少年フィルの出会い
昔に一度だけ、彼女に会ったことがあった。
フィルの記憶に残る最も古い王女の姿は、まだ王女が世間の表舞台に出てくる前、小さく幼い子供の時の姿だ。
そのことを知っているのは恐らく自分と王女自身のみであろう。彼女と出会っていた事実を話すことは一度としてなかった。彼女との約束があったからだ。
あの日、フードを目深に被り、口元に指を立てた彼女はいたずらっぽくこう言ったのだ。
『――このことは、私と貴方だけの秘密にしていてくださいね?』
フードの陰に隠れた口はほんのり笑っていて、まだ幼かった少年フィルは、自分より下か同じくらいの年齢の少女に魅了されてしまったのだった。
剣と剣が甲高くぶつかりあう。靴底が地面を激しく擦り、砂が飛び散る。正眼に構えたロングソードを振り上げ、目の前の人物に斬りかかった。フィルの斬撃はいなされてしまうが、勢いを殺さぬまま弾かれた先から横に振り払う。その牽制に相手は追撃を諦め、再び隙を窺う睨み合いが始まった。
旅立ちの準備も順調に進み、残すところあと数日となっていた。フィルは近衛兵団長直々に剣の稽古を受けながら、幼き日の自分が、これから救い出すべき王女と過ごした秘密の一日を思い出していた。
☆
その日は大事な客人が来るからと、父に家から追い出されていた。もう物事の善し悪しも分かる年頃になって、今更客人に失礼を働くこともないというのに、両親からの信用はまだないのだろうか。
フィルは両親に「折角だし外で遊んできなさい」と小遣いを渡され、体よく厄介払いされてしまったのだった。
「しっかし、遊んで来いっていわれてもなあ……」
言われるままに外に出てみたはいいものの、特にこれといってやりたいこともなく、行きたい場所もなかったフィルは、金貨の入った袋を片手に街の大通りをぶらぶらと散歩していた。
そこは王都の中心部というだけあって、通りに沿って露店がいくつか置かれていたりもした。通りすがりに品揃えを眺めてみると、どれも煌びやかなアクセサリーや高そうな小物で質の良さそうな物ばかりだった。しかし彼にとっては一切興味が沸かず、どちらかといえば庭に出て剣の素振りでもしていたかったのだとどこか不貞腐れた様子でいる。
そんな中、彼は建物の陰でひっそりと立つ人影を見つけると、自身も気付かぬ間に足を止めていた。何故立ち止まったのかも分からないまま、フィルはその姿をじっと見つめる。
その人物は決して目を引く姿ではなかった。若干大きめな、フードのついたローブを身に着けていたが、それも人の通りが多い王都では珍しい姿ではない。地方から流れてくる者もいれば、遠く他国からやってくる旅人もいる。それに魔術師であればほとんどがローブを身に着けているのだし、決してその服装につい視線を留めるような要素があった訳ではない。
呆けていたが故の意味のない行動かとフィルは納得し、そのまま視線を逸らして再び歩き出そうとする。
しかしその姿が視界から消える直前、足を止めた違和感にようやく気付いたフィルはもう一度立ち止まった。
魔術師や流れ者にしては、背が低すぎる。遠目に見ているから小さく見えるのかとも思ったが、実際に道行く人と比べてみても明らかに身長が子供のそれだ。自分と並んでちょうどいいくらいではないかとフィルは思った。
そしてその挙動がぎこちないのも気になった。建物の陰から顔を出してきょろきょろと大通りを窺い、目の前を人が通過すると驚いた様子で後ずさっていた。まるで大きな動物の群に行く手を阻まれる小動物のようだ。群の中に混じって通り抜けようとしても、簡単に踏み潰されてしまうようなか弱さがある。
どうしたというのだろう。もしかしたら、地方から職を求めて家族で王都に来たはいいものの親とはぐれてしまったのだろうか。
今日一日、どうせ当てもなくふらふらするつもりなのだ。であればちょっとした人助けをしてもいいかもしれない。フィルは体の向きを変え、人の流れを横切ってその子供の前まで向かっていった。後から思えば、この偶然の判断が一日の岐路であったのだろう。
「……君、どうかしたの?」
訊ねるように声をかけるとローブの肩がびくっと跳ね上がった。驚かすつもりは全くなかったのだが、流石に唐突すぎたか。
恐る恐るといった様子で目の前の人物はフィルを見た。しかし、彼が自分とそう身長の変わらない子供だと分かると、ほっとしたように肩を落とした。
「いえ、どうという訳ではないのですけれど、その……」
その声を聞くとフィルは幾らか意外そうな表情を浮かべた。その口から発せられた返答の声は高く透き通っていて、フード越しの人物が少女であることを彼に理解させた。
――まさか女の子だったとは。無意識の内に少年だと思っていたフィルは、自らの思い違いに少なからぬ衝撃を覚えていた。
口篭る少女の言葉を待たず、僅かに屈んでフードの中を覗き込む。少女は驚いた様子で一歩後ずさるが、目の前の人物が何者なのかという好奇心に従っていたフィルは、そんな彼女の行動を気に留めることはなかった。少女は困惑した様子で彼を見つめる。
