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黒と白の世界と  作者: 夕陽ゆき
第三章 『反転』
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第三章42 『昇華せし銀狼』



 眼前で揺らぐ銀の炎。

 地についた四肢は逞しく、丸太を重ねて作られたかのように太い筋肉と、それを覆う無数の銀針の体毛。

 奏太の肉体よりも二回り以上も大きな全長を持つその生物に、奏太は思わず息を呑む。


 一言で表すならば、バケモノ。

 かろうじて耳や尻尾があることで、その動物が一体何のモチーフなのかは分かるが、だからと言って目の前の光景が信じられるかと言われれば、そんなことはない。

 今までの『獣人』は全て、人型をベースとしてその姿を変えていたのだから。


 ————『銀狼』。

 奏太が記憶する限り、もっとも身体が大きく、異次元の気迫を感じるそれに、奏太は一切の迷いなく結論を出していた。

 全身を覆っている銀と、こちらを見つめる一本の剣のような鋭さを持った金の双眸。

 一度目はほんの一瞬、そして二度目の今は。


 深く息を吐き出し、身構えて、


「——アザミ。お前はここへ来る気がしてたよ」


 『銀狼』——ブリガンテのリーダー、アザミの名を再度呼んだ。

 体の向きをぐるりと変えて、シャルロッテと寝たままのエトをかばうように。


 ちらと視線を彼の後方、開いた扉の向こうの廊下へと向けると、窓が大の男ほどの大きさで割られ、捻じ曲げられている。

 まるで外から無理矢理に侵入した、とでもいうかのように。


「お前はあの窓から入ってきたのか? そう簡単に登れる高さじゃないはずなんだけどな」


「————」


「どちらにしても、俺たちのやることは変わらないけどな。——お前を倒して、ユキナ達を取り戻す。ヨーハンもシャルロッテも、絶対に渡さない」


 張り詰めた空気の中、奏太の声だけが響く。

 後ろのシャルロッテ達はもちろん、アザミすらも何も言わず。その違和感に気がついたのは言った直後で、答えが出たのはそれからほんの数秒。

 と言っても、奏太が言葉を続けたわけではなく、


「——あァ、ちょォっと待ってろよ」


 アザミは前の両足を上げ、二足歩行へと切り替えたと思えば、首から下を覆っていた銀の体毛が消え失せていき、彼の『纏い』が形を無くしていく。

 そして残ったのは、黒の上着を羽織った人型。


「…………余裕のつもりか?」


「いィや、違えな。余裕は確かにあァるが、相手の強さを見誤る程じゃねえ」


 見た所、アザミは確かに『纏い』を解いたようだが、『憑依』を発動していないとも限らない。

 そう考え、一挙一動、彼から目を離さないようにしていると、これをアザミは制止。

 人の良さそうな笑みを浮かべて、


「俺は話をしてえんだ。終わるまァでは何もしねえよ。……三日月奏太。てめェのそれは『ユニコーン』つったか。良い能力だァと、俺は思うぜ?」


「何を……」


「速さもある、力もある。向こうで転がってるスリーはな、『カルテ・ダ・ジョーコ』の中でも上位に入る強さだ。あいつの相手が出来る時点で、てめェは強い。加えて、一瞬であァれだけの回復が出来る異常な回復力。どれを取ってもいずれは磨けば光る原石……ってェとこだな」


「————」


 奏太という敵に対し、賞賛の言葉を重ねるアザミ。

 あのスリーがそれだけの強さを持っている、ということには驚くやら納得がいくやらだが、


「今のラインヴァントの連中にしてもそうだ。なかなか善戦してるじゃァねえか」


「……?」


 一つだけ、妙な違和感があった。

 彼が今この場にいて、つい先ほど窓から入ってきたというのなら当然抱くべき疑問で、


「……お前は見てたのか?」


「————」


「いや、違う。どこまで見たんだ?」


 まるで奏太達の戦闘を見ていたかのような口ぶり。

 着眼点を奏太だけに絞ったとしても、アザミが一度目の廃工場でのことを評価しているというのであれば、速さと力について言及しているのは分かる……が、後者の回復力に関してはまた話が違ってくる。

