第三章66 『青く揺らめく炎』
コツ、コツと戦場には場違いなほど軽やかで大胆な足音が廊下に響く。
細身のすらっとした長身の女性だ。彼女は、上下階から伝わってくる戦闘の壮絶さに一切の怯みも見せず、歩く道のりに一切の疑いと迷いも持たず、その表情にただ薄い笑みだけを浮かべて。
彼はこの状況をさぞ楽しんでくれていることだろう。彼を取り巻く者たちと、かのお嬢様。それから——その中に潜む、『改変者』についても。
「——おい」
自分たちと違い、表立って行動しないあたり、やはりそうしなければいけない理由があるのだろう。確か、報告にあった獣の極致についても、相手をしたのはあの少年なのだったか。
「おい、止まれ」
となれば最初の見当通り、次の『改変者』の目的は自分たちと同質のもの、か。
かの者の、その考えに至った経緯についてはあまりに矮小的な、視野の狭いものであるため失笑ものではあるが。
しかし、直接的な接触をする気はないが、同じ目的であるのならば利用する以外の手はない。いずれ詳細部分まで把握できるのだし、こちら側からわざわざ手を下す理由もない。
『計画』に支障はない。
手に入れるべき駒と状況は、既に揃いつつあるのだから。
「止まれって言ってんだろ、そこの女!」
ぴた、と足を止める。
顔を上げればそこには複数人からなる、警備を担当する男たち。いずれも子どもで中高生であるにもかかわらず、表情や仕草などに日々の苦労がにじみ出ており、年齢が一つか二つ、大きく見える。
自分からすればそれらは所詮、「俺たちは世間から外れてるんだ」「俺たちは悪くない。悪いのは力を抑えようとする世界だ」——などと、適応出来ないことの言い訳から来るものであり、用意された舞台で踊らされる哀れなピエロでしかないのだが。
「お前がアザミさんの言ってたラインヴァントって連中か? 『獣人』だろうとここは——」
男の一人が前に出てきて、こちらの襟首を掴まんと腕を伸ばして来る。
女性はそれにゆっくりと、長くため息を吐いて一歩後退。右腕をすっと上げて、
「————ひれ伏しなさい」
凍える、低い声が響いた。
それをきっかけに、理を外れた超常の力が産声を上げ、『未知』となって世界に干渉し始める。
不可能を拒絶し、現実が書き換えられ、存在するはずのない事象が現出した。
最初は、先頭に立っていた男。
彼の体がぐらと揺れ、平衡感覚を失ったかと思えば、その後ろが、横が、数人が、全員が。拡散するようにそれは広がっていき、皆が皆、重力のまま地面へと倒れた。
抵抗一つ出来ないままに、意識の全てが刈り取られた。
「私の道を妨げることなど、貴方達に出来はしないわ。紛い物を使おうとしている時点で、ね」
もっとも、『獣人』であったとしてもそこらの中途半端な相手であれば、彼ら同様に声一つ上げられずに終わるのだが——どのみち同じことだ。
そのまま彼らを一瞥、女性は歩を進める。
男たちを避けつつ、ふと意識を体に向けてみるが、体調に乱れはない。呼吸一つにもこれといった変化はないし、せいぜい変わった部分といえば、
「あら、起きていたの」
警戒と疑問の入り混じった視線を感じ、思考を途中で中断する。
それは物理実験室と記された教室の内部から、今しがた入ったばかりの女性に対して向けられたものだ。
「体調はどう? 意識や記憶に混濁はなく、はっきりとしているかしら?」
くすくすと、口元を隠して笑いつつその視線——仕立ての良い服に身を包み、両手足を拘束された男に応じる。
「貴方の名前とHMA、ブリガンテ。世間は『獣人』の出現に大騒ぎだけれど、貴方には何も出来ない。心中お察しするわ」
しかし内心はどうあれ、こちらの言葉にすぐに冷静さを取り戻し、真剣な表情を作れる程度には余裕もあるらしい。彼の場合は、当主として場数を踏んでいることも関係しているのだろう。
とはいえ。それでも彼の疑問が晴れるわけでもなし、彼はわずかに目を細めて、
「……君は」
「——あぁ、この姿じゃ分からないのも無理はないわね」