「あ、あの」
「……綺麗な髪」
フードの中から真っ先に視界に飛び込んできたものは、貴族の嫡男として煌びやかなものを見慣れたフィルでさえ一瞬目を奪われてしまうほどの金髪だった。一体どれほどの宝石がこの輝きに勝るというのだ。簡素なフード一枚ではその美しさを隠し通しておくのに役不足であろう。
そんな感動がフィルの中を駆け巡ったのだが、口をついて出たのは満点をつけるには程遠い、飾り気のない平凡な賞賛だった。
「えっと、ありがとうございます?」
突然褒められた少女は、訝りながらも礼を述べた。社交辞令にしてはなんてタイミングなのか。目の前の視線を遮るように、フードをより深く被りなおした。
「ああっと、そうじゃない。……君、迷子か何か? 必要だったら道案内するよ」
じっと少女を見つめ続けていて、ようやく我に返ったフィルはとりなす様に話を逸らした。……まさか自分が、同い年かそれより下の少女の髪を見て白昼堂々見惚れていただなんて、口が裂けてもいえる訳がない。オルドレード家の嫡男とあろう者が何を惚けているのか。父上が見れば何と言うのだろう。笑いものにされてしまっても仕方がない。
「いえ、迷子という訳ではありません。ただ街を見て回ろうと思ったのですが、思いのほか人通りが多く、恥ずかしながら足が竦んでしまいまして」
とても恭しい物言いの返答。本当に自分と歳の近い少女なのだろうかとフィルは一瞬だけ疑ってみた。それにしても街を見て回りたいだなんて、どこぞの貴族の箱入り娘だろうか。ならば語られた理由にも納得がいく。
「なるほど。どこか行きたい場所でもあるのかな? もし良ければ僕が一緒について案内してあげるよ」
貴族の令嬢が街で一人困っているのなら、その手を引いてエスコートするのは、今この場に於いて自分こそが最も適役だろう。これでも勇者の血を引く家系の一員だ。彼女がどんな高貴な家の者であっても役不足はありえないはずだ。
そんな彼の心情は知る由もなく、少女はすっと差し出された手を見つめていた。しかし中々その手を取ろうとはしない。何かまずいことでもあっただろうか。と、そこでフィルはまだ名を名乗っていないことに思い至った。そして差し出していた手を自身の胸にあて、幾分か得意げな様子で恭しく頭を下げた。
「失礼。僕の名前はフィル・オルドレード。家は勇者の家系で、僕はその次期当主なんだ」
こうして名乗る瞬間は実に気分が良い。自分が勇者の血を引く者であるということを再確認し、それがこの上なく誇らしいからだ。
フィルの自己紹介を受けて、少女も今まさにその事に思い至ったといった趣で手のひらをぱんと合わせた。そしてフードをそっと取り払う。その姿が空の下に晒され、より一層金髪が光を受けて輝くが、ここが人気の少ない小さな路地であることが幸いしたようだ。通行人の誰もが此方に気付くことはなかった。
そして若干悪戯めいた様子で口を開く。後から思い返すと、もしかしたら彼女はフィルの名前を聞いたからこそ、自身の素性を明らかにしたのかも知れない。
「私の名前はシャルロット・メル・アルディナと申します。王家の血を引く者で、私はその第一王女ですわ。……それではありがたく道案内をお願いしても宜しいでしょうか、小さな勇者様?」
微笑みながら自身の手を握った少女の――いや、王女シャルロットの姿にフィルは口を開けたまま固まってしまった。今彼女は何と言った、王女だって? 辛うじて街中で叫びだすなどという失態は免れたが、その口を閉じることも忘れてひたすらシャルロットの顔を眺めていた。場所が場所なら無礼者と罵られてしまいそうな態度だ。
いや待て、自分はさっきまで彼女にどんな口の利き方をしていた? フィルは自身の身の程を弁えない振る舞いを思い起こし、身体が震えそうになる。そもそも、どうしてこんな場所に王女殿下が? 今すぐにでも跪くべきだろうか。それよりも先に今までの無礼を謝罪するべきだろうか。とりあえず恐れ多くも王女に触れられている手を離した方が……いや、手を振り払うなどと無礼な真似はできない。
混乱、焦燥。フィルは声に出さないながらも、内心は完全にパニックに陥っていた。
そんな彼の様子を見ながら、王女は掴んだ手に力を込めた。繋がれた手をぎゅっとされて、フィルは跳び上がらんばかりに狼狽する。赤くなったり青くなったりと静かに葛藤している彼の姿を見て、シャルロットは少しだけ遊んでいた。
……そろそろ意地悪をするのも可哀想だ。シャルロットは掴んだ手を離し、そっと彼の耳元へと顔を寄せる。急に距離が近付きフィルは耳を赤くする。どうやら未だに若干のパニックから抜け出せていないようだ。都合が良い。
「私、散歩がしたくてこっそり街に抜け出してきましたの。だからお城には帰りたくなくて……分かってくれますわよね? さあ勇者様、エスコートをお願い致しますわ」
口元に笑みを浮かべながら放たれた彼女の言葉に、フィルはこくこくと頷くことしか出来なかった。