第一章12 『前へ進むために』
六月になった。
ブレザーで身を包んでいた生徒たちが衣替えを始めると、教室は白と肌色で溢れかえり、それに奏太が心を躍らせたのは言うまでもない。
ブレザー越しでも目立っていた蓮の整ったスタイルは、夏服に変わったことでさらにその主張を激しいものとしていた。
ブレザーやセーラー服、あるいは学ランと言った制服は、体のラインを曖昧にさせてしまうところがあるのだが、その例外が蓮と言えよう。
もっとも、蓮とは別の意味で、曖昧にしようとしても目立ってしまう者もいるのだが、それはさておき。
普段目立たない子が実は、というある種の定番があったり、必死に体を絞って意中の子にアピールしたりなど、何かと騒ぎに事欠かない季節だ。
「さて、弁当弁当……っと」
どうもまだ見慣れない夏服に目をやるのをやめて、昼の栄養補給に取り掛かる。
「——お前、怒んないの?」
「え?」
弁当を広げ、空腹のお腹に栄養を与えようとした矢先、飛び込んで来たのは秋吉の怪訝な声だ。
購買から帰って来たのだろう、その片手には商品の入ったビニール袋が下げられている。
「ほら、美水って男女関係なく話すだろ? 嫉妬とかしねえのかなって」
「あー……」
蓮と付き合い始めて二週間程が経過したが、二人は近しい人間のみにしか付き合っていることを明かしてない。
奏太の場合は、それが秋吉であり、さも当然かのように彼が話したのはそのためだ。
「俺、怒るってよりかは悲しむ方なんだ」
「確かに奏太が怒ってるのは見たことねえな」
「それにさ、蓮は蓮の生活があるんだから、それを妨げたくないんだ」
彼氏、と言う立場を考えると怒るべきなのかもしれないが、自分でも不思議なほどに、嫉妬や怒りは湧いて出てこなかった。
そもそも最後に怒ったのはいつだったかが思い出せず、ぼんやりと過去を思い返そうとして、
「んー、寛容なのは良いけど……いや良くないわ。うかうかしてっと誰かに取られんぞ?」
「それは泣く」
「お前は女か」
しかし実際、秋吉の言う通り、蓮に好意を抱いているものは決して少なくない。
この二週間改めて彼女の周りを見てみると、奏太にはそれがよく分かった。
というのも彼女の元来の容姿に加え、交友関係が広いこともある。
クラスだけでなく、部活動見学で知り合った子らや、委員会。加えて、SNS。これらが揃って彼女の名前はかなり知れ渡っている。
秋吉の話では、以前に彼女のことを妬ましく思うものもいたらしいが、周りの意見や、蓮の人格に触れることで次々に手のひら返しをしていったという。
彼女の周りがちょろいのか、それとも彼女の魅力がすごいのか、はたまた両方か。
「でも、奏太は公言する気はないんだろ?」
「まあ、言えば多少なりとも今の環境に変化与えるしな。それは俺が望まないし、何より」
「何より?」
「照れるだろ」
「お前は女か」
秋吉はそう言い、ふんわりと整髪料で整えられた茶髪をなでつけると、溜め息をつく。
それにつられるように奏太も自身の黒髪にさらりと触れると、改めて今の蓮との距離感を考え始める。
秋吉のような例外はともかくとして、通常の恋人はどのくらいの速さで次のステップに進むのだろうか。
次のステップ、それは手をつないだり、キスをしたり。あとは腕枕や膝枕。それからそれから、と次々に恋人らしい行動は思い浮かぶのだが、一体どういう順番でやっていいのかが分からない。
もっとも、膝枕に関しては、付き合う前から体験しているのだが、それはさておき。
何か、今の仲を発展させるものでもあれば、と悩む奏太に活路を見出させたのは、秋吉だった。
「何ていうか、本当初々しいな。俺も昔はそんなんだったけど。デートとかしねえの?」
デート。それは付き合い始めた恋人たちが街へ、あるいは娯楽施設へ行き、思い出となる時間を過ごすというカップルにとって重要なものである。
「…………それだ」
奏太は小さく呟く。
どうやらその呟きを聞き取れなかったらしい秋吉が、何事かと問いかけてきたので、
「誘ってみる、デートに」
嬉々とした表情で奏太はそう答えた。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
アスファルトの地面の上、夕陽に照らされる二人の影が重なっていた。
昼間の熱気はすっかりと鳴りを潜めて、涼やかな風が二人の間を駆け抜ける。
学校からの帰り道、友達の家に行くという蓮を途中まで送って行くことにした奏太は、そこで彼女にデートの提案をした。
場所は中枢区の娯楽エリア。明後日の土曜日。
ちなみに詳細な計画は、秋吉の協力のもと練りに練って作られたものであり、よっぽどのことがない限りは失態を犯さないはずだ。
だから、誘えるかどうかが問題だったのだが、
「うん、私も行きたい」
蓮はその表情に照れを浮かべながらも、あっさりと承諾した。
