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黒と白の世界と  作者: 夕陽ゆき
第三章 『反転』
134/201

第三章70 『ユズカ』



 ——ユズカの世界は、弱肉強食だった。


 弱いから殴られる。

 強いから得をする。

 そんな両親だったから、どうにかしたいと思っていた。


 小さい頃から隣にいた、自分と似ているような、でもどこか違うような女の子。彼女が痛めつけられ、泣いている時、心の奥底がいつももやもやしていた。

 だからどうにかしなきゃと思っていた。


 名前は知らない。でも、いつしか『おねえちゃん』と呼ばれるようになった。それはつまり、彼女が妹で、自分は姉。彼女は守らなければならない存在だということだ。

 同時に、引っ張ってあげなきゃとも思った。言葉はあまり理解できなかったけれど、そういうもののような、気がしたから。


 だから父親らしき人物を、吹き飛ばした。

 だから家から二人で出ていった。


 多分この身に与えられた力は、自分が『おねえちゃん』だから。妹を生かすために振るう力だって、信じていた。

 でも、それは永遠のものなんかじゃない。

 体はどうやらご飯を食べなきゃ動かないようで、妹もまた同じようだった。


 だから、いっぱいっぱい、食べるために生きた。

 誰かを傷つけてばかりの日々だった。

 後で知ったけれど、それは決して許されない悪いことばかりだった。

 アザミに出会う前も、その後も、ずっと。




 生きるために食べる、そのために必死に生きてきて。

 妹を守る、それだけのために生きてきた。

 償えるなんて、思えない。

 許されることなんて、きっとない。


 でも、そんな『アタシ』でも幸せを望んでも良いのなら。

 もし、物語の中で輝けるのなら。

 誰かの望みと、自分の望めが一緒になって。その中で、誰かのためになれるのなら。


 ——お姫様になりたい。


 傷だらけで、頭も口も悪くて、戦うことしか知らなくって。多分これから、たくさんのことを知って、謝って、償って。そんな人生になるだろうけれど。

 王子様(、、、)が迎えに来てくれて、口付けで目覚めさせてくれる。そんな夢が叶うのなら、『アタシ』は笑って手を伸ばしたいと、そう思う。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 強すぎる力はやがて自身を蝕む——というのは、いつの時代も、どんな系統であっても、本質としては変わらない。


 きっかけがなんであれ、一度力を振るえば、そのきっかけのためにこれからも……と決意するようになる。あるいは、次の機会を無意識のうちに自分で探しているのかもしれない。

 それらが続いた時に起きるのは、強大な力への慣れ。慣れから生じるのは、執着だ。

 ギリギリのところで踏みとどまれる者もいるだろう。これ以上はダメだと、誘惑を拒否できる者もいるだろう。

 だが、ユズカのように、自分を見失ってしまう者もいる。


 誰もがずっと、正しくいられるわけではない。

 誰もがずっと、正しい道を選べるわけではない。

 そして本来、自分が何を望んでいたのかも。

 それだけ強すぎる力というのは、危険な代物だ。『トランス』は魔法のような力であっても、彼女にとっては呪いでしかなかった、と。


 今回のことで、色々と考えなければいけないことも増えた。

 また日を改めて、奏太たちと共に向かわなければいけない場所もできた。

 そこまで意思を固めたところで、葵は現実へと意識を戻す。


「体調はどうです、ユズカ」


「んー。ちょっと疲れてるけど、まだしばらくは動けるかな」


 壁に背を預け、両手を開閉するユズカ。その首にかけられていた『トランスキャンセラー』は既に取り外されている。

 元々無効化するだけの道具だ、体調に変化が出るはずはないのだが……あれだけやって少しとはどういうことなのか。もっと疲れていても良いだろう、という不満は飲み込んで。


「あなたの顔を傷つけたことに関しては、謝りませんからね」


「……うん。まあ、仕方ないこと…………なのかな」


「仕方のないことです。そうでもしないと、あなたはボクのことを対等に見ないでしょう。それに、それだけあなたは間違えてたんですよ。根っこから先、全部正してやらないといけないくらい」


