表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒と白の世界と  作者: 夕陽ゆき
第三章 『反転』
107/201

第三章44 『最弱の格好付け』



「なっ…………」


 右の頬に残る、ひりひりとした感覚。

 それが奏太から放たれたものだということが信じられない。


 だが、それよりも。


「弱い……って」


 今、このタイミングで。

 奏太が告げたその一言に、葵は問いかける。


「どういうつもりですか?」


「言葉通りだよ。葵、お前は弱い」


「——っ」


 平静を装いきれず、声が震える葵に、なおも変わらぬ奏太の態度。

 彼は再びその言葉を告げた。

 葵が認めたばかりの、その事実を。


「……ええ。責められてもおかしくはないでしょうね。奏太さんたちが来るまで守り切れなかったんですから」


 だから、つい乾いた笑いを漏らしえしまう。

 失望されてもおかしくない、それだけのことを自分はしてしまったということなのだろうから。

 だが、


「——違う」


「え?」


「俺が責めてるのは、そこじゃない。その態度だよ」


 それに奏太はと言うと、首を振り、こちらを指差す。


「なんでお前が、弱気になってるんだよ」


「なんで、って。当たり前でしょう、こんな結果になったのなら——」


「最初俺に会った時、お前はなんて言ったか覚えてるか?」


 しかし奏太が指すものと、葵の考えるものは違うらしい。

 疑問に疑問が重なり、眉間に寄っていたシワがより濃くなるが、


「あなたは弱い——そう言いました。でも、それに何の関係があるって言うんです」


「……俺はあの時、心の底から『怒り』を抱いたよ。何も知らないくせに偉そうに、ってな。小馬鹿にするような笑いも、人を見下した目も、傲慢な態度も。全部が全部、気に食わなかった」


「————」


「でも、今はどうだ。そりゃ慣れもあったけど……葵。今のお前はあの頃と比べれば、ずっと弱い」


 葵は自身の態度が他人に、特に初対面の者に好かれないことは自覚している。

 実際、面と向かって言って来た輩も少なくはない。『トランス』を覚えて以降はある程度かわすようにしているが、それでもぶつかる時はあって。


 なのに奏太が言うのは、つまり、


「あの頃の方が強かった、と?」


「ああ。今、下を向いてるお前よりも、ずっと。……隠すことが良いって言ってるわけじゃない。ただ、あの頃はもっと手を伸ばそうとしてたよ。諦めないでさ」


 ……別に、あの時だけではないのだ。

 ハクアの一件が済んだ後だって、奏太を除いた他の者たちには偉そうにしていた。

 時折梨佳や、彼女のノリに付き合う芽空が。それから、毎日のようにユズカがからかい、バカにしてきても変わらずに。


「…………あれが強い、ですか」


 確かに、稽古を続ける奏太が日に日に強くなっていく様を見て、自分も頑張らなければいけないと思った。

 教える立場だけではなく、自分も強くあるために。言葉だけじゃなくて……本当に。


「——っは、はは」


 そんな過去を思い返すと、無意識のうちに反応は漏れていた。


 人を小馬鹿にするような笑い。

 それはさぞ、滑稽だったのだろう。


 人を見下した目。

 見下されるべきは、他にあるのに。


 傲慢な態度。

 まさしく人が——葵が抱える大罪だ。

 あの選択が巡り巡ってこの状況を生んだのだとすれば。


 だって、ずっと前から分かっていた。

 葵は紛れもなく、救い難いほどに、


「————ボクは、弱いんです」



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 葵の言葉に、表情に影を落とす奏太。


 一体どうして、彼が最初の言葉を告げたのかは分からない。

 けれど間違いなく、事実だ。


「誰よりも弱い。ボクはそういう人間なんです」


 苦悶よりも、諦め。

 割れた心が生むのはそんな感情だ。


「……曲がりなりにも、ボクは一年以上の時間を費やしてきたんですよ。強くあろうとして、蓮さんに『トランス』を習って、護身術を勉強して」


「————」


「ボクは『纏い』が使えませんでしたから、そうおいそれと習得できるわけではありませんでしたけどね。元々体が強い方でありませんし、『憑依』と『纏い』では動きの速さも、可動域も格段に差がありましたから」


