第一章9 『件の動画』
奏太の横、鞄を探っていた蓮は、タブレット端末を取り出すと、それを白いテーブルの上に置いた。
「そうそう、奏太君。一応、デバイスのネット切ってもらえないかな」
誰かが見てる可能性も、ないわけじゃないから、と彼女は付け足す。
先ほどから自然と名前で呼び合っているわけだが、勢い任せだったところもあって、奏太は今更になって照れから来るむず痒さに悶えそうになる。
「やっぱりまだ、名前慣れないな」
「……やめる?」
「絶対やめない」
ちらりと見た蓮の顔がひどく悲しそうに見えて、思わず奏太はすぐに否定してしまう。名前を呼びたい、という彼女の思いは心底嬉しいのだが、その一方で照れを感じてしまう部分もあって。
一度それを頭の外へ追い払い、眼前に広がるアイコンに何度か触れ、ネットワークの切断を押す。
すると眼前に現れたウインドウが再確認を求めてきて、それを承諾することで切断を完了させた。
終わったことを告げようとして隣の蓮を見やると、彼女はあと二分……と、小さく呟いた。
奏太からは彼女の画面が見えず、何をしているのかは分からないが、恐らくは時刻を確認し、件の動画が配信されるのを待っているのだろう。
そういえば、どうして彼女は件の動画が配信される時間を知っているのだろうか、と疑問がないわけではなかったが、今更になって聞くのも何とも気が進まない。
いっそのこと蓮が話してくれれば楽なのだが。
念を送るようにじっと見つめ続けていると、ようやく気がついたのか、蓮はこちらに視線を向ける。
「あ、切れた? 私も、ダウンロードしてすぐに切るから、見つかる心配はないけど……って、どうしたの?」
普段の彼女の印象とは異なる発言がポロリと漏れて、それがおかしくて思わず笑みをこぼしてしまう。
「いや、蓮って優等生のイメージがあったからさ。ほら、ルールは絶対守らなきゃーみたいな」
「え、そんなことないない。ん、と……そう、フリなのフリ」
照れ隠しのつもりなのか、彼女は口では否定しているが、張った胸は嘘をつかない。
……それにしても、この二日間の出来事のせいか、以前に比べて色んな表情を彼女は見せてくれるようになった気がする。
それこそ、前は優等生で優しく可憐な女の子、というだけのイメージだったのだが——、
「————っとと」
アラームでもセットしていたのか、突然彼女の体がぴくりと跳ねたかと思うと、怯む間も無く、すぐさま右手の指先を空中で動かし始めた。
空中に素早く触れる彼女のその動きは、何年も目にしてきた動作のはずなのに、まるでピアノを弾いているかのように優雅で、何かに語りかけているかのような印象を奏太に抱かせた。
さりげない動作が様になって見えるのは、彼女の容姿が整っているからなのか、それとも奏太が惚れているからなのか。
どちらにしても、いつまでも見ていたいとさえ思える程に惹きつけられるのは確かだ。
そのままぼんやりと見つめていると、やがて彼女は短く息を吐き、こちらに向き直った。
「よし、出来たよ。それじゃ、その……見ようか」
蓮はテーブルに置かれたタブレットを手に取ると、それを起動する。
前持って準備していたのだろうか。起動と同時、スリープモードが解除され、彼女の眼前に広がっているであろうデバイスの画面がそこに映し出された。
「タブレットか、久々に見たな」
タブレットは、自身のデバイスの画面を他人に見せる数少ない方法の一つだ。
タブレット本来の目的で使用される事は少ないが、画面共有が出来るという点において、学生の間で流行った時期があり、一定数所持者は存在する。
かくいう奏太もその一人だ。
もっとも、今は全く使っていないため、部屋の押入れの奥の方で眠りについているのだが。
蓮のタブレットの画面には、ピンク色を基調としたトップ画面が映されており、蓮が空中で何度かスクロールをすると、それに合わせてタブレットでもスクロールが始まる。
そのまま動画リストを見つけると、それに触れ、一覧を表示させた。
サムネイルの画像は表示されていないが、タイトルから友人や家族関係の動画が入っていることがうかがえる。
一番下までスクロールされ、件の動画と思わしき動画があり、そこで動きが止まった。
「これがあの動画……」
隣をちらりと見やると、蓮は深く息を吐いたのが分かった。
すると突然、奏太と肩が触れるか触れないかくらいの距離までぐっと詰めてくる。
急に距離が縮められたことに思わず動揺し、声が出せない。
どんどんと鼓動が速くなっていき、ひょっとすると彼女に聞こえているのではないだろうかとさえ思えるほどに、やかましくその存在を主張し始める。
とはいえ、タブレット一つで動画を見るのであれば、これは仕方ない事で、必要不可欠なのだ、と自身に言い聞かせようとする。