その返答に驚きがないわけではなかったが、秋吉に言わせるならば、付き合ってるから当然と言えば当然なのだろう。
「私も、ね。二人で一緒にお出かけしたいって思ってたんだけど、なかなか誘う勇気が……うん。奏太君、誘ってくれてありがとう。助かりました」
そう言って蓮は顔を赤く染めて俯く。
これもこの二週間程で気づいたことだが、彼女は恋愛面においてかなり奥手だ。
奏太も蓮と同じく、付き合うという事自体未経験であったのだが、行動力があるが故に、自然と引っ張る形となっていた。
その行動力には、彼女の前では格好をつけて見せようという奏太の意思も、少なからず関係している。
「どういたしまして。まだ早いって断られるんじゃないかってヒヤヒヤしてた」
「そんなことないよ。まだ手をつないだりとかはその、難しいけど」
嫌じゃないから、と彼女は続ける。
格好をつけようとしていたはずが、油断していたところに愛らしい様子を見せられ、奏太は思わず手で顔を覆った。
「どうしたの?」
「照れてる」
顔に熱が集まって、徐々にその色を変えていく。そして茹でダコのようになったところに追い打ちがかかる。
「——奏太君は、手繋ぎたい?」
蓮は立ち止まってそう問いかけた。
慌てて止まると、顔を覆っていた手をどけて振り向く。
「————」
そして、目と目が合った。
風に流れる薄青の髪を抑えた蓮の頬は紅潮しており、しかしそれでも目を離そうとしない。
彼女の細く白い腕の先、長く綺麗なその手を、指先をちらりと見る。
彼女は嫌じゃないと、さっきそう言った。ならば、手を繋がない理由は、照れによる抵抗感を除けばないはずだ。
それなら、と息を飲む。
「…………蓮」
体中が熱くなり、わずかに汗が滲み始めるのを感じる。そして、手を彼女の方に伸ばして————
「よっす、蓮。遅いから迎えに来たぞー」
背後から突然声がして、肩をビクリと震わせ、伸ばしかけた手を慌てて引っ込める。
それから背後を振り返ると、
「……って、なんかあーし邪魔したっぽいな。もしかしてキスでもするとこだったか?」
腰あたりまである紺色の髪を上の方で束ねた、所謂ポニーテールを揺らして頬を掻いたのは、シャツを肘あたりまでまくった女子生徒だ。
シャツのデザインを見るに、間違いなく他校の生徒だろう。
ややつり目気味の翠眼に、右耳につけられたイヤリング。
第二ボタンまで開けられたシャツは、彼女の豊満な体をさらに際立たせており、蓮とは別の意味で異質な存在感を放つ女性である。
蓮が可愛い系なら、前方の彼女は大人の色気を醸し出す美人系、だろうか。
しかしながら、全身から漂う大人の雰囲気に反して、その表情はまさに困ったと言いたげなものだ。
「キスじゃないよ、梨佳! これは、うん。その、手をね、繋ぐところだったの」
顔を真っ赤にして慌てて否定する蓮だが、その言葉に奏太まで顔を赤らめる。
確かに彼女の言う通り、手を繋ごうとしていたのは確かだが、口に出されるとそれはそれでどうにも恥ずかしいものがある。
対して目の前の女生徒はこちらにぺこりと頭を下げており、思わず驚きの声が出た。
「悪い。三日月奏太、だったか。あーしが迎えに来たから二人の邪魔したみたいで」
「えー、と、手繋ぎたかったのは確かだけど……大丈夫だ。また別の機会にするから」
慌てて言葉を返したがために、後で頭を抱えて叫びたくなるくらいのことを言ってしまったが、
「……そっか。蓮の話通り、いい奴だな。蓮のこと、よろしく頼むな」
八重歯を見せてニッと笑うと、彼女は手を差し出してくる。
梨佳、ということは、奏太の名前を知っていたことからも、恐らく蓮が前に言っていた親友のことだろう。
それならば、今この状況で手を差し出してくる理由にも納得が行き、
「絶対に、幸せにします」
差し出された手を握り、奏太は意思を受け取ったことを握手によって彼女に伝える。
それがちゃんと伝わったのだろう。彼女はふっと笑うと、温かな目でこちらを見たかと思えば、ふいにその表情が引きつったものになる。
「…………二人は何やってるの?」
振り返った先、蓮はじとっとした目で奏太と梨佳が握手しているところを見つめていた。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「それじゃ、またね。奏太君」
奏太は手を振って蓮と梨佳が行くのを見届けると、来た道を引き返す。
「しかし……」
正直手を繋ぎたかったところではある、が、蓮の親友の前で再びそれを行おうとするのはなかなか勇気がいるものだ。
今日繋げなかったことから、次につなぐ可能性があるとすれば、明後日辺りだろうか。
「————」
鼻から深く息を出し、空を見上げる。
——何にせよ、明後日だ。
明後日のデートで、手を繋いでみよう。親密になって、前よりももっと彼女を好きになろう。もっと知ろう、彼女を。
奏太はそう、心に決めた。