第三章56 『弱さの矛先』
「——っは、っはぁ」
第一校舎と第二校舎を繋ぐ渡り廊下を荒い呼吸音が走る。
数は一つ、白金の少女だ。
時折後ろを振り返り、第二校舎まで渡り切ったところで一瞬安堵の表情を見せるが、
「待てやクソガキィ!」
その直後、少女を追いかけてきたガラの悪い男が第一校舎側からこちらに目掛けて走ってくる。
発言内容と彼という存在に対し、少女は綺麗な顔に似合わぬ舌打ちをするが、それをしたところで彼が止まってくれるはずもなく。
少女はくるりと正面を向き、階段を下りるか奥へ進むか、一瞬迷うようなそぶりを見せてから後者を選択した。
後ろから騒がしく声が聞こえてくるが、所詮は民衆の中でもとりわけ身の程知らずで野蛮な犯罪者。そう言い聞かせることで、焦る心を落ち着かせていく。
「ここまで逃げれば……っ!」
——もう大丈夫だ。
などと言えたら良かったのだろう。
進んだ先、左右に分かれた廊下を左に曲がろうとして、少女は自らに向けられる強い圧迫感のようなものを感じ、慌てて足を止めた。
それは曲がりかけた左から出てきた人影。そこから少女を掴まんと伸ばされた左腕はギリギリのところを掠めるだけで、空を切る。
「チッ、これを避けるかよ」
「お生憎様ね。ワタクシは運動能力には自信があるのよ。伊達に昔から動いていたわけじゃないわ。……あぁ、あんたたちのように何の目的もなく日々を浪費している輩とは違ってね」
「てめっ……!」
少女は慣れた調子で前方の男に悪態づき、鼻で笑ってみせるが、状況としては芳しくない。
どころか、追い詰められたと言っても良いだろう。
「ようっ、やく追いついたぞ! お前が侵入者ってやつだな!?」
「あん? ってことはさっきのも嬢ちゃんの仲間か」
「————」
後方からは、第一校舎からわざわざ追いかけてきた息絶え絶えの柄の悪い男。前方には、納得がいったと何度か頷いてみせる同じく柄の悪い男。
二人に少女は囲まれていた。
少女はどちらが動きを見せても対処出来るよう、半身になって二人を警戒するが、
「逃げられると思ったら大間違いだぜ? 相手が『獣人』だろうと対処できるように俺らは体を強化してんだ」
「いや、待てよ。さっきのやつ……つってもお前知らねえだろうけど、こいつなかなか綺麗な顔してんじゃねえか」
それぞれが力の誇示を、あるいは下卑た笑いで少女に反応を見せる。
「侵入者を止めろ、とは命令されたけど、どう止めるかは言われてない。……そうだろ?」
「————」
共感を求める声にもう片方も頷き、少女を捕まえようとじりと男たちが近づいて来る。
命とはまた別の身の危険に対し、少女は動けないでいた。
『獣人』でない少女には、抵抗する手段があっても男二人にはどうしようもない。普段の偉そうな口調も姿形を失ってしまい、なすすべもなく身動きが取れないようにされ————。
「……あんたたち、本当にどうしようもないのね」
「なに?」
否、迫る手二つを少女ははたき、ため息を吐く。
いずれ来る光景に対し、少女が浮かべたのは怯えや後悔、抵抗などではない。
眉は限界まで寄せられ、頰はひくつき、唇は尖り。呆れと怒りの入り混じった、不快感だ。
「下卑た視線に下衆で下品な思考。このワタクシが美しいからと言って、どうしたらこんなところで発情できるのかしら」
少女は続ける。
「しかも、あんたたちが持ってる『それ』はあんたたちのものじゃない。弛まぬ努力を繰り返し、その先に身につけた結果じゃない。借り物の力よ。……卑怯な手で自分を取り繕って、恥ずかしくないのかしら?」
「……っ! 俺らに説教食らわせたって二人には敵わねえだろうが!」
「ええ。ワタクシに出来るのは、ワタクシがワタクシとして積み上げてきたものだけ。けれど————あんた達の嘘を剥がすことは出来るわ」
「——!?」
少女が笑みを浮かべた直後、空気を裂くような鋭い音が走った。
それは数秒続いたかと思えば、渡り廊下側にいた男が倒れたのと同タイミングで跡一つ残さず消えてしまって。
唯一、状況に変化があったと証明できるのは、倒れた男が全身をガクガクと痙攣させ、話すことすらままならない状態である、という光景のみだ。
「何が……」
何が起こったのか分からない。
対面にいた彼の心境は、まさにその一言だろう。
意識が朦朧としている倒れた本人ですらも、『誰に』攻撃を受けたのか分かっていないのだ。彼が理解を出来るはずもない。
ゆえに、
「無駄だと思うけど、忠告をしておくわ。自分の体の状態を把握出来ているのなら、今すぐここを去りなさい。ワタクシにとっては同情の余地もない下衆だろうと、弱虫にとっては別物なのよ」
少女は薄金の髪を指先で弄びつつ、残った男へと退屈そうに視線を向ける。
どうやら彼は突然の状況の変化に頭が追いついていないらしく、口を何度もパクパクと開閉していたが、
「——ぉ、お前を捕まえればぁ!」
「そう、理解する頭が足りないようね」