 とはいえ、それは『昇華』の時の傷だ。生身の体に戻ったユズカには、跡すら見当たらない。あるのは見えない傷だけ。

 罪悪感がない、わけではないけれど。


「……しかし」


 ふと、思い出す。

 先ほどは感情に身を任せて叫んでいたが、内容がとんでもないものだった気がする。今はまだ落ち着いていられるが、数日後になって思い出したら、恥ずかしさでのたうち回ってしまいそうなくらいの。


「ん、どうしたの?」


 もちろん後悔はしていない。それとはまた別の話だ。

 自身の心の目はいつだって自分を見ているし、万が一他人の耳に入った場合はもう、どうしようもない。

 奏太は理解を示しつつ、いつもの笑みを見せるだろうが、梨佳たちには知られるわけにはいくまい。恐らく、いや間違いなくからかわれるであろう。


 ……まあ、でも。

 それらは全て、先の話だ。

 今は隣の存在を、救えたことを喜ぼうと、そう思う。


「あ、そういえば気になったんだけどさ」


「はい?」


「みゃおみゃお、いつもの戦い方とちょっと違ったじゃん? んと、なんていうか、ソウタおにーさんみたいな感じ。あれ、なんだったの?」


「ああ……」


 ユズカが問いかけたのは、戦闘中に度々葵が見せていた妙な強さのこと。

 具体的には強力な攻撃を全て受けきった両手、その動きを支えていた両足。決して無事とは言えないが、単純な『憑依』だけではなし得ない動きも多くあった。


「ユズカは『部分纏い』について知っていますよね?」


「うん。ソウタおにーさんとか、レンおねーさんが使ってたやつだよね。ずっと『纏い』にしとけば良いのにって思う」


 それが出来たら誰も苦労していない、と内心ツッコミを入れつつ、


「あれは基本的に『纏い』以上の強さにはなりません。必要に応じて各部分を発動させ、節約するためのものですからね」


 そう、元々適性がそれなり、スタミナが低いという者が長期戦を想定し、使うのが『部分纏い』なのだ。

 蓮も奏太もスタミナの心配はないため、正直節約する意味はあまりないのだが。


「ん? でもみゃおみゃおって『纏い』使えないんだよね。マジックでもしたの?」


「いや、マジックで身体能力が上がったら誰でもするでしょう。……『憑依』の力を一点に集中させる、と言えば伝わるでしょうか?」


 目をパチクリとさせている。

 間違いなく、伝わっていない。

 なので言葉を選びつつ、まとめてみる。


「まずですね——」


 原理としてはこうだ。

 『纏い』にも様々な種類があるが、その中には両腕のみが元の動物になるものもいる。あるいは、その逆。

 『トランス』自体まだ完全に解明されていないこともあるので、この際どうしてそんな種類があるのかは置いておくとして。

 両腕についた動物たちは、それだけで立派な武器になるほどの強さを持っている。獣の力が集中しているのだ、当然だろう。


 ——もし、それを。

 力の集中を、『憑依』に使えたとしたら?


「そんなの出来るの?」


「まあ、実際にボクが出来ましたからね。使う人がいるかはともかく、やろうと思えばやれるのは間違いないはずです」


 元々葵は『憑依』をこの上ないくらいまで使いこなせるよう鍛錬を繰り返していた。着想を得たのは奏太が『部分纏い』の練習を始めてからだったが、毎日のように思考錯誤しながら試していけば、誰でも使える。