 ぽつりぽつりと呟いていく言葉に、奏太は何かを言うわけでもない。ただ、じっとこちらを見つめていた。


 そんな彼に葵は笑みを浮かべ、


「ハクアにもある程度通用しましたしね。結局、あの時は奏太さんのおかげで倒せたわけですが……そんな調子で、ボクは力をつけました。『憑依』で出来る限りの限界にまで、到達したんです」


 確かめるように両手を開閉、やがてゆっくりとそれを下ろす。


「ラインヴァントの中では最弱、と言われてはいましたが、戦闘を望まない、あるいは経験のない希美さんや芽空さんよりは上だと思っていました。…………そう、信じていたんですよ」


 いつしかの感覚と同じだ。

 今の自分になるきっかけの瞬間と、同じ。

 努力すれば実力は身について、周りよりも先へ行き、多くを望む自分には相応の力があるのだと。


 幼い子どもが抱くような、煌びやかで美しい希望に満ち溢れた夢と同じで。


「自分は何にだってなれるって、思っていたんです」


 おとぎ話の王子様や、誰かを救うヒーロー。昔読んでいた物語の主人公はみんな強くて、かっこよくて。

 好きな人たちを守っていた。いつも、いつだって。

 悪に屈せず手を伸ばし、何かを得ようと努力する。彼らはなるべくしてなったのだ。全ては、理不尽を覆したいと強く思ったから。


「……でも、違うんです。間違っていました。ボクは『何者』にもなれない」


「……葵は葵だろ。他の何かになんて——」


 奏太の言うことはごもっともだ。

 自分という存在は結局変わらない。何を積んでも、何かになれるわけでもない。

 憧れの存在が、憧れの場所があっても、所詮は憧れ。届きなどしないのだ。


 でも、それでも葵は、


「————なりたかったんですよっ!」


 その瞬間まで。

 必死に、かろうじて保っていた、溜め込んでいた全てが弾けて、爆発した。


「『カルテ・ダ・ジョーコ』だって一人で倒せる。そうボクは言いました。ええ、確かに言いましたよ! でも、結果はどうですか。倒すことどころか、何度も戦う姿を見てきた、何度だって思い描いてきた理想を、ユズカを前にしてボクは何も出来なかった……!」


「————」


「オダマキさんや梨佳さん、奏太さんならば倒せると思っていましたよ。それだけの強さがあなた達にはありますからね。……でも、あの二人は違うんです」


 芽空と希美のことだ。

 戦闘において彼女ら二人を、葵は、


「——見下していたんですよ。心の底から」


 それが素直な、葵の本音だった。


「希美さんはあの蓮さんの妹であり、特殊な『纏い』を使えると言っても戦闘には向かず、芽空さんに関しても同様です。梨佳さんが小細工を弄したところで、所詮は付け焼き刃。ボクよりもずっと劣るはずで……」


「…………相手との実力の差だってあるだろ。相性も、お前は」


 気休めを口にする奏太に首をゆっくりと振り、否定。

 どうして彼はこう、いつも。

 そんな疑問が湧くが、答えは至って簡単だ。彼がそういう人間だから、と答える他ないのだから。


 だからつい、笑いが漏れてきて。


「……何がおかしいんだよ」


 奏太が声を低くし、こちらを睨むように見つめるが、


「奏太さんには分からないでしょう。どれだけすすいだって消えないこの醜い感情が。隣の誰かを妬ましく思い、蔑むだけしか出来ないこのちっぽけなボクのことが。あなたは誰かに嫉妬なんてしたことがない。そうでしょう?」