 数分の出来事だったとは言え、先ほどの戦闘を見ていなければ知るはずもないのだ。


 ましてや、それと並行して梨佳達の戦闘を見るなど。

 それこそ、奏太達のように連絡を取り合っていなければ。


「…………まさかお前らも通話を? でも、確か」


 『獣人』にはHMAが作ったデバイスを使わない『トランサー』と呼ばれる者達の思想がある。科学に頼らない自分たちこそが、本当の人間なのだとする思想が。

 ラインヴァントに関しては、これまでの経験を経て使うようになった者、あるいは思想に無頓着な者ばかりだったために忘れかけていたが、


「HMAに恨みを持ってるお前は『トランサー』なんじゃ——」


「——ひとォつ、教えておいてやァるよ」


 奏太の疑問に被せられたアザミの声。

 そちらへ目を向ければ、彼は何がおかしいのか笑みを浮かべており、考えを示すように両手を開くと、


「俺はあの魔女に奪われた全てを壊し、理不尽を覆す。そのためならあらゆる才も! 技術も! 通話だってそうだ。利用できるものは全て使う! たとえそれがHMAや人間だろうと、『獣人』だろうとな」


「——、プライドはないのかよ」


「プライド? ハッ、『トランサー』はそんなもんのために選択肢を狭め、つゥまらねえ思考してっから弱者なんだよ。生きるためなら如何なる手も尽くす、それが獣だろうが」


「……そのために、あいつらを利用するってのかよ」


「あァ、そうだ。復讐心も恨み辛みも何もかもを糧に、無駄な全てを削ぎ落とし、鋭い欲望に身を浸した獣になァることでブリガンテはユートピアへとたどり着く」


 悲願とも言うべき目的のために手段を選ばない。それは確かに理にかなった方法だと言えよう。

 最善の道を通るわけではなくとも、少なくとも彼にとって最善の結果に到達する可能性は相当に高くなる。


 だが、それはあくまでアザミ個人の話だ。


 HMA総長藤咲華も同様の判断を下す相手ではあるが、彼女には彼女なりに人間のため、という信念があったというのに。彼女が正しいと認めるわけではないが、それでも。


「——ただのエゴだ。お前が掲げるそれは」


 アザミは都合の良い言葉で周りを惑わし、自らの執念に付き合わせているだけだ。

 痛みゆえのプライドを弱者と罵るなど、ふざけている。


 拳を震わせる奏太にアザミは興味深げに両の金眼を細め、


「三日月奏太。てめェが望む幸せとやらは、誰のためだ?」


「……は? そんなの、みんなのために決まってるだろ」


「そう思うのか? 本当に?」


「…………何が言いたい」


 いまいち理解を得られない奏太にアザミはくつくつと笑いを漏らし、倒れたままのスリーを、エトを、シャルロッテを順に見ていき、最後に奏太へ視線を戻して言う。


「みんなのため、ってェ思ってても、それが本人のためになるとは限らねえ。ましてや、そいつが望んでる幸せとは違うことだってある。そうだろ?」


「それは……っ」


「これが良い。こうするべきだ。てめェがそうやって押し付けるのもエゴだァろうが。綺麗事並べても、俺もてめェも本質は変わらねえ。自分のために世界を支配するか、守るか。どっちも自分に都合の良い世界にしたい、ただそれだけだろ」


 言葉を並べ立てるアザミに奏太は言い澱むのみで、強く反論を返すことができない。

 事実、奏太は自身の望みを自覚して、その上で幸せにしたい、守りたいと思っている。都合が良い、と言われればまさにその通りなのだから。


「受け入れろよ、てめェを。てめェの中にある獣を。欲望を、本能を! 周りは為すための手札だと割り切れ。そうすりゃ真価に辿り着く。——いや、そうなるように決められてるんだよ」