「戦い方が似るのも当然といえば当然、でしょうね。どれだけ身体能力に変化があるのかは分かりませんが」


「ふーん……」


 実戦で試したのは、隣で鼻から声を出すユズカただ一人。一度でも判断を間違えれば死ぬ状況だったことを考えると、とんでもない賭けをしたものだと思う。


 ゆっくりとした沈黙が、訪れる。

 ふいに伸ばされた小さな指が、葵の手にぎこちなく触れる。


「…………ねえ、みゃおみゃお」


「——ダメだと言ったら、どうする気です?」


 隣で、息を呑んだのが分かった。


「戦いたいと、言うつもりなんでしょう?」


「……うん」


 そう言うだろうな、とは思っていた。

 元々戦闘好きということもあったが、今彼女が口にしようとしていたのはそうじゃない。


 戦闘は今も継続している。

 ユズカたちの戦いが終わったところで、ラインヴァントとブリガンテの戦いはまだ、終わっていないのだ。

 力が残っているのなら今すぐにでも向かうべき——なのだろう。


「先ほど言った通り、あなたの戦う理由はボクが受け継ぐ。『獅子王』としてのあなたの戦いは、もう終わったんです」


「——っ」


 元々彼女は頑固だ。

 言われて素直に受け入れられるわけではない。見やれば、耐えるように強く、小さな手を握っていた。


 葵もつられるように、両手を握ってみる。力を確かめるように、あるいは迷いを振り切ろうとするように。


「……どうして戦うんですか?」


 だからこそ、問いかける。

 理屈ではなかったとしても、葵に譲れないものがあるように。彼女にもまた、譲れないものがあるのかどうかを。


 ユズカは言葉に悩んでいるのか、数秒の沈黙。それからゆっくりと空を仰いで、


みんな(、、、)のために、戦いたい」


「みんな、ですか」


「うん。ユキナだけじゃなくて、みんな。なんていうか、獣とか、そういうんじゃなくて、アタシがそうしたい……みたいな?」


 葵は長く、ため息を吐く。


 そもそも、この戦いの始まりは、元を辿ればユズカとユキナの姉妹からだ。

 前回も、今回も。

 もちろん、彼女たちを利用したアザミが悪いに決まっている。決まっているが、自覚しているかはともかく、ユズカなりに責任を感じている部分もあるのだろう。


 奏太は生きるための戦い、と言っていたが、彼女の場合は「みんなが幸せに」とでも付ければちょうど良いのかもしれない。

 彼女が戦いに終止符を打ち、お姫様として生きていけるように。

 彼女の周りが、それぞれ好きな道を行けるように、と。


 それらは、自分の力に自信があるからこそ言える言葉だし、口先だけの綺麗事では終わらないだろう。

 実際、彼女は一人で戦況を変えられるほどの実力の持ち主であり、精神性についても、先の戦闘よりはずっと安定しているはずだ。


 彼女の一番の気がかりが、取り除かれれば。


「……先ほど、芽空さんから連絡がありました。『昇華』した『カルテ・ダ・ジョーコ』から逃げている最中ですが、合流には無事成功したと」


「何の話?」


「あなたが人質を気にする必要はもう、ありません。『トランスキャンセラー』についても、破壊し終えたと」


「それって——!」


「ええ。ユキナは彼女たちが取り戻してくれました」


 ついさっき届いたばかりのメールだ。

 いくつか直接会って聞かなければいけない情報もあったが、それはまた後の話。今葵がすべきなのは、


「いいですか、ユズカ。戦うのであれば、自分を見失わないでください。『トランス』は心ひとつで変わります。正しい方向にも、誤った方向にも。ですから……分かりますね?」