彼からすれば、目の前にいるのは、見張りの男たちを難なく倒して入ってきた女性。面識がないにも関わらず、自分に親しげに接してくるとなれば、彼が心の内で警戒を解けないのも当然だ。
だから女性は、ぱちんと指を鳴らしてみせた。
「——っ」
二度目の干渉。
厳密には、『なかったはずの事象が消失し、あるべき現実へ戻った』。
簡単な変化だ。
先ほどまで特段珍しい色でもなかった髪色が、目を惹く程繊細で柔らかな、明るいものへと変わったというだけで。
ただ、付け加えて言うならばそれは、彼にとって一瞬で表情を変えるほどの効果があった。現象よりも、ヴェールを外した女性に対して、だ。
「——、どうして君がここにいるのか、聞いても?」
「あら、私の立場を考えれば、ある種一つの選択肢でしょう。もっとも、彼らは交渉よりもその先に望んでいるものがあるようだけれど」
そんなことを聞いているわけじゃない、と言いたげな顔だ。
さしもの彼でも、自分がここにいることに動揺は隠せないらしい。
まあそれもそうだろう。誰もこのタイミングで現れることなど想定していないだろうし、本来ならこの対面はあり得なかったはずのものだ。
「先ほど見せたのは……まさか、例の?」
「ええ。話が早くて助かるわ」
「……研究職としては、あまり信じたくはなかったんだがね。しかし、こうして私のところへ来たということは——」
「それもご明察の通りよ。とはいえもちろん、私がここまで来た目的はそれだけじゃないのだけれど、貴方に行使することに変わりはないわ」
こんな状況でも未知に対して瞳を輝かせているあたり、彼は生粋の研究好きだ。それで抵抗や躊躇いが生じるわけでもないが、迫る終わりに対して潔い在り方だと言えよう。
「けれど、一つだけ否定しておくわ。貴方の想像する終わりは正しいと言っても、それは表層だけ。中身は異なるわ」
「……? そうすることに、何の意味が?」
沈黙。
女性は肩にかかった髪を後ろに流しつつ、彼を見つめる。
「最後に何か、言い残すことはあるかしら?」
「それなら、彼らに手を出さないでくれるかな」
「分かったわ。私は彼らと、貴方の大切な妹には手出しをしない。立場も肩書きも抜きにして、一人の人間として約束しましょう」
笑みを交え、三度目。
今度はやや時間をかけて『改変』を行った。
あるべき欠片は形を変え、あり得た未来は進路を違え、起きるはずの消失がなくなった。
そして残ったのは、意識を失った青年と、光を確かめるように瞬きを繰り返す女性だ。彼女は短く息を吐いて、
「……貴方は必要な存在なのよ。私たちの計画にはね」
最後に一言だけ言い残し、くるりと踵を返して去っていく。
誰にも観測されないまま、ただ世界の事実のみを歪めて。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
体が地面の底から引き寄せられるような感覚。
「————」
混濁としていた意識が一気に鮮明になり、希美はぱちと目を開ける。
それから、周りを見渡す。
「ここ、は……」
見覚えがあるような、ないような部屋だ。
転がる割れたビーカーに、引き裂かれたカーテン、粉々になった黒板。それから、奥から飛んで来たのだろう人体模型。
姉の高校には一度見学に来た程度なので、はっきりとは分からないが、理科室のような場所だ。
どうして自分が今、そんなところで寝ていたのか。意識を失う前の記憶が、少しずつはっきりとしてくる。
自分はセブンと名乗る幼少年と戦っていた。言動こそ元気な子どものそれだったが、彼はこちらの能力を把握していたようで、一定の距離を保ちつつ、緩急をつけた攻撃で安全圏から攻撃を繰り出され——、
「白蛇に、私は……」
敗北した。なす術もなく、だ。
『纏い』により強化された体術で飛ばされ、激しい衝突ののちに地面を転がり今に至る。
手のひらを軽く握ろうとするが、体にぼんやりとした痺れが残っていて、力が入らない。頭は鈍く痛み、耳の奥に何かいるのではないかという、異物感もある。だが、立ち上がるには十分だ。
