった。

 だから今ここに、自分はいる。


「——その瞳。虫唾が走るほどの綺麗事。あの野郎にそっくりじゃァねえか」


 あの少女もかつて、アザミに対してそう言い放ったのだろうか。

 彼女なら言いそうだと、奏太は思う。


 一層力のこもる視線が、交差した。

 振り上げられた拳が互いの顔面を擦り、位置が入れ替わる。


「分からねぇな。力を抑制することに何の意味がある? 何故共存しよォとする?」


 跳び、しなる足を振るって一撃。身を沈めて下段蹴り——と見せかけ、地面の砂を靴横で削って狭範囲の砂煙を起こす。

 滑るように距離を縮め、掌底を腹へ。不発、アザミが身を引いた。


「『きっと』。『いつかは』。共存なんざ、本当に叶うと思ってやがんのか? 『相互理解には時間がかかる』なんざ、今は出来ないと先延ばしにしているだけじゃァねえのか?」


「お前が分からなくたって、世界は——!」


「テメェの言い分だろ、それは。テメェ一人誰かと分かり合おうが、根本的な確執は世界から消え去らねぇよ。元凶の魔女(、、)がいる以上はなァ!!」


 砂煙を苦ともせず、低姿勢で距離を詰めていたアザミ。彼から放たれる爪を、何度か擦りながら避ける。


「そォもそも、理不尽を押し付けてるのは向こうだろうが。擦り寄って媚び売って、『僕たちは何もしません、だから仲良くしてください』ってか? ふざけてんのか、テメェは?」


 バックステップだけではラチがあかない。ならばと上へ飛ぶが、


「——甘ェんだよ、何もかも」


 同タイミングで同じ行動をとったらしい、下方向からアザミの爪が迫る。

 空中で後方回転——否、遅い。左腕を前に出す。


「ぐ、ゥゥゥウウッ!!」


 三本の痛みが前腕を駆け抜けたかと思えば、大量の血が、続けて皮膚が零れ落ちる。

 地面に落下するよりも前、奏太は痛みをこらえて治癒を行う。


 しかし最中、今度は上から両爪が降ってきた。

 ——どうする。

 意識の半分以上を治癒に使っていたため、避けるには遅すぎる。だからといって左腕は完治しきっていないし、右腕を差し出すのはあまり好ましくない。


 ならば、


「——だからって! 互いに相手が悪いって言い合ってたら、いつまで経っても変わらないままだろッ!!」


 ここまで一度も使用していなかった額の角で、振り下ろされるアザミの爪に応じる。


 ——一撃。右爪を突き飛ばす形で弾く。


 ——二撃。左爪が角を折り砕かんとして『昇華』で迫る。直撃を食らえば間違いなくその結果はあり得ただろう、当たる直前に軌道線上から頭をずらし、角の表面を削られるのみに留める。そのまま空中で無理やり体制を変え、宙返りの要領で蹴りをアザミにぶつけた。


 互いに弾かれる体、地面との衝突はすぐそこで、


「——っ!!」


 さすがに受け身一つで衝撃を全て吸収できるほど、両者の攻撃は甘くない。

 地面に手をつき、転がり、打ち付けながら数メートルのところで止まる。

 すぐに起き上がってアザミを見やると、どうやら向こうも同様の結果が生まれたらしい。大ダメージ、とまではいかなかったが。


「……タフだな」


「他の奴らからすりゃァ、『ユニコーン』の方がよォっぽど面倒だろォよ。俺は片っ端から潰すから関係ねぇがな」


 奏太はアザミとの戦闘の中で、一度も手を緩めた記憶はない。

 『纏い』はもちろん、『昇華』を相手にする以上、中途半端な躊躇は死に繋がりかねないと考えていたからだが——それにしたって相当な相手だと思う。

 スタミナも耐久力も、戦闘力も。


「これだけの力があるのに、お前は……」


「これだけの力があるから、だろォが。むゥしろ、俺の方が聞きてえくらいだ。どうして『ユニコーン』が人間の手を取ろうとする?」


「だから——!」


 獣としてどれだけの力があろうとも、奏太は奏太だ。

 人間として生活していた時が楽しかったから、幸せだと思えたから手を取るのだ。


 そう、口に出すはずだった。

 しかし彼は、奏太が言わんとしていることにおおよその見当がついたのだろう、首を振る。


「それは人間の罪を許していい理由にはならねぇ。『獣人』を苦しめているのは他でもねえ人間だ。だから俺は、そォの根元たるHMAをぶっ潰し、世界を支配することで奴らに罪を償わせる」