「分かるよーな、分からないよーな?」


 むむ、と頭をひねってみせるが、何とも言いたいことが伝わっていない。

 葵はため息を吐——こうとして、直前で止める。代わりに笑みを口の端に浮かべて、


「鎖はもう、解かれました。あなたは自由に戦っていいんです、ユズカ」


 「しなければいけない」とか、「するべきだ」とか。そんなことを考えていたら彼女はまた、苦しむ羽目になる。

 それから大義名分だとか、最強だとか、そんな大層なものを彼女が背負う必要はないのだから。


「アタシの自由って……ここ、壊れてもいいの?」


「さらっと恐ろしいこと言わないでください。まあ壊さない程度に、ですね。ここ奏太さんの学校ですし」


 彼の学校でなくとも、あんまり派手に壊すと後がひどいことになるだろうけれど。


「じゃ、アタシはアタシらしくだね。アタシらしさってよく分かんないけど」


 ユズカは言いつつ、立ち上がって軽く体をほぐしていく。

 その動作に詰まりがないところを見るに、本当に体に支障がないらしい。


 大した身体能力だ、と改めて思う。

 そんな彼女をよく倒せたものだ、とも思う。


「——ああ、そういえば」


「どったの?」


 葵は近くに置いておいたリュックサックを手元に引き寄せると、中を探る。

 と言ってもほとんどの道具は使い切ってしまったため、すぐに目的のものは見つかった。


「なにこれ」


 取り出したのは、青い蓋のついた大きめのタッパー。

 早く中身を見せろとばかりにユズカが視線を送ってくるので、余韻に浸る暇もなく、開封。


「これって……!」


「栄養不足なんでしょう。寝不足はどうしようもありませんが、せめて食べてから行ってください」


 第一印象は恐らく、ぐちゃぐちゃ。

 けれど一つ一つを見ていけばその正体は分かる。

 レタスと卵、ハムを挟んだサンドイッチ。小さなグラタンと唐揚げ、ミニトマトの乗ったツナサラダ。それから——ユズカの大好物である、ハンバーグ。


生きるため(、、、、、)に食べてください。他でもない、あなたがそう望む通りに」


「——うん!」


 お腹を空かせているだろう、とつい数時間前に作ったから、もうとっくに冷め切ってしまっている。

 戦闘中、抱えて走り回っていたせいでぐちゃぐちゃになってしまった。

 だけど、良かったと葵は思う。


 涙で頰を濡らし、口いっぱいに食べ物を頬張る彼女が、今までの、どの時よりもずっと。

 幸せそうに、笑っていたから。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 息の止まるような攻防戦が、目の前で繰り広げられている。


「——っふ」


 時折聞こえてくるのは、少女から漏れる吐息の音。

 対する相手は、呼吸など忘れたように少女へと襲いかかる。


 そしてそれを見つめるシャルロッテは、廊下の端、離れた場所で見ているしかできない。


「シャロ、あれって……」


「ええ。『カルテ・ダ・ジョーコ』のジャックよ」


 今この学校で起きている事態について、正しく理解出来る者が見た場合おかしな光景だと言えよう。

 『昇華』を発動した『カニ』とジャック、同じブリガンテに属する彼女らが戦うなど、誰が想像しただろうか。


「裏切るって子じゃなさそうだし……なんか理由があんじゃねえの?」


「あ、それなら……シャルロッテお姉さん、あのこと(、、、、)でしょうか?」


「そうね、恐らくは。ワタクシ自身、ここまで協力してくれるとは思っていなかったのだけれど……」


 あのこと——『トランスキャンセラー』を止めた後の話だ。


 そのまま真正面から戦ったところで、人間である自分に勝ち目はない。

 ならば悪あがきにと、「この戦いが終わった後ならば、結果にかかわらず喪失者の情報を話しても良い」などと言ってみたところ、なんと見逃すだけでなく味方になってくれた。

 しかし一体、どういう経緯でそんな判断になったのか理解できない。喪失にこだわっているのは態度や反応からも明白なので、多少なりのアクションは見せると思っていたが……。