頭を抑えながら壁に手をつき、立ち上がる。
「倒さなきゃ、いけない」
恐らく、今この場で自分が無事でいられたのはオダマキのおかげだろう。
彼が『カルテ・ダ・ジョーコ』の二人をここから引き離したことで、彼自身も希美に意識を割かず、戦闘に集中できた……のだと思う。
だからこそ、希美はふらつく足取りのまま急ぎ足で歩く。
理由は二つ。
一つ目は時間だ。ちらと視線を動かし、現在の時刻を確認すると、ちょうど十七時を回ったところ。戦闘が始まったのが二、三十分ほど前だったことから考えるに、既に彼らの決着がついていてもおかしくはない。
だというのに、オダマキはこの場に姿を現さず、どこか——同階か隣階かは分からないが、割と近場から騒音と声が聞こえてくる。
はしゃぐ子どものような声と、やや口の悪い低い声。三人目がないあたり、気になるところではあるが、少なくとも二人は今も戦闘を継続中。ならばこそ、二つ目の理由がいっそう体に力を込めようとする。
「姉さん……」
乱れた髪など気にせず、そのまま廊下へ出る。
頭に浮かべるのは敬愛し、貪愛する姉の姿だ。
彼女は何だって持っていた。街を歩けば誰もの目に留まるような容姿、身長は女性にしてはやや高く、起伏に富んだ体つき。成績は人並み以上に良く、『トランス』を含めた運動能力も高い。人当たりも良く、年上年下、同性異性、人間『獣人』、誰からも好かれていた。
その上で親友だった梨佳や、妹である自分にまで優しくしてくれて。いつだって格好良く、正しかった。
貴妃なんて似合わないものじゃなく、希美という可愛らしい名前をくれた。
そんな姉を持っていたから、希美は思うのだ。
彼女の水色も白色も、人間の姿も『獣人』の姿も、何者にも侵されてはならない絶対なのだと。
もちろん、奏太についても思うところがないわけではないけれど——彼とは約束の件もある。だから今希美がすべきは、理由の二つ目。
紛い物であるあの黄ばんだ白を、セブンを倒す。白イカのファイブを倒した時と同様に。
「——あははっ! どうしたのお兄さん、動きが鈍くなってるよ?」
「う、る……っせぇ!」
そして目的の相手はすぐに見つかった。
瞬間、燃え上がるような怒りが体の奥底から湧き上がってくるが、それを無理くりに抑え、壁を背に隠れる。
「まさかアレが壊されるなんて思ってもみなかったけど、お兄さんたちも思わなかったでしょ。僕たちも『昇華』を使えるなんて」
そっと顔を出して覗き込むのは、教室の中だ。大きな地震でもあったかのように机と椅子はひっくり返り、飛ばされており、その嵐の中で二人の人影が争っている。
そしてやはり、もう一人の影は見えない。アレが指すものが何かはともかくとして、頭から血を流すオダマキともう片方。三頭を持つ巨大な白蛇の姿と声には覚えがある。
彼自身の発言と奏太から聞いていた情報も合わせると、あの幼少年が『昇華』とやらを発動した、ということで間違いないはずだ。
そしてその実力に偽りはない。
破壊された教室の惨状と、オダマキが速度についていけず、とうとう壁際まで追いやられたことを見れば明らかなのだから。
「お兄さんも残念だよね。ただでさえ残り時間が少なかったのに、『トランス』を封じられて、プライドを捨てて命からがら逃げても、こうやって『昇華』で追い詰められてさ」
「勘違いしてんじゃねぇぞ、こら。あれは戦略的なんとかだ。ビビって逃げるなんざ、オッレがするわけねえだろうが」
……戦略的撤退、と心の中でツッコミを入れる。
確かにたった数日の付き合いとはいえ、性格を考えれば彼は敵に恐れを抱かない気がする。むしろ果敢に突撃して敗戦すらあり得る。
それでも彼が今生き残っているということは、これまでは力技でどうにかなってきた、ということなのだろう。『昇華』には通用しないというだけで。
「お兄さん、元々あんまり長く『トランス』の力使えないんでしょ? だから部分的に強化して戦ってた。そうだよね?」
「……さぁな」
「とぼけたってもうバレてるよ。今だってもう解けかけ。残念だったなあ、僕はもっとお兄さんの動き見ていたかったんだけど」