彼女の方はどうなのだろうか、とふと目を向けた先、蓮はきゅっと唇を結んで、僅かに震えていた。
途端、冷水をかけられたように、熱を持った頭が落ち着きを取り戻していく。
彼女が苦しんでいるのに、一人舞い上がっていたことに罪悪感を感じる。だから、
「蓮、俺は大丈夫だよ」
気を引き締めるために、二度、三度、深呼吸をする。
彼女の言葉を待ち、その後に待ち受ける光景を耐えてみせると覚悟するように。
そして、彼女はゆっくりと口を開き、言った。
「じゃあ、いくよ————」
蓮は件の動画に触れ、再生を始めた。
*** *** *** *** *** *** *** *** ***
そこは緑の広がる豊かな草原だった。
恐らくは国外のはずだ。
何故なら、かつて獣人に破壊され、再生が間に合ってない景色が所々に見られることが、国外であることを物語っているのだから。
動物が複数体映っていた。
今では希少種であるライオンが群れをなしている。彼らは獲物を捕食し、ごくごく普通の自然を体現していた。
食物連鎖の頂点に立つライオン。彼らは陸において、自分達よりも強靭な動物が現れるとは思っていないだろう。
仮に思っていたとしたら、それは群れであれば問題ないと、そう判断しているところが少なからずあるのだろう。
つまり、どちらにしても油断と慢心があるのだ。
自然界においてそれは、時として決定的な判断ミスになり、命を失うことさえある。
たとえそれが、百獣の王ライオンであっても、だ。
『————ァ』
画面に変化があった。
枯れ木が揺れるような、掠れた声が聞こえる。
ライオンに惹きつけられるように、画面の端から細身の黒髪の少年が現れたのだ。
ちょうど奏太達と同い年くらいだろうか。
生身を隠す程度にしか役割を果たしていないボロ切れを羽織っており、隙間から見える肌には無数の傷を負っていた。
およそ、ライオンの群れに突っ込んで生きて帰れるとは思えない、その風貌。
武器も持たず、足取りはふらふらとしていた。
対して百獣の王は、新たな獲物の出現に目を向けると、それまで抱いていた油断、慢心、それらの甘さを葬り去る。
じりじりと距離を詰め、襲いかかろうとしたその瞬間だった。
『————』
画面が大きく揺れ、一帯が土煙に覆われる。
続けてくるのは、地面が割れるような音と、つんざくような悲鳴だ。
いったい、何が起きたのだろうか。
一瞬彼が咀嚼されたのかと考えかけ、即座にその考えを消す。
複数の悲鳴が空に響いたからだ。
『————ッ!!』
奏太に動物の言語は理解出来ない。だが、これだけは分かった。
身体中を襲う痛みが声になり、叫びを上げたのだ。王としての誇りも、強さも、それら全てを放り出すくらいに耐えきれない痛み。
それは何度も、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
土煙が晴れると、直前まであった緑の世界は、その姿を変え、代わりに赤の世界が広がった。
そこに王の姿はない。かつて王だったはずのものは肉塊となり、無残に無慈悲に無作為に、貪り、抉り取るように散らかされていた。
奏太はその惨状に目を疑い、困惑すると同時に、ひどい嫌悪と嘔吐感に襲われる。
とても目の前の映像が、現実に起きたこととは思えない。ついさっきまで動いていたはずのものが、一瞬でその生を終えたのが、信じられなくて。
吐き出しそうになるのを寸前でこらえ、再び画面を見ると、赤の世界に変化があった。
全身を赤に染めた少年が、背を向けたままむくりと立ち上がったのだ。
その少年の姿は異常である。見た目も、状況的にそこに立っていることも、そのどちらもが。
少年の腕は元々の何倍もの大きさに膨れ上がり、皮膚は茶色い毛皮で包まれている。
さらに、おでこのあたりからはねじれた角が二本。それは、王のものと思われる鮮血を垂らしながらも、空を突くように伸びていて。
『————』
そして、ゆっくりと振り向いたその目つきはまるで、『鬼』のようだった。
その『鬼』の姿は奏太に恐怖を与えたが、それだけではない。
痛みだ。先の研ぎ澄まされた針で体を刺されたような、痛みを伴った衝撃を感じる。
痛みを何とか堪えようとすると、頭の中で鈴の音のような、涼やかな音色が響いた。だが、最初は小さく、心地の良かったものが次第に音量を増していく。
それにより、全身が苦痛に苛まれて、奏太は不快感を感じずには居られなかった。
『————ッ!』
黒髪の少年——『獣人』は吠える。
さらなる獲物を求めているのか、それとも、世界に対して威嚇しているのか。
どちらとも言えるし、どちらとも言えないその咆哮の正体は、人には分からないし、理解ができない。
その後、しばらく咆哮が続き、数十秒後に少年が吠えるのをやめたところで、動画はその再生を終えた。