ヤケになったか、両腕で少女に襲いかかる。
分からないものを放棄して、見えないものを見ようとしない。その時点で彼の負けは確定だ。
幾筋の可視化された閃光の刃——スタンガンが彼の腹を打ち、抵抗出来ないままに体はぐらりと倒れ、結果地に伏した二人の男が廊下に転がった。
「……紛い物の強さにあぐらをかいた結果よ。せいぜい後悔なさい」
少女は吐き捨てるようにそう言うと、転がった男たちの体を飛び越えつつ、先ほどの階段を極力音を立てないよう気をつけながら降りる。
その途中でポーチから小型のタブレットを取り出し、手すりの裏に強力粘着テープで貼り付けると、今度はそのまま来た道を戻って男が待ち伏せていた曲がり角へ。
そのまますぐそこにあった女子トイレに入り込んだ。
「————来た」
それから十数秒の間を挟んで、廊下の反対側から動揺と警戒の入り混じった声が響いてくる。
騒ぎを聞きつけてきたのだろう、駆ける足音は平常時のそれではない。
少女はそこで息を殺しつつ、外の様子を伺う。
「——おい、どうした!?」
「二人ともやられてる。まだ近くにいるんじゃないか?」
声と足音から察するに、駆けつけたのは四、五人といったところか。ちょうど角で見えない位置になっているので、正確な数は分からないが……それでも十分だ。
少女は空中に拡張現実を起こし、仮想のアイコンに何度か触れると、
「————おい、お前ら。ちょっと静かにしろ」
数人の中の一人が何かに気がついたのだろう、周りの者に沈黙を呼びかける。
髪の動き一つですら聞き逃さない。そんな雰囲気が少女の下まで届き、唇が緊張で乾くが、
「おい、今の音……!」
永遠に続くとさえ思える無音の数秒の中、一人の声が上がったかと思えば、すぐにそれは崩壊。離散し、ざわつきが起こる。
先ほどの予想通り——敵は近くにいるのだと。
「お前ら、行くぞ!」
リーダーらしき男が呼びかけると、彼に応じた周りの者たちが少女を捕らえようと駆ける。
駆けて————階段を下り、遠ざかって。
それからほんの数秒だ。少女は肩をとんとんと叩かれ、くるりと振り返った。
「——成功したね」
「ええ。ギリギリのタイミングだったけど、何とかね」
と、そこには体が下から可視化されて行く芽空がおり、少女——シャルロッテは驚くことなく彼女の言葉に頷く。
その手に握られた一丁のスタンガンに視線を落としつつ、
「あんたのそれ、『トランス』とやらも含めてどうなってるのかしらね」
シャルロッテが疑問するのは芽空の能力についてだ。
カメレオンという生物は自身の体の中で光を反射、俗にいう透明化に至るわけだが、それをそのまま人間に当てはめれば当然、透明化されるのは芽空の体のみ。
ゆえに服装や使用前のスタンガンまで隠せるのは原理的に引っかかる部分のある話なのだが……『獣人』については分からない部分も多くある。だからそれは後回しにするとして、
「さっきみたいに相手が少人数なら相当使えるわね。あんたとスタンガンの組み合わせ」
「私一人じゃ難しいところもあるよー。あそこまで引きつけてくれなかったら、二人まとめてなんて無理だったしね」
「引きつけたのはあんたもでしょ。まさか、角のところに隠れてるなんて思いもしなかったけれど……まあ、あれは仕方ないわ。結果的に目的は達したのだし」
そう、そもそも第一校舎からこちらの第二校舎に渡ってきたのは理由があったのだ。
それぞれ、渡り廊下の近くにいた二人をどうにかしなければシャルロッテが渡れず、渡ったら渡ったで先ほど駆けつけてきた数人が潜んでいた。
だからそれら全員を一掃できる方法がないか、とシャルロッテと芽空は話し合い、先ほどのような事態になったのである。
芽空が第二校舎側の見張りを奥へと誘い、シャルロッテが第一校舎から第二校舎までもう一人を引きつけ、追い込まれたように見せかけ最後に『カメレオン』で芽空が二人を片付ける、といった流れで。
「あの後、駆けつけた人たちが聞いた音って……階段を駆ける音、だよね?」
「ええ。ほら、向こうの校舎にいた時、追いかけられたでしょう? あの時に録音しておいたものを着信音にして、タイミング良く鳴らす。それにまんまと騙されたのよ、あいつらは」
芽空の言った通り、最後の仕上げとなったのはシャルロッテが準備しておいた音、である。
階段の手すりに貼り付け、こちらから電話をかけて鳴らすことで、侵入者が階段を駆けて逃げていった——と奴らに錯覚させたのだ。
「借り物の力を我が物顔で使って、ワタクシたちにしてやられるなんて本当に滑稽だわ。ねえ?」
「作戦が上手くハマったのは確かにねー。そのおかげで目的地までの道のりがかなりショートカット出来るしー」
「そうよね。ああもう、次はどんな手で倒してやろうかしら、ふふっ
」
力がなくとも、やり方次第で何とでもなる。
それをシャルロッテは楽しげに話し、笑って————。
——。
————。
——————笑っている?