 まあ、疑問はさておき。協力してくれると言うのなら、惜しみなくその力を借りる他手はない。

 喪失者のことは説明に時間がかかるので伏せておくとして、


「ジャックには、今後のためになる情報を流してあげようとしたのよ。そしたら、なぜかワタクシたちに協力してくれることになった」


 ある程度かいつまんで説明をしておく。

 実際なぜか、という部分についてはシャルロッテたちが死んでしまってからでは遅いから——とか、そんな理由だろうから。


「……ただ、今の状況じゃジリ貧ね」


 眉間にしわを寄せたシャルロッテは、改めて自分たちの状態を確認していく。


 非戦闘員とでも言うべきか、シャルロッテ、ユキナ、茶髪の少年——名は平板秋吉と言うらしい——は『獣人』に対し、正面から対抗できるほどの戦闘力を持たない。

 芽空についても、元々限界を迎えていたこともあり、『トランス』はおろか激しい運動も難しいことから他の者とさして変わらず。

 つまり、『昇華』を前にすれば無力も当然で、この状況に対して何も出来ない。

 声を上げて飛び出していったところで、せいぜい数秒持てばいい方。結局最後は死体の山が出来るだけだ。


 では、唯一戦える『獣人』であるジャックについてはどうか。

 それが今シャルロッテがつぶやいた内容である。


「ジャックいわく、『昇華』を自分の意思外で発動できるのは数字——つまりキング、クイーン、ジャックを除いた者たちだけ」


「じゃあ……!」


 そう。裏を返せば、彼女は『昇華』を自分の意思で発動できず、『纏い』の身一つで『昇華』に立ち向かうことになる。

 同じ条件では現在の奏太がそれに該当するが、ジャックとの違いは大きく分けて二点。


 戦闘経験と、治癒能力の有無。


 素人目で見ても分かる。これらが欠けている彼女は、時間を追うごとに生傷を増やしており、動きが悪くなっていっている。


「——痛い」


「ヴオオオ——!!」


 声に抑揚がないため、緊張感に欠けるところだが……ジャックはどこかでぶつけるか何かしたのだろう、左膝を庇いながら廊下を駆け、巨体の腹に向け、金の尻尾を叩きつける。

 が、助走が十分でなく、『カニ』にダメージを与えるほどの威力にはなり得ない。


 こんなもの痒みにしかならない——そう言うように巨体は彼女を弾きつつ、流れでハサミを横端に構える。

 恐らく横薙ぎだろう、ジャックは後ろに体を引っ込めるなり、上に跳躍すれば当たらないはずだが、


「バカ、避けなさいっ!!」


 慌てて声を出したものの、時既に遅し。

 弾かれた衝撃に片膝をついていたジャック。彼女は次の行動へ移ろうとしたが、思うように体が動かなかったのだろう、半瞬の遅れがその身に出て——横薙ぎが、迫る。


「シャロ、お願い!」


「ああもう!」


 ハサミが彼女の小さな体を吹き飛ばすよりも、状況的にまずいと判断した芽空が放っていた何かが『カニ』に到達する方が早い。

 声に応じ、シャルロッテが駆けたのもその直後だ。


「——ッ!?」


 巨体から驚きと警戒の声が上がる。

 それもそうだろう。彼に衝突したのは、芽空が弱点を埋めるためとか何とかで用意していたロケット花火。そしてそこから広がるのは、いかにも怪しげな緑色の煙だ。

 彼と、ジャックとの間を遮るように煙が廊下を包んでいく。


 煙はただの目くらましに過ぎない。しかし、『カニ』が警戒のあまり身を引いた以上、シャルロッテを含めた二人が行動をするには十分だ。


「こんなの効くのかよ!?」


 煙に紛れて秋吉の声が聞こえる。

 まあ効かないし時間稼ぎにしかならないだろうが、今彼はさすまた(、、、、)をカニに向けて放とうとしている。

 確か大抵の学校に置いてある、不審者を取り押さえるためのもの……だったか。長い金属棒の先端が二股状に分かれた、殺傷能力のない補具だ。


 もちろん、ただ放っただけでは当たる期待など微塵も抱けないので、芽空から受け取っているであろう煙玉を全部『カニ』に向けて投げた後だが。


 どんどんと煙が濃くなるのを感じつつも、躊躇せずシャルロッテは駆けていく。


