前編
金木犀の匂いって何だか不思議な匂いだよなぁ、と思って書きました。ちょこちょここっから更新していきます。
ふわり。金木犀の香りがした。甘ったるいにおい。反射的に駅に向かっていた足を止める。僕はこんな都会にも植わっているのか、と驚くと同時に、またあの日のことを思い出した。
あいつは今も元気だろうか。
五年前、受験生の秋。丁度こんな風に金木犀が咲き乱れる時期。よく晴れた日の放課後に、僕は早苗から呼び出された。僕は約束の時間から五分遅れて屋上に着いた。
「遅い。」
鋭い目つきが飛んでくる。僕は片手をあげてフェンスにもたれる。
「悪ぃ。」
続けて罵詈雑言が放たれるかと思ったら、沈黙が訪れた。吹奏楽部の練習曲が遠くに聞こえた。二人きり。彼女は心なしか緊張しているように見えた。沈黙の時が流れる。気まずくなって口火を切ったのは、僕。
「何でわざわざ呼び出したんだ?用事があるなら教室で言えばいいじゃないか。」
用件は分かりきっていたのに、僕はこう切り出した。早苗と僕はいわゆる「幼馴染の腐れ縁」で、幼稚園から高校の約15年間、一度もクラスが離れたことは無かった。多分、あの時はお互いがお互いを、誰よりも知り尽くしていたんじゃないかと思う。
だから、僕は彼女に呼び出された時、「参ったな」と感じた。あの日は卒業式前の最後の登校日で、僕の目をのぞき込む早苗の視線はとても真剣だった。どんなに勘の悪い奴だって気が付くだろう。僕と彼女の関係だったら尚更。
だが、僕は早苗を好きではなかった。それが問題だった。正確には彼女に好意を持ってはいたが、それ以上の感情を抱いてはいなかったのだ。この出来事がLikeをLoveに変えることもなかった。
僕は非常に困った。だからこそのこの切り返しだ。鈍感な男を演じることで、これから起こるであろう出来事がなくなりはしないかと考えた。この浅はかな計画は勿論失敗に終わる。
早苗は僕の台詞を聞くやいなや口を尖らせた。
「猿芝居、ばれていますが。」
絶対零度の視線が僕を差す。彼女は男勝りの、かなり強気な少女だった。そして聡かった。しかし僕は、彼女に見破られても、心臓が早鐘を打っても、それを止めようとしない。
「何言ってんだよ。言わずに察せなんて、俺を超能力者だとでも思ってるのか?」
馬鹿な考えだった。愚かな策だった。でも僕はそれを続けた。先へ進んだら、きっと僕らの関係は崩れてしまう。そう信じていたからだ。
「全く、これだから女は。」
僕は笑って道化を演じ続ける。彼女が僕の気持ちを察してやくれないか。口にした言葉と矛盾したことを考えながら。
「で、用事は何よ。」
頭の後ろに手をやって、早苗を見た。彼女は少し俯いて、口を開いた。
「・・・・・・もそう。」
「へ?」
僕は彼女が何を言っているか分からずに聞き返す。
「いつもそう。あんたはいつもそうって言ったのよ。」
「早苗?」
勢いよく上げた早苗の目は、赤かった。
「何回このやり取りやったと思ってるの?」
「私が何回こんな思いしたと思ってるのよ?」
早苗は僕に畳みかけるように言葉を紡いだ。僕は何も彼女に応えることが出来なかった。
「去年も、三年前も、こんなことあったでしょう?」
彼女の言っていることは確かだったから。
「こんな感じでとぼけて、逃げて。狡いじゃない。」
「自分さえ良ければいいんでしょう?私がどんな思いしても、自分は関係ないと思ってる。」
彼女は僕に掴みかからん勢いでまくし立てる。
「早苗。」
「また、今度もそうするつもり?」
僕は息をのんだ。
「何とか言いいなさいよ。達樹。」
肩を上下させて、睨む。僕は痛いところを突かれて、ただただ立ち尽くすしかなかった。身を切るような静寂が二人を包む。いつの間にか吹奏楽部の練習は終わり、陽もゆっくりとその高さを落とし始めていた。