プロローグ『ヤクソク』
薄暗い室内に、少女はいた。
うっすらと月明かりの差し込むその一室は、荒々しい呼吸音と、時折差し込まれる小さな呻きによって支配されている。
「蓮……」
男は顔をくしゃくしゃに歪ませて、少女の名前を呼ぶ。
少女の――蓮の息遣いは平常時と異なる乱暴なもので、しかしそれは徐々に弱まりつつあった。
仰向けで寝かされた彼女の体のあちこちには、無数の傷が広がっている。それはいずれも出血を続けており、一向に止まる気配を見せない。呼吸を取り込む胸の動き、一挙一動が、彼女を蝕み、苦痛を与えていた。
どうしてこうなってしまったのだろう。
男は自身に問いかけ、しかしその問いに答えは返ってこない。返ってくるのは雑音の入り混じった、理不尽な現実への無力さによる後悔の念。
ほんの数時間前まで、彼女は幸せだったはずだ。凛とし、それでいて優雅に柔らかに咲き誇る花々のような彼女の笑顔は、周りを幸せにしていたはずで。
そんな彼女を見るたびに、胸が一杯になり、間違っていないのだと、男はそう思わされた。
しかし目の前の彼女の表情を見やると、既に花は枯れ果て、弱々しくなったその姿を何とか現しているだけだ。
こうなる前にどうにかできたはずだ。
雪崩のように押し寄せる後悔は、男の過去を一つ一つなぞる。男は、彼女をこんな目に合わせてしまった、今までの選択を片っ端から確認し――途中で思考を中断させられる。
「――――ね」
蓮が何かをつぶやいたためだ。絞り出すようなその声は、注意していなければ拾えない本当に小さなもの。
今、彼女は何と言ったのだろう。男が問いかけようとして――
「――――ごめんね。約束、守れなくて」
彼女はぽつりと呟いた。深く感情の乗ったその言葉は、決して狭くないこの一室で、広く響き渡る。
約束。やくそく。ヤクソク。彼女との、約束。何度も頭の中で反響し合うそれは、次々に男を鋭く突き刺していく。
せき止められていたものが濁流のように溢れ、後悔と入り混じって、訳が分からなくなる。
忘れてはいけない、忘れられない、忘れたくない、彼女との約束を――――。