 アザミは歪んだ笑みを浮かべて、


「————それが俺の、略奪だ」


 止めなければいけない、と思った。

 彼は奏太と同じ『獣人』で、同じ喪失者だ。だが、歩んで来た道も、目指す先も、奏太とはまるで違う。


 彼の言っていること、その全てが間違っているとは思わない。しかし、だからこそ奏太が止めなければいけない。

 長い間、人間と『獣人』の間に在り続けた隔たりは、もうなくなるべき時なのだと思うから。


「……支配なんて、略奪なんて俺が止めてやる」


「なら、いい加減決着といこうじゃァねえか、三日月奏太。俺の略奪と、テメェの共存。どっちが正しいのかをな——!」


 彼の肉体に、変化が訪れる。

 全身の筋肉が膨張し、皮膚が硬質化。人間という概念を捨て去り、獣の極致へ再び、到達する。

 全身を覆う銀の針毛、世界の理不尽に怒りを向ける金瞳。


「『トランス』は心もち一つで変わる、か」


 体調を確かめるように、両手を強く握ってみる。


 全身が熱い。

 治癒を行ったところで、失われた血液や体力が戻るわけではない。過度な運動を重ねたせいで、全身は汗でびっしょりと濡れており、時折景色が白んだりする。


 ————だが。

 それよりも強烈ではっきりとした、燃えるように熱い何かが腹の底にある。

 限界が近いのか、それとも別のものが奏太の中で蠢いているのか。

 いずれにしても、奏太の意思は一つ。


「来い、『銀狼』。お前の獣は、今ここで俺が倒す——!!」


 少女と指切りをした小指に、熱が走るのを感じた。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 戦場が、数十秒足らずで移っていく。

 グラウンド、校庭、事務員室。

 物置となっている倉庫、裏庭、旧校舎。それから、自転車置き場。


 無数に停められたタイヤの群れを前にして、選択肢が頭の中に浮かぶ。

 他人のものではあるが、自転車を投擲し、注意を引く。その隙に攻撃して——。

 一瞬の思考。だが、それよりもアザミの到達の方が早かった。

 そして選択肢の判断と決断についても、彼の方が一枚上手だ。


「おま、何して……っ!?」


「——『昇華』の力は『纏い』とは一線を画す。だァから、こういうことも出来るんだぜ?」


 彼の取った行動は単純。

 子どもが遊んだおもちゃをまとめてすくい、片付けるように。

 彼もまた、両の前脚でそこらにあった自転車をまとめ、潰し、圧縮した。

 すると出来上がるのは歪で巨大な、金属塊。取る選択肢は当然、


「そんなのありかよ!!」


「さァっさと逃げねぇと、テメェも愉快なオブジェになるぜ?」


 高笑いとともに、金属塊が放り投げられる。

 それも一撃だけではない、連続して破壊の雨が降り注ぐ。


 正面から受け止めれば、恐らく体がもたないだろう。だから必死に避けようとするが、そもそもの敵は金属塊だけではない。

 雨の間をくぐって、巨体が豪爪を横一閃。間一髪のところで避ける。が、


「——っ、ごぉ」


 今度は避けた位置に降って来た塊が、奏太の背中を強く突き飛ばした。

 骨の軋む音、激しい痛みが頭に鋭く響く。


 すぐに頭を振って『銀狼』に向き直るが、既にそこに巨体の姿はない。反射的に動いた脚が、後方に接近していた彼に叩き込まれる。


「——いい反応だ」


「少しは効けよ……!」


 だが、あくまでそれは反射的なもの。

 重心はブレブレで、力は乗っておらず、巨体の体を浮かすには不十分だ。むしろ攻撃したこちらの体が浮いて、そこへ攻撃が迫るのでそのまま後方宙返りを繰り返し、距離を取る。