「————」


 彼は一体、何を見てきたのだろうか。


 狂気を瞳の奥に秘め、自身を肯定するアザミに対して抱いたのはそんな疑問だった。

 奏太やフェルソナ、それからジャックとアザミ。喪失者は全員が全員共通して、故意的に記憶を奪われているはずだ。

 奏太が立つまで長い時を必要としたように、彼らもきっと平坦な道を歩んできたわけではない。そうに違いない……なんて、彼らの過去を決めつけられるほど奏太は何も知らないけれど。


「お前が何を言ってるのかは分からないけどさ」


 だけど、はっきり言い切れることが一つだけあった。

 

「——俺とお前は違うよ、アザミ」


「……なに?」


「違うって言ったんだよ。俺はみんなを手札なんて思わないし、絶対に割り切らない」


「————」


「……そもそも、色んな人に助けてもらって今ここに俺はいるんだ。だから俺はこれからもあいつらを頼るし、頼られる。お前の言う真価にも獣にも、たどり着く気はない」


 奏太は自身の弱さを知っている。

 アジトで目覚め、あの少年に否定されてからずっと。

 だから、


「アザミ。今ここでお前を倒す」


 腰を落とし、身構える。

 スリーを相手にした時とは違う。彼が動くよりも早く、地を蹴り、先制打を放とうとして——、


「————じゃあ三日月。このオッレもそれに加わるぜ?」


 それよりも前、届いた声に奏太は足を止める。

 声はアザミの後方、右の頬を腫らし、茶金の髪をざっとかき上げてこちらを睨むように見つめる男だ。


「オダマキ! 梨佳達と合流したのか?」


「おぉ、ワンとツーって奴らもアネキと一緒にぶっ倒してきたぜ」


 アザミを前にしているというのに、オダマキと梨佳の無事を確認してつい安堵の表情を浮かべてしまう。

 彼が頰を腫らしている理由はおおよそ予想がつくが、ひとまず今は流すとして、


「ってことは、芽空と梨佳も?」


「ん、まぁな。アネキは上、オッレはここに来たんだけどよ……」


 問いかける奏太に彼は頷き、ちらと視線をずらしてアザミの姿を見ると、目つきを鋭いものとする。

 そして、


「ここで正解だった……つーわけか」


 言葉尻の声を低くし、『部分纏い』を発動させるとともに奏太同様臨戦態勢に入った。

 無駄話をしているほど状況も、アザミも待ってはくれないだろうと判断して。


 やや出鼻をくじかれた気分ではあるが、こうしてオダマキが合流したことで二対一。戦力差は均衡か、それ以上になったはずだ。そう確信して、奏太はオダマキと視線を交え、頷いた。そして、


「……攻撃開始、ってか。あァ、良いじゃねえか」


 と、そこでアザミが笑みを浮かべて奏太達を片手で制止する。

 この後に及んで何か言葉を交わすでもなく、戦闘を始める……はずだったのだが。


「んだよてめぇ、二対一がセコいってんならてめーらの方がよっぽどセコいじゃねーか。アネキに二人でかかりやがって、ふざけて——」


「いィや、そうじゃない。むしろ二人の方がいいんだよ」


 眉間にしわを寄せ、突っかかるオダマキの言葉をアザミは遮り、くるりとこちらに振り返って、


「————三日月奏太。ラインヴァントじゃ『トランス』を『憑依』と『纏い』。そう呼んでるらしいな?」


「…………それが何だよ」


「確認だ。フォーの元へ現れた奴の姿と能力は分からなかったけェどよ、てめェらラインヴァントはどいつもこいつも揃って『纏い』が使える。『カルテ・ダ・ジョーコ』より数が劣っていても、そォれを補うだけの強さもな。……あの『青薔薇』の美水蓮もそうだった」