「どうしたの?」
確かに快感はあった。
あの教室で一つの考えを思いついてから。先ほどの作戦を芽空と考え、実際に行い、成功した時も。
楽しかった。二人で上手くやれたことに、喜んでいた。
だが、だからこそどうして自分は今、笑っているのだろう。
相手は芽空——プルメリア・フォン・ルクセン。
かつて姉妹のように、友達として愛した少女だ。そして、憎み嫌って、今も。
許してはいないはずだ。
あの日逃げた彼女を、彼女と自分が笑い合うことを。
許すのならば、ちゃんと、シャルロッテは————。
心に押し寄せてくる声はいくらでも溢れてきて、とどまるところを知らない。シャルロッテという少女のあり方を根底から揺るがしかねない迷い、弱さともいうべき声は。
ゆえにシャルロッテは、ため息とともに眉間を揉み、振り払う。
「……行くわよ」
「え?」
表情を見せないよう、芽空よりも先に廊下へ出つつ、振り返らずに言う。
「あんまりここでたむろってると、さっきの奴らが戻ってくるでしょう。そうしたらあんたにも負担がかかるし、早いところ先に進むわよ」
気を保とうとしても、彼女が時折見せるものに息を呑みそうになる自分がいる。
それが理由で言動がおかしくなっているという自覚もある。数日前に比べればずっと甘く、今だって先の熱が残っているせいで、思考の端にあった心配が顔を出した。
だが、今はそれを認めてはいけない。
現在の芽空がどういう存在なのか見極める。断片ではない全貌を、根底を。
それこそが、彼女への許しであり、シャルロッテ自身への許しでもあるのだから。
「……どうしたのよ、行くわよ」
「あ、うん!」
シャルロッテは立ち止まったままの芽空を急かしつつ、長い廊下を進む。迷いも疑問も飲み込んで、目的地に向かい、役割を果たすために。
極力心情を察せられないように、振り返らずに。
——だからこそ。
「…………熱いな」
後ろを歩く芽空が一瞬ふらついたことに、シャルロッテは気がつくはずもなかった。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
「——ゃああああ!」
「くっ!」
低い位置から弧を描いて迫る右の剛爪。葵は上体を逸らしてこれを避けるが、全身を薄黄色の強靭な筋肉に変えた『獅子王』の攻撃は一度では終わらない。
空中で小さな身を捻って左の手刀と同時に回し蹴りを、地に足をつけると間髪入れずに距離を詰め、固めた右拳を砲弾のように射出——するように見せかけて直前で服を掴み、その場で体をくるりと回転させて葵の体を軽々と投げる。
「と、思いましたか?」
「——っ!?」
が、それら一切の攻撃は全て不発に終わっていた。
避け、弾いて衝撃を殺し、掴まれても思考を止めず、彼女の手首を両手で掴み返したのだ。
さすがに勢いを殺しきれず、最後の最後で手を離してしまったが、それでも受け身いらずなくらいまでには留められたため、ダメージは驚くほど少ない。
「みゃおみゃお、変だね。前なら一回攻撃したら気絶してたのに」
「いつの話をしているんですか。あの頃とは違いますし、半日前あなたに負けた時のボクとも違う」
攻撃の手を止め、向き直った二人の間で交わされるのは素直な驚きと、不敵な笑み。
葵はわずかに目を細めて、
「ボクが強くなっていることは明白ですが——むしろ、ユズカは弱くなったようですね」
「……は?」
「寝不足と栄養不足で体調は最悪、ということを除いても、今のあなたは以前よりもずっと弱いです。ボクの目から見ても、はっきりと分かるほどに」
震えそうになる足を抑え、あくまで冷静にそう告げる。
対照的にユズカから向けられる視線が鋭く、焼けるような熱を持っていても、だ。
「これではあなたは——」
「調子乗りすぎだよ、みゃおみゃお。あたしの準備運動についてったくらいで」