 酸素の抜け切った肺に大きく息を吸い込んで、両手を構えると、


「何度攻撃したって通じねぇよ!」


「やってみないと分からないだろ!!」


 巨体から迫る攻撃、その一つ一つに対応していく。

 右前脚の振り下ろし、左の突き、牙と尻尾の薙ぎ、崩した地面の投擲、突進、巨大な爪の乱舞。

 考えるよりも早く体を動かし、攻撃の種類を理解するよりも早く最適な行動を取る。

 避け、流し、あるいは全身で弾いて。


 いずれも極限まで高まった集中力が可能としているもので、少しでも気を緩めればそこには確かな死が待っている。

 それだけ洗練された力の塊。

 それだけ圧倒的な実力差が、両者の間にはある。


 油断は許されない。一瞬の迷い、あるいは判断の誤りも。

 そんな綱渡りを必死に駆けた末に奏太は、一本の隙を見出した。無意識に体が動き、隙の道を辿って、最大限の威力を持った飛び蹴りを『銀狼』の顔面に叩き込もうとして————、


「……は?」


 理解が、遅れた。


 訪れるべき結果は訪れず、見えるはずの景色はそこにない。真っ白になった頭が、現状を理解する。


 ——今自分は、体が不意にふらついて、地面を蹴るには至らなかったということ。


 奏太は人並外れた集中力や、反射神経なんてものを持っているわけではない。

 至って普通で、少しばかり成績が良かっただけ。鍛錬をして、それらを鍛えたとしても、所詮は人間に許される範囲。


 ——つまり、戦闘が始まってからずっと集中を切らさないようにしていたとしても、限界は絶対に存在する。

 ほんの一瞬、張り詰めていた糸が切れた。ただそれだけの、少しばかりの油断。


 だが、『銀狼』の攻撃を受けるには十分すぎる致命的な時間だ。


「——終わりだな、『ユニコーン』」


 風切り音が耳に届いた。

 その時にはもう、体が激しい衝撃を受け、吹き飛んでいた。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 何度地面を転がったか、覚えていない。


 痛みはとうの昔に限界を超え、悲鳴は既に喉を枯らして、どこかから風の抜ける音がする。

 上手く呼吸ができない。


 体の右半分に感覚がなく、治癒を急ぎ行おうとしても、溢れていく命を止めることができない。

 口も、目も、世界も、真っ赤に染まる。


 全身にあった熱は一体どこへ消えたのか、底なしの冷たさが体にある。

 意識が朦朧とし、立ち上がることが叶わない。

 重たい。痛い。立ち上がらなければ、だけど寒く、動かない。


 意識が沈んでいく。

 重力に引っ張られ、体が下へ、下へ。

 手を——伸ばしたのだろうか。

 それすらも分からないけれど、その手は、何も掴めない。


 深く、暗い水底へ。

 黒の世界へ、落ちていく。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 誰かに、呼ばれたような気がした。

 たった数ヶ月の付き合いだけれど、自分(、、)が好きになった少女。


 彼女の声が、どこか遠くから響いた気がした。

 声に応じたい、と思った。


 でも、それはダメなのだと知っているような気がする。

 なぜ、どこで、と聞かれれば答えることはできない。今ここにいる自分(、、)はそれを覚えていないからだ。


 でも、知っている。

 その答えは最愛の少女ではなくて、別の大切な誰か。

 右手の小指の熱が、そう言っている。


 首をかしげた。

 一体どうして、少女の声を否定し得るほどの熱をこの小指は持っているのだろう、と。


 ——いや、多分、きっと。

 答えはもう、出ている。

 何かをしたのだ。

 ずっと隣にいた少女と。


「————約束」


 無意識に、口から言葉が溢れ出る。

 自分(、、)を構成する上で、大切だった言葉。

 最愛の少女から始まって、色んな人と結んだもの。


 その言葉が、熱をくれる。

 守らなければいけないものを、思い出させてくれる。

 そして、気がついた。


 ————腹の底で、熱く動くものがある。

 かつては黒く歪んで蠢いていたもの。

 何もかも形を変えたそれが、身を焦がすほどの熱を持って、自分(、、)を呼んでいるのだと。



 だから、三日月奏太は————。


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