「それは…………」


「ボクは自分がそんな存在であるなんて、思いたくなかった。初めて一番を取ったあの日のように、ボクにはボクだけの何かがあって、一番になれるんだとそう思っていました」


 『纏い』が使え、動物と一体化出来るわけでもない。誰かを守れるわけでもない。


 視野が広いわけでもなければ、間違った誰かを導ける判断力を持っているわけでもない。


 望めば『何者』になれる才覚を持っているわけでもないし、何も。葵には何もなくて。


「だから最弱であると認めたくなくて。ボクは弱いと、諦めたくなかった」


 たった一人、好きな少女が。

 あの少女が誰よりも強く、届かない存在だと分かっていたから。


 でも、葵はもう、思ってしまった。言われて、認めてしまった。


「ユズカに言われたんですよ。——ボクは弱い、ボクの手はいらないんだって」


 才能がない。

 そんな理不尽を受け入れてしまった。

 必死に積み上げてきたものを否定されて、守りたい者に手を跳ね除けられて……自分には一体何が残っているのだろうか。


 何も残っていない。

 それが天姫宮葵という少年なのだから。


「……ボクは奏太さんと違って元々才能がありません。本当に、どうして。どうして、ボクには何もないんですかっ!」


 髪を振り乱し、ただただ感情のままに叫ぶ。

 子どものようだ、と思う反面それを止める気がない自分もいて。

 当然だ。だってこれは、紛れもなく何の取り繕いもない葵の本心なのだから。何年もずっと、共にあった思いだから。


 矛先は奏太にだって向けられるもので、


「一年ですよ、一年! ひたすら頑張ってきたんですよ。力をつけよう、強くなろう——そう思っていたのにあなたは! たった数週間で追い抜かれるなんて、そんなのおかしいでしょう。何かを成そうと思えば何だって出来る。どうしようもないくらい、卑怯だ!」


 早口でまくし立てられる恨み辛み、それをひたすらに奏太へぶつける。

 彼はもっとも身近にいたと同時に、もっとも複雑な感情を抱いていた相手なのだ。


 葵はさらに言葉を続けようとして、


「何もかもが出来る……?」


 向けた矛は、彼からも返される。

 葵と同様にとめどなく溢れる『怒り』を露わにし、肩を震わせて。


「出来るわけないだろうがっ! 俺はあの時、何も出来なかった。俺は蓮を失ったんだよ!」


「————」


「手を伸ばした頃には全部遅くて、知りたいことも、話したいことももっとあった。あったはずなんだよ。なのに、俺が何も知らなかったせいで、弱かったせいで!! だからお前に頼んで力をつけたんだよ!」


「——っ、そんなのワガママでしょう! それだけの力があって、それだけの才能があって! 理不尽にだって抗える、覆せる。空っぽのボクとは違って、あなたには!」


 交わされる激昂を止める者はいない。

 二人は互いに過去を悔やみ、ひたすらに己の無力を主張する。何も間違ってはいない、過去の間違いを。


「最初から『纏い』が出来たのに何が弱いですか! 最弱のボクに負けたことなんて、何も思っちゃいないんでしょう!」


「思ってるに決まってるだろ! お前に負けたから俺は自分の弱さを知ったんだ! 無駄なんてない、お前も!」


「ボクなんて何の役にも立ちません! あなたの強さはあなただけのものだ!」


「聞けよ! 俺にはお前が必要だった! 今までも、これからも!」


「聞きません! あなたはボクがいなくても関係ないんです!」


 互いに譲らず、一歩も引かない。

 もはや多くの言葉は意味を持たず、幼く拙い、感情のぶつかり合い。

 こんな衝突を誰かとしたことが、一度としてあっただろうか。いやない。


 だってこうして、自分のために怒ってくれる人なんてそうはいなくて。目の前で、向き合ってくれる人なんて。


「……どうして」


「は?」


「どうして……っ、どうしてあなたは!」


 立て続けに声を張り上げていたせいか、頭が割れるように痛んだ。

 けれど葵は、それを頭を振ってかき消すと、


「…………背伸びをして、格好つけて、自分すらも騙す。それがボクなんですよ」


「何を……」


「望む何もかもになれると信じ、何もかもを知らなかった頃とは違う。ラインヴァントへ来て、どれだけの力の差を知ったと思っているんですか。あなたたちを見ていて、ボクは、ずっと……!」