「…………よし、良いわよ!」


 危険な賭けではあった。

 が、どのみちジャックがやられれば次は自分たちだ。それならば彼女の危機を救った方が断然マシだろう……などと半ば平常心を失いながら動いて、たった今。

 巨体から距離をとっていたジャックの手首あたりを掴み、壁際に寄せる。


 直後、煙を切りながら槍投げの要領でさすまた(、、、、)が放たれた。


「ほら、立ちなさい。喪失について知りたいんでしょう」


「ん。分かって、る」


 その横で彼女を起こし、耳を澄ましてみるが、直撃した様子はない。どころか上に向けて弾いたのだろう、天井の揺れが煙の向こう側から伝わってくる。


「一旦ここを離れるわよ。あんたも疲弊しているんでしょう。それなら身を引いて、場を整えるべきだわ」


「分かった。じゃあ、離れる」


 素直過ぎる反応。

 まあ、変に意地を張られるよりはマシなのだが。


「ここまでやってくれるのなら、惜しみなく情報は渡すわ。だから最後まで頼むわよ」


 ため息まじりに、そんなことを言う。

 言って、「頼む」などと自分らしくもない言葉だと気がついた。

 今まであまり意識していなかったが、いつの間にか芽空や奏太たちに感化されたのか、気が緩んでいるらしい。つい数日前まで、自分以外の誰かに気を許すなどあり得なかったというのに。


 ……その辺りの決着も、一連の事件が終われば整理する時が来るのだろう。

 今は目の前、自分たちが生き残ることに集中すべきだと意識を戻して、


「危、ない」


 眼前に飛び出してきたハサミを、ジャックが下から突き上げて逸らすと、その直後、頭のすぐ上あたりに砲弾のような重量感が通り抜けた。


 ——心臓が、止まりかけた。


 声は驚きのあまり、喉の奥で詰まって出てこず。

 だが、それでも『カニ』は二人の存在に気がついたらしい、次の行動へと移った。黒い影が、急速で近づいて来るのが分かる。

 ゆえにジャックはシャルロッテを抱え、跳ぼうした。


 ——結果から言おう。

 その判断は正しかった。


「なっ……!?」


 さらに重ねて言おう。

 今この場において、訪れた結果を予想できたものは誰もいない。


 投擲出来るものは全て投げて後退する秋吉。彼よりも先に廊下の奥へと逃げていた芽空とユキナ。それから跳ぼうとしていたジャックと、その背を凄まじい速度で切り裂かんと迫っていた『カニ』。

 そして、シャルロッテ自身についても。


 だが、場に何が起きたのか、一番に理解した者がいるとするならば、それはすぐ目の前で彼女ら(、、、)の出現の瞬間を見たシャルロッテだ。


 ぱら、と何かが溢れた物音とともに天井が割れた。

 いや正しくは直後。


  上階から爆発的な速度で落ちてきた人影に、天井が突き破られた。

 煙を吹き飛ばし、後の被害などこれっぽっちも考えず、声一つ出す暇など与えず、『カニ』の巨体を瓦礫の雨で埋めながら。

 そして、


「…………お姉ちゃん?」


 真っ先に反応を示したのは、動揺と期待の入り混じったユキナ。

 彼女の呟いたその呼称は、どうやら芽空の同意も得られるものだったらしい。二人から視線を剥がしつつ、再び落下物に対して疑問を向ける。


「……あんたは。あんたたちは?」


 ここまでの情報からして、確信に近い推測はあった。二人の反応も正しいものなのだろう。が、問わずにはいられなかったのも事実。

 『カニ』から、シャルロッテとジャックを守るような形で現れたその人物たちは、顔を見合わせて、


「ね、アタシって何て名乗ればいいの?」


「飾らず、そのままでいいんですよ。あなたには肩書きなんていらないと、そう言ったでしょう」


「ふーん。じゃ、それなら——」


 結論を出したのだろう。

 クリーム色の髪の少年に頷く蜜柑色の髪の少女が、にっと笑みを浮かべながら振り返った。



「————アタシはユズカ。この人に()を奪われた、ただのユズカだよ」

 


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