なるほど。彼が追い詰められているのはそのせいもあるのか。
——『トランス』は適性もあるが、基本的にはスタミナのようなものだ。使えば使うほどそれは消費されるし、一定量を超えれば体調にも支障が出る。『憑依』、『纏い』と段階を踏んでいくごとにそれだけラインを超えるまでのスピードは速くなっていくからこそ、梨佳や奏太も節約をしている。
もっとも、奏太やユズカといった適正、スタミナが並外れたものである者たちは、本来節約の必要などないほどなのだが……まあそれはともかくとしてもだ。
オダマキはスタミナが低く、逆に『カルテ・ダ・ジョーコ』のメンバーはスタミナが高い。だからオダマキは『部分纏い』で節約し、セブンは『昇華』を使っていてもしばらくは問題ない、ということなのだろう。
そしてそこから導き出されるのは、一つの結論。
「このままじゃ死んじゃうよ、お兄さん」
「『纏い』が使えりゃ二階だろうと四階だろうと、百階だろうと死なねえことくらい分かってんだろ、こら」
「でもその『纏い』はもう表面に出すだけで精一杯。解けたら人間と同じなんだから、僕が本気で突き飛ばせばお兄さんの体じゃ耐えられないよ?」
希美は頭を引っ込め、正面を見つめる。
視界いっぱいが横一線に壊されていて、窓も壁も、本来の目的を為せていない。風が外から漏れてきて髪がパタパタとなびいて鬱陶しい。
「————」
時間を確かめる。
現在時刻は十七時を数分過ぎたところ。目覚めてから十分ほど経過して、最初の戦闘が始まってから三、四十分。ここまで希美が無事でいられたのは、彼が二人を相手取ってくれていたからだ。
蓮を第一とする希美ではあっても、恩を受けて何も思わないわけではない。きちんと恩は返したいと思う。
だが、先ほど怒りを抑えて身を引っ込めたように。感情そのままに真正面から突っ込むのは自殺行為に等しいと体が分かっている。
実際にそれをやったのが気絶する前なのだから。
ならばどうすればいい。
この空間の中で使える武器はなんだ。『トランス』の限界が近い手負いのオダマキと、彼に比べればまだ被害は浅いが、ダメージの残っている希美。対するは『昇華』で強化されただけでなく、自分たちの弱点も知り尽くしているセブン。
彼を倒す手段。何でもいい、倒せるのならば何でも————、
「……あった」
小声で、呟く。
手段を選ばなければそれはあった。だから希美は腹の中にある異能の力に呼びかける。
ぽう、と明かりでも灯るように体が青く光り、至る所から千切れるようにして蝶が溢れ出した。
体はまだ本来の調子を取り戻してはいないが、記憶が正しければ何とかなるはずだ。体の周りをひらひらと飛ぶ蝶を動かしつつ、改めて教室へと視線を向ける。
「あ、そういえばお兄さんに聞き忘れてたことがあるんだ!」
「あぁ?」
「ほら、僕は『ヘビ』って名乗ったけどさ、お兄さんの動物って聞いてないでしょ? 最後に聞かせてよ、僕動物好きなんだ」
三頭の蛇はいずれもこちらを向いていない。どうやら、自分と違って彼の頭はそれぞれに意識を持っているわけではないらしい。
——今のうちだ。
相手の反応はともかく、楽しげに話しているセブンは窓際のオダマキにしか視線を向けていない。となれば当然、彼は入り口側にいる希美に背中を向ける形になる。ゆえに希美は三十ほどの『青ノ蝶』を、彼の背後を守ったまま音もなく移動させる。
「——話さないのなら話さないで、寂しいけど、まあいっか。お兄さんみたいな人を倒せて、僕は嬉しいから」
完全に油断仕切っている。
あとはオダマキが変に反応を見せなければ良いのだが、そこについては問題がなかった。オダマキもオダマキで煽る発言に対して本気で怒っていて、徐々に近づいてくる青に気づいていない。
『青ノ蝶』には梨佳の提案で、よく磨かれたワイヤーを取り付けてある。たとえ『昇華』であろうとも、不意打ちで刃物を食らえば例外なく皮膚が裂け、全身が火を吹くような痛みに襲われるだろう。