 蓮や梨佳だけじゃない。

 誰もが自分なりの何かを持っていて、そのいずれも葵では叶わない。

 遥か遠く、眩しくて、追いかけられない場所にあった。


 だというのに、葵は努力を続けていた。心に眠る感情を誤魔化そうとして。


「投げ出したい、何もかもから目を背けていたい。ボクはいつもいつも、何かを持っているあなた達を見て————」


 でも、


「……そう思い切れなかったのは、あの子たちがいたからです。初めて会った時、ボクは傷ついたあの子たちを見て、どうにかしたいと思った」


 今でもよく覚えている。


 当時ヒーローごっこと称して『獣人』の保護をしていた蓮と梨佳が、二人を連れてきたことを。


 今でもよく覚えている。


 二人が昔の自分のような——世界から置き去りにされているような、瞳をしていたことを。


 痩せぎすの体は顔色共に血色が悪く、女の子らしさなんてどこにもなくて。

 ユキナはともかく、牙の抜けていなかったユズカとは衝突が起きないはずもなく、何度も痛めつけられた。本当に、女の子かと疑うほどに。


 でも、そんな姉を持っていたからだろうか。

 ユキナは蓮の姿に憧れ、女の子らしさを学び始めた。髪の手入れも、料理も。多分きっと、姉のために。


 そんな妹を見ていたから、ユズカは。


「どうにかしてあげたい、どうにかなりたいって、そう思って……!」


 今にして思えば、あの少女と葵は同じ痛みを抱えていたのだろう。

 知らなければいけなかったことを知って、外の世界を知ったから。


 けれど彼女と葵の見る景色は違う。

 だって葵はもっと醜い。みっともなくて、鬱々とした思考を隠すだけで精一杯で、


「——彼女の近くへ行きたかった。側にいてあげたかった。ボクが背中を押して、あの子が幸せになれればって」


 そうすればきっと、自分は救われる。

 ユキナが一人で立てるようになって、ユズカもまた。そしてそこへ、彼女に追いつけるくらい強くなった自分も加わって、幸せになれればいいなと思っていた。


 全部が全部上手くいって、文句のつけようがないくらいのハッピーエンドに、と。


「……でも、届かないんです。ボクは『纏い』を使えない。最弱で、役立たず。ユキナを救い、ユズカを止めることも出来ない。あの子には、必要とすらされてないんです」


 もし、それだけの強さがあったならたどり着けていたのだろうか。


 奏太たちのような、理不尽へ抗える人たち。

 彼らが羨ましかった。強くなりたい。でも、なれない。

 説得の言葉は威力など持たないし、ユズカには通じなかった。


 あの日の約束も守れないままだ。

 夏祭りで、彼女と交わした約束。


 どれだけ堕ちても、どれだけ深い闇に飲まれて息絶えても。

 葵が必ず、救いに行くのだと。


 ——毒りんごを食したお姫様を、王子様が迎えに行くように。


 でも、そんな約束は最初から叶うはずもない、夢物語なのだ。

 結局自分は今こうして、弱くて、格好悪くて。


「————だからボクは、何にもなれないんです」



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 壊れてすり減った、ちっぽけで空っぽな自分。その全てをさらけ出して、葵は力なく笑った。