「——! お前、蓮を」


 『青薔薇』というのが何を指しているのかは不明だが、彼は蓮を知っている。過去に拳を交えている以上は知っていて当然なのかもしれない。

 ……いつの間にか話は流れていたが、恐らく彼が通話を通して他の者たちの状況を確認していたのも、その敗北から来るものか。


 ともあれ、彼が言わんとしている本題は恐らく蓮のことではない。

 だとしたら彼は、アザミは何を。


 奏太が思考を巡らせ、結論を出すよりも早くアザミは三本指を立てると、


「『トランス』にはもう一段階上がある」


「なっ……!?」


 彼の言葉に、驚愕。

 そんな話は今までに一度も聞いたことがない。

 葵やフェルソナは二段階までと言っていたし、あのユズカだって『纏い』以上のものを体現したことなど、一度も。


 ——いや、あった。

 聞いたわけではないが、見た。

 それもつい十数分前に。


「三日月奏太と後ろの嬢ちゃん達は既に見ただァろうけど、もう一度見せてやる。『憑依』、『纏い』を経て辿り着いた——『昇華』。獣の再臨を」


 彼の言葉を皮切りに、頭の中で警鐘が鳴り出す。

 全身に鳥肌が立ち、目の前で闘気を収束させ集中し始めたアザミに対して、どうしようもないくらいの危機感が。ハクアやユズカに感じたものを——いや、それ以上の何かがある。


「……オダマキ! 止めるぞ!」


 だから奏太は迷うよりも先に駆け出し、全身に力を込める。

 話しかける余裕のあった先ほどとは違う。敵意を研ぎ澄まし、力を高めていく彼を止めなければいけない。絶対に。


 奏太は額の角を突き出し、地を這うように走り、オダマキは岩肌を黒漆の爪で飛びかかる。

 どちらも全力の、命さえ奪いかねない一撃。前後二方向から襲いかかるそれにアザミは避けきれず、直撃を受けて——、


「…………嘘だろ」


 否、衝突は起こらなかった。

 致命傷も、かすり傷も、何一つ。


 一瞬の出来事だ。

 目にも留まらぬ速さで奏太は宙に打ち上げられ、オダマキは地に沈められる。それぞれの高低が逆転し、攻撃を受けたと認識した時点で、時既に遅し。

 視界が攻撃の主を捉え、奏太は改めてそれが何であるかを叫ぶ。


「『銀狼』————っ!」


 直後、二メートルを優に越す銀の巨体が跳躍し、奏太を壁へ蹴り飛ばした。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