ワイヤーが大蛇の首に迫り、その命を狙わんとして、
「————仕留めた、って思った?」
ぎょろりと。瞳を剥いた三頭がこちらに振り返り、鞭というより戦斧でも振り回すかのような薙ぎが蝶を押し潰し、殺した。残り僅か数十センチ。寸前のところで。
「お姉さんがいることくらい、僕は気づいてたよ。だから不意打ちは効かな——っ!?」
だが、それだけでは終わらない。
希美は両肩に爪を立て、唇を噛みながらも意識を保つ。
後方からの不意打ちの一撃は、それで終わりの切り札などではない。次の攻撃のための、目くらまし。
三頭一身のセブンに対し、全方位から迫る『青ノ蝶』。それが希美の本命だ。
「わ、どこから、こんなに!?」
「簡単な……っ、話。外から、移動、した」
——希美の『青ノ蝶』は異質だ。
他の『獣人』たちとは違い、希美は体の中にある動物そのものを体現、動かすことができる。それも、感覚と意識を共有した状態で。
とはいえ、全部動かせるわけではなく、無数にある蝶のうち、感覚と意識を割けるのはせいぜい三体まで。その他は単純な命令しか出すことができない。
しかも厄介なことに感覚は多少の割引などなく、過不足なく直接伝わってくる。つまり蝶だからといって殴られればそれだけのダメージがあるし、先ほどのように攻撃を受ければ体が全壊する痛みを味わうことになる。
が、それらのデメリットを除けば、希美は小さな軍隊を持っているようなものだ。
意識を割ける三体の蝶で無数の蝶を指揮し、動かせる。たとえば最初に三手に分かれて、うち一体の指揮者には廊下の壊れた壁から外に出てもらい、廊下側の窓へと回り込んでもらうのも。
あとは簡単だ。不意打ちに彼が振り返る間に蝶を窓から入れ、正面の第二陣を追加してやるだけで全方位からの斬撃が完成する。
「さっきは、何も、出来なかったから」
「お姉さんって澄ました顔なのに、結構根に持つタイプなんだ? 僕、悪いことしちゃったかなぁ?」
当たり前、と頷こうとして気づく。
「……?」
セブンの様子がおかしい。嬉しい誤算などではなく、むしろこちらにとってはその逆。
青の斬撃に対して彼は一切の焦りを見せていないのだ。
幼少年と言えども、触れることの危険性に関しては理解しているはず。先ほどの薙ぎは一方的なダメージではなく、セブンにも確かにダメージが入っているのだから。
ちらと見やれば、確かにその尾先は鋭いワイヤーに触れたがゆえに鱗ごと裂け、液体を流している。
『ヘビ』であるということを考えても、アザミの『銀狼』とは耐久に差がある。だから、計二百近くある蝶の群れを受ければ、たとえ部位がどこであっても無事では済まない。
「ねえねえ、お姉さん。確かにこれさ、食らったら僕も泣いちゃうくらい痛いと思うんだけどさ」
心を読んだように、セブンは楽しげな声を出す。
赤の瞳が、細められた。
「——食らわなければいい。それだけの力があるから、『昇華』は絶対の力なんだよ?」
狭まるワイヤーの方位。
先のような尻尾の薙ぎは使えない状況で、三頭の大蛇に出来ること。
それは、絶大な力を誇る『昇華』だからこそのものだ。
地面を滑るように尾が走ったかと思えば、丸まり、ちょうど頭の下に移動する。僅かに一瞬、その身が沈んだかと思えば、
「さ、これで終わりだよっ!」
体を縦方向に伸ばした三頭の獣が、天井へと牙を立て、一撃、二撃、三撃。それだけで破壊は事を成した。
上階との間を取っ払う攻撃が天井に穴を開け、さらに上へ三撃。計二層分の破壊の雨が降り注ぐ。
円状の方位斬撃に対し、円状の瓦礫。生まれる結果は、一つだ。
「っ、ぃぁああああああ!!?」
意識を共有していた蝶が潰れ、再び痛みが全身を支配した。
脳に直接電流を流したような熱が走り、目を剥き、絶叫する。
体が骨の髄まで砕け散って、何もかもが血の中に消える。痛い、痛い痛い痛い。耐えきれなくなり地面に倒れ、痛い痛痛痛、呼吸が出来な、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い——!!