口調こそいつものそれと変わらないが、堪えるように強く握られたその右手はユズカという少女の心情を誤魔化さない。
あと一押しすれば、まず間違いなく感情の爆発が起こり、『獅子王』の本気を身をもって体感することとなるだろう。
だから、
「いえ、準備運動にしてもぬるいと言っているんです。それこそ、以前のあなたなら準備運動でボクを片付けていたでしょうから」
葵はあえて、ユズカを挑発した。
「————みゃおみゃおのくせに!」
ユズカが床を踏み砕いたかと思えば、その威力を証明する速度で彼女は迫ってくる。
これに葵は目を離さず、一挙一動に疑いをかけて応じる。勢いに乗った空気を裂く左の蹴り——これはフェイント、本命は葵の回避を予測して体を過剰回転させ、ギリギリまで引き絞った右足の突きだ。
雷槍のごときその一撃は、まともに当たれば文字通り体が千切れて吹き飛びかねないもの。速度の面においても、後方への跳躍では間違いなく間に合わない。せいぜい腹を抉られて無様に血を撒き散らすのがオチだろう。
なるほど、これは確かに先ほどまで準備運動だったというのも頷ける。
常人の思考など軽々と突破するほどの圧倒的な力技。勉強では頭が回らないくせに、こと戦闘においてはその卓越した才覚を発揮するなど本当に何とも、最悪だ。
————が、それがどうした。
「なっ……!?」
「『トランス』は想い一つ。……それを当てはめて考えれば、現状に納得がいきますね」
迫る右足に対し、跳躍で間に合わないのならしゃがみ、それも読まれている、ならば両手で右足を持ち上げ、体の軌道上から逸らし、彼女に足払いを仕掛けた。
結果、葵に無理やりに体勢を崩されたことが災いし、さしもの『獅子王』も耐えきれずに体が転倒、勢いそのままに地面を転がる。
「な……っ、んで」
「ああ。あなたがこうして転ばされることはあまりありませんでしたね。疑問を持つのも当然です」
ぐぐ、と体を起こそうとするユズカは、淡々と話す葵に不愉快だと言わんばかりに顔を歪める。
何故なら、
「あた、しが聞いてるのはっ!」
「——ボクがどうしてあなたの動きについていけているか、ですか?」
『昇華』はもちろん『纏い』も使えず、何か特有の能力を持っているわけでもない葵が『獅子王』を上から見下ろしている。
そのことへの疑問だ。
本来ならば立ち位置は逆のはずで、少なくとも今のラインヴァントには彼女に敵う者などいない。隠れようと、毒を使おうと、どれだけ再生を繰り返そうとも。
葵は考えるように両手を開閉し、やがて一つの言葉を導き出す。
「あなたが『最強』で、ボクが『最弱』だったからです」
「は、ぁ?」
「こう言い換えましょうか。あなたには見えず、ボクには見えているものがある」
ますます訳が分からない、といった表情。
だが、葵はこれ以上のことを彼女には語らない。語ったところで今の困惑した頭では理解できることへの望みが薄い。それに、その説明をするよりも、優先すべきたったひとつがあるのだ。
こうして向き合って話しているのなら、忘れてはならない当たり前のこと。
「……ずっと気になっていました。あなたがボクを拒否した時——いえ。それよりも前から」
そうだ。明確な、形あるものとして示されていなくとも、自分は知っていたはずだ。彼女にあれだけ痛めつけられて、ようやくそれを自覚するなんて遅すぎるけれど。
見えない、知らない、分からない。
そんな言葉で蓋をするのは終わりだ。
決めつけるのも、逃げるのも、無様な姿を見せるのも。
自分がするべきはそんなことじゃない。それは求めるものじゃない。
だから、
「ユズカ。あなたは今、何に悩んでいるんですか?」
当たり前なのに、忘れていたことをしよう。
今まで知るべきだったことを知るために、ユズカが見えていて、葵には見えていなかったものを。
最強の『獅子王』じゃないユズカを知るための話を。