 壁に背中から激突し、勢いを殺しきれずに壁が崩壊、何度も地面を転がり、隣室のタンスを倒し巻き込んでようやく体は動きを止めた。


「——っは」


 そしてすぐに求めたのは酸素。

 一気に吐き出されたそれを求め、体が何度も上下して。視界がチカチカと点滅し、体がふらつくがそれでも奏太は止まっていられない。

 肺が絞られるように痛むのを感じつつも、白煙に包まれた隣室へ戻り、周りをぐるりと見渡す。


「——らァアアア!!」


 咆哮と共に何かがぶつかり合う音。

 これは恐らくオダマキの声だ。奏太がいなくともなお、彼は一人で立ち向かっている。だが、


「シャルロッテたちは……!」


 熱くなる頭が一周回って、かえって冷静になっていた。

 奏太の目的はアザミを倒すことでもあるが、それにシャルロッテたちを巻き込んでしまうんじゃ意味がない。全員が全員揃って、目的は達せられるのだから、と。


 しかし、だというのに問題の彼女らの姿が見当たらない。

 最後に言葉を交わしたのはスリーを倒した直後だが、アザミが『昇華』とやらを使うまでは奏太の後ろ、窓際にいたはずで——、


「————そーた、大丈夫」


「この声は……!」


 と、記憶を辿っていたところ、ふいに見知った声が耳に届いて奏太は理解した。

 今の今まで姿が見えなかったことと、先ほど奏太が問いかけた時、オダマキが答えなかったことを。


「芽空、だよな。……ああ、感覚がある。『トランス』を使ってるのか?」


 白煙の中、姿は見えねども奏太は叫ぶように話しかける。

 酸素が抜けた影響か細かい場所の特定までは出来ず、ただ近くにいるということくらいしか分からないものの。


「うん。今のうちに何とか二人を連れていくから、少しだけ頼んでもいいかな」


「——、ああ、分かった。気をつけろよ、芽空」


「そーたもねー」


 だが、それでも今駆け寄っている余裕がないことは十二分に分かっている。

 だから二人の一時避難を彼女に任せ、奏太は駆ける。

 咆哮と巨体がぶつかる空間に。


「食らえ——!」


 白煙を越え、跳躍。

 防戦一方のオダマキに左の剛爪を繰り出そうとするアザミの背中が見えると、そこへ右の回し蹴りを、その勢いを利用して半回転、左のかかと落としを決めた。


「——効ィかねえなッ!!」


 だが、なおも巨体の『銀狼』は揺るがない。奏太の存在に気がつき、振り返って右の剛爪を斜めに一閃。

 奏太は空中で体を後ろに倒す形でこれを回避、地に足をつけた。

 続けて左の拳が迫るが、寸前で強く跳躍し、天井に触れると、すぐにこれを蹴って急降下。

 右の足裏を一本の槍のように突き出し、突撃するが、読んでいたアザミが宙返り気味に避けたことで不発に終わり、地面に鋭い勢いのまま進み、地面を削って止まる。


 アザミが次の行動に出るより先、奏太はちらと後方へ視線をやり、


「オダマキ、大丈夫か?」


 顔色と目つきだけは普段より熱がこもっているものの、奏太よりずっと傷だらけで、左腕を庇っているオダマキへと声をかける。


「……ああ、何とかな。あいつらは?」


「芽空が今運んでくれてる。けど、このままじゃ————」


 奏太がつい口にしそうになる不安。しかし不幸中の幸いというべきか、言葉は最後まで続かない。

 至近に迫ったアザミが両の手を重ね、振り下ろしてきたのだ。二人まとめて潰さんとするその一撃を、奏太とオダマキは左右に散り散りになって回避、再度攻撃を仕掛ける。


「狼の見た目でも、中身は同じ人間……それなら!」


 二対一ならば、自ずと攻撃の回数は減り、近づきやすくなる。それを利用し、右手のなぎ払いを、左の掴みを、尻尾の叩きつけを、避け、再度跳躍して、


「頭を揺らされれば、誰だって!」


 奏太が上からアザミの頭に掌底をぶつけ、それと同時にオダマキのアッパーが顎を襲う。

 それにより僅かにアザミの体が揺らいで、


「ハッ、この程度かよ」


 なおも戦闘は続行。

 一切効果がなかったのではないか、そう思うほど強力な左のなぎ払いが、一瞬にして奏太とオダマキをまとめて吹き飛ばした。


 ギリギリのところで腕を挟み、多少のダメージは殺せたが、それでも勢いは強い。靴裏に凄まじい摩擦を感じつつ、部屋の端から端まで一気に視線が移動する。


「くそ、このままじゃ……っ」


 どこかで口を切ったのだろう、口内に錆びた鉄のような味が広がるが、それが奏太に妙案を授けてくれるわけでもなし。


 角は防がれ、蹴りはダメージにならず、頭を揺らしてもさほど効果がない。

 これでは持久戦に持ち込まれ、こっちがジリ貧になる方が先だ。そんな不安が頭をよぎるが、


「——お困りのようっスね、キヅカミサン」


「おま、は……っ!? な、なんで、さっきまで寝てたんじゃ!」


 そこへ飛び込んできた——というよりどこからかこそこそと駆けてきたのは、那須色の二つ結びと白衣が特徴的な女性エト。

 細かい事情を把握しているわけではないが、奏太がシャルロッテの元へと駆けつけた時には意識を失っていたはずの人物だ。

 思わず言葉が詰まり、動揺の声を上げてしまったが、


「ま、さっき目覚めたばっかっスよ。体フラフラっスけど…………あの薬を渡しに来たっスよ」


「あの薬……って、『実験』のやつか!」


 猫の手も借りたい、そんな状況の奏太に「そーっスよ」とエトは頷き、懐からカプセル状の薬を取り出して奏太に手渡す。

 