「よく分からないけど、不思議な『トランス』だよね、お姉さんの。アザミさんも見たことないくらいだから、相当適性が高いんだろうなぁ」
誰かが何かを言っている。敵だ。倒さなければならない、敵。
地面を爪で毟り、叫びに喉が痛みを発していても、ダメだ。彼だけはどうにかしなければならないのだと、全身が叫んでいる。痛い、痛くてたまらない。でも、紛い物だ。敵だ。姉の白は汚されてはならない。黄ばんだ、偽物。許さない。絶対に許さない。逃さない。世界を、彼を、自分は、希美は、
「でもさ、さっきも言ったでしょ?お姉さんの攻撃は遅すぎる、って。だって蝶だもん。『昇華』を使わなくても見切れるような攻撃なんだから、対処できるのは当たり前だよ」
————それがどうした。
脂汗がどっと吹き出した頭を抑え、希美は血走った目を彼へと向ける。
髪をかきあげ、蝶の全てを体内から放出、意識を共有しないままに正面からぶつける。
「こ、怖いよお姉さん。さすがに僕も女の人に睨まれるとは思ってなかったけど……でも、ここまでだね。おやすみ、お姉さん」
希美はここまで、計二回殺されている。いずれも満足に避けきれなかった強大な威力の一撃。
本来ならあまりの痛みに耐えきれず、意識など保てるはずもなかった。
実際、先の二撃目には意識を根こそぎ奪われかけたくらいだ。
だが、それでも立っていられたのは、痛みを上回るほどの怒りがあったから。美水蓮という、ある種神格化した存在への執着。そこからくる怒りだ。
晴らすまでは何度殺されようとも立ち上がるし、希美は世界を許さない。だから、奪われかけた意識を、戻す。
「————は」
縦に一閃。
三体の指揮者のうち、最後の一体。上階に潜ませ、破壊されるのを待っていた蝶の一団が命令に従って。ごとりと、血しぶきをあげながら白頭が一つ、落ちた。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「…………っは、っはぁ」
強い胆力も虚しく、押し寄せる痛みにとうとう体が耐えきれなくなった。頭が揺れ、倒れる。
「あ、ぐ、あああ……!!」
体を失う感覚。それは何も希美だけではない。
今しがた頭を切り落とされた白蛇は、痛みに巨体を揺らす。
二回の死亡に対して一つの頭。やや重たすぎる取引だ。
おまけにもう、『青ノ蝶』は姿を消してしまった。体がついて行っていないのだろう、あるいはこれ以上続ければ本体にまで支障をきたしかねないという、防衛本能的なものか。
この手で葬りきれないのは悔しいところだが、彼が天井を破壊することまで想定しての一閃だ。上手くいかずに敗北……などという結果よりはずっとマシかもしれない。
「痛い、痛いよお姉さん。ここまでするなんて、最低だよ。頭が切断されるなんてどれだけ痛いのか分かってる? ねえ!」
終始楽しげだった声が一変。
年相応な、怒り一色で自分本位の声がこちらに向けられる。いったいどの口が言うのか、と言葉を返したいところではあるけれど。
伸ばした手は動かない。怒りに燃える体は、熱だけに留まり動かすには至らない。『トランス』も呼びかけたところで、返事がない。
「どうしてくれるの、ねえ、お姉さん! 僕、痛いんだよ! ねえってば! 寝てないでさ、ほら早く、何か言ってよ!!」
『ヘビ』が動けない希美へと首を伸ばす。二頭と尾は今も健在。となれば、残る手はもう、
「————おい、十一歳」
一つだけ。
希美が考えていた、巨大な白蛇を倒すための唯一の手段。それは、希美一人で完結するような戦いではない。
「お兄さん、もう『トランス』尽きかけじゃ……」
「それがどうした」
希美の前に、傷ついた少年が立つ。
「限界なんつーのは超えるためにある。てめぇらの当たり前なんざ、そこらのクソどもの考えなんざ、オッレには通用しねぇ。喧嘩も知らねえクソガキが、粋がってんじゃねぇぞこら!」
「……お兄さんが今立ちふさがったって、人間二人倒すくらい一瞬だよ? それに、お兄さんじゃ『昇華』に辿り着けない。僕に勝つのは無理だよ」
確かに、無理な話だ。
二人ともが限界まで力を使い切り、相手は一頭を失ったとはいえ、小細工一つでどうにかなる相手ではない。
でも、
「誰かの力を借りや、どうとでもなる。その頭が足りねぇんだよ、ガキ」
獣の極致に至る方法は、一つではない。
たとえそれが極致の紛い物で、ほんのひと時の夢のようなものであっても。
尊敬する姉の紛い物を倒すには十分だ。
「…………お願い。オダマキさん」
「任せとけ、美水妹。それから——力借りるぜ、白衣女」
希美の声に笑みを浮かべて応じ、オダマキはカプセル状の薬を口に含んだ。
瞬間、彼の体が弾かれるように揺れて————閉じ込められていた獣が解放された。