 誰かを蔑み、馬鹿にすることで、自分の弱さから目を背ける。

 そうすることでしか保てなかった自分の臆病な自尊心。どこまでも卑怯で、自分可愛さばかりで、そのくせ人を愛するなんて。


 高嶺の花へ手を伸ばし、得ようとするなんて最初から間違っていたのだ。

 並び立つこともできないし、手を取ることすら許されない。

 奪う力なんてない。葵はどこまでも弱者。何も出来ない。必要とされていないのだから。


 自分を信じ、約束をした少年。対等だと、そう言っていた奏太も諦めるように長く息を吐いてこちらを見つめて——、


「何にもなれない、か。……それが葵の本音なんだな?」


「ええ。所詮ボクはそれだけの人間なんですよ」


「…………そっか」


 奏太はとうとう、葵の言葉に納得したのだろう。

 様々な熱情をその身に押し込み、悲しげな表情を浮かべると視線を葵からテーブルへと移す。

 そこには、元々葵がユズカのためにと用意しておいた、役割を全う出来ないままの食事があった。


 そう、今となってはもう無意味なのだ。

 葵の心はもう、彼女に向き合えない。だから、それは、


「————葵、ユズカが好きか?」


 などと眉を寄せ、必死に目を背ける葵に、言葉があった。

 葵の全てを聞き、しかしそれでも諦めようとしない奏太の鋭い眼光。

 一体何が彼をそうさせるのだろう。


 分からない。たかだか数ヶ月の付き合いではないか。力をつけたのだって、彼に才能があったからで、自分は何も。


「もう一度聞くぞ。葵はユズカが好き。そうだよな?」


「……好き、でしたよ」


 しかし、それでも、


「どこが好きなんだ?」


「——っ、今はそんなこと!」


「いいから答えろ。お前は、ユズカの何が好きなんだよ!」


 彼は折れない。

 奏太は葵を捉えて離さないのだ。

 逃げることも、目を背けることも、隠すことだって許さない。

 気持ちを言えと、そう言っている。


「…………勝ち気な顔です」


 葵はそれに押され、つい一言。

 躊躇いながらも発した。

 全ての始まりの、その瞬間の記憶を。


「他には?」


 けれど奏太は多くを追求する。

 ただひたすらに、ずけずけと。

 他人の領域に何の遠慮もなしに入ってきて、さらに多くを出せと言うのだ。


「……何よりもユキナを大事にしている、妹想いなところです」


「まだあるだろ」


「喜ぶ時は素直に喜んで、嫌な時はこれでもかってくらいに不満を口にする。ころころと表情が変わるのが、好きです」


「もっと!」


「笑顔が、あの子の笑顔が好きだ!」


 ——一体どうして、この気持ちは抑えられないのだろう。

 『好き』を口にして、心が。全てを諦めていた心が、熱で満たされていく。


「何度も拒否されて、噛み付かれて、蹴られて、何度も気絶させられて……」


「————」


「ご飯だって、最初は全然食べてくれませんでしたよ。ボクが下手だったこともありますし、警戒していましたからね。でも、そのうち見ていないところで食べてくれるようになって……」


 ——いつの間にか、奏太の声は聞こえなくなっていた。

 だから別に、話す理由などない。


 ないのに、葵は溢れる愛を止められない。


「……空になっているお皿を見て、嬉しかったんです。初めてお礼を言ってくれた時も、美味しかったと言ってくれた時も、ボクは!」


 ひと時だって忘れたことはない。

 彼女が微笑むたび、揺れ動いていた自分の心を。彼女の前で格好を付けていたいと思う、自分の心を。

 何もかも、全てを投げ出してもいいと思えるくらいのあの笑顔を。

 だから葵は、ユズカのことを、


「——好きなんです! ユズカのことが!」


 過去のものになんてしたくない。

 自分の手が届かないなんて、そう思いたくない。

 一緒に居たい。笑って欲しいのだ。


「何度も馬鹿にされて、笑われて、男らしくないなんて言われました。ええ、確かにそうです。ボクはお父さんのように体が大きいわけでもなければ、声も髪も、男っぽくないですよ。素の力でもあの子に劣りますし、弱いんですから。そもそもみゃおみゃおってなんですか、ボクはずっとあの子に名前を呼ばれたいって思ってたのに、気軽に、笑顔で、あの子は!」


「————」


「どうしようもないくらいの実力差があって、何度もイライラさせられて、困らされて、苦しめられて、傷つけられても。——それでもボクは、あの子の笑顔があったら許せた。ボクはあの子が、好きだから」