 それは確かに、奏太が芽空経由で用意してもらうよう頼んだものだったが、


「……ありがとな、エト」


 それでも、今この場に彼女が持って来てくれたこと。

 そのとんでもない肝の座り方にもはや一種の尊敬の念を抱きつつ、奏太はお礼を口にする。

 対してエトは数秒思考を巡らせるように顎元に手を当て、やがてハッとすると、


「あ、服は用意してないんで、自分でどうにかしてほしいっス。脱げたら自己責任っスから」


「脱げないようにしてくれたら嬉しかったんだけどな」


 平常運転のまま、奏太のお礼を流してしまう。

 意図的にやっているのか、それとも素でやっているのか。いずれにしても、それに突っ込んでいる余裕はない。


「————なァにやってんだ、こそこそと」


「お前を倒すための話し合いだ。アザミ」


 『銀狼』は奏太たちを視界に捉え、地を揺らしながら近づいてくる。

 今までと違い、即座に襲いかかって来ないのは、奏太の発言に一瞬目を細めるそぶりがあったことが関係しているのだろう。

 何か新しいものを見せてくれると、そう期待しているのであろうから。


 ならば奏太はそれに答えよう。

 危険な代物ではあるが、彼に対抗するにはこれしかないのだから。

 

「正直、あまり使いたくなかったけど……お前を倒すためだ」


 全滅も、シャルロッテたちが奪われることも、絶対に防がなければならない。だから奏太は意を決して、右の手のひらに乗せられたカプセルを飲もうとして——、


「…………時間だな」


「……は?」


 アザミの退屈そうな声が届いたかと思えば、眼前にあったはずの巨体は一瞬にして姿を消し、代わりに銀髪金眼の青年、元の人型が現れる。


 もちろん彼がそうしたことに驚きはある。だが、聞くべきはそれよりも前。


「ちょっと待てよ。時間って、何の話だ?」


「——目的は達された」


 嫌な予感が全身を巡る奏太に、耳を疑うような言葉が届いた。

 『どちらか』よりも『何故』の方が大きい。彼の言葉に奏太が目を見開き、問いかけるよりも先に、


「————ブリガンテは目的を達した」


 アザミは繰り返し、そう言った。



*** *** *** *** *** *** *** *** ***



「————」


 前後から伝わってくる視線。

 片方は厚氷のように冷え切った視線で、もう片方は自分を見守る視線。どちらも見知った人物だ。特に前方の少女は。


「……やはり、こうなるしかないんですね」


「————」


 少年の言葉に、表情をピクリとも動かさない小さな少女。

 そこに普段の面影なんてこれっぽっちもなくて。


 彼女はいつも表情がころころと変わって、淀みのない真っ直ぐな感情で動く姿が愛らしいとラインヴァントの皆は可愛がっていたし、口には出さずとも自分だってずっとそう思ってきた。

 ——特に、楽しげに笑っている時は。


「ボクが、あなたを取り戻してみせます。それが今この瞬間、ボクに出来ることですから」


 少年は笑顔の彼女を幻視し、奥歯を噛み締めると、あちこちが痛む体に鞭を打って前を睨む。

 今ここで手を伸ばすことこそ、かの少年が自分に教えてくれたことだから。


「そうでしょう————ユズカ!」


 なおも無言を貫く少女ユズカに、天姫宮葵は口の端から血を流し、そう叫んだ。

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