 想いが言葉になって、雫へと変化する。

 頬を伝う涙が熱くて、全部全部。抑えきれないくらいのものへと変わっていた。

 別に心根は変わっていないし、現状を変えられる何かが思いついたわけでもない。でも、


「ボクに……何もないなんて、思いたくない。手を伸ばしたいよ、奏太さん」


 葵は再び、一つだけを望む。望んでしまったのだ。

 理由は好きだから。それ以上でも、それ以下でもない。唯一声を大にして言える、たった一つの事実だから。


「……なあ、葵」


 そんな葵に、奏太は躊躇わず言った。

 何度も繰り返し、葵だって認めたその一言を。


「お前は弱いよ。誰よりも」


「————」


「多くを積んできたから自分には何もないと分かって、それでも手を伸ばしたい。多分さ、それは傲慢……なんだと思う」


 彼には彼なりの、覚えがあるのだろうか。何度か右手を開閉し、瞑目する。

 言葉を返せず、口を閉じたままの葵に何かを言わんとして、言葉を吟味して。


 ほんの数秒。体感では、もっと何十秒。

 いつまでも続くようなその時間の中で、彼は告げた。

 口元を緩め、笑って、


「————格好付けろよ、葵」


「格好付け、ですか?」


「ああ。本音で届かないって思ってるんなら、せめてユズカの前でだけは強い男になってさ。……戦えるとかじゃないんだ。どれだけ傷つけられても立ち上がって、ひたすらに求める。そんな泥臭いヒーローがいたって、おかしくないだろ?」


「……でも、一度失敗したんですよ。またあの子に、拒否されたら」


「俺の友達に遊び人のやつがいるんだけどさ。前に言ってたんだ。——玉砕しても諦めずに何度も当たって、意識向けさせればこっちのもんだ、って。葵は無理なのか?」


 何ともまあ、向こうからすると迷惑な話なのだろう。

 彼の友人について深くは知らないが、自分の都合が良くなることしか考えていないのではないか。全く、そんなの——、


「…………無理じゃ、ありません」


 そんなの、格好良いじゃないか。

 遊び人と言っているあたり、褒められた話ではないのだろうけど。


 でも。


 少なくとも今この瞬間、一番に尊敬出来る人が言った言葉で、上を向くには十分だ。


「ボクは、ユズカが好きです」


 泥臭いヒーロー、彼はそう称していたけれど。

 葵が目指しているものは少し違う。


「約束もしましたからね」


「約束?」


「ええ。奏太さんだけじゃなく、ユズカにも約束を」


 力が足りなくて、ありのままの自分には何もないのなら。

 何にもなれないのなら、葵はもう一度手を伸ばそう。


「だから」


 たとえ見栄であったとしても。

 好きな女の子の前でなら、自分は強くありたいと思う。


 ——もし、ユズカが毒に侵され、暗闇の中一人でいるのなら。笑えず、泣くことすらも許されず、自分の心を死なせているのなら、


「————ボクは、ユズカのために格好を付ける。だってボクは、あの子の王子様なんですから」


 絶対に彼女を救い出す。

 それが葵に出来る、ただ一つのことなのだから。


 自信を持って言い放ったその一言に、迷いはなかった。

 荒んでいた心も、逃げていた自分も、忘れていたことも。

 全部を拾って、前を向き、笑みを浮かべる。

 硬くなった表情も、ちょっと前まで冷たかった心も、彼女を思い浮かべれば。


「あなたのためにならどこへだって行きましょう。救い出すと、そう決めましたから」




 ——これは傲慢で、最弱な少年の格好付け。

 ロマンチックでも何でもないし、力づくで奪えるわけでもない。




 ————だから、これは。


 一人の少女のために願った、ちっぽけで、自分勝手な、恋の物語だ。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 長い廊下を、ライオンの上に乗った小動物のように歩く少年。

 クリーム色の長髪を後ろで縛り、自信に満ち溢れた顔で笑みを浮かべる少年だ。


 彼は隣の黒髪の少年にちらと視線をやって、


「とりあえず、改めて現状の確認からですね。話の内容は半分くらい聞いていなかったので」


「ああ。……大丈夫か?」


「何を言っているんです? このボクなんですよ。奏太さんに心配をかけるほど、もうヤワではありません」


 そう言って、互いに信頼の視線を交えて。

 それからは二人とも言葉を続けようとしなかった。何もかもはこれからでも、決めたことは揺るがないから。

 目的地にたどり着いても同様だ。

 クリーム色の髪の少年に、迷いはない。


 ゆっくりと、扉を開いて————。


「——皆さん、お待たせしました」


 各々の、それぞれの反応が返ってくる。

 茶化すものは何一つないが、いずれにもこちらを心配するような視線が混じっており、それが妙にくすぐったく感じて。

 だから少年は鬱陶しいとでも言うかのようにため息を吐き、


「このボク、天姫宮葵には何の心配もいりませんよ。だってボクは——最弱、ですからね」


 誰よりも強く、偉そうに。

 そう、言ったのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